事故
彼は、怪物だった。
だが、僕はそれでも良かった。
彼は、僕の最高にして最凶の友だちだったから。
当時の僕……その特徴はと言えば、パッとしない奴という一言で終わりであろう。見た目が地味、スポーツの類いはまるで駄目、勉強も平均点以下である。性格も暗く引っ込み思案で、大勢でわいわいやるよりは、一人で遊んでいる方が好きな少年だった。
そして、他人と接するのが苦手であった。自分では普通にしているつもりでも、他人からはあまり良く思われていなかったらしい。いや、はっきり言えば……嫌われていたように思う。
そんな僕がいじめに遭うのは、ごく当然の成り行きだったのだろう。
きっかけとなったのは、いったい何だったのか。今となっては覚えていない。あるいは僕自身も、思い出したくないのかもしれないが。確かなことは、僕が中学二年生の時……とあるグループの、いじめのターゲットになった事だ。
初めは、ごく些細な「いじり」と呼ばれるもの……特定のグループ内での、ちょっとした毒のある言葉や体をこづいたりといったものだった気がする。それだけなら、よくある事の一言で終わりだ。
しかし、いじりというものは段々とエスカレートしていくのが常である。特に中学生くらいの年代では、ほどほどのラインで止めておくという事が出来ないものなのだ。僕に対する「いじり」が「いじめ」に変わるまでに、そう時間はかからなかったように記憶している。
いつからか、僕はグループ内でサンドバッグの役割をさせられるようになっていた。みんなが気晴らしのために、僕の腹や肩を殴るようになっていたのだ。初めは軽く、次第に強く。
そして、いじめは更にエスカレートしていく。古本屋でエロ本やエロDVDを万引きさせられたり、火のついたタバコを押し付けられたり、みんなの前でオナニーさせられたりもしたのだ。
ついこの前まで、友人だったはずの彼ら。だが、彼らと僕との関係は、まるで違うものになっていた。いつの間にか、主従関係へと変化したのだ。もっとも、今の僕は彼らが特殊な人間であったとは思わない。
彼らもまた、普通の人間なのだ。
それはともかく、当時の僕にとって学校は地獄と化していた。その結果、僕は中学校に行かなくなった。いや、行けなくなってしまったのだ。
当然ながら、成績は下がる。中学三年生の時には、まともな高校に入れないような状態になっていた。
その結果、東京都内で最も低レベルな石原高校を受験する。
そして、晴れて合格はした。しかし、高校生活には何の希望も持てない状態であった。入学試験の時点で、どんな生徒がいるのかは把握している。想像だが、自分の名前を日本語で書ければ合格できたのではないかと思う。
もう今となっては、クラスメートたちの名前はほとんど覚えていないが……人間というより獣に近い、そんな生徒しかいなかったような記憶が残っている。それすら、あやふやなのであるが。
だが、そんなクラスメートの中に一人だけ、不思議な男がいた。
身長は百七十五センチくらい。髪は短めで、ピアスの類はつけていない。肩幅は広めでがっちりした体つきであり、手のひらや拳は妙にゴツゴツしている。
そんな彼、工藤明の最大の特徴は老けている点だ。実際、年齢は僕たちよりも上だったのだが……実年齢だけでなく、態度や仕草などが僕らとは比較にならないほど落ち着いている。
しかも、明の醸し出している雰囲気や迫力は、そこいらのチンピラやヤクザなどとは比較にならないものだった。日本人離れした、目鼻立ちの整った彫りの深い顔立ちであることも手伝い、近寄りがたい何かを他者に感じさせる。もっとも、今の僕にはその「近寄りがたい何か」の本当の理由が分かる。それは、人間の本能に根差した感覚なのだろう。
そんな明ではあるが、普段は死んだ魚のような目をしていた。にもかかわらず、クラスの連中はみな彼を恐れていたのだ。
そもそも、明の最初の自己紹介からして普通ではない。
「どうも工藤明です。みなさんより歳は上なので、話は合わないと思います。以上です」
明の発したその言葉に対し、教室内が軽くざわついたことを覚えている。
だが明は、そんな事を気にも留めていなかった。彼にとって、他の生徒は視界に入れる価値すらないらしい。死んだ魚のような目で突っ立ったまま、ただ前を見ている。その顔には、一切の表情がない。
すると、その状況を見かねたのだろう。クラスの担任教師である滝沢先生が口を開いた。
「あー、みんな。工藤はな、家庭の事情で色々あるんだよ……まあ、みんな徐々に仲良くしてくれ」
恐らくは、補足説明とフォローのつもりだったのだろう。しかし、全く役にたっていなかった。
普通、こういった場所に歳上の人間が入った場合、「おっさん」などと呼ばれてイジられそうなものである。だが、明の場合はそれがなかった。
