変化
「……」
明の言葉に対し、直枝は何も言えなかった。下を向き、悔しそうに唇を噛む。
「どうしたんだ? 俺を説得してみてくれよ。それができたら、俺は二人の救出に協力してやってもいい。とりあえず、何か言ってみろよ?」
淡々とした口調で、なおも言葉を続ける明。一見すると、直枝のことをサディスティックにいたぶっているように見える。
だが、横で見ている僕は微妙に違うものを感じていた。
明の中に、迷いが生じているように見えるのだ。迷っている中で、自分を納得させるための理由……それを求めているようにも思えた。
「あんたは強いんでしょ。だったら、助けてあげてよ……強い人間が弱い人間を助けるのは、当然じゃない……」
不意に直枝は顔を上げ、声を震わせながら訴えた。だが、明は首を振る。
「助ける理由になっていないな。それじゃあ駄目だ」
明は、その短い言葉で切り捨てた。
すると直枝は下を向く。本当に悔しそうだった。今にも、泣き出しそうな表情をしている。その時、僕は口を挟んだ。
「ねえ明、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はあ?」
明は呆れたような様子で、こちらを見る。お前は何を言っているんだ、とでも言いたげな表情だ。
それは、断じて二人のためではない。
正直言って、僕も大場と芳賀がどうなろうが構わなかった。ある意味、上條よりもどうでもいい人間だった。結局のところ、あの二人が皆を仕切り、僕たちをこの村に招き入れる手助けをしたのだ。その事実だけは、誰が何と言おうが変わらない。もちろん、反対しなかった僕や直枝にも、責任の一端はあるが。
ただ先ほどのやりとりの時、明は僕に「直枝に感謝しろ」と言っていた。
あの時、直枝が僕に助け船を出してくれたのは紛れもない事実だ。直枝がああ言ってくれなかったら、僕は明に殺されていたかもしれない。
だから、僕は考えた。直枝の願いをかなえてあげるために。
「明、僕たちはこのまま逃げきれるのかな? 君はどう思う?」
もう一度、僕は尋ねる。すると明は、意外そうな顔で口を開いた。
「断言は出来ない。だが今の状態なら、お前と直枝がヘマさえしなきゃ問題はないと思う。奴らはメキシコあたりのギャングに比べれば、全然――」
「思うんだけど、さっきからずっと受け身に廻ってるじゃない。いっそのこと、今度はこっちから攻撃しない?」
僕の言葉に対し、明は本気で驚いたようだった。目を丸くして、僕の顔をまじまじと見ているのだ。僕はこの時、明の驚愕の表情を初めて見た気がする。
「おい、お前は何を言ってるんだよ? この人数で攻撃してどうすんだ?」
「いや、攻撃って言うと語弊があるかもしれないけど……もし仮に、このまま逃げきったとしても、奴らは僕たちをほっといてくれるかな?」
「何が言いたいんだ?」
「後でニュースを見れば、僕たちが石原高校の一年A組だってのは、すぐに知られるよ。そうなったら、あとあと面倒な事になるんじゃないかな、と思うんだけど」
言いながら、僕は明の反応を見る。
すると、明の表情はまた変化していた。今度は、僕の言葉について真剣に吟味しているようだ。
僕は手応えを感じた。このまま喋り続けるんだ。さらにたたみかけよう。
そうすれば、明の考えを変えられるかもしれない。
「もちろん、明は大丈夫だろう。だけど、僕は怖い。だから、こっちから攻撃して、相手の情報を今のうちに集めておいた方がいいんじゃないかと思うんだ。その過程で、もし大場と芳賀が見つかるならば、助けてあげてもいいんじゃないかと……人数は、一人でも多い方が有利だし――」
「それは違うな。奴らは確実に戦力にならない。普段はピーチクパーチクさえずり、戦いが始まったら震えるだけ。足手まといになるのは確実だ。だから、助けても何のメリットもない。しかしな……」
明は言葉を止め、視線を落とす。何かを考えているように見えた。
ややあって顔を上げ、僕と直枝の顔を見る。
「俺はそんな事、考えてもいなかった。奴らは、俺たちを簡単に見つけ出せるのか……そいつは無視できねえな」
