闘士
そこまで話した時、明の顔が歪んだ。
「ここからまた、いろいろとあるんだが……そんな話は、今はどうでもいい。ともかく、俺はキチガイ親父のせいで、人生が滅茶苦茶だったってことだよ。あのキチガイ親父がちゃんとした人間だったら……俺も、もう少し違う生き方が出来ていたはずなのにな」
そう言ったきり、明は口を閉じてしまった。どうやら、そこから先は語りたくないらしい。話はその後も続き、日本でも何かあったという事なのだろう。
だが僕は、それ以上は聞く気になれなかった。
何故なら、既にその時点で圧倒されていたからだ。
僕は、ただただ唖然とするしかなかった。明の語った半生は、あまりにも凄まじい。本当に、ハリウッドのアクション映画か何かの主人公のようだ。仮にそんな話を、本かネットで見たとしても僕は絶対に信じなかっただろう。
だが、僕は明の話を全て信じる。いや、それどころか……ようやく納得できたのだ。
今まで明が見せた、人間離れした凄まじい戦闘能力……それは、まさに怪物的としか言い様がなかった。そんな力は、まともな人生を歩んでいたのでは絶対に手に入れられない。少なくとも、どこかのアニメやライトノベルにありがちな「普通の高校生やりつつ父親に最強の古武術を仕込まれた俺」のような薄っぺらな人生で身に付くものとは根本的に違う。
あくまで噂でしか聞いたことはないが、メキシコのギャングは本当に危険な連中だという。日本のヤクザなど比較にならないくらいに。それこそ、町中で殺し合いなど日常茶飯事。時と場合によっては、軍隊とマフィアが殺し合うような危険な地域もあると聞く。
明は、そんな恐ろしい場所で生まれ……銃や刃物などで武装した野獣たちが蠢く、殺るか殺られるかの闇の世界で成長してきたのだ。そして血みどろの修羅場を潜り抜け、常に死と隣り合わせの中で生きてきた。
普通の人間では、絶対に生き延びることは出来なかっただろう。今ならば、僕にも理解できる。普通の人生を生きている者には、普通レベルの強さしか手に入れられないのだ。せいぜい町のケンカ自慢クラスの強さを手に入れるのがやっとだろう。
しかし、明は違う。父親の手によって作り出された、本物の怪物なのだ。僕たちのような平和で安全な日本で育った高校生とは、根本から異なる存在である。
そう、明は強くなりたくてなった訳じゃない。
強くならざるを得なかったのだ。
「おい、直枝が起きたみたいだぞ」
明の言葉で、僕は我に返った。そして直枝の方を見る。
すると、直枝は上体を起こしていた。ぼんやりした顔で、こっちを見ている。ひょっとしたら、先ほどの明の話を、彼女も聞いていたのだろうか?
「ところで、お前は今の話をどう思う?」
不意に明が尋ねてきた。表情はよく見えない。しかし、その声はどこか虚ろだった。もしかしたら、明は自分の過去を他人に語るのは初めてなのかもしれない……。
「ど、どうって?」
「正直言って引いただろ、俺の過去の話は。嘘みたいだが、本当の話だよ。俺は今まで、何人もの人間を殺して生きてきた。無慈悲な人殺しなんだよ――」
「確かに、明は大勢の人を殺したかもしれない。でも、僕は思うんだ。明がそんな人間だったから、僕ら二人は生きてるんだって。明の過去にも、ちゃんと意味があったんだよ」
「……」
その僕の言葉を聞き、明はうつむいた。その時、彼が何を思ったのかは分からない。だが、何かを感じてくれたのは確かだ。
僕は思うのだ。確かに、明には罪はあるかもしれない。だが、明を断罪できる資格のある者などいないのだ。生まれた時から、実の父親に怪物となるべく教育を受けてきた明。そして成長してからは、父親の命令により様々な犯罪に手を染めた。そんな少年兵のごとき明を、いったい誰が責められるだろう。
だからこそ、僕は語り続けた。
「もし、明が普通の人生を歩んできた普通の人間だったら、今頃みんな死んでたよ。明は確かに人殺しかもしれないよ。でも、その過去があったから……僕と直枝は生きていられる。明は、僕たちの命の恩人だよ。少なくとも、君は二人の人間の命を救ったんだ。その事実だけは、誰が何と言おうが変えられないよ。世間の人が君をどう見ようと、僕は明の味方だ――」