というより、クラス全体の雰囲気として、明とは関わり合いになりたくない、というのが大半の者の考えだったらしい。
一方、僕の置かれた状況はというと……。
いじめこそなかった――入学したばかりのため、そういった人間関係がまだ出来ていなかっただけだが――ものの、誰とも話さなかった。
入学した直後に個人面談なるものがあったのだが、そこで滝沢先生が、僕にこんなことを言ったのだ。
「お前は……飛鳥翔か。おい翔、お前はもうちょっと積極的になって、クラスに溶け込んだ方がいいぞ。五月に修学旅行がある。そこなら、みんなと仲良くなれるかもな」
その話を聞いた時、僕は唖然となった。
修学旅行? 冗談じゃない。
しかも二泊三日だというのだ。あの獣たちと、二泊三日ともに生活する……想像しただけで、発狂してしまいそうだ。
僕の入学した石原高校は、都内でもトップクラスの馬鹿な学校である。進学率など、放っておけば銀行の金利に追い抜かされてしまうのではないかと思われるくらい低かったのだ。
その代わり、という訳でもないのだろうが……校内のイベントには、妙に力を入れていたらしい。
修学旅行もその一つで、なぜか学年ごとに行われていたのだ。
しかし、僕はそんなものに出る気はさらさらない。その時点では、仮病を使い休むつもりだったのだ。
だが当日になると、僕は憂鬱な表情を浮かべながらも修学旅行のバスに乗っていたのである。
なぜ僕が、修学旅行に行く気になったのかと言うと……それは両親が、修学旅行に出れば一万円の臨時ボーナスを出すと言ってきたからだ。要は、一万円に釣られて旅行に参加したのである。
今にして思えば、両親は僕のあまりの社交性のなさ――友だちを家に連れてきたことがなかった――に危機感を抱き、高校にいる間に何とか最低限の人付き合いができる人間にしたかったのだろう。
だから、そういった学業以外のイベントに積極的に参加させれば、友人ができるかもしれない……そうすれば、もう少し社交的になるかもしれないと考えたのではないだろうか。
そのために、金で釣るという手段に出たのだろう、と思う。もちろん、今となっては全て僕の想像でしかないのだが。
皮肉な話だが、確かに修学旅行に行ったおかげで僕は変わった。ただし、両親が期待していたものとは、まるで別の方向に。
理由はどうあれ、その当時の僕は……嫌々ではあるが、修学旅行に参加することとなったのである。
そしてバスの隣の席は、あの工藤明だ。僕は正直、怖さとやりにくさとを感じていた。何せ、クラスの皆から避けられているような男だ。隣の席から何を言ってくるのだろうか……という不安があったのは確かである。
しかし、それは杞憂であった。席に座ると同時に、明は僕に話しかけてきたのだが――
「おい飛鳥、お前は乗り物酔いとかするのか?」
「えっ? あ、あの……うん、するかもしれない」
「だったら、お前は窓際だな。もし気持ち悪くなったら、窓開けて外に吐いてくれ。外だったら、いくら汚しても構わないから。俺は寝るから、着いたら起こしてくれよ。本当に面倒くさい話だよな……何が修学旅行だ。何を学べと言うんだろうな」
そんな無茶苦茶なことを言ったかと思うと、明は本当に寝てしまった……ように見えた。目を瞑り、顔を横に向けている。
しかし、その方が僕としてもありがたかった。起きていられたら、気を使うことになる。
バスの中の出来事で唯一、覚えているのが……周りの生徒が皆、異常に騒がしかったことだ。何が楽しいのか、全員のテンションは普通ではなかった。バスの中で、みな狂ったように騒いでいたのをはっきりと記憶している。
バスガイドにセクハラが適用されるような質問をしている男と、横でゲラゲラ笑っている女。
自分がいかにワルいか、というワル自慢大会を開催しているグループ。
僕は、さらに憂鬱な気分になってきた……この修学旅行は、どう考えても楽しいものにはならないであろう。仕方ないから、何とかやり過ごすしかない。
そんな現実から逃避するため、僕はあらかじめ用意していた耳栓を付けて寝ることにした。
僕たちの乗っていたバスが何処に向かっていたのか、どの辺りを走っていたのか……今となっては、何も覚えていない。ネットで調べれば何かしら分かるかもしれないが、今さら意味はない。
一つ確かなのは、急に天気が変わり、強い雨が降り出したこと。さらにタイミング悪く、大規模な強い地震が起きたこと。
全ては、後になって知ったことだ。強い雨が降っている中、僕たちの乗っていたバスは崖道の急カーブを曲がろうとしていた。その時、地震が起きてしまったのだ。
全てにおいて、これ以上ない最悪のタイミングであろう……。
「おい起きろ……飛鳥、大丈夫か!?」
誰かに揺り動かされ、僕は目を覚ました。
その時にまず感じたのは……頭に当たる雨、そして寒さ。
さらに、全身を走る鈍い痛み。
痛み?
