第九歯 やばいよ、やばいよ
蛍が振り返った先で、黒い銃口が煙を吐いている。
パァン!パァン!
続けて放たれた銃弾が、蛍の髪を掠める。
慰鶴は庇うように蛍を抱き寄せると、建物の陰に身を隠した。
「急に襲ってくるだなんて品性を疑うわ!」と憤慨して、蛍は歩み寄るふたつの影を覗きみた。
「あのキャビアを盛ったような頭…昨夜の男に間違いない。隣のフグ顔も…銃を持っているのはキャビアだけのようね」
「いってぇ…鈍ったなあ」
「慰鶴?」
大きな身体が蛍に重くのし掛かる。
彼を抱きとめた右手に知った感触がして、過去の記憶が重なる。
『逃げろ、蛍!!』
脳裏で涼風の叫ぶ声がした。
「嫌…」
赤く染まった右手の震えが止まらない。
銃弾は慰鶴の左肩を貫いていた。
「そんな…ダメ…お願い」
「…蛍」
「やめて…お願い…愛華兄様」
「ホタルっ!!!」
はっと我に返る。
鼻先で慰鶴がにっこりと笑っていた。
「お気を確かに。国を救う、王女様?」
「…ごめんなさい」
場違いな微笑みに、少しずつ落ちつきが戻る。
蛍は止まらない震えに、「頼りない王女様ね」と失笑した。
「蛍は隠れていて」
慰鶴はポケットからバターナイフを取り出すと、さっと蛍に背を向けた。
「あなた、怪我は…」
「ん?うん、心配ないよ」
慰鶴が肩をぐるっと回してみせる。
なんでもない顔をしているが、無理しているに違いない。
「わ、私も闘う!」
「危ないよ」
「バターナイフ片手に言われたくないわ」
慰鶴は苦笑して、頬をポリポリと掻いた。
「君を説得するのは、歯が折れそうだね」
「骨が、ね」
「俺から離れないで」
「ええ」
蛍の返事と悲鳴が重なる。
慰鶴の投げたバターナイフがフグの頬を掠め、壁に深く突き刺さっていた。
「ははっ…」
フグがへなへなと膝から崩れる。
慰鶴はすぐさま飛び出すと、引き金が引かれるより早くキャビアの手首を折り固めた。
慰鶴が礼をするように真下に身体を倒すとキャビアの手首が捻れ、握られた銃は悲鳴といっしょにカツンッと落ちた。
「蛍、だいじょーぶ?!」
慰鶴はゆっくりと銃を拾いあげると、蛍をくるっと振り向いた。
―彼から離れないどころか、目で追うのがやっとだった。
蛍は呆気にとられたまま、やっとのことで小さく頷いた。
「よかった!」と微笑み返して、慰鶴はポケットをごそごそと探っている。
「えーと…首飾り、知らない?」
慰鶴は顔をあげると、取り出した紙ナプキンをふたりに広げてみせた。
銃口を向けられると勘違いしたフグが「ひいっ!」と悲鳴をあげる。
「ちょ、ちょっと!」
白紙に描かれた芸術とも落書きとも取れる線画に、蛍がひとりおたおたする。
慰鶴は悪意のない笑顔を「ん?」と傾けた。
「早く捨てなさいよ!」「大切な手がかりだよ?」と言い争うふたりにキャビアがハッと表情を変える。
「てめぇ、きのうの生意気なガキッ…!!」
「ごきげんよう。その節ははどうも。あなた、私の大切な首飾りをご存知ないかしら?」
「チッ!知らねえよ」
「舌打ちは知ってる奴がするんだよ、おじさん」
「おいっ!」
そっぽを向いたキャビアの目の前で、慰鶴が取りあげた皮袋をひっくり返す。
ジャラッと重たい音がして、慰鶴の手のひらに数々の金品が積みあがった。
「蛍」
中にひときわ存在感のある首飾りを見つけて、慰鶴は蛍に投げて寄越した。
「お帰りなさい」
蛍はそっと受け止めると、首飾りを両手に優しく包んだ。
首からさげると、懐かしい重みを感じて心強くなる。
「慰鶴、ありがとう」
「えへへ、どういたしまして」
