過去
そう言うと、明はため息をついた。そして、天井を見上げる。
「まったく、本当に困ったもんだよ。なあ翔、俺たちは何でこんな場所にいるんだろうなあ。ひょっとしたら、これは俺のしてきたことに対する罰なのかねえ」
明の言葉は、自分自身に向けられているようにも見えた。
そして彼は、寝ている直枝に視線を移す。
「直枝はよく寝てるな。こんな状況で眠れるとは、大したもんだよ。いや、それだけ疲れてたってことか。まあ、当然だよな。今まで女一人で逃げ回って、隠れていたんだもんな」
「あっ……どうする? 直枝を起こそうか?」
僕はそう言って、直枝に近づいた。だが、明は首を振る。
「いや、いいよ。今は寝かせておけ。眠れる時には眠っておいた方がいい。それより、直枝が起きるまで話を聞いてくれよ。俺の話をな」
不意に真剣な表情になり、語り始めた明。僕は黙ったまま、じっと彼の話に耳を傾けていた。
・・・
物心ついた時、工藤明はメキシコで生活していた。
メキシコ人と日本人のハーフの父、そして日本人の母との間に生まれた明……しかし、母は明が生まれてすぐに父のペドロと離婚した。母の工藤美樹は、明をメキシコに住むペドロのもとに残し、一人で日本に帰ってしまったのだ。
普通の少年だったら、その事について悩むのかもしれない。だが幼少の頃の明には、そんな事を考えている余裕はなかった。
何故なら、物心つくと同時に……ペドロからの、虐待と紙一重とも思えるようなトレーニングの日々が待っていたのだ。
しかし同時に、そのトレーニングが明という人間を超人のようなレベルにまで鍛え上げたのも確かだ。ペドロという男は生まれながらの戦士であったが、教師としても非凡な才能を持っていたのである。
それは、ペドロのこの言葉から始まった。
「お前は、俺の息子だ。お前には、俺の血が流れている。お前なら、俺の後を継ぎ最強の帝王になれるだろう」
ペドロはそう言うと、幼少の頃の明に過酷なトレーニングをさせる。
もちろん、幼い頃の明には訳がわからなかった。何故、自分がそんなトレーニングをしなくてはならないのか? 当時の明には、完全に理解不能だった。
しかし、幼い子供にとって……父親とは、神にも等しい存在である。そんな父親に言われた事ならば、従わざるを得ないのだ。
こうして明は訳がわからぬまま、言われたことをやった。
そんな父と息子の一日は、肉体のトレーニングで始まる。
まず午前中には、素手による格闘技の練習をさせられた。それも、まともな格闘技ではない。殴る蹴るは当たり前、指で目を突いたり、股間を蹴ったり、喉を握り潰したりといったような、普通の格闘技なら反則になるような技をも指導されたのだ。
そんな技の練習に、毎日二時間を費やした。さらに一時間、走ったり腕立て伏せをやったり、懸垂などといった基礎体力の向上を目的としたトレーニングをこなしたのだ。
格闘技の時間の終わりには、砂袋に拳とスネ、肘と膝を何度も何度も打ちつけた。それにより、明の手足は凶器と化していったのである。
そして昼食を食べ終わると、しばしの休憩時間を挟み……またトレーニングが始まる。午後からの部は、様々な武器の使い方を教わった。
拳銃やナイフのようなオーソドックスなものから、ベルトで絞殺したり、安全ピンで急所を突いて殺す方法まで指導された。さらに余った時間は、父から読み書きや簡単な算数なども教わっていた。
学校にも行かず、父から戦い方ばかり教わっていたが……それでも、明に不満はなかった。
ペドロの指導は厳しいものであったが、それでも教え方は非常に細かく丁寧であり、かつ子供にも分かりやすい論理的なものだったのだ。父の教師としての能力は非常に高く、しかも明からの質問には常に即答である。明は改めて父を尊敬し、父に絶大なる信頼を抱いていく。
