#18 背負った想い
駅のすぐ近くに交差点がある。人の間をすり抜けながら少し見上げると、信号が青に変わるのが見えた。
横断歩道の前で待っていた人々がぞろぞろと歩き出す。
その中に、彼がいた。
「柏野くんっ!」
横断歩道の半ばで、柏野くんが振り向く。驚いたようにこちらを見た。
周りの人も、急に大声を上げたあたしを何事かと見やる。その視線で急に我に返って、言おうと思っていたことが頭からすっ飛んでしまった。
「あの、あたし……」
言うべきことはちゃんと分かっているのに、上手く言葉にならない。
それを見兼ねてか、あたしが何か言葉を発するより先に、柏野くんの方がこちらへ駆け寄ってきてくれた。
一旦心を落ち着かせるために、胸に手を当てて深呼吸。その動作に、少なくとも10秒ほどの時間を費やしてしまう。
それでもその間もただ黙って待っていてくれた柏野くんに感謝しつつ、決心を固めて顔を上げた。
「あたしっ! ――……海斗くんのこと、その……好きなわけじゃないのっ!」
また、声が大きくなってしまった。
喉に詰まっていたものが消え去ったみたいな、スッと胸がすくような不思議な感覚に、
我知らずほっと息を吐く。
あたしの宣言に目を丸くしていた柏野くんが破顔した。
「――……わざわざ、それを言いに追いかけてきたのか……。君は、本当に面白いな」
柏野くんが一体どんな反応をするのか心配していただけに、笑みを零してくれたことに安心しつつ、けれどそのちょっと心外なコメントに、あたしは思わずむっと眉根を寄せた。
「面白いことないし……」
抗議するが、柏野くんは微笑みを崩さないまま依然としてあたしを眺めている。
面映ゆくなって、目を逸らして身じろぎをすると、彼が口を開いた。
「彼と、君のおかげで、ようやく分かった」
何の話をしているのだろうと、目だけで問う。
唐突に、柏野くんの表情から真剣なものに変わった。彼がこくりと唾を飲み下すのを見て、彼の口ぶりとは裏腹に緊張していることが見て取れる。
その時ふと、前にもこんな事があったなぁと、初めて柏野くんと会ったあの日の屋上でのことが頭に浮かぶ。彼に友達になって欲しいと頼まれたあの時、あたしは我慢できずに大笑いをしてしまったのだ。
もしかしたら、今回も内容によってはまた笑ってしまうかもしれない。
そんな、何だか的外れな心配だったけれど――
杞憂に終わった。
「僕は、成海、君が好きだ」
その一言を理解するのに数秒の時間を要した。
そしてその言葉の意味を理解した途端、今までにないくらい心臓が飛び跳ねた。
「え――……えええっ!?」
自分でも分かるぐらいに顔が熱くなる。
何か言わなくちゃ。そう思えば思う程、しどろもどろになって思うように話せない。代わりに、「あの……」とか「その……」みたいな意味の無い声が洩れてくる。
「さっき、君が柏野海斗といるのを見たときに気付いた。――いや、正直言うと、確信しているわけじゃないんだ。でも僕が今まで見てきた感情と、君と柏野海斗が一緒にいるのを見たときに僕自身が抱いた感情が似ていたから……。だからこれが恋なんじゃないかって、そう思った」
と、柏野くんが何かを喋っているのはちゃんと耳に届いているのだが、頭が真っ白で、その内容は右から左へ流れていた。
とはいえ、このまま黙りこくっている訳にもいかない。どうにか気持ちを落ち着かせて取り敢えず頭を下げた。
「えっと……ど、どうもっ!」
この間、海斗くんにも告白された。それでもこんなに緊張はしなかった。もちろんビックリはしたけど。
それなのに、今回はいつまで経ってもドキドキが治まらない。
こんなことは初めてだった。
……ううん、違う。本当は前にもあった。浜でみんなで遊んだとき、柏野くんに背負ってもらった時も同じくらいドキドキしてた気がする。それは慣れない男子と触れているからだと、その時は思ってた。
でも、さっき海斗くんと手を繋いだ時は――……。
「もしさっき君が自分で言ったように、本当に柏野海斗のことを何とも思っていないのなら、僕と、付き合っ――――」
