第十六話:回答
必死になって走った。
僕は運動が得意ではないから、すぐに息が切れる。
体も悲鳴を上げる。
それらを無視して、僕はまっすぐ走り続けた。
どこに行けばいいか分かっていた。
少しずつ広がる不安を、精一杯の希望でかき消して。
二人が待つ、あの場所へ。
「遅いぞ、仲川」
腕組みをする、僕の友人。
僕を捜してくれたから、汗だくになっていた。
Tシャツが肌にへばりついている。
僕は肩で息をしながら、汗をシャツで拭った。
そのあと、謝ろうと顔を上げる。
「ほら、秀一。これで汗、拭いなさいよ」
目の前に、眉尻を下げて微笑む柚季がいた。
彼女もしっとりと汗をかいていた。
ありがとう、と答えて受け取ると、櫻井が愚痴をこぼす。
「仲川にはくれて、俺には何もしてくれないのかよ」
「あったりまえでしょ、なんであんたなんかに優しくしなきゃいけないのよ」
うってかわって、眉間に皺を寄せて怒り顔の彼女。
そのあとすぐに二人気づいたのか、僕の方へ向き直る。
二人が遠ざかっていく感覚を、また僕に与えてしまったんじゃないのか──。
さっき僕が逃げ出した原因、一度は忘れかけた、強い疎外感。
……なんでそんなの感じたんだっけ?
僕はもう迷ったりしない。
だから僕は、
「だって、柚季は僕の恋人だもん」
そう、言葉を返した。
柚季は僕を好きでいてくれて。
僕も柚季のことが好き。
でも、その想いを一度は隠そうとした。
だって、僕は自分のことで精一杯で。
柚季のためにしてやれることなんて何一つもなくて。
そんな人間が、誰かを大切にできるわけがないと思っていた。
そう、思っていたけれど。
──そんなことで、人を好きになることを諦めるなんて、間違っている。
その言葉を奈々姉から聞いたとき、気づいた。
精一杯だっていい。
無力でいい。
一人じゃないこと、それが一番の強さなのだから。
僕は柚季が好き。
その素直な気持ちを大切に、いつまでも抱き続けることで、それだけで互いを大切に思える。
それだけでいいんだ。
紅潮する彼女の頬。
僕の顔も大火事になっているんだろう。
櫻井は爆笑している。
めずらしいもん見た、と柚季を指さした瞬間に華麗な回し蹴りを食らっていたけれど。
「いたた……俺が一番苦労したんだぞ、お前らがなかなかくっつかないから」
腰に手を当てながら、櫻井が苦笑いする。
本当は僕たちを呼んだらすぐ消える算段だったらしい。
お節介というか、なんというか──親友冥利に尽きる。
僕は礼と微笑みを返した。
彼が頬をかく。
「いいんだよ、お前らが幸せになってくれたんだからな」
「あんたもあんたで幸せだしねー」
柚季に痛いところを突かれたのか、櫻井ののどが鳴った。
僕も後押ししてやろう。
そう思って言葉を重ねた。
「香西だったら、僕の家でのんびりしてるんじゃないかな。遊びに行ったらきっと喜んでくれると思うよ」
彼は本当に照れくさそうに頬を赤くさせながら礼を言った。
櫻井が僕の家に向かう曲がり角に消えたあと、ぼそっと柚季が言葉をこぼした。
「細かいところ気にするのね、秀一」
僕が首をかしげると、彼女は僕が香西、と秋乃のことを呼んでいることを指摘した。
僕は本当に好きな人だけを名前で呼びたかった。
今まで、そんなこと僕自身も気にならなかった。
でも、自分の好きな人が他の人に親しい呼び名で呼ばれていたら……と思うと僕は少しいやだった。
それは僕のわがままかもしれなかったけれど、そう思った以上、それを曲げることはないのかな、と思う。
「だから、できれば僕のことだけ、名前で呼んでほしいかな……」
ばか、言われなくても私はしてる。
──そういえば、そうだった。
「そんなの、あたりまえじゃない。……っていうか、私たち」
すごく似てるよね、と苦笑する。
うん、と僕は頷いた。
不器用で、傷つきやすくて。
けれど、それでこその僕らだ。
同じもので涙して。
同じもので笑みを浮かべ。
いつでも、同じ気持ちを共有できる。
「もう、怖いものなんてないよね」
僕たちはそう誓って、指切りをした。
家に戻ると、玄関に一人の男がたたずんでいた。
ずいぶんとしょぼくれた顔をしている。
家に入らない理由を訊くと、奈々姉に門前払いされた、と答え肩を落とした。
はて、彼女とは多少面識はあるはずだけどな、と思い僕から許可をもらいに行く。
それからしばらくして。
「何でだろ、許可が下りなかったよ」
まぁ、それで彼を帰すのは忍びないと思ったので香西を連れてきた。
その時見せた櫻井の目の輝きようは言葉にするまでもない。
日が暮れるまでの約束で、二人は束の間のデートへ出かけた。
とても幸福そうな二人の後ろ姿を見送って、僕は部屋へと戻った。
Part A:Presentiment in summer, fin.