第五歯 とーちゃんがほのかに香る
差し出されたのは、ホールケーキ程のバタークリームの塊だった。
視覚だけで胃もたれするのは、蛍が朝から何も食べていないからだけではないだろう。
胃の不快感に、蛍は思わず顔をしかめた。
溢れかけていた涙もドン引きである。
「大丈夫?」
「私の心配より血糖値の心配をした方がいいんじゃないかしら?」
「けっとうち…?」
「どのくらいの砂糖であんたができているかってことよ」
「わあ!きっとぜーんぶお砂糖だね!」
少年の無邪気な笑顔に、蛍は「…頭の心配も必要ね」と呆れ返った。
「悪いけど、出逢ったばかりの胡散臭い人間とケーキを食べるつもりはないわ」
「うさんくさい?」
「砂糖臭いの間違いかしら?」
蛍の冷ややかな視線を他所に、彼は裾を引っ張りあげて、くんくんと臭いを確かめている。
「んー…臭うかなあ?」
胡散臭いに臭いがあるならば、蛍の鼻はぐにゃぐにゃにねじ曲がっていたことだろう。
彼は臭うどころか、太陽が燦々と降り注ぐ花畑のようなフローラルの香りがした。
臭うとしたら蛍のほうだ。
丈の短くなったマントは色褪せ、頑固な汚れに汚れが上塗りされている。
(我ながら見るに耐えない)
蛍は向かいの窓ガラスから目を逸らすと、今もあらぬ臭いを確かめる少年に苦笑した。
「胡散臭いは、怪しいって意味よ」
「そっかあ!俺、怪しいのかあ!」
彼は暢気に笑い、ケーキと呼ぶには些か甘過ぎる物体を僅か四口で食べてしまった。
「今夜は頭のおかしな連中ばかり遭遇するわ」
加えて、大切な首飾りをなくしてしまったのだ。
「本当に散々な夜ね」と蛍は頭を抱え、ため息を吐いた。
少年は「頭がお菓子な連中?!」と瞳を爛々と輝かせている。
バタバタと走るお菓子なんぞ思い浮かべているのだろう。
彼の奇怪な想像に付き合う気は毛頭なく、蛍は腰をあげると「さようなら、甘党さん」と踵を返した。
「慰鶴だよ」
蛍が振り返ると、少年は頭の後ろに手を組んでへらへらと笑っていた。
立ちあがった彼は想像を越えて背が高く、袖からすらっと伸びた腕は逞しい。
少年の顔には「神様が目を描き入れるときに、過って筆を滑らせたのでは?」と思わせるようなタレ目が並んでいた。
「俺の名前、慰鶴っていうんだ。人を探してるんだけど」
「人探し?」
「うん。ゴールデントリガーって奴を知らない?」
笑顔こそ崩さなかったが、慰鶴のまとう空気が張り詰める。
彼のただならぬ雰囲気に、蛍は息を呑んだ。
「ゴールデントリガー…」
変わった名前だ。
もし殺虫剤だったなら、一撃必殺に違いない。
「知らないわ。ごめんなさい」
「気にしないで。ありがとう」
彼の陽気な笑顔に、先程までの緊張感は微塵もない。
「俺、朝はいつもハイカロリーにいるんだ。なにか情報が入ったら、教えてくれる?」
Hai!Caloryと言えば、地図がなくとも行列でわかる大人気のケーキ喫茶である。
「覚えておくわ」
「ありがとう」
「それと」と続けると、慰鶴は蛍の顔をまじまじと眺めてにっと笑った。
「困ったことがあったらいつでも来て。なにか手伝えるかもしれない」
「必要ないわ」
蛍が素っ気なく答えると、慰鶴は身を乗り出して、蛍の両手をぎゅっと握った。
「必要あるよ!君の眉間、ずっと干し柿みたいだから」
蛍はさっと額に手をやった。
蛍の眉間は彼女の気苦労を詰め込んで、硬く強ばったままだ。
「余計なお世話よ」
「余計なら、ないよりあったほうがいいってとーちゃんが言ってた」
「とーちゃん、まとめ買いの貴公子なんだ」と慰鶴が得意気に鼻を鳴らす。
名誉なのか、不名誉なのか。理解しがたい通り名に、蛍は「へえ」と生返事で答えた。
「助けはなくて困ることはあっても、あって困ることはないよ」
「…あなたを巻き込む訳にはいかないわ」
「君が望んでいることは悪いこと?」と慰鶴は小首を傾げた。
「違うわ」
「じゃあ、巻き込むのはきっと悪いことじゃないよ。巻き込まれるのは大歓迎」
「気が変わったらまた会いに来て」と言い残し、慰鶴は蛍に背を向けた。
太陽が沈むように、彼の金髪が暗がりの向こうに消えていく。
遠ざかる慰鶴の背に涼風の姿が重なって、蛍はどうしょうもない不安に駆られた。
「蛍!」
蛍は叫んでいた。
振り返った慰鶴が目を丸くしている。
初めて見る彼のすっとんきょうな顔に、蛍はクスッと笑った。
「私の名前、蛍だから」
「ありがとう、蛍」
久しぶりに名前を呼ばれて、なんだかこそばゆい。
「慰鶴、ありがとう。明日、いいかしら?」
「もちろん。ハイカロリーで待ってる。蛍、またね」
彼の背が消え、夜の静けさが戻る。
まだ残る手の温もりに、蛍は久々に誰かを感じた。
名前を呼ばれたのは、いつ以来だろうか。
「なにしてるのよ、私」
肩の力が抜け、蛍はその場にへたりこんだ。
巻き込んでしまった。
膨れあがる自責と期待を押さえつけるように、蛍はマントに顔を埋めた。
さりげないとーちゃんの存在感。
彼の迷言には「早寝はお肌の柔軟剤」というのもあります。
せっかくなのでケーキはホールにして、ケーキ屋さんは慰鶴のアジトとして登場させました。
慰鶴の深夜徘徊は「罪滅ぼしのパトロール」と「ゴールデントリガーを名乗る男の捜索」が目的でいかがでしょう?
まだまだ先にはなりそうですが、付箋をぺたり。
姫魅に比べて、押しの強い慰鶴に蛍は落城してしまいましたね。
がんばれ、姫魅。笑
続き、よろしくお願い致します。