第二十七歯 傘がないのに
「あなたも僕のお気に入りだ。今日のところは、あなたに免じて帰りましょう。よい返事をお待ちしています」
ガリヴァーノンはお辞儀をすると、ボロボロのバケツを抱えた。
「逃がしません」
イルカの手に水滴が集まると、すぅっと番傘が現れた。傘の先から放たれた水柱が、バンッとバケツを弾き飛ばす。
カラカラとバケツが転がると、カーネルはすかさず拾いあげた。
「…ただのバケツ」
「魔法ですから、種も仕掛けもございませんっ!」
「っ?!」
ガリヴァーノンが拳を突きだす。
枯れ枝のような痩せた腕からは、想像もできない重いパンチだ。
パシッと受けとめたカーネルの右手が、ビリビリと痺れる。
「ヴァケツを返して頂けますか?」
「お断りします!」
ガリヴァーノンの拳を左下に反らして、カーネルは右足を蹴りあげた。
ガリヴァーノンは彼の足をガシッと掴んで、そのまま放り投げた。
カーネルはくるりっと受け身をとり、サッと立ちあがった。
「ネルさん!」
「慰鶴!3人を連れて逃げなさい!」
慰鶴はすぐに状況を把握すると、ためらうことなく頷いた。
「…わかった」
(さすが、慰鶴は戦場慣れしてるな)
カーネルは頷き返して、目に哀れみを滲ませた。
「ちょっと!慰鶴、降ろしなさい!こら、薄情者!」
慰鶴に担がれて、蛍はポカポカと彼の背中を叩いた。
慰鶴は気に止めることなく、軽々と咲蘭、姫魅を肩に担いだ。
「ネル!俺も戦う!」
「あはは、姫魅。おまえ、蛍のお兄さんにビビってたじゃないか」
「っ!!あれは…!」
姫魅は赤面して、悔しげに押し黙った。
カーネルがふふっと笑う。
「お前は昼飯の準備をしといてくれ。すぐ帰る」
「…うん、待ってる」
「いい子だ」
カーネルが優しく微笑む。
姫魅がツクモにキスをすると、白いカラスは大きな馬に姿を変えた。
「慰鶴、乗って!」
「さんきゅっ!姫魅」
慰鶴が飛び乗ると、馬は一声嘶いて、空を駆けあがった。
口に加えられたアルパカは前足で空を切ると、自分で飛んでいる気になっているのか、「フェーン」と楽しそうに鳴いた。
(私、そんなに暢気かしら?)と蛍は苦笑した。
ガリヴァーノンは手にステッキを握ると、遠ざかる馬に狙いを定めた。
「させるか!」
カーネルの手に集まった風が渦を作ると、パアッと槍が現れた。
カーネルが斬りかかる。キンッと音を鳴らして、槍とステッキが交差した。
「ガリヴァーノン、特別講義の時間だ」
「それはそれは。ありがたい」
「丁度いいじゃないか。イルカさんは魔法倫理の講師だ」
「ええ」と微笑んで、イルカはバッと傘を開いた。
サアアアッと雨が降り始める。
「さて、始めましょうか」
傘の陰から、イルカは不敵に笑いかけた。
☆ ☆ ☆
鏡の中に捕らわれてから、どのくらい経っただろう。
赤い目の少年は指折り数えてみたが、すぐにわからなくなった。彼はため息をつくと、数えるのを諦めた。
薄暗い部屋には、少年そっくりの人形が並んでいる。
気持ち悪さに初めは吐き気がしたものだが、この光景にもすっかり慣れてしまった。
(はは、正気じゃないよな)と少年は自嘲した。
人形はガリヴァーノンが、少年の外出用に作ったものだ。
少年が鏡の中から魔力を送れば、自由に動かすことができる。
人形と意識を共有することもできた。ただし、人形が大きく壊れてしまうと、魔力を送ることができず、意識は途絶えてしまう。
(粉々になった自分をみて、寝込んだこともあったっけ)
今では、それも気にならなくなった。
少年が遠い目をして、力なく笑う。
彼の本物の身体は、向かい側の壁に囚われている。首にかけられた魔法石が、少年の魔法を拒んでいた。
(うーん)
人形のひとつに魔力を込めて、そっと近寄ってみる。
しかし、身体に触れた途端、人形は魔力を失い、パタッと倒れてしまうのだった。
(ダメか)
少年は項垂れた。
(本当は優しいんだ。スピッツになってから、ガリヴァーノンは変わった)
初めてガリヴァーノンと出逢ったとき、少年は記憶を失い、声を失っていた。
『僕はガリヴァーノン。手品師です』
震える少年に、彼は悲しげに微笑みかけた。
『大丈夫。僕がそばにいますから』
まだ幼かった少年を強く抱きしめた彼は、すでに両目を失明していた。
以来、ガリヴァーノンとはいつもいっしょだった。
少年が泣いていると、彼はいつも手品を披露して、笑わせてくれた。
(ガリヴァーノンの手品、しばらく見てないな)
彼の手品を思い出して、少年はクスッと笑った。
ちょっとおっちょこちょいな彼の手品が、少年は大好きだった。
ふいにピリピリと、首筋に弱い電流が走る。
イルカを探すため、少年が放った人形からだ。
(見つけたか?!)
彼は手のひらに光の輪を作ると覗きこんだ。
輪の中にイルカが見える。少年はぺこりとお辞儀をした。
(あなたは誰なんだ?)
イルカに出逢ってから、ツクモの様子がおかしい。
(引きあわせようとしているのか?)
少年のツクモは、イルカの懐から本を盗んだ。
こんなことは初めてだ。
不信に思ったガリヴァーノンは、ツクモをガラス瓶に封じてしまった。
(古い本だけど、破れや汚れはなかった。きっと大切なものに違いない。早く返さないと)
心の影響からか、少年の魔法はもともと不安定だ。ツクモから離れたことで、近頃はさらに不安定さを増している。
いつ魔法を失い、人形が動かなくなってもおかしくなかった。
それに、ガリヴァーノンがやってくるのは時間の問題だ。
彼は魔力を糸のようにして、人形に繋いでいる。
人形を動かすのは少年だったが、ガリヴァーノンは人形がどこにいようがすぐに探すことができた。
(もう少し…!)
本を渡そうと人形が手を伸ばしたところで、光は急に消えてしまった。
(人形を壊された。ガリヴァーノンか)
急に背中に激痛が走って、少年はうずくまった。
(探すのに時間がかかり過ぎた。イルカさんは無事だろうか?本は渡せただろうか?)
ぐらぐらと視界が歪んで、引き潮のように意識が遠退く。
――少年は不思議な夢をみた。
ネル、傘持ってないのに…。




