第170話 夜明けと共に去りぬ
夜明け前の夜が一番暗いと、誰かが言った気がする。白み始めた夜空から星明かりが透けていき、純黒に白いインクを染み渡らせ、地平線の彼方から淡い色へと変わり、最後は純白へと生まれ変わる。
今から飛び立ち、あの真っ白な世界へ飛び込んで、俺自身も同化できればどんなにいいだろうか。騎士団の十数メートルもある正門を背にして、風のささやきも聞こえなくなったこの場所で一台の車が目に留まった。エンジン音がなく、誰かに指摘されなければ通り過ぎてしまいそうなほど、車はさりげなくその場で存在を放っている。
「早かったな」
スチュアート先生が、車のそばに立っていたのを見て、次には俺の荷物を持って後ろのトランクへと詰め込んでいた。いつの間に荷物を受け取ったんだ?
「居ても立っても居られなくて……」
こんな夜明けに見送られてしまうと、俺が騎士団から出て行く気持ちが削がれてしまいそうになる。なるべく上を見ないようにして、俺は後部座席へと乗り込む。ドアは自動で開き、運転席には既に誰かが座っていた。
「先生、俺の部屋に刀がなかったんですけど、どこにあるか分かりますか?」
「ない?私は見てないが」
「じゃあ、森の方では?」
「そこにもなかったぞ。どこにもないのか?」
甘い香りがする。冬に実を作る木はなく、暗い影をその身に落とした森の先に、天の溶鉱炉と呼べるオレンジ色の空が広がる。
暫しの間、俺は何も喋らず、存在があやふやとなりつつある緑髪の男を想起する。
「奪われたんたんですよ、刀まで」
「参ったな。ツァイトの鏡はイデアルグラースの手に渡ったと報告を受けている。その犯人がイデアルグラースの一員だとしたら、武器を二つも所持していることになるな」
「刀が選んだ持ち主にしか、あれは抜けません。その持ち主が、俺じゃないかもしれないですが」
「……とにかく、それについては私が情報を集めよう。向こうで落ち合う時には、大体のことが分かるはずだから、続きはそこで」
車が発進して、あまりの静かな進み方に面食らった。周りの繊細さを愛なでするように、音もなく、けれど素早く騎士団から離れようとする。手を振らず、ただじっとこちらを見据えるスチュアート先生がバックミラー越しに見えた。
刀−−−−破邪の利剣は、持ち主にすべてを尽くす。確証がなくても、あの男が持ち去っていく姿が想像できる。
腹の中で、熱く込み上げてくるようなものが渦を巻く。拳を硬く握り締め、重圧に耐え切れずに、歯が欠けてしまうかもしれないほど顎に力が加わり、眉間に皺が寄る。低い唸り声を上げ、緑髪の男の死に様を描き出す。
どんなに何かを失っても、殺意まで失うことはない。それどころか、俺はここからさらに足掻いてやろうと意気込んでいる。
上等だ。殺人の罪を受け入れてやろう。イデアルグラース共々滅び去るまで、俺は何度でも生き延びてやるさ。どんなに傷つきようが、絶対に立ち上がり、復讐の念も込めて武器を振ろう。
車窓から見える明け方の空は、全体がほぼ真っ白に変わっていた。さっきまで、地平線だけがオレンジ色だったのに、今ではそれがさらに広がって、白から仄かに色づいていく。
「気分は良いかい?」
運転席から声をかけられる。後ろ姿で顔は見えないけど、陽気な調子で歌い上げるように明るい。
「ええ、ついさっきまで最悪でしたが、もう平気です」
「そっか。それは、実に喜ばしい」
聞き覚えのある声だ。そこに違和感のようなものを感じ取った瞬間、運転席がこちらへと振り返る。
耳が姿勢を正すかのようにピンと立ち、全身の毛が逆立つように震える。
そんな、まさか……。身動きが取れず、腕を伸ばされて頭を押さえつけられた。手足は自由で、いくらでも抵抗できるはずなのに、鉛のように持ち上げることすら叶わない。オレンジ色となりつつある空が、運転手の顔を露わにしていく。金色の目、優しげな微笑み、髪は緑色で染めているわけではない。この男の死んだ姿を、ついさっきまで思い浮かべていた。風船が破裂したように、膨らみきったものが抑えられずに飛び散っていく。
顔を押さえつける左手のもう片方、その右手に何かを掴んでいる。どうやらクロスボウみたいで、額に赤いレーザーを当てながら、クロスボウが構える矢先との距離が徐々に縮んでいく。遂には矢先が触れて、引き金を引けば矢が脳天を貫いてしまいそうだ。
ブラウンがこの矢を受けて、赤い炎を噴き出す瞬間を俺は間近で見ている。ヴィルギルもこの矢を受けて、騎士団での記憶をすべて失っていた。
何もかもが、見えない何かで押さえつけられているみたいだ。こいつには催眠が出来るのか?