しかし、言いかけた彼の言葉を、どこからか飛んできた声が遮った。
「ちょっと待った」
柏野くんがすっと目を細めて微かに眉を顰める。その視線はあたしの頭上を越えて背後へ注がれていた。
あたしも咄嗟に振り向く。
予想を裏切ることなく、そこに立っていたのは海斗くんだった。唐突に、彼が呆れたようなうんざりしたような、そんな溜め息を深々吐く。
「邪魔して悪いな。けどまぁ、ちょっと良いか成海」
言って、軽く手招きをした。
「あ、うん……」
もしも海斗くんが柏野くんとのやり取りをずっと聞いていたのなら、いきなりあたしに告白をしてきた彼に腹を立てても不思議じゃない。
また、二人が険悪な空気になりそうになったらあたしが止めないと……。
海斗くんの方へ歩を進めつつそんな心配していたのだけれど、海斗くんが浮かべる表情は怒りとは程遠いものだった。
「いや、何つーか。今日、まぁ午後からだけど、その……デートしたわけだろ俺たち」
と切り出された話題の意図を掴めないまま、困惑交じりに返事をする。
「うん……」
「それでさ、すげぇ楽しかったからよ。……ありがとな」
ちょっとだけ気恥ずかしそうに言って、微笑を零す。
それに対してあたしも何か言おうと口を開きかけると、それを海斗くんは手で制した。
「でも、すげぇ楽しかったんだけど、俺と成海ってあんまり合ってねぇんじゃねぇかってのも思ったんだよなー……。だからやっぱさ――」
その先を口にするのを躊躇うように言葉を切る。でもそれも、一瞬のことだった。
「やめようぜ、付き合うの」
そこはかとなく、その言葉には感情が込められていない、もともと決まっていたセリフを読み上げているような声音だったように思う。
更にあたしが口を挿む間も入れずに、捲し立てるように続ける。
「やーまぁ、言いたいことは分かる。付き合って欲しいって頼んだのは俺だし、自分勝手だっつーのも分かってんだけど、なーんか違う気がしたんだよなぁ」
普段と変わらずぶっきらぼうに言って、無造作に後ろ髪を掻き上げる。どこか物憂げな視線を、あたしと、続いて柏野くんに向け、収めた。
「ってなわけで、今の成海に彼氏はいませんっと。これで、心置きなく他の誰かと付き合える」
その一言で。
本当に今更だけど、海斗くんにここまで語らせて、あたしはようやく気付いてしまった。あたしと柏野くんをくっ付けようとしているのだということに。
「待って! あたしっ、まだ柏野くんと付き合うなんて一言も――」
「俺は柏野の名前なんか一回も出してねぇけどな」
指摘を被され、うっと言葉に詰まってしまう。
でもそんなのは屁理屈だ。海斗くんだってそれを理解した上で言ってる。
――どうしてそこまでして……。
「とっくに気付いてんだろ? あいつのこと好きなんだって」
呟くように言った海斗くんは、あたしでも、そして柏野くんでもなく、どこか遠くを見ている。それなのに、“あいつ”というのが誰のことを示しているのか、すぐに悟ってしまった。
返答に窮していると、続けて海斗くんが言葉を継ぐ。
「さっき言ったじゃねぇか、好きな人がどんなのかってのは。まぁあれはあくまで俺の主観だけど、でも成海にも少なからず似たような覚えがあるんじゃねぇの」
「――……うん」
まさしく図星だった。それでも、認めるわけにはいかない。
「でも、だからって好きってことには……ならないと思う」
そんな、精いっぱいの否定を聞いた海斗くんが、面食らったような表情を見せる。納得いっていない様子でガシガシと襟足を掻き撫でた。
「……どうしても認めようとしないのは、俺への後ろめたさがあるからか? もしそうなら、そういう余計なことはもう考えんな」
とんでもなく脈絡のない唐突な一言だったのに、ズキッと胸の奥が痛んだ。
「全然余計なことなんかじゃないよ……。だってそれじゃああたし、佳奈ちゃんに申し訳ないもん」
奪っておいて、親友を傷つけておいて、やっぱり捨てましただなんて、そんなのは絶対に許されない。誰より、あたし自身が許さない。