しかも……父は何の仕事をしているのか知らないが、常に大金を持っていたのである。欲しい物は何でも買ってくれたし、また明に不自由な思いだけはさせなかった。
毎日のトレーニング漬けの日々は、決して楽なものではなかった。それでも明は父が大好きだったし、父を心から崇拝していた。
いつか、父のような男になりたい。そう思いながら、明は日々のトレーニングに励んでいた。
そんな日々は、明の肉体と精神とを逞しく成長させる。父は目を細めて、明の成長を喜んでいる……ように見えた。
成長するにつれ、明のトレーニングは本格的になっていく。父からの指導も、徐々に激しさを増していった。
そんなある日のこと。
父が、ボロボロの服を着た中年男を連れてきた。髪はボサボサで、顔は汚れている。前歯は抜け落ち、酷く痩せていた。だが、体格では当時の明を上回っている。
父は明に言った。
「こいつを殺せ」
父は次に中年男の方を向き、こう言った。
「さて君は、この少年と闘ってくれたまえ。勝てたら帰らせてあげよう。負けたなら死んでもらう。闘わなくても死んでもらう」
そう言うと、父はピストルを抜く。
すると、中年男はこちらを向いた。
獣のような形相で、明に掴みかかって行く。
それは明にとって、初めての本物の闘いだった。
死に物狂いで襲いかかって来た中年男。体格的には、当時の明よりも上である。しかも、必死になって立ち向かってくるのだ。トレーニングとはまるで違う、実際の闘い。普段から鍛え上げてきた明といえど、苦戦は避けられない。
だが、当時十三歳の明は……手こずりながらも、素手で仕留めた。中年男の目を潰して視力を奪い、投げで倒し、首をへし折ったのである。
それは、殺したくて殺したのではない。生き延びるため……そして父に認めてもらいたいがために、中年男を殺したのだ。
すると父は笑みを浮かべ、こう言った。
「これでお前も、俺の後継者だ」
明は嬉しかった。誇らしげな気持ちで、その言葉を受け止めた。
やがて明は、父の仕事を知ることになる。同時に、父の仕事を手伝うことにもなった。
父の仕事は、犯罪だったのだ。麻薬の売買、武装強盗、窃盗、殺人の請負いなどなど……金になるなら、手段は選ばない。普通の人間ならば、確実に尻込みするようなものばかりだ。しかし、明は必死に父の仕事を手伝った。
大富豪の所有している、広大な庭を持つ屋敷。そこに忍び込み、防犯システムを破壊した後、金目の物を片っ端から盗み出した。
現金輸送車を襲撃し、警備員を全て殺した後……輸送車の中に入っていた多額の現金を強奪。
麻薬の密売人グループのアジトを襲撃し、そこにいた密売人たちを皆殺しにした。アジトに残されていた麻薬は安く叩き売り、現金は全ていただいた。
不思議なことに、犯罪を生業にしている者には珍しく、父は金には頓着が無いらしかった。奪った金は常にキッチリ二人で山分けにしていたのだ。時には、計算が面倒だという理由から、奪った現金をそっくりそのまま明が貰うこともあったのである。無論、そこには父なりの計算があったのかもしれないが。
もっとも、明にも物欲はない。それ以前に、金の使い方を知らなかったのだが……とりあえずはカバンに詰めておき、何かあった時に持ち出せるようにしておいた。
そんな父ペドロと息子の明は、いつのまにかメキシコの裏社会では有名人になっていた。
二人は警察に追われながらも、あちこちを荒らしまくった。父の指示するまま破壊し、殺し、奪う。そんな親子の神をも恐れぬ悪行三昧は、当然ながら多くの敵を作ることとなる。しまいには、メキシカンマフィアの中でも、五本の指に入る大物を敵に廻すことになってしまったのだ。
親子はまず、マフィアの差し向けた暗殺者たちに狙われることとなった。腕利きの暗殺者が、連日のように二人の命を狙う……。