ここにいる理由は何か。俺をどうするつもりだ。そこまで俺につきまとう理由はなんだ。刀はお前が持ち去ったのか。口の周りも上手く動かせず、辛うじて発せたのはこの言葉だった。
「どうして……?」
それが何に対しての問いかけなのかは分からない。男はニッコリと微笑んだまま、耳元に近づいて囁きかけた。
「君は、選ばれたんだよ」
悪寒が背中を駆けずり回る。俺が目にしている男は、現実離れしているかのように存在定義が定まらず、それでもはっきりと人間の姿で見える。人間の形をした何かなのか。俺が今、見ているのは−−−−
この世界に存在する生物なのか?
男が引き金を引いた。当てられた矢先が額の奥へと入り込んでいく。見ているものが暗転して真っ暗となり、同時に意識も消えるように遠のいていった。
−−−−
クレア・リースとアーク・クラムディンが顔を合わせたのは、陽がまだ半分も昇っていない頃だった。
朝の散歩ついでに、デュークがいるところへ行ってみようと軽い気持ちで訪れると、顔色を変えたアークが飛び出してきたのだ。デュークがいなくなり、荷物もなくなっていることを聞いた彼女は、訳もわからずに外へと飛び出した。
この前までは雪が積もり、今はすべてが溶けてしまっている。真っ白に包まれた光景は、幻のように消えて行った。けれど、今でもその光景は別の形となって残り続けているように思えてくる。
重大なことが起きた時、何もない空虚な景色が褪せていく。氷が張った水溜まりには、誰かが踏んでヒビが入っていた。
予感というものはあった。一抹の不安を抱えていたから、クレアはデュークのもとへ向かったのだ。いつもと変わらないことを見せて欲しい。冷え切ったノブが回り、眠そうにこちらを見る狼の顔を見て、わたしは安心出来るんだ。
けれど、彼はもういなくなっていた。こういう時ばかり、予感というものは的中するのね。嫌になっちゃう。
デュークと最後に交わした言葉。クレアには、どうしても引っかかるものがあった。
−−−−それじゃあ、さよなら。
『またね』ではなく、『さよなら』と言ったのは、彼が騎士団を出ていくことを示唆する別れの挨拶だったのではないだろうか。本当は、気付いていたのかもしれない。会いに向かって、彼が顔を見せることがないのを予感していたのではないか。
でも、いつも通りに『またね』と言葉を返した。また会えると信じて。前にわたしが離れていって、気持ちが整理し終えた時に舞い戻ってきたように、デュークもわたしの前に戻ってくるのではないか?明日、また話そうという約束が果たされなくても、邂逅のようにばったりと出会って、また一緒になるのではないか?
「どこに行ったんだろう。まだ近くにいるといいけど」
「もう、ここにはいないと思う。アーク」
「どうして、そう思うの?」
「わたしがかつてそうだったから、尚更理解できる。でも、いつかまた会えるんじゃないかな。……分からないけれど」
彼が逃げ彷徨っていたら、わたしは見つけ出しにいくに違いない。こちらから行くと、彼はちょっと嫌な顔をするだろう。気まずくて、また避けるだろうか。
これだけ、確かに言えることがある。
わたしは自分の意志で騎士団に入った。人を救い、いつか彼を迎えに行こう。それまで、謂れ因縁の書は持っているんだ。再び会える日を望んで、ずっと。
だから、さよならじゃないよ。
「デュークがいた場所を見せて。何か手がかりが残ってるかもしれない」
建物の中へ入る時、陽はほとんど昇りきっていた。木枯らしが吹き荒れ、彼女の髪が翻弄されるように乱れる。
もう少しすれば、この冬は終わるだろうか。肌に触れる空気は痛く、灯された街灯の灯は消えた。
でも、出来ればちゃんとお別れをしたかった。
地面に伸びるクレアの薄い影は、どこまでも長く続く。やがて影は、無機質なアスファルトと同化していた。
−−−−
シャーラン・イヴェールは、粗末に設置されていたベンチに腰掛けていた。隣には、シーナ・レーゼルもいる。
現実とは思えない出来事だった。ミロワールが目前に迫り、途中でカレン・クラシアが乱闘に加わる。突然、憎き相手と対峙すると、驚いて憎悪に走ることがないようだ。怒りを現していなければ、ミロワールに気圧されてしまいそうだったのも事実だ。偶然は思いもよらない時に起こる、そう理解しておくべきだ。
