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#17 優先すべきは。

 それにしても、幸せな時間ほど瞬く間に過ぎて行く。

 例によって、金魚すくいの後はコリントゲームやったり、スーパーボールをすくったり、ヨーヨー釣ったり、時には焼そばを食べたり、フランクフルトを食べたりして祭りの会場をぐるっと一周した。

 この間の花火大会で満足してしまったのか、幸運にも同級生とはまだ顔を合わせていないので、このまま出てこない事を祈るばかりだ。手繋いでるところとか見られたら恥ずかしいからな……。

 とまぁ、そんな感じで祭りの屋台を粗方遊び尽くしてしまったのだった。この祭りがそもそも小さいので、仕方ないっちゃ仕方ないんだが。

 どうやら成海も同じことを感じているらしく、俺たちは目的も無くただ会場を彷徨っていた。

 まぁ成海といるだけで俺はもう何もしなくても全然構わんけどな、ガハハ。


 そんな事を考えていると突然、繋いでいた手がぐんっと強めに引っ張られた。


「きゃっ!」

 浮いたタイルにでも躓いたのか、成海が小さな悲鳴を上げてよろめく。そのまま正面に立っていた人の背中に激突した。

「す、すみません!」

 間髪入れずに謝る。

 成海に背後からぶつかられた相手が、振り返る。

「ああ、僕は問題ないが――」

 言葉が、途切れた。

 これだけ数多の人間がいる中で、よくもまぁ偶然鉢合わせたものだ。いや、密集している故と言うべきなのだろうか。

 俺と成海、そして柏野波駆が、予想だにしない邂逅に一瞬だけ固まった。

 まるで俺達三人がいる場所だけ時が止まってしまったかのように、周囲の喧騒が遠いものに感じる。

「あっ……」

 不意に成海が何かを思い出したように声を上げ、繋いでいた手をぱっと放す。俺と半歩未満の僅少な距離を取った。

 ――ああ、そういうことか……。

 きっとそれは無意識下での、咄嗟の行動だったのだろう。だが俺は気付いてしまった。

 その行動の意味に。あのとき笑顔の裏に成海が見せた、微かな迷いの正体に。

 胸の奥が鷲掴みにされたように、ぎゅっと痛む。落胆と、悔しさと、そして妙な納得が俺の心に渦を成す。

「……よお」

 いつも通りに振る舞って、普段通りを装って。顔を顰めそうになるのを堪えながら声を絞り出した。

 だが柏野は何か声を発する事もせず、ただ俺を見つめ続ける。

 ……否。俺ではなく、俺の頭上の空間を。

 そこから(おもむろ)に視線を下げてようやく俺と目が合った。その思考を見透かされているような眼差しに、ぞくっと云いようのない寒気が背筋を伝う。

「君たち二人だけなのか?」

 次に柏野がどんな質問を投げかけてくるのか、どこかで恐れていたからだろう。思ったより当たり障りのない問い掛けに安堵した。

「ああ、今日はな」

「そうか……」

 もしも、君たちは付き合っているのか? と尋ねられていたら、俺は何と答えていただろう。彼女は何と答えていただろう。

 幾ら頭を巡らせても結局は仮定の域を出なくて、たらればに過ぎない事が分かっているのに、考えずにはいられなかった。

「君の妹に、頼まれて来たんだ」

 突然、柏野が成海を見据えて言う。するとそれまで黙って下を向いていた成海の表情に、困惑の色が浮かんだ。

「え? 瑠美子に?」

「ああ、何か聞いていないか? ただ盆踊りへ行って遊んでくるだけで良いとそう言われたんだが……」

 柏野が事の次第を詳しく説明するが、成海は何がなんだかさっぱり分からないといった面持ちで首を捻る。

「ううん、あたしは何も聞いてないよ? うーん……でも瑠美子って、無意味なことはしない子なんだけどなぁ……」

 成海が顎に手をやって考える素振りを見せる。それを遮るように柏野が言葉を挿んだ。

「いや、知らないのならいい」

「あ……うん……」

 再び、成海がしょんぼりと俯いてしまう。柏野の声音がどこか尖っているように感じたからだろう。それは俺も同じだった。

 潮見浜で俺に対して見せたあの鋭さに似ていると、そう思った。あの時、俺はただ狼狽(うろた)えることしか出来なかったが、今回それが成海に向けられたという事に、少なからず憤りを覚えてしまった。

「おい……。それ、流石に態度でかくね」

「……君には、関係のない事だ」

 と軽くあしらわれたことが、更に俺を掻き立てる。

 そこで敢えて主張する事に意味がないことぐらい分かっているのに、抑えが利かなくなっていた。

「――俺たち、もう付き合ってんだよ。だから成海のことは俺にも関係あんの」

 すぐ隣で、成海がはっと息を呑んだのが聞こえた。

 事後に押し寄せる後ろめたさが、横を向くことを阻む。彼女が今、どんな表情をしているのか確認するのが怖かった。

 分かってる。今の宣言が、完全に俺の独りよがりによるもので、成海の気持ちに気付いていながらそれを無視しているのだという事は。たとえ勝負の行方が分かっていたとしても――それでも、俺は。