普通の人間だったら、確実に殺されているはずだった。いや、特殊な訓練を受けたような者でも、生き延びるのは不可能であろう。現にメキシコでは、マフィアの逆鱗に触れたため、警察署長だろうが市長だろうが、暗殺された例がいくらでもある。
しかし、この親子だけは勝手が違っていた。怪物じみた戦闘能力と、予言者のような勘の良さ……さらには神がかった運の良さを兼ね備えていたのだ。
暗殺は全て失敗し、暗殺者のほとんどは返り討ちに遭い死亡した。生き残った暗殺者も、行方不明となっている。言うまでもなく逃亡したのだ。失敗したとなれば、今度は彼らがマフィアに狙われる……そうなった以上、逃げるしかないのだ。
暗殺者の生死はともかく、彼らがみな任務を失敗――あるいは放棄――した事実に変わりはない。数々の修羅場を潜ってきたはずの暗殺者ですら、この最凶の親子には恐れをなしたのだ……。
しかし、それでおとなしく引っ込んでいるほど、マフィアは甘くなかった。
ついには、親子の潜伏している街に、軍隊並みの装備をした百人近い男たちを送り込んだ。このままでは、マフィアの面子が丸潰れだ。手段は選んでいられない。一つの街をまるごと消してでも、この親子を抹殺しようとしたのだ。
この事件は当時、ちょっとしたニュースとなり世界を駆け巡った。表向きには、メキシカンマフィア同士の抗争という形で報道されている。さらには、このマフィアの暴挙を止めるために軍隊が出動し、街はまるで焼け野原のような状態になってしまったのだ。
死者は少なくとも五十人を超え、重軽傷を負ったものは数百人と発表された。
しかし、そんな大事件を引き起こすきっかけとなったペドロと明の親子は……戦場にも等しい修羅場をくぐり抜け、国境を越えてアメリカに逃げ延びていたのである。
アメリカでの暮らしは、平和で楽しかった。若い明にとって、見るもの聞くもの全てが新鮮だ。火薬と血の匂いから解放され、明はアメリカでの生活を楽しんでいた。もっとも、父との日々のトレーニングだけは変わらなかったが。
だが、そのうちに……明は父の様子がおかしいことに気づく。
父は夜になると、どこかに出かけることがあった。狩猟用の大型ナイフや小型の電動ノコギリ、強力な洗剤、さらには硫酸など……用途がバラバラな道具を積んだ車で、一人どこかに出かけて行く。
そして、昼過ぎになると帰って来た。血の匂いをぷんぷんさせながら。
そんな事が数回続き、明は確信した。
父は人殺しをしているのだ、と。
明の知る父は、冷酷であった。しかし、残忍ではなかった。
凶人ではあったが、狂人ではなかった。
だが、今の父は完全におかしくなっていた。当分の間、平和に暮らせるだけの金はある。なのに父は、金にもならない上、頼まれてもいないのに人を殺している。人殺しは、父ペドロにとって何ものにも勝る快楽となっていたのである。
当時の明はまだ知らなかったのだが、アメリカで、父の手によって殺された者の数は七人に達していた。
当然ながら、アメリカの司法当局は七件の殺人を黙って見過ごしてはいなかった。
FBIによる徹底的な捜査の末、父は連続殺人事件の犯人として逮捕される。だが父は司法取引をした。メキシカンマフィアの大物、その情報と引き換えに仮釈放なしの終身刑を言い渡されたのである。
その時、明は十七歳になっていた。
彼は戸惑うばかりだった。火薬と血の匂いの漂う世界で父と共に暮らしていた明にとって、父のいないアメリカでの普通の暮らしは非常に難しかったのだ。どうすればいいのか分からない。金は少しは残っている。一応は、暮らしていけるだけの知識もある。
だが、その先をどうすればいいのだろう。
偏った知識しかない自分が、アメリカでどうやって生きればいいのだろうか。
やがて明は決心し、身の回りの僅かな物をかき集めた。このままアメリカに居ても仕方ない。それより日本に渡ろう。かつて父から聞いた、日本にいる母の元を訪ねるとしよう。