その時、明の手が伸びてきた。僕の口をふさぐ。
「ありがとうよ。だがな、そのセリフの続きは生きて帰ってからにするんだ。誰か来たぞ」
明はそう言うと、物陰に身を潜めた。僕と直枝も、その横に移動する。
すると、外から足音が聞こえてきた。真っ直ぐ、こちらに歩いてくる。
すると、僕の鼓動が一気に早く強くなる。
また、何者かと戦うのだろうか。
正直に言えば、恐ろしかった。怖くて仕方ない。
その反面、心の片隅では――
ゾクゾクする、とでも言うのだろうか。形容のできない奇妙な何かが、僕の中で生まれていた。
足音が、入口のあたりで止まる。
僕はそっと、物陰から覗いて見た。
入口の近くに二人いる。暗くて顔はよく見えないが、片方は物凄く大きい男だった。小山のような、という形容詞がよく似合う体格だ。その巨大な体を革のジャンパーに包み、じっと立っている。キョロキョロ周りを見回しているところから察するに、僕たちの居る場所を正確にはつかめていないようだ。
そして、もう一人は小柄な男だった。もっとも隣にいるのが大男だから、そう見えるのかもしれないが……少なくとも、百六十五センチの僕と同じか、僕より小さく見える。この男もまた、黒い革のジャンパーを着ている。
二人とも立ち止まったまま、しばらくキョロキョロしていた。だが突然、その小柄な方の男が口を開く。
「おいガキども! えーと、飛鳥、工藤、直枝! さっさと出てこい! ここいらにいるのはわかってるんだよ! 痛い思いをしたくなきゃあ、さっさと出てこい!」
僕は驚いた。隣にいる直枝の、息を呑むような音も聞こえてきた。さらに、明の舌打ちも。
どういうことだ?
なぜ、奴は僕らの名前を知っている?
ややあって、また声が聞こえてきた。
「おい早く出てこい! ここにいる安田はな、もとは本物の相撲取りだ。お前らなんか、張り手一発で殺せる。そして俺は、元はプロのボクサーだ。安田ほどじゃないがな、俺もかなり強いぞ。無駄な抵抗はやめて、さっさと出て来い! でないと、痛い思いをするだけだぞ!」
僕は物陰から、二人を見つめた。どちらも強そうだ。特に大男の方は、その体格だけで大抵の人間を圧倒できるだろう。ましてや力士ともなると、その強さは桁外れだ。しかも、傍らにはボクサーもいる。ハッタリではなさそうだ。
力士とプロボクサー。僕一人なら、百パーセント勝ち目のない闘いだ。
しかし、僕は一人ではない。
僕の隣には、最強の人間凶器・明がいる。明なら、あの力士が相手でも闘えるはずだ。それに、空手の黒帯を持つ直枝もいる。明と直枝の二人がかりなら、あの力士を確実に仕留められるはず。
残るはボクサーだが、僕がこの鉈で刺せば殺せる。奴が何者だろうと、鉈が刺されば死ぬ。たとえ二〜三発くらい殴られたところで、僕が刺せば死ぬのだ。
そうなのだ。力士だの、ボクサーだのといったところで、所詮は人間だ。僕たちと同じ人間……ならば、勝てないことはない。
僕は鉈を握りしめて立ち上がった。そして、明と直枝の顔を見る。
すると、直枝の表情が一気に変わった。いかにも苦しげな表情だ。彼女は間違いなく、闘いたくないのだろう。
だが、名前を知られた以上は放っておけない。
確実に、殺さなくてはならないのだ。
「僕が突っ込んで行って、ボクサーを殺す。だから二人は、あのでかい力士を片付けて」
二人にそう言うと、僕は歩いて行こうとした。
だが、腕を掴まれる。
「いや、それはいい考えとは言えない。あの安田とかいう力士を片付けるのは、俺一人で充分だ。お前ら二人で、あのボクサー崩れを殺れ」
言ったのは明だった。いつの間にか立ち上がり、僕の腕を掴んでいる。腕から伝わってくる人間離れした腕力と、自信に満ちた声。本当に頼もしい男だ……僕の体にも、自然と勇気が湧き上がってくる。
明はそのまま、平然とした様子で二人の前に歩いていった。
そして――
「おい力士さんよ、どうせ八百長がばれてクビになったクチだろうが。俺が相手になってやるよ。ただし、これは相撲じゃないぜ。本当の殺し合いだ」
明のその言葉を聞いた瞬間、安田という男の表情が変わったのがわかった。
次の瞬間、安田は巨体を踊らせて突進して行く――