 足掻きたかった。

 手放したくなかった。

「……そうだったのか。なら邪魔をして済まなかった」

 無表情に口を動かす柏野の眉は、ピクリとも動いていない。乾いた声音だった。

 きっとそれで別れを告げたつもりだったのだろう、くるりと踵を返す。人混みに消えて見えなくなるまで、成海は彼の背中をずっと見つめていた。

 その瞳が、また俺の心臓を締め付ける。

 見知らぬ土地に迷い込んだ、迷子のような目をしていた。

 自身の気持ちに無自覚だからどうすれば良いのか分からずに、喉元まで出かかっている言葉を未だ探している――。そんな彼女の戸惑いを利用してしまったことへの罪悪感が、俺を(さいな)む。

 ――何してんだ俺……。

 彼女本人はそう思ってないのだとしても、このままだと今の成海にとって、俺はただの(かせ)でしかない。

 中学から好きだった人と付き合えて、だから誰にも渡したくなくて、ずっと俺の彼女でいて欲しい。でもそれが、縛って良い道理になるはずがないのは、誰が考えても理解できることだ。

 俺が佳奈ではなく成海を選んだように、彼女にもまた、選ぶ権利がある。

 なのに、それを潰して、勝った気になって。

 こんな一方的な他者への願望なんて所詮、エゴに過ぎない醜穢(しゅうわい)な所有欲だ。

 本当に彼女が好きなら。

 本当に彼女が好きだからこそ――


 今、俺に出来る事は、何だ。


「……なぁ成海」

 呼び掛けると、ぱっと顔をこちらに向けた。でもやっぱり、俺は彼女の顔を見ることが出来なくて、柏野が消えて行った先から目を移さずに口だけを動かした。

「――自分がその人にどう思われてるのかが気になってしょうがなくて、でもその人が何を考えてるのか分からなくて、不安で、だから“好きな人”のことを考えるとどうしようもなく胸が苦しくなるんだよ。そして俺にとって、それが成海だ」

 それを踏まえた上でもう一度、彼女に問う。

「成海には、好きな人がいるか?」

 今、彼女がどんな表情をしているのかは分からない。

 数秒の後、控え目に成海が答えた。

「……分かんない」

 回答そのものはひどく不明瞭だけれど、前のように、咄嗟にノーと答えることはなかった。

 それで充分だ。

 どちらかに傾く位置まできた。

 彼女を迷わせたのが俺なら、促してやるのも俺の役目であり使命。背中を押してやるのは、他の誰でもない俺じゃなくちゃならない。

「だったら、ちゃんと柏野に言ってこいよ。自分は頼まれて付き合ってあげてるだけなんだ、ってな」

 言うだけ言って、勝手に歩き出す。しかし3歩も離れないうちに進めなくなり、何ぞと思って振り向けば、成海が俺のシャツの裾をきゅっと握って引き留めていた。

「違っ……あたし、そんなつもりじゃ……」

「だけど事実だろ」

 つい突き放すような口調になってしまった所為か、成海が悲しげにそっと目を伏せる。

「――ごめん。あたし、こういうの良く分かんないから……。海斗くんがそんなふうに思ってたなんて知らなくて……」

 本当に、変わらない。

 成海だから変わらないのか、変わらないから成海なのか。いずれにせよ、いつも人を気に掛ける所為で自分のことが(おろそ)かになってしまうような、彼女のそういうところを俺は好きになったのだ。

 でも、今は俺に向けられているその優しさが、特別なものじゃない事は、誰よりも俺が一番分かってる。

 だからこそ、いつまでも甘えているわけにはいかない。成海を想っているのなら尚の事。

「……成海が行かないなら、俺が追いかけて誤解を解いてくるぞ」

「ええ!? 何でそうなるの!?」

 成海が、訳が分からんと言いたげな驚愕と困惑の入り混じった表情で顔を上げた。

 俺だって分からん。けどどうしても成海に柏野の誤解を解かせたくて、でもろくな方法も思い付かなかったから、そう言うしかなかったのだ。

「自分で行くか俺が行くか、どっちが良い?」

 と問い詰めると、成海は渋い表情を浮かべて小さく頷いた。

「……分かった。自分で言ってくる……」

「ならさっさと行かないと、柏野帰っちゃうぞ」

 急かして半ば強引に後ろを振り向かせる。その背中を軽く押した。

 何かもうベンチまで歩くのも面倒になったので、すぐ脇の花壇の縁にでも座ろうかと腰を下ろしかけた時――


 ――……ごめん。


 と、成海が極小さな声で囁くように口にした一言は。

 思ったよりも痛かった。


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