覚醒
ええっ?
どういうこと――
苦しい!
息が出来ない!
苦しさのあまり、僕は必死でもがく。だが、明は平然としている。彼にとって僕の抵抗など、何ら障害になり得ていないらしい。
「翔、さっきのザマは何なんだ? 直枝はちゃんと戦った。素手で戦い、お前を助けた。しかし、お前は戦わなかった。武器を持っていたのに、お前は抵抗すらしなかったな。お前は上條と同じくらいに足手まといだ。俺には足手まといを助ける趣味はない。直枝、お前の意見を聞きたい。どうするんだ? こいつ殺すか?」
明は何の感情も読み取れない声で、そう言い放つ。
嘘だろ?
なぜ僕が、殺されなきゃならない。
何で僕が……。
薄れゆく意識の中、僕は明の顔を見る。だが、明の顔のどこにも、冗談だとは書いてなかった。
殺される。
僕は、ここで死ぬのか?
そんなの嫌だ!
その瞬間、僕の下半身に生暖かい液体が溢れた。地面に流れ、水溜まりを作る……。
僕はその場で、恐怖のあまり失禁していたのだ。思わず涙がこぼれる。
だが、恥ずかしさよりも恐怖の方が圧倒的に強かった。
その時――
「殺しちゃ駄目だよ!」
薄れゆく意識の中、声が聞こえる。
直枝の声だ……。
その途端、呼吸が楽になる。そして、明の手が首から離れた。
支えを失った僕は、自ら漏らした小便の水溜まりに尻を着く。
「いいか、直枝に感謝するんだな。だがな、もう一度あんな無様なマネしたら、本当に殺す。誰が何と言おうとな」
感情の一切感じられない表情で、淡々と語る明。チンピラの脅し文句などとは根本的に違う。これは警告なのだ。
その言葉に対し、僕は泣きながらウンウンと頷くことしか出来なかった。
その上、体の震えが止まらない……。
「その小便臭い服を、さっさと着替えろ。漏らしたのがウンコだったら、問答無用で殺していたけどな」
明は冷たい目で、そう付け加える。僕はたまらなくなり、目を逸らせた。その時、こちらを見ている直枝と目があう。
直枝は僕に、嫌悪と同情の入り混じった視線を向ける……だが、それは一瞬のことだった。彼女はすぐに、僕から視線を外す。
僕は恥ずかしかったし、また情けなかった。直枝に二度も助けられた挙げ句、その直枝の見ている前で小便まで漏らしたのだ。
このまま恥を晒して生きるより、明に殺されていた方が良かったかもしれない……という思いが頭を掠める。
だが、それも無理だ。
僕は死にたくない。
一方、明と直枝は話し始める。
「ところで直枝、お前は格闘技をやってたみたいだな。空手か? それともキックか?」
「実は、空手やってるんだ。小学生の頃に、習い始めた」
「そうか、空手か。小学生の頃に始めたのなら、キャリアは長いな。黒帯は持っているのか?」
「うん。一応、初段だよ。小さい規模だけど、女子の大会にも出たことあるし。三位だった」
「ほう、そいつは頼もしい。だったら、翔よりはマトモに戦えるな」
明と直枝がそんな会話をしている横で、僕は惨めな気分に苛まれながら着替えていた。
着替えながら、頭の中で考えた事がある。明は、平気で人を殺せる男だ。さらに冷酷非情でもある。何のためらいもなく、上條を囮に使ったのだ。
この状況で使い物にならないと判断すれば、僕のことも簡単に殺すだろう。何せ、本物のシリアルキラーの息子なのだ。
そういえば、普段の教室では死んだ魚のような目でぼーっとしている。それが、ここではまるで別人のように生き生きしているのだ。今の明は、死んだ魚とは真逆……まさに水を得た魚だ。
ひょっとしたら、明はこういう状況が好きなのだろうか。
戦う事、そして人を殺す事が大好きなのかもしれない。
いや、そんなことはどうでもいい。いま問題なのは、僕がまた同じヘマをしたならば……明はどう動くか、だ。その場合、僕は使い物にならないと判断され殺される。
あの上條のように。
だから、また敵が現れた時には……僕は戦わなければならない。どんな奴が相手だろうと戦い、必ず殺すのだ。
