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白銀のヴァールハイト  作者: A86
5章 忍び寄る影
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第168話 喪失

心がふっと軽くなり、地の底へと引き寄せるような感覚からも解放されていく。一日中病室にいる生活も、今は病院内を歩き回り、あの閉塞的な日々を忘れ始めてもいた。

傷はもう治っていた。必要だったのは心のケアだけだったのだ。朱に染まった空が窓を煌々と映えてくる時に、担当医が現れていくつか質問したりする。それは自分の状態を分析するだけだったかもしれない。質問にすべて答えると、一つ頷いてから病室から出ていった。

クレア達とも再び会うようになった。アークと何時間も話し込むこともあった。退院したらこれがしたい、あれをやりたい。世界はどうなっているのか。新聞を持ち込んで、情報をつぶさに獲得してゆく。病室が次第に色づいていった。何もなかったところには花や時計が置かれ、用意されている冷蔵庫には食物が備わっていく。

病院内をうろついてみると、真っ直ぐに伸びた廊下は暖かい色彩で彩られていることに気づく。ほぼ毎日、この廊下を通っていた。それなのに、こんなに感慨深くなるとはどうしたことだろう。歩き慣れた場所をようやく見つめ、その存在を認め、価値を見出していく。一歩歩くごとに包まれるような何かを覚え、自分の腕で体を抱き寄せた。

母が捕らわれているだけで、殺されてはいない。それで良いじゃないか。今は、それだけを思っていればいいのだから。

さらに三日が経ち、俺はあっさりと退院することとなった。それでもメンタルケアは必要らしく、担当医の住所と電話番号が書かれた紙を受け取り、お世話になった人達へ挨拶して回っていった。

緑髪の青年の手紙を渡してきた看護師は見当たらない。スパイとして潜り込んでいたのかもしれない。顔をよく憶えていないから、ただ紛れて分からないだけなのかもしれないけれど。

それでも、看護師の人達は笑顔で握手を求めてきた。俺も握手をして、今まで面倒を見てくれたことに感謝の意を示す。

荷物は思っていたより少なかった。常備品だけになると、小さめのスーツケースでも余りあるほどになる。それくらいなのだろう。男性ならば、生きてく上で最小限のものしか揃っていなくても大丈夫な方だからだ。

外は相変わらず寒い。暖まりきり、全身で熱を吸収している俺の毛は、外に出た途端に冷やされていく。体が震えたが、すぐに内からの血流の流れが活発となり、外の環境に合わさっていく。担当医を含めて、俺と関わったスタッフ達も見送りに来てくれた。そんな皆に俺は笑いかけ、深々とお辞儀をする。俺は無事に治りました。皆さんのおかげです。悠然と前を向いて歩き、俺は騎士団へと戻っていく。

この日から、騎士団への生活へ戻れることとなった。それは同時に、あの青年の約束の時間が確定することにもなるのだった。


-------


復帰してみると、そこは張り詰めた空気で息が絶え絶えになってしまいそうなほど切羽詰まった場所と化しているのだった。目をギラつかせ、常に口が動いて何かを唱えている。ただ、それは俺と同学年だけに限り、それより下の奴らは変わり映えがない。

他にも、正規の兵士達が常に右往左往と駆けずり回り、休む暇もなさそうに見えた。

あれから、世界はどうなっているのだろうか。こんな場所に留まっている限り、分かるはずがない。イデアルグラースの活動は各地で勃発しているようだが、人員を総動員して回しているのかもしれない。兵士達の中には、見事な隈ができて何日も寝ていないことをお知らせしてくれる人も幾人かいるぐらいなのだ。人命が関わる仕事は、やはり時間が勝負になる。

俺の部屋に行くと、アークが待ち焦がれるように俺を出迎えてくれた。リアムも自室からひょっこり現れて、俺の無事を確認して顔を綻ばせるのが見て取れる。

しかし、彼の後ろにいるヴィルギルは、警戒を高めてこちらを睨んでいた。その姿を見て、まだ記憶が戻っていないのだと判断する。

リアムは、ヴィルギルに何か囁き、聞いた彼は頷いて部屋へと戻っていった。


「記憶は戻らないと結論づけられた。今では、俺の部屋に入り浸りな毎日さ。ナーバスで神経質。前の奔放なあいつは楽だったよ」


「ずっとあのままか。進展は少しでもあったか?」


「ない。最後は思い出せない自分に腹が立って、泣きじゃくっていた。それ以来、放心したように毎日あの部屋で送っている」


俺は、その記憶を消し去る瞬間をブラウンで見ていた。額に刺さった矢筈から轟々と吹き出す炎は恐ろしく、記憶など灰をかぶってしまうだろう。ヴィルギルの記憶も『燃やされた』としたら、もう彼は何も思い出せないかもしれない。灰は、元の姿には戻らない。


