第169話 獣の遠吠え
事情があって、全角スペースが打てない状態です。読み辛くなってすみません。
水が流れるホースに穴が開けば、そこから大量に水が溢れ出す。人体に刃物が刺されば、温かな鮮血が飛沫となって溢れ出す。
母の身体が二度、三度激しく痙攣を起こした。眼をうっすらと開くが、その眼には生気が僅かに残っているだけで、しかしそれも黒目の面積が徐々に広がっていく。口が動き、何かを言おうとしているが、あまりにも微かで聞き取ることができない。
俺に支えられていた母の腕が、ぐったりと力がなくなり、肩から全身へと伝わって、ガクンと母の身体が崩れ落ちる。倒れまいと拾い上げたいのに、腕が言うことを聞かない。神経が麻痺して、思い通りに動かせないのだ。笑みを浮かべた緑髪の男は、母の背中から短剣を引き抜く。心臓近くの動脈部分を刺していたのか、身体から大量の血が溢れ出す。俺の顔、全身にも降りかかり、まだ温かいのがさっきまで生きていたことを証明するのに十分だった。
血の臭いだ、血の臭いだ、血の臭いだ。
母の背中から湯気が沸いている。流れ出る血は、目を見張るほど鮮やかな赤色だった。湿った空気に冷やされて、湯気は他の空気と混ざり合う。大地が血によって満たされていくように、瞬く間に過ぎ広がっていく。
男は短剣を落とした。剣はすぐさま、血の流れに呑み込まれる。亡骸となった母の頭に手を置く。優しく、包容力があるように自然なままで。
張り付いたままの微笑が真顔へと変わり、言葉を紡ぎ出した。
「綺麗で美しい。永遠の愛も刻み込まれている。彼女は素晴らしい女性だよ。こんな血生臭い場所で眠るのは場違いすぎるほとだ」
呆然。気づき。そして、衝動。
触るな。これ以上触るな。
自分ても驚くくらいの速さで、俺は奴の頰に拳をめり込ませていた。避けるのを諦めていたかのように、男は防ぎもせず、拳に込められたエネルギーをそのまま顔に受け止める。しゃがんでいた男は後ろに跳ね飛ばされ、受け身もせずに頭を地面に叩きつけるように倒れる。しかし、男はすぐに起き上がり、こともなげに俺を見る。笑みはなく、奴の瞳には俺の姿は映っていない。
「何なんだよ、お前は……」
奴の右手が頰に触れる。さっき、俺が殴った痛みが伝わってきたのだろう。これだけでは飽き足りない。これだけで許してはならない。こいつは殺さなければならない。スドウと同じだ。こいつも同類だ。生かしてはおけない。必ずこの世から葬り去らねば。
「怒り、悲しみ。身体が震えている。僕を殺したい。これまでにないような痛みを味わわせたい。君はそれを願っている」
「何なんだよ、お前は!」
地面を蹴り上げ、母の亡骸を飛び越える。血の湖も越えて、奴の間合いを詰め寄らせる。慟哭、すべてを叫び出したい。本能に身を任せて、何もかも破壊尽くしてやりたい。この男を殺す、殺す、殺す。それだけしか頭に入らない。
獣に身を任せればお終いだ。僅かな理性を残して、それでも奴の殺意は変わらない。
目の前に手をかざされた。すると、俺の心臓が停止したみたいに動きがなくなったように感じる。顔に凍土を押しつけて、息を吸い込もうとして、さらに苦しくなる。頭が空洞になり、真っ白となる瞬間。それでも奴の殺意は健在する。生かしてはおけない。
「殺したりしないよ。僕が立ち去ったら、君の心臓は元に戻る。それでも、君は意識不明となるだろう。騎士団に任せきりになってしまうのは悪いけれど、仕方がない。……今度会うときは−−−−」