でないと、僕が明に殺される。あの高宮や他の連中のように、いとも容易く。
僕は、こんな場所で死にたくはない。死にたくないのなら、敵を死なせるしかないのだ。
この時に考えていたことは、半分は正しかった。だが、半分は間違いだったのだ。
もし、その間違いに気づいていれば、僕は今頃どうなっていたのだろう。
もっとも、そんな事を今さら考えても無意味だ。人生にタラレバはないのだから。
僕は着替え終わると、その場に座り込む。泣きたい気持ちを必死でこらえ、ずっと下を向いていた。
そんな僕とは対照的に、明は何か食べ物を口に入れている。既に二人を殺しているというのに、平然とした表情で口を動かし咀嚼していた。
一方、直枝は疲れきった表情で座り込んでいた。下を向き、じっと何かを考えこんでいる。
「ところで直枝、他の女たちはどうなったんだ? それと、なんでお前は助かったんだよ?」
明が尋ねると、直枝は顔を上げる。
「二人は、ヤカンに入ってたお茶を飲んだの。それ飲んでしばらくしたら、急におかしくなったみたいで……二人とも、テレビで観るヤク中みたいにぼんやりしてた。あたしは飲まなかったけど。そしたら、いきなり男が入ってきて……見るからに怪しそうだった。あたし、とっさにそいつに蹴り入れて逃げ出した」
「やっぱり、そうだったか……ありきたりな手口だねえ」
そこまで言ったかと思うと、明の表情が一変した。口を閉じ、入口の方を見つめる。
姿勢を低くし、人差し指を口に当てた。そして手招きする。黙ってこっちに来い、というジェスチャーのようだ。
僕と直枝は頷いた。指示の通りに姿勢を低くし、這いながら明のそばに近づいて行く。
すると人が近づいてくる足音、さらに話し声が聞こえてきた。
やがて、二人の男が現れた。何やら話をしながら、僕たちが隠れている物置を目指して真っ直ぐ歩いて来る。
片方は懐中電灯で辺りを照らし、もう片方は棒のような物を持っている。どちらも若く、中肉中背だ。高宮のようにレインコートを着ている。
その瞬間、僕の鼓動が異様に早くなる。ひたすら天に祈った。ここには来ないでくれ、と……。
そんな僕の祈りも空しく、二人の話し声が聞こえてきた。
「逃げ出した奴らなんか、ほっときゃいいのに。何を言おうが、証拠がないんだから大丈夫だろ。死体がなければ、ただの行方不明じゃん。今までだって、逃げた奴いたけど大丈夫だったぜ。それに、明日には引き上げるんだし」
「でもな、高宮と竹原が殺されてるんだ。このままにはしておけねえだろ。そいつらも生け捕りにしてやろうぜ」
「しかしな、あの二人を素手で殺すとは……どんな奴なんだろうな」
「知るか。どうせ油断してたんだろうよ。俺は昔、剣道をやってたんだ。もし奴らがいたら、お前は徳田さんや黒崎さんに知らせろ。俺は、コイツで頭をかち割ってやる」
二人の男はべらべら喋りながら、中に入ってきた……。
僕たちは息を殺し、様子を見守る。
すると懐中電灯の男が、あちこちを照らし始めた。
「何もないな。ここには居ないんじゃないか……ん? 何だこれ?」
懐中電灯を持った男は歩いて来て、地面の上にあるものを照らした。
その瞬間、僕の心臓は止まりそうになる。奴らは、僕の脱ぎ捨てたズボンを照らしているのだ。
「おい、これ何だ?」
棒を持った男が近づき、まじまじと見つめる。
「それ、制服のズボンじゃねえか。それに小便の匂いもする……ガキども、ビビって小便もらしたな!」
「てことは、ここいらに隠れているかもしれねえ! おい探そうぜ! 俺たちで取っ捕まえようや!」
「そうだな。ビビって小便もらすヘタレなら、俺たちで充分だろ」
二人の会話を聞いた瞬間、僕の体から一気に汗が吹き出した――
まずい。
僕のミスだ。
どうしよう。
僕のせいで……。
今度こそ、本当に明に殺される。
いや、それよりも……明に呆れられ、上條みたいに見捨てられるてしまう。
どうする?