「シーナ、あなたは怖くないの?」
「怖いって、何に?」
「これから、生死の境目をうろつくような戦いが待ち受けているの。母のこともあるから、周りがわたしをどう見ているのか分からないのも怖い。とても恐ろしく感じる」
「周りがどう思っているのかは、その時に言われたことを考えるだけで十分。考えてたら、耐えられなくなるから」
他人の評価を気にしていると、いつしか自己評価を下げる被害妄想へと浸っていく。わたしが周りの目を気にするのは、家系の他にもある。
「わたしは簡単に人が殺せる。傷つけずに、永遠に眠るように死なせてしまう。手袋をはめなければ、人と触れ合うこともできない」
「それも、兵士になればなんでもなくなるよ。心配ないよ。この時間だけでも、ゆっくりしてもいい気がするの。ベンチに身を預けて、ダラダラしてみるんだよ」
シーナみたいに、もっと気軽に受け止められないだろうか。本当に彼女の性格が羨ましい。
戦うことに戸惑いはない。わたしは、自分の手で敵を殺めることに迷いは生まれない。でも、わたしの内に眠る悪意が、なんでもない人を傷つけ、メチャメチャにしてしまう姿を思い浮かべると、今までになかった感触が滲み出る。吐き気と嫌悪−−−−これを自己嫌悪と呼ぶのだろうか。
母マリアは、どんな思いで兵士になったのだろう。聞いておけばよかった。
空き地に伸びる二本の木。幹と枝だけが残り、二本の中間辺りにわたし達が座っているベンチがある。
ベンチはとても硬くて、座り心地が良いとは到底言えなかった。けれど、今はこのベンチに感謝を届けたい。身体を預けて、上空を覗いてみる。
薄く張った雲はグレーで、天気が良いわけではなさそうだ。
−−−−
その二人を背後から、空き地が見える窓辺から覗く一人の女性がいた。鋭い目つきで、二人の動向を瞬きも忘れて観察し続けている。
まだ陽が昇ったばかりで、騎士団の中は物静かな空気をもたらしていた。各地の襲撃情報を逐一受け、その対処に見舞われ続けているために、騒がしさが途絶えないところはある。ここは人があまり通らないために、一人になりたい時は格好の場所なのだ。
しかし、たまたま外の景色を眺めていたらあの二人を目撃するだなんて。シャーラン・イヴェール。マリアと瓜二つの姿を持ち、冷静沈着でどこか危うさがあるところは、明るく強いマリアとは明確に違っている。
ミロワールは彼女に注目していた。今回は彼女の接近を防げても、次も守れる自信はない。
どうしても悲劇は避けなければならない。マリアの死を知らされた時、それを殺したのがミロワールだと分かった時、娘のシャーランが騎士団へ入団したと聞いた時。喪失、復讐、護衛。それらが合わさって、今の自分は出来上がっている。
どこかでまた、ミロワールは人を殺し続けているのだ。シャーランを守り、あの女を殺す。わたしが、マリアの代わりにならなければいけない。
「何を見ている?」
いつからいたのだろう。わだかまりのある闇とは反する、真っ白な服を着こなすダニエルが近寄ってきた。外を見て、二人がいるのを見つけたのか、わざとらしいくらいまでに顔を窓からそらした。
「そうか、マリアの娘」
「またあの女が来るのかと思うとね、どうしても……」
「あの女を殺したいと願っているのはお前だけじゃない。個人的な目的が強いと危険だぞ」
私的な行動は禁物。それは重々と理解している。わたしが抱えているのは、私的にも公的にも振り分けられない、曖昧でとても扱いに困るものだ。自分が救われた身であると自覚すれば、それだけ個人の願いが強くなってしまう。それを力ずくでねじ込められればと願い、瞑想する。そしてまた、マリアの面影を持つあの子を見て舞い戻るのだ。
「こんな気持ちを捨てられるほど、わたしは非情になれない。恩義を貰った人を忘れることはできない」
「しかし、忘れなければ一生苦しむぞ」
頭に血が巡り、怒気を浮かべてカレンはダニエルを睨みつける。ここまで彼女が、感情曝け出すのは珍しいことだ。
「あなたはどうなの?あなたは、わたしと同じ経緯でここにいる。もう昔の思いなんて捨てたのかしら?」