そう、頭と体がズキズキ痛むのだ。僕は混乱しながら、何とか上体を起こす。その時になって初めて、自分がバスに乗っていないことに気づいた。
「飛鳥、大丈夫か? これが何本に見える?」
誰かが僕の目の前に、指を見せる。確か工藤明の声だ……。
「さっ、三本……」
そう言いながら、僕は辺りを見渡す。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
ハリウッドのアクション映画に出てくるシーンのような、横転したバスが目に入る……あの巨大な観光バスが、目の前で横倒しになっているのだ。
そして……バスが横転した時に投げ出されたのであろう、生死も定かでない状態の誰かが転がっていた。さらには、テレビの画面でも見たことのないような、ぐちゃぐちゃになった本物の死体が転がっている。
それらを見た瞬間、僕は耐えきれず吐いた。
胃の中のものを、全て戻してしまった。
その直後、目から溢れる涙……。
何があったんだ?
夢か? これは夢なのかよ? だったら早く覚めてくれ!
でないと僕は……。
混乱している僕の耳に、誰かが吐いているような音が聞こえてきた。
さらに、誰かが泣いている声も聞こえる。
そして、誰かが喚いている声も……。
僕は顔を上げ、もう一度周りを見渡した。辺りは巨大な木に囲まれている。しかも、下は土だ。どこかの山の中にいるとしか思えない。さらに、スマホは通じなかった。圏外になっているのだ……。
そして、体のあちこちがまだ痛い。
そんな状況で生き残っていたのは、以下の六人だった。
上條京介。
大場佳代。
芳賀優衣。
直枝鈴。
工藤明。
そして僕、飛鳥翔……。
こんな状況でありながら……ただ一人、明だけは冷静であった。
「とりあえず、荷物持って雨風をしのげる場所に移動しよう。でないと、あっという間に奴らの仲間入りだぞ」
皆に対し、明は死体を顎で指し示しながら言った。普段とは違い、彼の瞳には力が宿っている。気のせいか、どこか嬉しそうにも見えた。
僕たちは困惑しながらも、彼の指示に従った。
僕たちにとって運のいいことに、横転したバスからすぐの場所に自然の洞窟があった。
僕たちは痛む体を引きずりながら移動し、洞窟内でようやく一息つく。
明を除く全員が、途方に暮れていた。言うまでもなく僕もだ。先ほど見た死体の山は、あまりにも衝撃的であった。ついさっきまで、普通に話したり動いたりしていたはずの人が、みな死んでいる……これは、僕の心のキャパシティを遥かに超えていた。僕は、放心状態で座っているだけだった。
だが、当時の僕は何も分かっていなかった。
この修学旅行……いや、恐怖の修羅学旅行は、まだ始まったばかりだったのである。
バスの事故は、僕らが巻き込まれることになった事件の、ほんの序章に過ぎなかったのだ。
皆が虚ろな表情で座り込んでいる間、明だけは妙に落ち着き冷静に行動していた。彼はパンフレットやしおりなどを集め、持っていたライターで点火する。
その炎の暖かさが、僕たちの心を僅かながら癒してくれた……僕たちは、火の周りを囲んで座り込む。
ふと、疑問を感じた。明はなぜ、ライターなんか持っていたのだろう。タバコを吸うのだろうか? だが、そんな疑問はすぐに消え去る。今の不安に比べれば、そんな疑問は取るに足らない事だ。
「なあ、これからどうすんだよ」
不意に、上條が言葉を発する。
上條は体が大きく、また態度も大きい典型的な不良だ。自分はギャングだか少年ヤクザだかの準構成員だ、などとクラスで吹聴しているのを聞いたことがあった。ケンカも強いらしかったが、彼が実際にケンカをしている場面を見たことはない。もっとも、そんなものには興味もないが。
すると、冷めた声が返ってきた。
「知らないよ。放っておきゃあ、助けが来るんじゃないか。来ないかも知れないけどな」
上條の言葉に答えたのは明だ。妙につっけんどんで、投げ遣りな口調だ。もっとも、明が同級生と喋っている姿自体、あまり見たことがなかったのだが。
「じゃあ、来なかったらどうすんだ?」
明の言葉は、上條を苛つかせたらしい。上條は怒気を含んだ声で尋ねた。
しかし、明は怯まない。
「簡単さ。お前らは死ぬ、それだけだ」
淡々とした口調で答える明。すると、上條の表情が変わった。
「何だと! てめえバカにしてんのか! 何だよ死ぬってよ!」
喚きながら、上條は立ち上がる。その目には、凶暴な光が宿っている。