決まってる……このミスを、埋め合わせるんだ。それしかない。
殺すんだ。
僕が殺す。
奴らを殺す。
鉈を握りしめ、僕は忍び寄って行く。
全身の震えが止まらない。僕は怖かった。怖くて怖くて仕方ない。出来ることなら、その場に這いつくばっていたかった。全てを、明と直枝に任せたかった。
でも、それだけはしてはいけない。僕の恐怖は、二人の男に対するものよりも、明に対するものの方が大きかったのだ。殺らなければ、明に見捨てられてしまう。
その事態に比べれば、目の前にいる二人の男など物の数ではない。
奴らは、すぐ目の前にまで来ていた。あちこちに視線を移し、僕たちを探している。
しかし、懐中電灯を持った男が僕の存在に気が付いた。と同時に、何かを叫ぶ。声は聞こえていたが、言葉の内容までは聞き取れなかった。そもそも、聞いている余裕など無かった。
なぜなら……その瞬間に僕は立ち上がり、男に襲いかかって行ったからだ――
震える手で鉈を構え、懐中電灯を持った男に体ごとぶち当たって行く。口からは、無意識のうちに声が出ていた。僕は喚きながら、鉈を構えてぶつかって行ったのだ。
すると……驚くほど簡単に、刃が突き刺さった。
僕は一生、忘れられないだろう。鉈の刃が男の体に刺さり、肉を貫いていった感触を。男の体の奥深く、刃をめり込ませていく感触を。
一方、男は驚愕の表情を浮かべて僕を見ている。鉈の刃が己の体に突き刺さっているというのに、何が起きたのか把握できていない様子だった。
だが、次の瞬間――
男の目に、怒り、恐怖、憎悪、苦痛といった様々な感情が浮かぶ。
直後、僕を思い切り突き飛ばした。その弾みで鉈が抜け、僕は鉈を握りしめたまま後ろに倒れる。
男は傷を押さえ、僕を睨みつけた。その傷口からは、大量の血が流れ落ちている。僕のそれまでの人生において、こんな流血を見たのは初めてだ。
怖かった。
だが、僕は攻撃を止めなかった。ここで止められるはずがないのだ……止めたら、僕が殺される。
もう一度、鉈を構えて突進して行く。体ごと、思い切りぶち当たって行った。
すると、男は呆気なく倒れる。必死の形相で抵抗しているようだが、それも弱々しい……僕は男に馬乗りになると、逆手に持った鉈を降り下ろした。何度も何度も突き刺す。
その時、何か叫んでいる声が聞こえた。何かがぶつかるような物音も。
だが、僕は目の前の男を殺すことにのみ集中していた。人はいざとなったら、なかなか死なないのだ。一度や二度、刃物で刺したくらいでは動き続けている。
だから、僕は何度も刺した。
せめて、この男を殺さなければ……僕は明に見捨てられてしまう。
・・・
その時……明は翔の凶行を横目で見ながら、棒を持った男と向き合っていた。
男は残忍な表情を浮かべて、棒を振り上げる。
その瞬間、明は一気に動いた。欠片ほども迷うことなく、すり足で間合いを詰めていく。
そこに、男の棒が振り下ろされた。だが、明は左の前腕で受け止める。
左腕に痛みが走る。強烈な痛みだ。しかし、接近して間合いを外している。明の動きを止めるほどの威力はない。
その直後、明の手が放たれる。伸ばした右手の指で、目を払うように突く――
男は目をつむり、のけぞる。明の指先により、眼球を傷つけられたのだ……手からは、棒が落ちる。
すると明は左手を伸ばした。男の右腕を左の脇に抱える。
さらに右手を男の左脇に差し込み、男の体を腰に乗せ――
凄まじい勢いで、地面に叩きつける。
強烈な投げを食らい、男の口から不気味な声が洩れる。
明は間髪入れず、足を降り下ろす――
男の喉を、一撃で踏み潰した。その流れるような動きは、時間にして僅か数秒ほど……しかも、明の息は全く乱れていない。表情も平静だ。
相手の死を横目で見ながら、明は周りの状況を素早く確認する。
直枝は呆然とした表情で翔の凶行を見ている……己の口を、片手で押さえながら。こみ上げてくるものをこらえているのか、あるいは翔の予想以上の凶暴さに衝撃を受けているのか。
一方、翔は相手の男に馬乗りになり、鉈でめった刺しにしている。その顔は、返り血を大量に浴びて真っ赤に染まっていた。まるで、ホラー映画の怪物のようだ。
それを見て、明は思わず舌打ちする。あれはやり過ぎだ。翔は今、極度の興奮状態にある。そのため、己の行動の制御が出来なくなっているのだ。放っておいたら、何をしでかすか分からない。下手をすると、仲間に襲いかかる可能性がある。