こうして明は日本に渡った。そして、父から聞いていた僅かな手がかりだけを頼りに、母を探したのである。
しかし、明は愕然となった。母は、何年も前に死んでいたのである。
母の工藤美樹は、日本に帰って来てから……誰に教わったのか、覚醒剤を射ち始めるようになっていたのだ。
美樹は、あっという間に覚醒剤の虜となる。覚醒剤に溺れ、その挙げ句に精神を病んでしまったのだ。奇怪な妄想に取り憑かれ、しまいには奇声を発しながら、包丁で両親を滅多刺しにして殺した。その後ビルの屋上に上がり、そこから飛び降りてしまったのだという。
病院で解剖された時、母の体の骨は粉々に砕けていた。覚醒剤の射ち過ぎにより、骨が異常に脆くなっていたのである。
母は、覚醒剤に心も体もボロボロにされていたのだ……。
その話を聞いた時、明は呆然となった。顔もよく覚えていない母。自分を父の元に残して一人で日本に帰ってしまった母に対し、何のわだかまりもないと言えば嘘になる。
だが日本に来てみれば、その母は既に死んでいた。しかも、覚醒剤依存症の挙げ句に両親を刺殺し自殺。普通の少年なら、どんな反応を示したのだろう。
ただ幸か不幸か、明は普通の少年ではなかった。これまで血なまぐさい世界に生き、人間の裏側をさんざん見てきた彼にとって、そんな話は珍しくもなかったのだ。
明が唖然とした理由……それは単に、日本という国でどうやって暮らしていったらいいのか分からなかったためだ。当時の彼は、ただただ己の運の悪さを嘆くことしか出来なかったのである。
そんな明を引き取り、後見人になってくれたのが、母の妹――つまり明の叔母にあたる――の工藤純であった。
初めて純と会った時、明は驚いた。母の妹のはずだったのだが、純はとても若く見える。明と、ほとんど変わらない年齢に見えた。
だが、実際には二十七歳だという。それでも、彼女の見た目が若い事には変わりないが。
「あたし、姉さんとは十歳違いだよ。しかも、血が繋がってないし」
そう言って、純はにっこりと笑った。化粧っ気はないが、可愛らしい顔立ちの女性だ。背はさほど高くないが、とても溌剌としたエネルギッシュな雰囲気を感じさせる。
「よろしくね、明。あたしの事を、お母さんだと思ってくれていいから」
母の育った家庭は、少々複雑な事情があった。母の美樹が幼い頃に美樹の両親が離婚し、美樹は母に引き取られる。
そして美樹の母は、幼い娘を連れた男と再婚したのだ。
その幼い娘が、純だったのである。美樹と純は、年齢の離れた姉妹となったのだ。
母の義理の妹である純に引き取られ、一緒に暮らすこととなった明。彼は生まれて初めて、まともな一般市民としての暮らしができるようになったのだ。
日本での生活は、明にとって大変ではあったが、同時に楽しいものでもあった。アメリカの時と同じく、目に映る何もかもが新鮮である。しかも、メキシコに居た時よりも遥かに便利な生活だ。それに何より、叔母の純が居てくれる。
叔母はとても面倒見が良く、慣れない日本の暮らしに悪戦苦闘している明を助け、様々な事を教えてくれる。根気強く丁寧に、時に優しく時に厳しく。
一方の明は飲み込みが早く素直で、しかも勉強熱心な少年だった。叔母から教えられた事を、持ち前の真面目さでどんどん吸収していく。
彼女の熱血指導の甲斐あって、明は日本の暮らしに対応できるようになった。日本の習慣にも慣れ、日本語の微妙なニュアンスの違いを理解し、日本でも不自由なく暮らせるようになったのだ。
こうして明は、血と硝煙の香りから解放される。叔母が、彼に真っ当な生き方を指導したのだ。明は初めて、犯罪以外の生き方を教わったのである。
しかし、彼にとって日本の生活は、あまりに平和で退屈なものであったのも事実だ。
そして……。
・・・