そこで、また言葉を止める明。眉間に皺を寄せ、下を向いた。
「翔、お前の言った事は完全に盲点だった。いや、盲点じゃねえよ。考えれば分かる事だろうが。俺はなんで、そんな事に気づかなかったんだよ、クソッ……」
いかにも不快そうな表情を浮かべながら、小さな声で毒づく明。その言葉は僕たちにではなく、自分自身に向けられているようだ。
今度は、僕が驚く番だった。
バスの事故が起きて以来、常に落ち着いて冷静に行動している明。そんな彼が感情的になっているのだ。しかも他人に対してでなく、自分自身に対し腹を立てている。
それは、意外な反応だった。
「俺としたことが、そんなことに気づかなかったとはな。お前らの事を笑えないよ。しかし、日本みたいな平和な国で、まさかこんな事に巻き込まれるとはな。親父もいないのに……」
明はそう呟くと、出入口にそっと近づく。そして、外の様子を窺った。
僕の心に、微かな不安がよぎる。僕の言葉は、彼に通じたのだろうか。明は結局、どうするつもりなんだろうか。
「明、これからどうする――」
「翔、お前の言う通りだ。奴らは放っておけない……あとあと家を調べられたり、つけ狙われたりしても困るからな。とにかく、まずは情報収集だ。その途中で、大場と芳賀を助けられるようなら助ける。直枝、それでいいな?」
「わかった……それでいいよ……」
直枝はどこか納得いかない様子ではあったが、それでも反論はしなかった。先ほどまでと比べれば、僅かとはいえ譲歩してくれているのだ。
「まずは、俺がこの近辺を探る。出来るようなら、人ひとりくらい絞め落として連れて来る。お前たちは、ここで静かに待っていろ。万が一、俺が三十分たっても戻らなかったら、この村を離れろ。山の中で一晩隠れて、明るくなったら下山するんだ。危険だが、ここにとどまるよりは遥かにマシだ」
そう言うと、明は音も立てずに出ていった。
そして、僕と直枝が二人きりで取り残される。
その場は、妙な沈黙に支配される。しかし――
「さっきは、ありがとう」
不意に、直枝がためらいがちな口調でお礼を言ってきた。
「え、な、何が?」
うろたえながら、言葉を返す僕。何が? などと言わなくても分かっているのだ。
にもかかわらず、僕の口から出たのは、こんな間抜けな言葉だった。そもそも、僕は女の子に話しかけられたことがない。そして、女の子と雑談をしたこともなかったのだ。
だから戸惑い、口ごもった。
そのみっともないさを自覚し、さらに恥ずかしくなった。顔が赤くなるのを自分でも感じ、下を向く。
だが、直枝は言葉を続ける。
「あの明がどんな形であれ、二人を助ける気になってくれたのは、あんたの……翔のおかげだよ。本当にありがとう」
直枝はもう一度、僕に感謝の言葉を述べた。それを聞いた僕は、何やら照れ臭いような気分であった。ちょっと居心地が悪いような、それでいて嬉しいような……不思議な心持ちだ。
しかし次の瞬間、彼女の表情が変わる。
「だけど、もう人を殺しちゃ駄目だよ。さっきのあんたは、本当に怖かった……仕方ないのはわかるよ。自分の身を守るためには、戦わなきゃいけない。だけど、相手がどんなに悪い奴でも、人を殺したら絶対にいけないよ。でないと、あんたは一生苦しむことになるから」
真剣な表情で、僕に語りかける直枝。僕は何も言えなかった。何故、直枝のような人が石原高校のような底辺の学校に入ってしまったのだろう……未だに不思議だ。僕たち三人の中でも、彼女は一番真っ当な心の持ち主なのは間違いない。
だが、真っ当な心が足を引っ張ることもある。
「ねえ、約束して……あたしも一緒に戦う。あたしに出来るだけのことはするから。だから、もう殺さない――」
「ごめん。悪いけど、そんな約束はできない」
僕の口から出たのは、自分でも驚くくらいに冷たい言葉だった。
その直後、直枝の表情が暗くなるのがわかった。
奴らは何者かわからないが、まともな人間じゃないことだけは確かだ。
僕は見たのだ。泣いて許しを乞う上條に対し、奴らが振るった容赦のない徹底的な暴力を。
さらに、僕に向かって来た男たちの眼。あれは、僕の人生に嫌と言うほど出現した、弱い者をいたぶる事に喜びを見出だす者の眼に似ている。