止めに入らなくては……そう思い、明は翔に近づいて行った。
だが突然、翔の手が止まる。その瞳には、奇妙な光が宿っていた。
憑かれたような表情で、翔は死体と化した男を見つめていた。
・・・
僕は、突き刺した。
鉈を逆手に持ち、何度も何度も突き刺したのだ。
男は激しく抵抗した。しかし、すぐに弱々しくなる……そもそも、最初の不意打ちの段階で致命傷を負っていたはずなのだ。ここまで動き、抵抗できた事を誉めるべきなのだろう。
やがて、抵抗は止んだ。
その時、僕は初めて体験したのだ。
人の体から、命が抜けていく瞬間を。その感触を――
口では上手く説明できないが、男に訪れた死の瞬間に、その体から何かが抜けていくような感覚があったのだ。まるで、風船から空気が抜けていくような。あれは、経験した者でないとわからないだろう。
はっきり言えるのは、その何かが抜けていくのを感じた次の瞬間、僕は男の死を確信した。
当たり前の話だが、僕はそれまで人を殺したことはない。いや、虫さえも殺したことはない。
それなのに、男の死んだ瞬間がはっきりと理解できたのだ。
水中で苦しくなったら、呼吸という概念を教わっていない幼い子供でも、水から必死で上がろうとするはずだ。僕も、誰から教わったわけでもないのに確信した。
目の前の男は今、この瞬間に死んだと。ひょっとしたら、それこそが本能の為せる業なのかもしれない。
その時の僕には、相手を殺してしまったことに対する恐怖や罪悪感などは無かった。いや、あったのもしれないが……それを遥かに上回るものもあったのだ。
その時に僕の頭にあったもの、それは――
何とも表現の仕様のない、ある種の達成感と満足感と……。
さらに、不思議な恍惚感と万能感とに支配されていた。
まるで、神にでもなったかのような――
「おい翔、大丈夫か?」
遠くで、誰かが呼んでいる気がする。いったい誰だろう?
いや、そもそも……僕はここで何を?
そうだ。
僕は、殺さなくてはならなかったんだ。
奴らを殺す。
皆殺しだ。
「おい、聞いてんのかよ! 翔、お前ちょっとこっちを向け!」
突然、明の怒鳴る声が聞こえてきた。
僕はしゃがんだまま、ゆっくりとそちらを向く。不思議な気持ちだった。万能感、とでも言おうか。今の自分なら何でも出来る、そんな奇妙な感覚に、全身を支配されているのだ。生まれて初めて味わう感覚だ――
しかし次の瞬間、凄まじい腕力で襟首を掴まれ、引き上げられた。抵抗の余地すらないほどの強い力だ。僕は、一瞬のうちに立ち上がらせられていた。
その直後、頬をひっぱたかれる。
その衝撃は強烈だった。まるで、脳震盪を起こすような一撃。だが、僕はハッと我に返る。くらっとするような感覚に耐えながら、僕は顔を上げる。
すると、目の前に明が立っていた。僕の襟首を片手で掴んだまま、射るような視線をこちらに向けている……。
「俺の声が聞こえるな? お前、大丈夫だろうな? 妙な真似をしたら、もう一発食らわすぞ」
尋ねる明。僕に対し、怒っている訳でも心配している訳でもないらしい。その表情と声は、あくまでも平静なものだった。僕はホッとして頷く。
「う、うん。多分、大丈夫だと思う。ごめんね、僕のせいでみんなに迷惑かけて……」
その答えを聞き、明の顔にも僅かながら変化が生じる。目付きの鋭い表情が、少し柔らかくなったのだ。少なくとも、僕にはそう見えた。
「気にするな。今さら、お前を責めても仕方ない。これからは、もっと気をつけろ。とりあえず、あのズボンは隅の方に隠せ。それと……」
そこで明は言葉を止め、視線を下に向ける。
つられて、僕もそちらを見た。すると、鉈が死体のそばに転がったままであることに気づいた。血や肉らしきものが、べっとりと付着している……死体は血まみれで、あちこち切り刻まれ原型をとどめていない。
僕がやったのだ――
「あの鉈を回収して、綺麗にしておけ。切れ味が鈍ったら致命的だ。それと、次はもっと早く仕留めろ。戦いは、出来るだけ早く終わらせるのが鉄則だ。特に、こういう状況ではな。長引いたら、向こうの応援が来るかもしれない。覚えておけ」
そう言うと、明は死体と化した二人の体を調べ始める。心なしか、先ほどの言葉には感情らしきものが感じられた。
それを見ながら、僕は鉈を拾い上げる。明に言われた通り、カバンに入っていたジャージをタオル代わりにして血と脂を拭った。