聞こえたのはそこまでで、心臓停止で意識が朦朧となり、その先が曖昧となる。苦しく、眼も開けていられないのに、眠るとそれが和らぐのが不思議だ。
血はすべてを染めていき、俺の方まで到達する。血の筋が残る刀を握り締め、美しい星々に向かって遠吠えをする。言葉を忘れ、生きていくことだけを糧にし、目に見える者達を次々と斬り殺していく。緑髪の男が死に、次にスドウが死んで、それから……。
最後に母の首を打ち落として、ようやく我に返る。微かな悲鳴も届かず、俺は暗い沼の底へと再び引きずりこまれた。
−−−−
「気がついたね」
しゃがれた声、でも聞き覚えがある。ボサボサで肩まで届きそうな白髪、歳に憚られない猛禽類のような鋭い眼差しは、今は包み隠されている。
「スチュアート先生?」
「私を覚えているということは、頭はしっかりと働いているようだな」
背中に柔らかな感触が伝わるが、病院のベッドに比べればずっと硬い。身を動かそうとすると、右側が壁によって動きを塞がれ、左側は身じろぎでもすれば落っこちてしまいそうで、やはり身体を動かすことはできない。
そこで気づいた。これはベッドではない。ソファだ、ソファに寝かされている。よく見れば、どこかで見たような色合いと質感がある。ここはスチュアート先生の部屋なのか。俺は、どのような経緯でここに寝かされていたのだろう。
身を起こしたとき、昨夜の鮮烈な出来事が形作られる。
立ち上がろうとしたが、立ちくらみでソファへと逆戻りするように座り込んでしまった。
「レモンティーを飲みなさい。一日中寝ていたのだから、身体の調子を戻さなければ」
用意されていたティーカップに目をやり、橙色でレモンが浮かばせたお茶を飲む。口の中で温かいお茶が広がり、喉を通って全体へと伝わる。
今さらながら、部屋が暖かく、自分の身体が冷えきっていたことが分かる。手がかじかみ、レモンティーが波紋を作る。どのくらい、あの森で残されていたのだろう。
「さて、まずはどうしてここにお前がいるのか。業務を一度終えた私がここへ戻ると、クレア・リースが待ち構えていたのだよ。どこへ行ったのかを教えてもらい、部下と共に森へ向かった。そこで、お前と血まみれとなった女性の遺体を発見した」
あいつ、俺をつけてたのか。……そうだよな。来るなと言ったけれど、長いこと一緒にいたのならば、鵜呑みにして見過ごす奴は少ないはずだ。立場が違えば、俺だってクレアと同じことをする。
「すぐに救助を呼び、お前を検査させてもらった。異常は特に見つからず、ここへと運んできたのだ」
「血まみれの女性は俺の母です。母は、その……」
向こうも、この事に言及するのに躊躇いを見せる。言うが先か、俺が先取って続ける。
「息は、もう引き取ってましたよね」
「さっき、連絡が入った。お前の母が亡くなったことを報せに」
ただ、と先生は言葉を繫ぎ止める。
「あそこで、お前と母親以外に人がいた痕跡がなかった」
目を見張り、今の言葉が反響して何度も聞こえてくる。あの男がいた痕跡が見つからない?
暗いカーテンレースが、俺と先生の間を縫って隔絶する。部屋が暑くなってきたのか、背中から冷や汗が浮かぶようにじんわりと湿っている。
「もっと詳しく調べれば分かるかもしれないが、問題は他にもある。母親を刺した短剣には、お前が握っていたことが検出されている。指紋の向きからして、相手を真正面に据えながら、刃先が内向きとなって背中を突き刺せるような格好だ。もし、第三者がそこにいたという証拠が出なければ」
出なければ、どうなる……?