しかし残念ながら、僕は明の戦いを見ていない。
なぜなら、僕もその直後にボクサーに突進して行ったから。
・・・
巨体を揺るがせ、突進していく安田……相撲のぶちかましだ。百三十キロを超える全体重を乗せたぶちかましをまともに食らえば、いくら明でもひとたまりもなかっただろう。
しかし明は、安田のぶちかましをサイドステップであっさりと躱した。さらに躱した瞬間、膝への関節蹴りを見舞う――
明の蹴りで膝を砕かれ、吠える安田。その背中を、明は掌底で強く押す。バランスを崩させたのだ。
片膝を砕かれ、さらに明に掌底で押され、あっさりとバランスを崩す安田の巨体。
前屈みに倒れ、背中が明の前でガラ空きになる。
明は、安田の背中に飛び付いて――
背後から、指を眼球にねじ込む。
安田の口から、悲鳴があがる。明を背中から引き離そうと、凄まじい勢いで暴れ出す。
だが、明は余裕の表情だ……暴れる安田の動きを、完全に読みきっているかのようである。安田の背中に密着したまま、首に右腕を滑り込ませた。
次の瞬間、一気に絞め上げる――
それでも、安田は抵抗を止めない。両腕を振り回し、明の腕を力ずくで引き剥がそうとするが……。
しかし、徐々に力が弱まっていく。
やがて、その意識は途切れた。
安田の死を確認すると同時に、明はすぐさま立ち上がる。翔たちの戦況を確認すべく、視線をそちらに向けた。
しかし、そこで見たものは――
・・・
僕はさっきの通り、体ごとぶつかって行った。咆哮と共に突進し、鉈を突き出す――
だが目の前にいるボクサーは、突き出された刃を掴む。そして、刃の軌道を逸らせたのだ。
何!?
あいつ、痛くないのかよ!?
鉈の刃を掴むという、想定外の行動。僕は驚き、一瞬ではあるが動きが止まった。
その瞬間――
ボクサーの、手袋をはめた右拳が飛んでくる。恐ろしく速く、キレのある右のストレートだ。元プロのボクサーという言葉に嘘はなかった。
そのパンチをまともに顔面に喰らっていたら、僕の意識は飛んでいたかもしれない。だが鉈の軌道が逸らされたことで、僕の体はバランスを崩していた。
その結果、右ストレートは顔ではなく額に当たったのだ。
強烈な痛みが頭に走ったが、それは耐えられる痛さだ。僕はまだ動ける。
痛みに耐えながらも、僕は鉈を振り上げる。必死で反撃を試みた。
しかし次の攻撃は腹だ。鉈を振り上げ、がら空きになった腹に左のフックが炸裂した。
僕の腹に、ボクサーの左拳がめり込む――
「うぐぅ!」
その瞬間、僕は思わず声を上げてしゃがみこんだ。痛いというより、息がつまるような衝撃だ。今まで受けたいじめでも、こんな苦しいパンチはなかった。
僕は耐えきれず、腹を押さえて倒れる。内臓にまで届くダメージだ。
倒れた僕の上にボクサーが馬乗りになってきた。残忍な表情で、パンチを浴びせてくる――
それに対し、僕は腕で顔を覆うことしか出来なかった。だが、ボクサーの動きは止まらない。なおも殴り続けてくる。
今から思うと、このボクサーは幾つもの細かいミスを犯している。やはり、ただの高校生である僕たちを甘く見ていたのだろう。自信は大事だが、それが過信になってしまっては、むしろマイナスでしかない。
彼の犯した最大のミス。それは、今の二対一という状況で僕に馬乗りになったことだ。馬乗りのパンチというのは強力ではある。だが、こういった状況では立ち技で仕留めるべきだったのだ。さらに言うと、ボクサーには周りの状況がまるで見えていなかった。
そう、ボクサーは直枝の存在を完全に忘れていたのである。
突然、ボクサーのパンチが止む。彼の体が僕から離れ、転がって行くのが分かった。
僕は、素早く上体を起こして立ち上がった。周りを見ると、ボクサーが顔面から血を流しながら倒れている。
そして、直枝が蒼白な顔をしながらも、闘いの構えをして睨み付けている。どうやら、直枝の放った蹴りがボクサーの顔面に当たったらしい。
しかし、闘いはまだ終わりではなかったのだ。タラレバになるが、もし直枝が、倒れたボクサーに追い討ちをかけていれば、闘いはそこで終わっていたかもしれない。
だが直枝は、まだ情けを捨てきれていなかったのだ……。