一方、僕を含めた周りの人間はみな、この状況に圧倒されていた。表情が硬直し、何も言えなくなっている。
だが、明の態度は変わらない。
「お前は、何を言ってるんだ? 人間いつかは死ぬ。早いか遅いかだ。この状況で助けがこなければ、お前らは死ぬ。それだけだ」
明は恐れる様子もなく、そう言い放つ。
「なんだと――」
「もう黙れよ。お前と話すと疲れる。見ろよ。他の連中は、静かにお行儀よく座っているんだぞ。お前は図体の割りに、情けない奴だな」
上條の顔を見もせずに言う明。その態度は、上條を逆上させるには十分なものだった。
「てめえ殺すぞ! おら! 俺が死ぬ前に、てめえを死なせてやるよ!」
上條はそう言うと、明の襟首を掴み、強引に立ち上がらせた。
その場の空気は、一瞬にして危険なものとなる。しかし――
「今、殺すって言ったな。死なせる、とも言った。てことは、殺される覚悟もできているんだな」
明はそう言うと、ため息をつく。その顔には、面倒くさそうな表情が浮かんでいたのを僕ははっきり覚えている。
その直後――
明の右腕が上條の後頭部を通り、首に巻きついた。
そして、上條の首を脇に抱え込む。
上條の首が明の脇に挟まれ、頸動脈と気管を腕で締め付けられる。
明はそのまま、ぐいっと背中を反らせた。
次の瞬間、上條の体から力が抜けた……。
後で知ったのだが、明が上條を絞め落としたのは、フロントチョークと呼ばれる技らしい。
だが、その時の僕には何が起こったのか、全くわからなかった。確かなのは、目の前で上條が一瞬のうちに動かなくなったことだけだ。
一方、明は何事もなかったかのような表情をしている。上條の頭を脇に抱えたまま、固まっている僕たちの方を見た。
冷めた表情のまま、口を開く。
「なあ、このバカどうするよ? お前らの意見を聞きたいんだがな」
「ど、どうするって……どういう事?」
ようやく頭が働きだしたのか、直枝が声を震わせながら尋ねる。
「こいつを殺すか生かすか、どっちにする?」
明はごく普通の表情で答える。だが、言っていることは無茶苦茶だ。僕らは全員、硬直していた。
「えっ……なんで殺すの……」
今度は大場が、蚊の鳴くような声で言う。だが、明はすました顔だ。
「決まっているだろう。こういうバカはトラブルの元だ。こんな状況だと、バカ一人のために足を引っ張られる恐れがある。それに、俺はこういう奴は嫌いなんだよ。殺したいくらいな」
「何言ってんの……人殺しは犯罪だよ――」
「こんなに人が死んでるんだ。一人くらい増えたってわかりゃしねえよ。それにだ……このバカは、長引けばお前ら女たちを襲うかもしれないぜ。少なくとも、俺やそこにいる飛鳥よりはレイプ犯になる可能性が高い。こいつの日頃の行いを見ればわかるだろう」
直枝の言葉をさえぎり、明は淡々と語った。だが、不意に不気味な笑みを浮かべる。
「そうだな……こいつを殺すのが嫌だと言うなら、生かしておかなけりゃならない理由を言ってくれ。そして、俺を納得させてみてくれよ。なあ、女たちよう……お前らはいつもクラスで、ああでもないこうでもないと下らんお喋りに興じてるだろう。そこで培った喋りのテクニックで、俺を説得してみてくれよ」
「ひ、人殺しは、つ、罪だから……け、刑務所にも行くし――」
「実にありきたりで、くだらない理由だな。却下」
芳賀の振り絞るような声での意見は、明の一言で却下された。
そして、明は僕の方を向く。
「なあ、飛鳥。お前はなにか意見はないのかよ? さっきから、ずっと黙ってるけどよ」
「えっ……」
僕は何も言えなかった。そもそも、この状況で何を言えばいいのだろう。この急な展開に呑まれ、まともに考えることすら出来ないのだから。
すると、明はため息をついた。
「お前らとの会話は、本当につまらないな。俺も飽きてきたよ。十数えるから、その間に何か言ってくれ。もしつまらない事を言ったり、何も言えなかった場合、こいつの首をへし折る。十、九――」
首をへし折る、だって?
僕は一体、どうすればいいんだ?
なんて答えればいい?
「八、七、六――」
明のカウントする声が響き渡る。他の者たちは、口を開けたまま明を見ているだけだった。
そして、僕は必死で考える……明は本気で、上條を殺す気なのだろうか。
ちょっと待てよ……。
よく見ろ。
明の口元、ちょっと緩んでないか?
「五、四――」
ひょっとして、明は笑っている……のか?
僕たちを、試してるのか?
「おい、あと三秒だぜ。飛鳥でなくてもいいぞ。答えたい奴が答えろ。三、二、一――」