「お前が母親を殺した、そう結論づけられるだろう」
俺が、殺した。あの短剣で。母の背中を貫いた。
レモンティーが、喉奥から逆戻りしそうになるのを堪える。どうしてか、あの男の姿がぼんやりしてきて、あの場には俺しかいなかったと錯覚してしまいそうになる。
「俺がやった、そう言いたいのですか?」
「お前の容疑は、私が全力を挙げて阻止する。だが、犯罪を掻き消すことはできない。お前がやっていないことが証明されなければ−−−−」
「極刑、とかになるんですか?」
あの男がやった。俺はちゃんと見ていた。ご丁寧な口調で、さり気ない様が怒りとなった。
存在していたんだ。あそこに間違いなくいた。……では、何故奴がいないことになろうとしているのだ?
「俺が殺したとでも……!」
「判決は数日後に出る。そこに、私が隅々まで口出しはできない。あくまで、判決は検査する者たちの判断で決められる。あの森の調査はもう一度行う。他に人がいたことがはっきりと分かるまで、何度も繰り返す」
何を言えばいいのか、俺には分からなかった。立ち上がった時、脚に力が入るようになっていた。一言も言わず、レモンティーの入ったカップを置き、スチュアート先生の部屋を出る直前に一声かけた。
「ここまで運んでくださり、ありがとうございます。レモンティー、美味しかったです」
「……くれぐれも、他の人に他言はしないように」
その言葉に、頷きだけでも返事したのかは分からない。
急いで自室へ戻りたかった。スチュアート先生は、その場にいるだけで、引き止めようとはしない。足早に騎士団の中を駆けて、外へ飛び出す。そこから足がふらつき、けれど周りから怪しまれないように急ぎ足で進んでいく。
部屋の前まで着き、ノックをする。誰も応答しない。中に入ると、素早くドアを閉めて自分のベッドへと飛び込む。俺以外に誰もいない。そのことがより安心させられた。
パニック状態になっている。一連の動作が、自分の意志ではないように感じられる。スチュアート先生の部屋から逃げ出したくなって、けれどここにいても変わりはない。なぜ、逃げるような真似をしたのか、自分でも理解できない。でも、急に俺が住む部屋のこのベッドへと飛びつきたい欲にかられたのだ。
何も出来なかった自分が、友人を殺されたことで強くなりたいと願った。けれど、目の前で両親が殺されて、さらには殺人の汚名も着せられそうである。この数年間、俺は何をやってきたのだろう。俺が騎士団に入ると決意した頃から、変化があったのだろうか。
飛び起きて、深呼吸と屈伸を繰り返し、次に部屋を歩き回った。落ち着いていられない。何かをしていなければ、頭がどうかしてしまいそうだ。
筋トレなどをして、ようやく俺が落ち着いて寝転がれるようになった時には、すでに30分も経過していた。
これが、戦いというものなのだろうか。強大な何かと対峙する時、計り知れないほどの犠牲を伴う。大切な人が死ぬのは当たり前で、俺はその事実から目を逸らしてきた。それが仇となり、今ではこんな惨めで愚かしい姿を晒しているのだ。
思考を中断し、薄明かりの部屋で何かの角が頭に当たる。手を伸ばし、両脚を折り曲げる。滑らかな感触、日記帳のようだが、かなり古いものだ。
謂れ因縁の書。
留められた鍵は、あと三つ。書物をもつ腕が、萎びていくようにベッドへと放り出されて、書物は腹の上に乗る。ちょっとだけ眠れば、落ち着けるだろうか。とにかく、頭の中がごちゃごちゃしているのを取り払いたい。
眠ることはできなくても、目は瞑っている。どのくらい、そうしていただろうか。目を開けると、カーテンでは抑えきれないオレンジ色の陽光が、窓を囲むように壁へと広がっていく。上体を起こして、窓ガラスに手を当ててみる。外の風ですっかり冷え込んでおり、縮こまっているみたいだ。