「ただ、家族については憶えているらしい。だから、あいつを故郷へ送り返すことにした。その方が、あいつも精神的に安らげるだろうし」


「騎士団にいた頃の出来事、ごっそりと抜けているのか」


「ああ。あいつにとっては、ここで学んだことも体験したことも、俺達との関係なんて元々無いんだ」


諦観を漂わせながら、リアムは部屋の外へと出て行った。俺とアークの二人きりとなると、天井の照明が弱まった気がする。


「明るくなったね。入院での鬱状態とは大違いだよ」


「まあ、鬱から抜け出せたから退院出来たようなものだからな」


「クレアには、もう会ったのかい?」


俺が明るいのは、演技なのか自然なものなのか分からない。でも、周りは俺の様子を見て安堵している。これで良いんだ。これで良い。

リアムの部屋につながる扉は、固く閉ざされて侵入者を拒んでいる。俺もあんな状態だったのだろうか。部屋で一人きりだけの、隔絶された空間。そこに居続ければ、どんな最後を迎えるのか。灰にされて、無となった自分だけが取り残される気分はどんなものだろう。あまりにも漠然とした、疎外と孤独で蝕まれていくのを考え、イメージを取り払おうと目を閉じ、いきり立った気分を落ち着かせる。不安に駆られたときは、こうすると良いらしい。


俺が向かうよりも先に、クレアはやって来た。入院中に遅れた分の内容を一通り眺めていると、額に汗が浮かび上がる姿で彼女が現れた。冬に汗をかいている辺り、走って来たのだろう。


「デューク、ここにいたんだ。病院に行ったらもう退院したって」


息が絶え絶えながらも、先走るかのように早口だ。

「心配かけたね。もう大丈夫だよ」


「よかった、元気そうで……」


その後、俺が補習に行くときも一緒について来てくれた。鈍った身体を元の状態になるべくはやく戻すために、スチュアート先生が考案してくれたものだ。久しぶりに動いてみると、疲れが出やすく、上手く調子を合わせられない。休憩をこまめに挟みながら、午後の時間は補習で費やされ、次の日は一日中補習だった。

太腿が張ったようで、伸びをすると筋肉痛の痛みが走る。緊張状態だった筋原繊維が、伸び縮みをしてたくさん千切れた証拠だ。歩くのを憚れるまでではないが、身体中が熱を帯びて、全身の毛がしっとりと濡れていた。外へ出ると、零下にまで及ぶ夜風でたちまち冷やされそうになる。風邪を引かないように、急いで中へ戻った。

こんなに平凡な日はいつぶりだろう。特別意識したことがなくて、久しぶりでもなんでもないかもしれない。首を曲げ、寝静まった地上から窓越しに夜空を見る。星々が精一杯輝き、それらが集まって一つの川を作り出し、他は散り散りとなって、どれが一番輝けるかを競い合っている。基本は白だが、赤や青に光っている星もある。遠い彼方の惑星では、俺達の住む世界も星として見えているのだろう。あの先へ、遠く。

感傷に浸っていても、泣くことはなかった。病院で散々喚いたおかげで、涙腺が枯れて機能しなくなったのかもしれない。枯れていなければ、俺は今泣いていただろうか。何を感じ取って、涙を流すだろう。いつもあるのに、見過ごしてしまう風景。改めて見てみると、それは荘厳で、瑣末ながらも一端の美しい世界を映し出してくれる。

世界はこんなにも美しいのだ。そう実感し、俺は泣く。

夜空を見ただけで感激するのは、この先ないかもしれない。


クレアと話す時間がとれたのは、全員が寝静まる数十分前。部屋を出て、簡素な防寒具を身につけて約束の場所へ行く。冬毛が防寒になってくれるために、厚着をする必要はない。

