第三十一歯 ありがとう
カーネルの震える声をドア越しに聞いて、姫魅は奥歯を噛み締めた。
盆を持つ手が震えて、カチャカチャと受け皿の上をカップがさ迷う。
(強くなりたい)
ふと蛍の顔が過って、姫魅は項垂れた。
(ううん、違う。僕は強くなれたんだ)
ひとりぼっちだった蛍と違い、魔法が使えない慰鶴と違い、姫魅は守られて生きることも、闘って生きることも選べた。
後悔が胸を締めつけるのは、姫魅が守られて生きていたからではない。向きあうことから目を背けて、生き方の選択を他人に委ねていたからだ。
「僕はもう逃げない」
姫魅は大きく深呼吸をして、ドアノブをゆっくり回した。
「お待たせ」
姫魅は努めて、明るく笑った。
「ああ、姫魅くん。ありがとう」
「うう…姫魅…」
振り返ったチェンの向こうで、ネルが悶絶している。
「なんだ。喋る元気があるなら、もっと塗っておくか」
「やめろ…チェン…おまえ…!」
薬瓶を抱えるチェンに、カーネルが声を震わせる。
姫魅はそっとドアを閉めた。
☆ ☆ ☆
「先生っ」
イルカの腕の中で、彼女は笑っていた。
記憶が薄れていくのをいいことに、笑っていたと思いたいだけかもしれない。
「先生じゃない…の…マナティー、でしょう?」
「そんなこと、今は」
マナティーの手が、イルカの頬に触れる。
ふっくらと優しい彼女の手は、凍ったように冷たい。
「イルカくん、あなたならきっと解ける…私からの、最後の、宿題…」
マナティーの声が、力を失っていく。
「あなたならできる…あなたは…本当は誰よりも…」
「ねえ?大丈夫?」と少女の声がして、イルカは目を覚ました。
鉄格子の向こうに、人影がふたつ見える。
頭を抱えているのは、赤い目の少年だ。メガネをかけた少女が、隣で心配している。
「痛いの?」と少女が訊くと、少年は大丈夫と言いたげに笑ってみせた。
「マナティー?」
少年の微笑みに、マナティーの面影が重なって、イルカは息を呑んだ。
キイィィと甲高い音がして、牢の扉が開く。
「私が手伝えるのはここまで」
イルカに繋がれた鎖を切って、少女はくるっと踵を返した。
彼女のポニーテールが、水面の月のように揺れる。
「宵狐のこと、頼みます」
少年が頷くのを確認して、少女は足早に立ち去った。
ピューイと鳴き声がして、小さな龍がイルカの肩で羽を休める。
龍が触れた瞬間、イルカの頭に(怪我は…)と声が響いた。
イルカが思わず、「かすり傷ですよ」と返す。
「……」
「……」
ふたりは目を丸くして、顔を見合わせた。
「声が戻りましたか?」
少年が口をパクパクと動かしてみるが、声が出る気配はない。
「あなたの魔法ですか?」
(違…)
龍がイルカから離れて、少年の言葉が途切れる。
「……」
「……」
困惑するふたりに、龍がゴロゴロと喉を鳴らす。
龍はイルカの頭に乗ると、嬉しそうに尾を揺らしている。
「どうやらあなたのツクモに触れると、あなたの声が聞こえるようです」
(こんなこと、初めてだ。僕のツクモは、イルカさんと僕を繋ごうとしている)
「おやおや、まあまあ。マナティー、あなたという人は…」
誰ともなく、イルカは呆れたように呟いた。
(マナティー?)
少年がハッとして、頬を赤らめる。
「マナティーを知っているのですか?」
(夢に…イルカさんとマナティーさんの…その…甘酸っぱい青春が…夢じゃなかったんだ)
「もしかしたらツクモがあなたに、僕の過去を見せたのかもしれません」
(ごめんなさい。イルカさんの記憶を覗いてしまったようで…)
「謝らないでください。僕はまた、マナティーに会えた気がします。サラマット」
(サラマット?)
「ありがとうという意味です。よろしければ、あなたをサラマットと呼んでも?あなたと出逢えたことが、僕は嬉しいんです」