日は暮れかけ、遠くに見える葉のない木々は陰影を携わり、上空に広がるヒツジ雲は薄いピンク色となって俺を見下ろす。人もおらず、街灯の光が灯り始め、日のある世界が薄闇となって消滅していく。
壁に爪を立て、しがみつくような体勢でしゃがみ込む。倦怠感に支配され、手足から力が抜ける。
逃げてしまいたい。背負わされた不幸も運命も捨ててしまいたい。強く願っても、起きたことは叶わないのに、それでも何かを願ってしまう。
あの男の姿が、今では輪郭もぼんやりとして、記憶から薄れつつある。俺は殺していない。その叫びも、次第に薄れていく……。
−−−−
五日が経っても、向こうから連絡はなかった。騎士団で噂らしきものもなく、いつもと変わらない生活を送れている。周りは、今の俺がどんな風に見えるのだろう。痩せたように見えるなら、その見方は間違っていない。食欲が湧かず、けれど夜中になって急に何かを欲し始めたりと偏食が続いて、顔もみすぼらしくなっているに違いない。
「何か食べなよ。すごくげっそりしてる」
食堂で向かい合ったアークが、俺にパンが三つ乗っている皿を差し出す。
アークもリアムも、俺の様子を気にしているように見えた。二人に事情は話していない。こればかりは、話す気にもなれない。
頭がうまく働かない。息苦しさもある。クレアとは、あの夜に話して以来、まだ一度も会っていない。彼女と同じになる授業に参加せず、できる限り男子寮にいる。自分から避けているのに、何か言わねばと思うのがどうにも面倒くささがあった。我儘だよな、と痛烈なまでに実感する。
「デューク」
誰かに呼ばれて、振り返るとダニエル先生がすぐそばにいた。途端に寒気を覚える。
「騎士団長が呼んでいる。ご同行を願いたい」
立ち上がって、アークに一礼してから先生の背中を追いかける。迷うことなく進んでいく姿についていきながら、俺はなだれ込む人混みを搔きわけて行く。
案内された場所は、見知らぬ部屋の中だった。長年、物置として使われていたようで、特異な臭いが鼻をくすぐらせる。壁に残るシミを見ていると、ダニエル先生と入れ替わってスチュアート先生が現れる。あちこちを駆け回っていたのか、息が上がって顔も赤い。姿勢だけはそのままだった。
「報告を受けた。第三者の痕跡は見つからなかった。従って、お前が殺人を犯したことに捜査が行き渡った。
「……そうですか」
言うのはそれだけか?たった五文字で言えることは言ったのか?
「俺は、どうなるんですか?」
「まず、事件の重要参考人として呼ばれる。動機や当時の状況を詳しく訊かれる」
尋問だ。それと同時に、俺が犯人なのかも調査に含まれているだろう。
「その、母の脳から見つかりましたか?虫が……」
「それも確かめてみた。検出されたぞ」
虫がいたところで、俺が人を殺した仮定は覆らない。動機としても不十分で、口の中で苦味が広がる。
俺は殺しなどしていないはずだ。『はずだ』としている通りに、確信が持てなくなっている。あの森で見た男は、罪逃れのために俺が作り上げた想像なのか?あいつが短剣を握って、心臓を突き刺し、血溜まりとなった地面を平気で歩いて行く。
幽霊みたいな奴だ。人や物に触れて、直視することができても、そこにいたという証はない。人を殺すのにうってつけだ。それを知っているからこそ、堂々と人を殺したと思って腹が立つ。
「一先ず、荷物をまとめるんだ」
「え?」
「一時期、お前を私の手中に収めることが決まった。騎士団から離れるのだよ」
「手中……。もしかして、先生の自宅ですか?」
「もちろんだ。一軒だけ、我が家のように使っている場所がある。監獄のような狭苦しいところではない。使用人もいるし、できる限りの援助もする。あくまでこれは監視だ」