「このガキが! ぶっ殺してやる!」
ボクサーは、喚くと同時に立ち上がる。蹴りのダメージは、彼にとって耐えられる範囲のものらしい。興奮状態にある時、人間は驚くほど打たれ強くなるのだ。まして、ボクサーは打たれることに対する免疫がある。痛みに耐える能力もまた、常人よりも上だ。
しかし、当時の僕にそんな知識は無い。ボクサーが凄まじいスピードで直枝に襲いかかるのを、呆然と眺めていたのだ。
突進して行くボクサー。その左足に、直枝の体重を乗せた右のローキックが炸裂する――
一瞬、ボクサーの顔が歪んだ。だが、ボクサーの突進はその一発では止まらない。鋭い左ジャブを放ち、なおも前進していく。その動きは速い。
直枝は避けきれず、顔にまともにパンチをもらってしまう。彼女は、顔を両腕でガードしながら下がっていく。
だが、ボクサーの連打は止まらない。一気に壁ぎわまで追い詰めると、ガードの上から容赦なく殴りつける。直枝は苦悶の表情をうかべ、必死で組み付いていく――
その時、僕はようやく我に返った。直枝を死なせる訳にはいかない。
直枝を、助けるんだ。
僕は、その場で吠えた。半ば本能的な行動だったのだが……吠える事で自らの恐怖を打ち払い、勇気を奮い起こしたのだ。
そして、ボクサーに向かって行く。背後から突進して行き――
その背中めがけて、鉈を突き出した。
しかし、その刃は突き刺さらなかった。何かに弾かれるような感触が、手に走る――
何だこれは!?
すると、ボクサーが憤怒の形相で振り向く。組み付いていた直枝を突き飛ばすと、僕を睨みながら拳を構える―――
考えている暇などなかった。殺らなければ、殺られるのだ。僕は無我夢中で、ボクサーの首めがけて鉈を打ち込んでいく。
すると今度は、はっきりとした手応えがあった。肉を切り裂き、骨まで到達する一撃。
ボクサーの顔に、奇妙な表情が浮かんだ。驚き、怒り、苦痛、混乱などの感情が入り混じった表情が……しかし、僕は止まらなかった。ここで躊躇していたら、今度は僕たちが殺られるのだ。僕だけでなく、直枝まで――
後で知ったのだが、そのボクサーは防刃のグローブをはめ、防刃ベストを着ていたのだ。
だが、その時は……そんな事を考える余裕などなかった。
僕は必死で、何度も何度も切りつけたのだ。
ボクサーの顔が、みるみるうちに恐怖に染まる。そして彼の体から吹き出た血が、僕の心と体を真っ赤に染めていった……。
この時も、僕は間違いなく感じた。
あの、命が抜けていく瞬間を――
それを感じた時、僕が理解した事がある。どんな人間も、死ねば同じなのだ。ただの肉の塊なのである。どんなに強い人間も、どんなに知能の高い人間も、死んでしまえば肉の塊だ。
そう、全ての人間は死の前に平等だ。
そして僕は、人間に死をもたらす力がある。その時、全ての人間が平等になるのだ。
まるで、神にも等しい力だ。
そう、僕は正義のために、この力を行使する。
「おい翔! もういい! こいつは死んでる!」
いきなり声が聞こえた。と同時に、僕は誰かに襟首を掴まれ、頬をはたかれる――
僕は我に返る。すると、目の前に明が立っていた。険しい表情で、僕をじっと見つめている。
辺りを見回すと、既にボクサーは死んでいた。おびただしい量の血が流れ、顔は原形をとどめていなかった。もちろん、僕が何度も何度も切りつけたせいだ。
だが、その時の僕に恐怖はなかった。むしろ、満足感の方が大きかった気がする。あの強いボクサーに勝てた……その思いが、僕の五体を駆け巡っていた。
その直後、奇妙な音が聞こえてきた。誰かが吐いているような音だ。
それは直枝だった。直枝はその場にしゃがみ、恥らいを捨て、僕たちの目の前で胃の中の物を戻していたのだ。
しかし、それも当然だろう。僕だって先ほどは、恐怖のあまり失禁しているのだ。現実の戦いは、アニメや映画のように格好のいいものではない。直枝は、普通の女の子に比べれば強い。いや、並みの男よりも遥かに強いはずだ。にもかかわらず、こうなってしまう……。
「直枝は、もう無理だ。後は、俺とお前だけしかいないぞ。俺とお前の二人だけで、奴らを倒していくしかない。覚悟はいいな」
明が囁き、僕は頷いた。