慰鶴のタレ目がふにゃっと崩れ、なんとも頼りない表情になる。
出逢ったばかりにも関わらず、「慰鶴らしい」と思わせるのは彼の温かい人柄だろうか。
「クソッ!ゴールデントリガーの奴、話が違うじゃねぇか」
腰の抜けたフグの肩を担いで、キャビアがぼやく。
「ゴールデントリガーを知ってるのか?!」
慰鶴はキャビアの胸ぐらをガッと掴むと、顔をぐっと寄せた。
キャビアの肩から滑り落ちたフグが、ドサッとへたりこんだ。
「答えろ。ゴールデントリガーを知ってるのか?!」
「ひっ?!」
フグの口に銃口を押し込んで、慰鶴がキャビアを問い詰める。
「ちょっと、慰鶴!?」
「ごめん、蛍。黙って」
慰鶴の迫力に気圧されて、蛍が押し黙る。
慰鶴を恐怖すら感じるまでに変えてしまう、ゴールデントリガーとはどんな人物なのだろう。
彼の鋭い眼光に、蛍は息を呑んだ。
キャビアが乾いた口をぱくぱくとさせて、声を絞り出す。
「…ゴールデントリガーって奴が、あんたを殺せば金を払うって」
「どんな奴だった?」
「知らねえ。依頼は情報屋の紹介だ…情報屋も依頼人には会ったことがねぇらしい」
「そんな依頼、よく受けたなあ…」
慰鶴は呆れた顔でため息を吐くと、「もういいよ」と銃を降ろした。
フグの肩を担ぎ直して、キャビアが足早に立ち去る。
「あいつのどこが平和ボケだよ」とフグの泣きべそをかく声が聞こえた。
「…あながち間違いでもないよ」
ふたりの背中が消えるのを見届けて、慰鶴は「ふう」と壁にもたれ掛かった。
立ち眩みに目を細め、ずりずりと壁を背でなぞるように座り込む。
「慰鶴、あなた怪我が…」
「あはは。蛍の顔、また干し柿になってるよ」
左鎖骨の窪みを右手で圧迫しながら、慰鶴は相変わらず笑っている。
左腕に赤く滴る血に、蛍の表情が強張る。
色を失った額に大粒の汗が浮かんで、彼が耐える痛みの激しさが知れた。
―慰鶴を助けたい。
だけど…
彼の大きな腕を小さな肩にまわして、蛍は力いっぱい踏み込んだ。
「お、重い」
高身長で筋肉質な彼の身体は持ちあがるどころか、ぴくりとも動かない。
助けを呼ぼうにも、命を狙われたばかりの彼をひとりにはしておけない。
止血をしようにもボロ雑巾のようなマントの他、蛍は布を持ちあわせていなかった。
「ハイカロリーまで戻…るには遠すぎる。魔法…は使えないし…」
―あの夜から、私はなにも変わっていない。
「誰か…」
宛がないまま放った声は、静寂に吸い込まれるように消えてしまった。
蛍は首飾りをぎゅっと握りしめ、母国の神に祈った。
☆ ☆ ☆
姫魅は生活費を稼ぐ名目で、学業の傍らアルバイトを続けている。
その真の目的は―
(筋肉、つかないなあ)
姫魅はほっそりした腕に力を込めて項垂れた。
色の白さが華奢な印象に拍車をかける。
ネルには「筋肉のつきにくい体質で、体力がない」ことを理由に事務のアルバイトを勧められたが、諦めきれずに選んだ牛乳配達はなんとか2年続いている。
仕事は講義の前夜に済ませることにしているのだが、昨夜はトラブルに巻き込まれ、後半の仕事を今朝に持ち越すこととなった。
加えて、不本意ながら魔専クラスへの転学を余儀なくされ、手続きが終わるまではやることのない休日が続く。
姫魅は今、憂鬱の極みにあった。
「っはぁあぁ〜〜〜」
甘美なため息に、通りの女性が一斉に振り返る。
胸のときめきにざわめく彼女らには目もくれず、姫魅はぼんやりとネルの言葉を思い返していた。
『お前に関わる大切な誰かのためにも』
―大切な誰か。
姫魅の脳裏で、水面のようにきらきらと水色の髪がなびく。