監視されなくても、逃げようとは思っていない。いくら弁明をしたところで、俺は犯人として仕立て上げられてしまう。それを推せる証は、十分なまでに揃っている。
逃げたりするもんか。どんなに豪華な場所でも、役割は監獄と似たようなものだ。
「私はほとんど帰れない。あそこでお前と面することもないだろう。明朝、迎えの車がやってくる。それまで、やるべきことは済ましておくんだ」
−−−−
帰路に就いていると、誰かが寄ってきた。会いたくない、けれど焦がれる想いが綯い交ぜとなる。
「やっと捕まえた」
長らく外で待ち伏せするつもりだったのか、コートやマフラーで身を包んで寒さを凌いでいる。俺の方はコートだけで、彼女より明らかに薄着だが、毛皮のおかげで寒くはない。
「なんで、ここに?」
「中々会えないから、直接出向いたの。ずっと避けてたでしょ」
五日間も会っていないと、久しぶりと似たような懐かしさがある。彼女を面前にして、言わなくてもいいことまで話してしまいそうなのが怖かった。クレアなら大丈夫だろうと、どこかで思い込む俺がいる。パニックに駆られていた時に出会っていたら、何を言い出したのか分からない。
平静になって、自分が置かれた立場を確認する。途端に、彼女を見ただけで不安が取り除かれていく。俺が恐れていたのは、優しさに満ちた存在だと発覚するのだ。
「……何もできなかった。リックも父さんも母さんも、みんな俺の目の前でいなくなっていく。何のために、俺がここにいるんだろう。そんなことをずっと考えているさ」
「お母さん、そうだったの……」
吐息が、マフラーによって彼女の眼鏡を曇らせる。目の部分が隠されて、放たれていた色合いも褪せていく。無のような顔で、地面の先を見つめていた。
「俺は、この三年間で何を見て、何をやってきたんだろう。大切な人を守りたい?強くなりたい?だが、それがどうした。俺は何も出来ていない。変化なんて、起きてないんだよ」
「守ってるわよ。わたしが危機に瀕したとき、あなたはわたしを助けてくれた」
そうだ。そうなんだよ。俺はクレアを助けたことがある。そのまま父さんも母さんも救えたかもしれない。助けられたかもしれない。そうだと信じていると、余計に辛くなる。
元々、俺の考えが見当違いだったのかもしれない。大切な人を救いきれないのは当たり前で、もっと非情になるべきだった。時には仲間も見捨ててしまうほど、冷徹になればよかった。
それを踏みとどまらせたのは、自分の存在が見えなくなり、無価値へと成り下がった狂気へと走ってしまう恐れがあった。イデアルグラースの戦闘員と同じ、何も考えずに命令だけを聞き入れる存在になれば、俺は本能に従事する獣と変わらず、自分の意思というものが希薄となるのが嫌だった。
迷いなんて捨て去れば良い。感受性を捻り潰して、同情心をぶつ切りにしておけば、両親の死を前にしても平気なはずだ。新しい遺体ができた。それが自分の親に付随する者だった、と。
その姿を願う俺がいる。感情を殺してしまえ。そうすれば楽になれるんだ。いつまでも囁く声は聞こえる。
これが、戦いの本当の姿なのかもしれない。ヴァイス・トイフェルという怪物退治ならまだしも、これからは人間を殺す覚悟で挑まなくてはならない。鈍感な人間であれば、それこそ人を殺すのに躊躇はしない。それを願う辺りなら、俺は変わった。真に変わろうとしている。苦しみや痛みを前にして、俺はようやく進むことができるのだ。
「もっと鈍感になれば、辛い想いなんてしなかった。甘く見てたんだよ。こんな箱庭みたいな場所に閉じ込められて、次第に緊張感が薄れていくのがひしひしと伝わってくる。このままじゃいけない。非情になるんだ。俺が、持ち駒の一つと変わらない価値しかないと思っておけば−−−−」
「デューク!もう、そこまでにしよう」