「もちろん、それは昔のことだ。気持ちなど、いつかは枯れて萎んでいく」
「……冷たい奴だな」
ダニエルの顔に、シールでも張ったかのようないつもの笑いを浮かべる。
「男というのは、恩義などすぐに忘れてしまうのさ」
ダニエルは、一度来た道を引き返し、カレンは窓辺に寄り添った。映るのは、儚くも初々しい二人の少女。
マリアの思いを捨て去れば、楽になることができる。果たして、自分にそんな勇気はあるのだろうか。
わたしは、いつかこの苦しみから解放されるのだろうか。
−−−−
鳴り響く電話、積み上がる書類と報告、それらを処理しながら的確な指示を出す器用さ、それら全てがスチュアート・サールウェルにはあった。矢継ぎ早に入ってくる部下達に、電話を片手に指示を飛ばし、受話器を肩と頰に挟み込みながら両手で書類をまとめ上げる。
イデアルグラースの活動が、再び過熱し始めたのが原因でもある。その他にも、騎士団での襲撃者達の対処法を各部署から受け、スチュアートが最後に結論を出さなければいけない。
突然の心臓発作で死亡する襲撃者達が後を絶たず、遠くで虫を使って脳を支配し、人の生き死にを操作しているイデアルグラースに憤りを感じずにはいられない。
そんな最中、一本の電話が鳴る。受話器を取り上げて相手を確認すると、少しだけ彼の頰が弛緩した。
「君か。連絡が遅れて申し訳ない」
電話口から聞こえる声。あまりにも小さいことから、相手は小声で話しているようだ。
「今回は大打撃を食らってしまった。あそこまで卑劣な手段で市民を巻き添えにするとはね。その対処も検討中だ。今のところ、レーザーで虫を焼き殺し、無害となった市民達をリハビリさせる予定だ。間脳や延髄がやられて、自律神経も上手く機能できず、生命維持が危ぶまれる人はまた別の処方を考えている」
部屋にはスチュアート以外、誰もいない。それでも彼は、小声で話を続ける。
「デューク?彼は今、私の自宅へ送った。あとで私も向かう。かなり憔悴しているが、お前まで気にかける必要はない。お前は今、自分に課せられた使命だけを全うしてくれ」
相手の長い会話は続く。彼は片手にペンを持ち、走り書きで何かを書き綴る。
「分かった。大体のことは把握できたぞ。引き続きよろしく頼む。……くれぐれも、気をつけるんだぞ」
そこで会話は途切れた。スチュアートは、さっき走り書きしたメモを引き出しの中に入れる。そして、何事もなかったように書類をまとめ始めた。静かだった多くの電話が、また次々と鳴り響く。
リリリン、リリリリン、リリリリリリン……。
−−−−
「うん、夜明けまでにはそっちに着くだろうから。……彼は今、疲れて後部座席で寝ているよ。何もかも忘れてしまうほどぐっすりとね。そっちも気をつけてね、それじゃ」
携帯をしまい、ハンドルを持って車を走らせる。この車はどれくらい高級なのだろう。隣で眠る運転手は、いつもこの車に乗っているのだろか。静かで、とても心地が良い。ここへ侵入した甲斐があるものだ。
運転席に座る彼は、後ろで寝ている青年を見た。座席をベッド代わりにして、深い場所へと誘われるのか、寝息すら立てていない。足元には、彼に放った矢が灰となり、形を崩れて小さな山ができている。
前方に広がる光景を眺めてみる。長い雲の切れ端から太陽の光が差し込むところは、天然のスポットライトのようだ。朝を迎えて、そろそろ人が起き始める時間帯だろう。
もう一度、後ろの青年を見てみる。ダークグレーの毛並みはどこもボサボサで、手入れが行き届いてなさそうだ。着いたら、毛並みぐらいは整えよう。狼は、高貴な存在でなくてはならない。
「今日は、太陽が見えないね」
揺れのない、静寂な車内。後部座席で眠る青年−−−−デューク・フライハイトが目を覚ます様子は見られない。運転席に座る男は、どこかピクニックにでも出かけるかのように、聞いたこともない鼻歌を歌いながら運転する。
その車が走る道路には、他の車は見当たらない。音もなく、誰にも気付かれずに進んでいく車体。
その行方を知るものは、運転席に座る男以外、誰もいない……。
これで5章は完結です。活動報告も更新しましたので、そちらもご覧ください。