細い指がしなやかに髪を耳にかけて、碧の瞳がそっと振り返る。
桜色の唇がゆっくりと形を変えて―
『もやし』
「ありえない!ありえない!」
姫魅は恥ずかしいさと怒りに顔を赤くして、パタパタと手首を左右に振った。
「なんだよ、もやしって」
姫魅はペダルに足をかけ、力いっぱい踏み込んだ。
自転車がすっと動きだし、カゴに積まれた大根の葉が指揮を執るように揺れ始める。
リズムを刻む雑踏が、徐々に遠くなっていく。
ビオラを奏でるように風が鳴り、小鳥の囀ずりがピアノの調べのような華やかさを添える。
太陽がわけ隔てなく照らすと皆が主役に変わり、着飾った花や鳥は自由に踊って景色を彩る。
姫魅は人気のない道に出ると歌を口ずさんだ。
「あ、もやし」
「だから、もやしってなん―」
キーッと甲高い音が響いて、自転車の後輪が浮く。
ブレーキを握る手を弛め、姫魅は路地裏の暗がりに目を細めた。
さらさらと水色の髪が風に流れる。
「…深淵のじゃじゃ馬?」
「なによ、それ」
不満げなところをみると、自覚はあるらしい。
「私のこと、やっぱり覚えているじゃない」
「…?覚えてるよ」
忘れるはずがない。
出逢った矢先に不名誉な呼び名を与えられてから、1日も経っていないのだ。
姫魅が小首を傾げると、彼女は怪訝な顔をしている。
「どうかした?」
「悪いけど、話は後にしましょう」
「話を振ったのは君だろ」
「君じゃないわ、蛍よ。あなた、手を貸してくれないかしら?」
蛍の傍らで、少年が壁にもたれ掛かるようにして座っている。
ただならぬ空気を感じて、姫魅は自転車をその場に停めると蛍に駆け寄った。
姫魅は唖然とした。
少年の左肩は銃弾に撃ち抜かれ、腕が真っ赤に染まっている。
「大丈夫?…じゃない、よね」
茫然と立ち尽くす姫魅に少年はハッと息を呑むと、痛みに顔を歪めながらゆっくりと上体を起こした。
蛍の制止を右手で拒み、彼は手招いた姫魅の耳元で「俺は…」と口を開いた。
「俺は慰鶴。はじめまして、だね。よろしく」
「えっと…はじめまして、姫魅です。よろしくお願いします」
スパーンッ!
蛍の平手が慰鶴の後頭部を打つ。
「あんぽんたん!挨拶なんて後にしなさいよ!もやし、あんたも普通に返さない!」
「蛍、挨拶は…たい、せつ…」
「ああ…平手の衝撃で慰鶴くんの意識が…」
「知るかっ!」
慰鶴がガクッと意識を失い、彼の周辺を姫魅がおろおろとさ迷う。
ガッ!と姫魅が躓き、慰鶴から「んがっ?!」とおもちゃのように声が漏れた。
ふたりは意識の回復を期待したが―
「…動かない」
「止めをさしたわね」
「……」
蛍の視線から逃げるように、姫魅が目を反らす。
先に沈黙を破ったのは蛍のほうだった。
「姫魅、だっけ?慰鶴を病院に運びたいの。手を貸して」
慰鶴の右肩を懸命に押し上げる蛍に、姫魅が気まずそうな顔をする。
「…ないよ」
「え?」
「この辺りには、病院がないんだ」
蛍の肩からボテッと慰鶴が落ちた。
「この地域はちょっとした怪我や病気なら、魔法で治してしまうような魔法使いが多いから…病院が少ないんだ。近いところだと、ジョニー魔法学校の付属病院だけど…」
姫魅の視線を追うと、黄金に輝く入れ歯のオブジェが遠くに見えた。
辿り着くまでに並ぶ屋根の数とオブジェのセンスに、蛍が口をあんぐりさせる。
「…何にせよ、まずは止血をしなくちゃ」
姫魅が自転車に積まれた大根を手に取り、そっとキスをする。
ひと振りすると、大根は桂剥きをするように薄くバラけて、ふわふわと姫魅の手のひらに収まった。
