第十七話:夏の幻
Part B:Whereabouts of summer.
友人に見送られ、俺は彼女の家を後にする。
隣には白の似合う少女。
彼女と再会した日と同じワンピースを身にまとって、現存するあらゆるものが霞んでしまう程の輝きを放つ。
俺はこれから何処に行こうか、と秋乃に話しかけた。
彼女は目を閉じ、考えてから答えた。
「健ちゃんと一緒なら、どこへでも」
眩しそうに細める視線の先には、傾きを強めていく日差しがあった。
あまり時間はないから、そんなに遠くへは行けない。
どうしようか思いあぐねていると、細く白い指先が俺のシャツの袖を掴んだ。
「ボク、海に行きたいな」
俺の喉元ぐらいの背しかない彼女に見つめられる。
回答を待つ秋乃は眉をひそめて今にも泣きそうにしている。
それが彼女の得意技だと分かっていても思わず胸が詰まってしまう。
結局、俺が折れた。
住宅街の緩やかな坂を下り、防砂林を目標にして進んでいく。
歩いて行くにはきつい距離だが、話しながらならばその道のりも遠く感じない。
しばらく迷路のような路地が続き、それを抜ければ国道に出る。
夕暮れに先を越されないように二人は少し早足で海を目指した。
国道へ抜けると沢山の自動車が往来していた。
海水浴客が帰路に着く途中のようだった。
無神経に騒ぐ人々を睨み付けるように進んでいく。
その途中、弱々しい力で腕を捕まれる。
振り向くと秋乃がいた。
少し息が上がっている。
無理させたことを謝るより先に、心配された。
俺はなんでもない、と答え、でも歩くスピードを緩めてシーサイドラインを横断した。
薄汚れたねずみ色の砂。
一歩砂を踏む度目につく漂流物、ゴミ、釣り道具。
海は濃い緑に変色していた。
遠くへ視線を投げれば石油コンビナートが見え、煙突からは白い煙が絶え間なく吐き出されていた。
俺はこの景色が大嫌いだった。
幼いとき、初めて見た海を忘れはしない。
すべてが透き通っていた。
そのすべてが壊された。
思い出は現実味を失った。
その絶望があまりにも辛くて、俺はいつのころからかこの海を避けるようになっていた。
だから、秋乃と海に行くのは今日が初めてだった。
秋乃はずっと俺の側にいた。
何を言うわけでもなく、俺と同じ景色を見てくれた。
繋いだ手の冷たさが、心地よかった。
ただ、彼女はうつむいていて、そこから秋乃の表情を窺い知ることができない。
俺はしばらく彷徨い歩き、適当な流木を見つけそこに座った。
「おぼえてないかな……ここで、ボク達は出会ったんだよ?」
その言葉に息を呑む。
必死になって記憶を辿る。
見つかったのはこの場所を憎むようになったきっかけばかりで、本当に大事な記憶はどこかに埋もれてしまっていた。
秋乃へ顔を向けることができない。
後悔が胸を浸食する。
汚れたのは、俺の心だったのか──?
「空も、海も見分けがつかなくて、ボクは驚いて動けなかった。ずっとぼうっとしてたら君が声をかけてくれた。空と海は兄弟なんだって」
……やっぱり、思い出せない。
俺は何処で落とし物をしてしまったのだろう。
それはいつか見つかるのだろうか。
答えはまだ出なかった。
その代わりになるかは分からなかったが、俺は一つの提案をした。
「ずっと北の方にある海は透き通っていてとても綺麗なんだそうだ。──今度、一緒に行ってみないか」
横を向けばすぐ側に秋乃の笑顔があった。
どんな宝石にも変えられない輝きが目に眩しい。
彼女は強く、強く頷いた。
人気のなくなった砂浜を後にし、俺たちは防波堤で夕日が地平線へ沈む瞬間を待っていた。
日没までの約束だったが秀一だったら大目に見てくれるだろう。
俺は静かに、再会について考えていた。
秋乃と、五年ぶりに会った。
五年間という月日は一人の少女のことを忘れてしまうには十分すぎる時間だった。
──忘れたんじゃない、逃げたんだ。
結局は忘れることなんて出来なかった。
いや、待てよ……。
何故、さっき違和感を感じなかったんだ?
俺のことは憶えていないはずなのに。
むしろ、立場が逆転していなかったか──?
俺は慌てて秋乃のいる方へ向き直る。
「……あ?」
白い幻。
俺はいつからそれを見ていた?
記憶が歪みだしていく。
秋乃は──何者なんだ?