第二十三歯 止まった時間
彼女の夢を見ていた気がする。
「どうして、涙が…」
イルカはしばらく、夢の余韻に浸っていたが、どんな夢だったのかは思い出せなかった。
「マナティー…あなたという人は」
イルカは隠すように、顔を腕で覆った。
寝返りを打つと身体に痛みが走って、彼は平和維持軍の医務室に運ばれたことを思い出した。
配線と資料で混沌とした室内は、まるでマッドサイエンティストの住まう実験室だ。鼻をつく消毒液の匂いが、かろうじて医務室らしいといえば医務室らしい。
主である医師のチェンは、根っからのインドアだ。
彼はいつも決まって、異国から持ち帰ったパソコンに向かい、ゲームかネットサーフィンをしているのだが…幸か不幸か、彼は珍しく不在のようだった。
「あ、起きてた?」
廊下を通りかかったイチが、半開きのドアから顔を覗かせた。
両手に持ったマグカップから、湯気といっしょにココアの香りが漂う。
「具合はどう?」
「ええ、おかげさまで」
イルカは身体を起こしたが、ふらふらとして危なっかしい。
イチは「起きあがりこぼしみたいだ」と笑っている。
「外部より内部のダメージが大きいらしい。思っているより、状態はよくないと思う」
「おやおや、それは困りました。やらなければならないことがあるのですが」
―もう一度、あの少年に会わなければならない。
イルカが考え事をしていると、イチは「まあまあ」とイルカの口調を真似た。
「休まないと、治るものも治らない」
「休むとは、案外難しいものですね」
イルカの背中にイチが手を添えると、イルカはゆっくり身体を倒した。
「ありがとうございます。楊さんはご無事ですか?」
「無事だよ。あの後、ガルディのお姫さま…蛍ちゃんを保護したんだけど。楊さんは今、彼女の世話を焼くのが、楽しくてしょうがないらしい」
楊はその性分から、「維持軍のご意見番」と呼ばれている。
「お姉さんに任せなさい」と意気込む彼女の姿は、容易に想像できた。
「蛍ちゃんは、魔法を学びたいそうだ。入学試験は、君の回復を待ってから。しばらくは、楊さんが彼女を預かることになった」
「そうですか。ますます寝ていられませんね」
「急ぐ必要はないよ。蛍ちゃんにも、休養が必要だ」
イチの表情が曇ると、イルカは蛍の現状を察した。
国を追われ、たったひとりで逃亡してきた姫は、10代の少女と聞いている。
彼女はきっと、身も心もボロボロだろう。
イルカは起きあがろうと手をついて、痛みに顔を歪めた。
イチは彼の腰に枕を宛がうと、ココアを手渡した。
「飲める?」
「ええ、ありがとうございます」
イルカはしばし考えて、イチを振り返った。
「いいんですか?」
「なにが?」
「これ、サンさんのでは?」
ぶはっ!と吹き出して、イチは咳き込んだ。
「んなっ!?」
戸惑うイチに、イルカはくすくすと笑っている。
「サンさんに差し入れでしたか」
「んーまあ。慰鶴の特訓中で、渡せなかったけど。君が飲んでくれると助かる」
イチが困ったふうに笑うので、イルカは「頂きます」とカップを口に運んだ。
「理解に苦しむ」
ふたりが振り返ると、入り口でチェンが不快を露にしていた。
「チェンさん。おかえりなさい」
「おかえり、チェン」
チェンはふたりを素通りして、パソコンの電源スイッチにそっと触れた。
「時間をかけたからといって、受け入れられる保証はない。課金すれば、なにかを得られるとは限らない。不確かで曖昧、かつリスキーであるのに、人は何故、人を愛するのか?」
「サンはそういうのじゃないさ」
「ああ、すまない。ただの素朴な疑問だよ。イチさんはわかるかね?」
「さあ?俺が教えて欲しいくらいだ」
「愛、ですか」
「さして、興味はないがね。さて、ただいま。花子」
呆気にとられるふたりを他所に、チェンは花子と名づけたパソコンに向きなおった。
「マイペースかよ」
「あはは」
「僕のことは気にせず、続けてください。イルカさんの診察は後にしましょう」
チェンが画面とにらめっこを始めると、イチは彼の肩に手を置いて、椅子ごとくるっと回した。
「なにか?」と振り返るチェンに、イチがひらひらと手を振る。
「俺はそろそろ、おいとまするよ。あとは若者ふたりでどうぞ」
「はあ…仕事をサボる口実が」
「なにか言ったか?」
「いいえ」
イチがにっこり笑うと、チェンは態とらしく口笛を吹いた。
「まあまあ」とふたりをなだめて、イルカは首を傾げた。
「イチさんのほうが、僕よりお若いはずですよ?」
「ん?イルカ、いくつ?」
「35になります」
にっこりと微笑むイルカに、イチは世紀末を目の当たりにしたような顔で凍りついた。
ショックのあまり、チェンのメガネがパリーンッ!と割れる。
「イルカ…さん?」
「さんは止してください」
イチにさん付けされて、イルカが照れ笑いを浮かべる。
イルカの頬を引っ張ると、イチは愕然とした。
「魔法でなければ、特殊メイクでもない…どう考えても20前後だ。童顔とか、そういう次元じゃないぞ」
「明日のYafoo!ニュース、トップ記事は決まりだな。生命の神秘…不老不死が実在するとは」
「歳、とりますから。死にますから。カルテに記載がありませんか?」
「多種多様な人間が集まるこの国で、カルテの年齢など参考程度にしかならないのだよ」
チェンがコホンッと咳払いをする。
イルカは嫌な予感がした。
「まあいい。早速、不老不死の礎に…じゃない。そろそろ、けんきゅ…診察をしようじゃないか。細胞レベルで診せてくれ…じゃない、診てあげよう」
「おい、待て。チェン、大丈夫か?」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」
チェンは不気味な笑みを浮かべ、イチの背を押しながら部屋を出た。
廊下から、イチを強引に言いくるめるチェンの声が聞こえてくる。
「もしかしたら、僕の時間は止まっているのかもしれませんね」
イルカは寂しげに笑って、天井を仰いだ。