いや、それとも微妙に違っていた。
中学生の時に僕をいじめていた連中は、まだ若干の手加減らしきものをしていた。「コイツが怪我したり自殺したりしたらヤベーよ」という意識があった気がする。
昔、いじめを受けていた時に逆エビ固めというプロレス技をかけられたことがある。その時、僕は声も出せなかった。相手の全体重をかけられ、苦しさのあまり意識を失ってしまったのだ。もしかしたら、あの時に死んでいてもおかしくなかったのかもしれない。それくらい苦しく、やがて耐えきれなくなり意識が途切れていた。
その後、息を吹き返した時、さすがに連中も焦った様子だったのを覚えている。僕が意識を取り戻して、心底からホッとしたような表情をしていたのだ。もちろん、奴らは僕の身を案じていたのではなく、自分たちの将来を案じていたのは間違いない。僕が死ぬ事より、自分たちが殺人犯になるかもしれない事の方が心配だったのは明白であった。
ともかく、それ以来いじめはほんの少しソフトになったように思う。もっとも、僕にとって地獄のような環境であったことには違いない。ソフトと言っても、ほんの僅かな差でしかないのだが。
しかし、ここにいる連中は違う。連中には、明確な殺意があるのだ。躊躇する事なく、人を殺す眼をしていた。
また、死体が見つからなければただの行方不明だ、という意味のことも言っていたのだ。
つまり、警察も死体を発見すれば事件として捜査せざるを得ない。それが他殺体となれば、なおさらだ。だが死体さえ発見されなければ、ただの行方不明である。家出や夜逃げ、果ては逃亡中の犯罪者など、行方不明の人間など、いくらでもいる。行方不明と殺人事件とでは、警察のかける時間も労力も比べ物にならない。
そういったことを計算に入れつつ、殺人を行う集団というのは――
どう考えても、普通ではないだろう。暴走族のような単なる粗暴犯よりも、遥かに性質が悪い。
そんな奴らを相手に戦って、殺さずに勝つ事など不可能だ。特に僕のような人間の場合、殺す気がなければ勝てるわけがない。
さっきの戦いが、まさにそうだった。僕は最初から、殺すつもりで襲いかかって行ったのだ。
殺さなければ、僕が殺されていたはずだ。相手の男か、あるいは明に。
そして、人殺しに伴うはずの罪悪感はあまり感じていなかった。少なくとも、その時には……。
何故なら、奴らはキチガイだからだ。
それも、刃物を持ったキチガイだ。どこから見ても、完全な悪としか言い様がない。
だから、奴らを殺す。
殺さなければ、僕の方が殺される。あんな奴らの手で人生を終えるなど、まっぴらだ。
さらに言うなら……あんな連中は、死んだ方が世の中のためだ。奴らが生き延びれば、また他の誰かを殺すことになる。
つまり、奴らを殺すのは正義だ。
僕は悪くない。
今になって当時を振り返り……客観的に見ると、この時の僕の思考はおかしかった。僕も狂っていた、と言われても仕方ない気がする。
しかし、僕はいじめられっ子だった。その上、ケンカなど一度もしたことがない。そんな僕が、こんな状況でやっていくためには普段の精神状態では不可能だったのだ。
狂気に、いや凶気に身も心も委ねることで、僕はかろうじて自分を保っていられたのだろうと思う。
そうでなければ、生き延びることなど出来なかったはずだ。
だが僕の思いとは裏腹に、直枝はなおも言葉を続ける。
「翔、あたしは、あんたのことをよくは知らない。でも、あんたはそんな人間じゃないはずだよ。明とは違うでしょ?」
「……」
僕は答えに窮し、何も言えなかった。しかし、直枝はさらに言葉を続ける。
「あんただって、さっきは嫌な気分だったでしょ? 明に脅された時、あんたは凄く怖かったはずだよ。だけど、このままだと、あんたも――」
「待ってよ。そんなことより、今は交代で休もう。君が先に寝なよ。目をつぶって横になるだけでも、だいぶ楽になる。休める時に休んでおかないと……」
そう言って、僕は話を打ち切ろうとした。これ以上、彼女と話していても、結局は平行線を辿るだけだと思ったからだ。