「だからそれが余計なんだっつの。何で成海があいつの気持ちまで背負わなきゃなんねぇんだ」
「でも! あたしがいるから海斗くんはっ!」
つい、声を荒げてしまう。だからだろう、対する海斗くんの語調も心なしか強くなる。けれどその口調は、どこか諭すようなものに変わっていた。
「成海も、佳奈とは結構付き合い長いんだろ。だったら、あいつがいつまでもそんなこと気にしてると思うか?」
「それは……」
「振られた方に負けないくらい振った方も辛いのは、俺も知ってる。けどな、あんまり俺らを舐めんなよ」
ずっと、振られた方だけが辛いと思ってた。でも実際には、相手と仲が好ければ良いほど、関係が深ければ深いほど、告白されてそれを断らなくちゃならない側も、同様に辛いのだ。
異性としてではないけれど、その人のことが好きだから、傷付けたくなくて。
だから、辛い。
「大丈夫だって。俺も、佳奈も」
きっと、あたしはずっとその言葉を待っていたんだろうと思う。
固く引き結ばれていた糸が解けたような、ほわっとした安心感が胸の内を包み込み、それがいつの間にか、温かい滴になって頬を伝っていた。
「あれ、あたし……。あはは、ごめん、なんか、変なの……」
こしこしと袖で目元を擦りながら言い訳を口にすると、海斗くんが穏やかに破顔した。
「そいじゃま、あいつに自分の気持ち伝えて来いよ。もう、ちゃんと言えんだろ?」
海斗くんは、自分は大丈夫だと、そう言ってくれた。その言葉がどこまで本当なのか、あたしには知る由もない。でも少なくとも今は、たとえそれが嘘であれ、尊重すべきなのだと思った。
「――うん。ありがとう」
何の変哲もない感謝の一言だったけれど、海斗くんは満足げに頷くと、くるりと背を向ける。そのまま歩いて、ちょっと離れたところのバス停のベンチに腰を下ろしていた。
もう一度、心の中でお礼を言って、あたしも踵を返して振り返る。
海斗くんと話している間ずっと待機していた柏野くんが、海斗くんが離れるのを見計らって歩み寄って来ていた。
あたしの前まで来て数秒間、あたしの顔をじっと見つめる。突然、ポケットからハンカチを取り出して差し出してきたことでようやくあたしは、彼が泣き跡を見ていたのだと気づいた。
「ハンカチ、使う?」
「え? あ、ううん、ありがとう。大丈夫だよ。……だけどあたし、柏野くんが怒るかもってちょっと思ってた」
柏野くんがが少し不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げる。
「なぜ」
「だって、海斗くんの所為であたしが泣いたって勘違いすると思ったから……。もしかして――」
さっきの話聞いてたの? と続けるつもりだったが、やっぱりやめた。しかし柏野くんはあたしの言わんとするところを悟ったらしく、ばつが悪そうに少しだけ目を伏せた。
「すまない。ただ、聞いていたわけじゃないんだ。彼の心が、読めてしまった」
「そっか……」
「君は……僕に何か言いたいことがあるようだね」
海斗くんの心を読んでいたのなら、その内容を知っていても不思議じゃない。それを意識した途端、急に恥ずかしさが増して、体温が何度か上がったような気がした。
「もう……知ってるなら良いじゃん」
「僕は、君の口から聞きたい」
確かにあたしがはっきり言わないのはずるい気もする。それに海斗くんにも、ちゃんと自分の意持ちを伝えるって約束したのだ。その約束すらも破ってしまったらもう、海斗くんにも佳奈ちゃんにもとても顔向けなんてできない。
海斗くんも、佳奈ちゃんも、柏野くんだってこれを乗り越えたんだ……。だったら、あたしだけが逃げる訳にもいかない。
だから震える胸を無理矢理膨らませて息を吸った。
吐き出した言葉は、本当は柏野くんの顔を真っ直ぐに見て口にするべきだったんだろう。けれど今のあたしに、そこまでの勇気の持ち合わせは生憎なかった。
「あたしも、好き、です」