だが、その時――
「ねえ、殺す必要があったの? ここまでやる必要があったの?」
不意に、直枝が口を開いた。その表情は真剣そのものだ。
「当たり前だろうが。戦闘不能にして逃げるなんて、そんな器用なマネは俺にはできない」
面倒くさそうな様子で、明が答える。
「あんたなら、出来たんじゃないの?」
「絞め落としただけじゃ、息を吹き返す可能性があるんだよ。その後、どうなるか分からん。殺すのが、一番確かなやり方だ」
明の言葉には、微かな苛立ちがあった。しかし、直枝には引く気配がない。
「そんな恐ろしいことを言わないで――」
「いいか直枝、奴らは普通じゃない。上條は、奴らに殺られたんだ。奴らは平気で人を殺す……いとも簡単にな。そんな連中を相手にするんだぞ。確実に止めを刺して、敵の数を減らさないと生き残れないんだよ」
「……」
明の言葉を聞き、直枝は悔しそうに下を向いた。彼の言葉が正しいことを、認めざるを得なかったのだろう。直枝のような正義感の強く真面目な女の子が、なぜ石原高校に入ってしまったのだろう。彼女の悲劇は、その時点から始まっていたのかもしれない。
そして、僕は思うのだ。直枝の言っていたことは間違いではない。しかし、あの状況下では正しいとも言えないだろう。
ひょっとしたら、あの時……誰も殺さず逃げ延びる方法はあったのかもしれない。だが当時の僕たちは、その方法を知らなかった。
「そういや、一つありがたいことを言っていたな。奴らは、明日になれば引き上げるらしい。となると、今夜一晩だけ持ちこたえればいいってことだ。奴らが引き上げるまで、息をひそめているとしようぜ」
そう言うと、明は僕と直枝を交互に見た。すると、直枝が顔を上げる。
「あの二人は? 佳代と優衣は助けないの?」
突然の直枝の問い。しかし、明は首を振った。
「大場と芳賀のことか? それは無理だ。奴らはもう死んでいるか、あるいは連れて行かれている可能性が高い。まあ、それ以前に俺に助ける気はないけどな」
明は淡々とした口調で答える。心の底から、どうでもいいと思っているらしい……。
「そんな……ねえ、助けてあげてよ?」
「あのなあ、考えてもみろよ。俺たちは今、やっと助かるかもしれない可能性が出てきたんだよ。奴らは普通じゃない。恐らく、全員が本物の人殺しだ。そんな状況なのに、わざわざ身の危険を犯してまで、よく知りもしない奴を助けなきゃならないのか? 俺は御免だね」
呆れた顔つきで、明が言い返す。
すると、直枝の表情が歪んだ。
「あたしたち、同じクラスの仲間なんだよ。一緒にあの事故を乗り切った仲間を見捨てるの?」
なおも明を説得しようとする直枝。その表情は、横で見ていて痛々しいくらいだった。
だが、明は容赦しない。
「だったら、お前が自分だけの力で助けてやれよ。俺に頼らずに、な」
「えっ……そんな事、あたし一人じゃ無理だよ。出来る訳ない――」
「出来ないなら黙ってな。警察でもないお前に、奴らを助けなきゃならない義務はないんだ。俺もお前も、自分が確実に生き延びる……ただ、それだけを考えていればいいんだよ。それに、俺は奴らを仲間だとは思ってない」
「……」
直枝は何も言えず、うつむくだけだった。その表情には、怒りがある。明に対する怒りか、それとも無力な自分に対する怒りだろうか。
そして、横にいる僕は考ていた。
あの二人は、これからどうなるのだろう。
さっき明は、奴隷とか言ってたよな。
いや、それ以前に……この連中は何なんだ?
頭がおかしいことは間違いない。
しかし、どこかいい加減というか……。
狂信的な集団にありがちな真面目さや真剣さが、今一つ感じられない。
僕がそんなことを考えていると――
「もういい……」
突然、直枝が震えるような声を出した。
「もう、あんたらには付き合いきれない。あんたの言う通り、あたし一人で二人を助ける」
そう言ったかと思うと、直枝は立ち上がる。そのまま、出て行こうと歩きだした。どうやら、本気であるらしい。
しかし――
「おい待てよ直枝。まあ、落ち着けよ」
明が、すっと立ち上がった。そして、直枝の行く手に立つ。
「直枝、はっきり言うが、そいつは自殺行為だ。しかし、どうしても二人を助けたいって言うのなら……」
明はニヤリとした。
「俺を説得してみなよ。俺に、大場と芳賀を助ける理由があるのか……それを教えてくれ。それが出来ないなら、ここで大人しくしてるんだな」