顔を上げ、眼鏡の奥にある目を覗き見る。口を真一文字に結び、頑なな表情で独善的なアイロニーへ傾くのを制止させた。肩をすくめて、長い間目を閉じる。暴れ出す心臓が勢いを失って、いつもの調子へと戻るのを待った。
俺が騎士団を離れることは、騎士団から課せられたものから一時期的に解き放たれるようなものだ。ならば、彼女に渡しておきたいものがある。
「ちょっと、待っててくれないか。渡したいものがあるんだ」
部屋へと引き返し、机の上に乗った本の山をなぎ倒し、埋もれてしまいそうな古い書物を取り上げた。アークがいる場所から寝言のようなものが聞こえる。突風のように駆けて戻っていく。街灯の棒に背もたれをしているクレアのところへ舞い戻り、右手には先ほど取ってきた書物を持っている。
「それ、謂れ因縁の書?」
「しばらくの間でいい……。持っててくれないか?」
一緒に持ち出しても、迷惑なだけだ。いや、迷惑というより、俺にはその本を持つ資格がなくなったように感じる。
「不躾だけど、今はお前が持っててほしい。それが、騎士団へと入るきっかけとなった。お前もそうだろ?」
探るような目で、クレアは俺を見る。何か隠しているのではないか。聞こえなくても、そのような疑問が彼女の中で流れているはずだ。だが、事情を話すことはできない。
「俺、どうかしてるよ。明らかにまともじゃなくなってる。また、治療を受けることになっているんだ。今度は精神面を重点的に行う予定だ」
「そうなの?いつぐらいに戻れそう?」
「……分からない。ただ、ちょっと時間がかかりそうだ」
騎士団から離れれば、クレア達とも会えなくなる。最悪の場合、一生会えなくなるかもしれないのだ。
「分かった。これはちゃんと持ってるから。戻るときは教えてね」
「うん」
「それと、さっきの話なんだけど」
思考が巡り、心中で言うことと実際に話すことの境界線が曖昧となっていた話のことだろう。俺は、相当参っているようだ。
「確かに、非情になれば楽かもしれないし、戦いでもそっちの方が向いていると思う。怪物にならなければいいの。人の道理から外れていても、脱線してどこかへ走り去らなければいい。デューク、覚えといてね。怪物にはならないって。あなたがそうなれば、それはイデアルグラースと変わらない」
「理解してるよ。心配ない」
果たしてそうだろうか。俺は、怪物のようになりたいと願っているのではないか。痛みから逃れるために、それを望んではいないだろうか。
「最後に、もう一つ訊きたいことがあるの。わたしがデュークから一度離れていったみたいに、今度はデュークがわたしから離れていくわけじゃないよね」
これには返答に困ってしまう。的を射た質問に戸惑うが、軽く微笑んで−−−−意図的に微笑んだのは久々だ−−−−俺は答える。
「そんなことない。俺は、勝手にいなくなったりしない」
今言った言葉が、また別の罪悪感に囚われそうになる。けれど、もう遅い。嘘だとしても、言ったことを取り消すことはとても難しいのだ。
「明日、もう一度来るからね」
「うん。じゃあ……さよなら」
またね、と手を振ってくる。手を振り返し、今の『さよなら』が、別れの挨拶として彼女に届かせたと信じた。
荷物をまとめていると、刀を紛失していることに気づいた。慌てて部屋の中をひっくり返して探し回ったが、どうしても見つからない。あの森で、男が持ち去ってしまったのか。俺が持っても、刀の価値を引き出すことは不可能になったとなれば、次なる相手はあの男か?ますます腹立たしい。
刀が、次に誰の持ち主になったのか、それは分からない。黙々と部屋を片付けていると、湿った空気が鼻の中で広がり、夜中から朝へと変わろうとする冬の重たい色調が加わる。永遠の孤独感を植えつけられるようだ。
部屋をこっそりと出て、行き先が真っ暗で何も分からない廊下を歩く。もう、ここへ戻ってこれないのは、直感で感じ取れた。