今の僕と直枝は、永遠に相容れぬ意見のままであろう。
「わ、わかったよ」
不満そうな顔で、返事をした直枝。僕から視線を逸らし、横になった。
よほど疲れていたのだろう。彼女は横になったと同時に、寝息をたて始める。
その時、僕はドキッとした。鼓動が早くなる……直枝はどちらかというと地味な、化粧っけのない顔ではある。だが、それでも女子の中では可愛い方だと思う。そんな女の子が、僕のすぐそばで無防備な姿をさらしている。
僕の人生において、あり得ないと思っていたシチュエーションだ。よからぬ考えが頭を掠める。
頬がまたしても赤くなった。思わず、彼女をじっと見つめる――
だが、僕は頭を振った。今はそんな場合ではないのだ。目を逸らし、外の様子を窺う。
耳をすませると、虫の声らしきものが聞こえる。さらに、小動物の立てるカサカサという音も。どうやら、この周辺には誰もいないようだ。
僕は改めて、これまでの出来事について考えた。来た時には気がつかなかったが、この村はかなり広い。しかし、この建物にしてもそうだが、かなり長い間ほったらかしにされていたようだ。
近いうちに取り壊しになる廃村か、あるいは得体の知れない者たちが住んでいた集落か。いずれにしても、今はまともな人間は住んでいないらしい。少なくとも、生活の匂いがないのは確かだ。
ただ、高宮に連れてこられた小屋は、そこそこ手入れされていた。ひょっとしたら、これまでにも僕らのような人間を誘い込み、そして皆殺しにしていたのかもしれない。
そういえば明は、今まで遭遇した奴らはみんな都会の人間だと言っていた。となると、ここも昔は普通の村だったのだろう。しかし、今はさびれて人が消えてしまい……それを、都会から来たキチガイたちが何らかの目的のために使用している、という訳か。
いったい、何のためだろう?
いや、そもそも奴らは何者なのだろうか。
カルトな新興宗教団体のメンバー?
それとも、悪魔教?
僕は、かつて読んだ本に書かれていた事を思い出した。外国では悪魔教が実際に存在し、活動しているらしい。悪魔を神として崇め、集会の時には想像を絶するような行為に耽る。麻薬を用いた乱交パーティーや、時には殺人まで……恐ろしい話だが、まんざらデタラメでもないらしい。
実際の話、海外では悪魔教が絡んだ殺人事件も起きているというのだ。
しかし、奴らがそういった集団である可能性は薄いのではないか、と僕は思った。
奴らは全員、どこか真剣さに欠けている気がする。カルト系の新興宗教にハマってしまった者にありがちな真剣さや、狂信的な態度がないのだ。少なくとも、今まで遭った連中からは感じられない。
今まで遭った人間からは……上手く言えないが、サークル活動か何かに参加しているような気楽さを感じるのだ。遊び気分、ともいえるかもしれない。ヘラヘラ笑いながら会話し、嬉々として襲いかかって来た気がする。
だが逆に、サークル活動に参加しているような感覚で、気楽に殺人を行える集団なのだとすると……。
その目的はどうあれ、本物のキチガイ集団だ。
そして、完全なる悪だ。世の中に害悪という名の毒を撒き散らすだけの存在。
やはり、殺しても構わない人間たちだ。
そんな事を考えていた時、声が聞こえてきた。
「俺だ、明だ。入るぞ」
低く押し殺したような声と同時に、明が静かな動きで入って来る。
「明……」
僕は心底ホッとした。そして思う。この状況では、明以上に頼りになる人間はいない。
たとえ、明がどんな人間であったとしても。
「まだよくはわからんが、奴らの溜まり場は見てきたよ。村の中心にある役場みたいな所で、大勢集まってた」
明はそう言うと、直枝の方を見る。
直枝はまだ眠っていた。すぐに目を覚ます気配はなさそうだ。
そんな直枝を見ながら、苦笑する明。つられて、僕も笑った。
「寝ているのか。それよりも、これからどうしたもんかな。今、考えているんだが……」
明はそう言って、僕の隣に腰かける。
「奴らはどうしようもないクズだな。俺が調べた限りじゃあ、ここにいるのは殺人マニアの集まりみたいだよ。人数もかなり多い。さて、どう戦うかな……」