「これを使って」
「大根?!」
「さっきまでは、ね。今はガーゼだよ」
消毒液の匂いがふわりと鼻をついて、蛍の手のひらに柔らかいものが触れる。
渡されたのは真新しいガーゼだった。
「不思議だわ」
「魔法は初めて?」
「お兄様が―」
慰鶴の左肩にガーゼを押しあて、蛍は言い淀んだ。
「魔法のことは書物で読んだわ。人を幸せにするって…」
「魔法が生むのは幸せばかりじゃないよ」
姫魅の表情が翳る。
「ええ、慰鶴に笑われたわ。私は魔法をなにも知らないようね…彼にはもっと教えて欲しいことがたくさんあるのに」
「……」
「あなた、回復魔法は使える?」
「使えるけど、こんなに大きな怪我は初めてだから…治せるかどうか」
回復魔法には繊細な技術が必要になるため、魔法使いの技量が直に表れる。
回復できる傷の度合いには適正も関わるが、魔力が強ければ強いほどより大きな怪我を治すことができる。
銃創となれば、かなり腕のたつ魔法使いでなければ難しいだろう。
(それに…)
―学校敷地外での魔法使用禁止。
カーネルとの約束が過る。
姫魅の身を案じての決まりであることは、彼自身もわかっていた。
「僕、誰か呼んでくる。蛍さんは彼の止血を続けて」
蛍が強く頷くのを確認して、姫魅は自転車に急いだ。
魔法使いが多いとはいえ、出くわした人が回復魔法を使えるとは限らない。
カーネルの同僚であり、友人であるチェンなら治せるだろうが、彼らは出張で明日まで不在だ。
(うまく巡回中の維持軍に会えばいいけど)
表情を険しくする姫魅の背後で、蛍がぽつり呟いた。
「今度は私が助けなければいけないのに…助けたいのに…私はいつもなにもできないわね」
「違う」
自嘲する蛍に、姫魅は黙っていられなかった。
「君はできることを全力でしてるし、君がいるから僕は今、ここで必死になってる。君はなにもできないわけじゃない」
姫魅はふいに黙りこむと、「…僕にはまだできることがある」とひとり呟いた。
「回復魔法、試してみる」
姫魅はしゃがむとぶつぶつと呪文を唱え始めた。
「ありがとう。無理はしないで」
「うん、大丈夫」
―やることはいつもと変わらない。
姫魅は唇に触れた指先を慰鶴の左肩にそっと添えた。
傷が光に包まれ、鈴のような優しい響きがした。
「治った…?」
光が消えると傷は跡形もなく消えて、慰鶴の表情が少し和らいだ。
恐れすら感じる魔法に、蛍は驚嘆した。
姫魅は相変わらず涼しい顔をしている。
「えーっと…治った、けど…」
「なによ?」
メリメリと音がして、地面が割れる。
道端の雑草がみるみる巨大化して、大木のような根を地中から引き抜く。
「ちょっと、なに?!」
「魔力を込めすぎて…周りの雑草にまで生命力が…」
「戻しなさいよ!」
「ムリムリムリ!」
「…ん?あれ?おはようございまぁす」
タイミング悪く、慰鶴が目を覚ます。
言いたいことは山ほどあるが、今は怒りも喜びも後回しだ。
「慰鶴。寝起き早々に悪いけど、草取りを手伝ってもらうわよ」
「草取り?」
「1匹、2匹、3匹…3匹?3本?3人?」とひとり混乱する姫魅を「なんでもいいわよ!」と一蹴する。
数える間にも雑草のバケモノは次々と現れた。
「わあ、いっぱいだあ!蛍のお友達?」
「んなわけないでしょ!」
さて、中途半端なところで交代です…力尽きました。
あとは任せた…ぐふっ。
街に向かう雑草モンスターを維持軍の誰かが駆除して、蛍達が去った路地にひとり、朝顔ちゃんが残される…という流れを想定していたんですけど、無理でした苦笑