彼女は先に着いていたらしく、薄い(もや)で真っ白な頰が紅潮している。


「やっと話せるね、二人きりで」


クレアが俺を見つけて、そう呼びかけた。


「近くに街灯が一つしかないと、取り残されたみたいで怖いな」


「海に浮かぶ孤島みたいな?」


靄は海で、明かりに照らされるこの場所が島。良い表現を見つけた。

ベンチに腰掛け、しばしお互い無言になる。話すことはたくさんあるはずなのに、何を話せばいいのか分からない。


「病院の食事ってあまり美味しくないみたいだけど、どうだったの?」


病院の食事?予想だにしていない話題を振られて、返答に困る。


「野菜はどれも歯ごたえがなかったな。スープ類は温かかった」


会話が途切れる。今度は俺から話し始めた。


「よく見舞いに来てくれて嬉しかった。最後、追い返すみたいな口調で悪い。後悔してる」


「何かあったんでしょ。何も思ってないから」


気づいているのだろうか。イデアルグラースが背後に迫っているのに。


「本当は親身なって協力したいのが本音。でも、あなたから話さない限り、こっちも下手に動くことはできない」


暖かい格好が、次第に体温が下がり始めたように感じる。冷気が密閉であるはずの防寒具を通り過ぎて行くように。


「あまり、深く関わらないで欲しいな。今回ばかりは。上手くは言えないが、話せない事情があるんだよ」


口周りが硬直して、助けを求めたくても話せなくなるのが本当の理由ではあるのだが。

急に、クレアが俺に寄り添ってきた。あの美しい夜空を見上げながら、彼女の吐く息は白く、薄い靄で目の前が少し霞む。そばにある街灯は意味もなく、光をただ一点に照らす。それが何故か、今の俺には救いとなっているように思えた。遠くには、靄で薄いベールに包まれたヘルシャフトの街が見える。朝日が昇れば、霧によって生み出された真っ白な世界を一望できる。陽はないが、ヘルシャフトが静かに眠っているように見えた。

手が震え、耐えられずにクレアの手を握る。彼女も俺の手を握り返す。俺もクレアの方に少しだけ寄りかかり、二人が共に寄せ合う格好になった。深いため息をつき、消え行く狼煙のように息が吐き出され、一段と世界が真っ白になったみたいだ。


「もう、何もかもどうでもいいんだよ。俺がいなくても、別に大丈夫だろうし」


「悲観的に考えないで。必要、不必要は関係ないから」


「こんな惨めな姿を晒して、精神が崩壊しかけて、それを乗り越えても何も残っていない俺は−−−−」


クレアが俺の手を強く握り、言おうとした言葉がぶつ切れた。


「ねえ、前にもこんなこと言ったかもしれない。覚えているかどうか知らないけど、それでも聞いて欲しい。何も、デューク一人で戦っているわけじゃないから。わたしの他にもアーク、スチュアート先生が付いている。子供みたいに泣きじゃくっていい。わたしが傍にいてあげてもいいし、嫌だったら一人で感情を思うままに吐露してもいい。だから……自分を見放すようなことは言わないで。約束よ」


暗く深い湖が、淵のギリギリまで満たされていく。心象風景なのだが、確かにそう見えた。水が湧き上がって、耐え切れずに川となって水を逃していく。それでも、湖の水は溢れ出しそうになっている。理由もなく、息を止めた。溜め込んでいたものを口から吐き出し、また止める。胸が苦しくなる。

照らされた星々が見せる夜の街は、人が行き交うときとは別の一面を見せる。深海のように物静かで、見たことのない小魚達が散歩しているように。濃くなった霧は、俺の意識をすうと夜空へ昇らせ、背の高い建物が霧でできた海から浮かび上がる。宇宙が見せる光景を舞台に、流れに従って銀河を渡り歩く。

右目から、一粒の小さな雫が出てくれば、みるみるうちにそれは大きくなって大粒の涙になる。頰を伝おうとするが、俺の毛によって吸い取られ、そこだけが湿っていく。歯を食いしばり、寒さでガタガタと震え、身体全体が縮こまる。街灯の明かりだけが相変わらず同じで、空虚な場所役者が出てくるのを永遠に待ち続けているようだった。

顔に手を当ててみると、涙がまっすぐに筋を引き、そこだけ俺の毛が湿っている。声は出さなかったが、大粒の涙は止まらず、声を懸命に噛み殺してうずくまった。


−−−−


部屋に戻り、破邪の利剣を持ち出して外に出る。森の方へ向かい、敷かれた落ち葉の絨毯には霜が張っている。

森を進むと、禿げた地面が円形状となっている場所がある。そこでは、自分の武器を手入れしたり、爆発物などを製造したりしていると聞いていた。開けた空間は、所々が煤で黒ずんであり、この辺りで何かが爆発したことが示されていた。


「来たぞ。約束通りだ」


あの緑髪の男が見当たらない。俺を嵌める気なのか。遠くで俺がノコノコやって来たのを楽しんで眺めているのか。

佇んだままでいると、向かい側から誰かが近づいてくるのが見え、俺は咄嗟に身構えた。フード付きの、イデアルグラースの特徴である複雑な黄金色の模様が縫い付けられた紺色のローブを羽織っている。珍しくフードはかぶっていない。

だから、誰がやって来たのかはすぐに分かってしまった。小柄で目元に皺が寄った顔、色素が抜け落ちた白髪を整えた年配の女性。

ロザリー、俺の母だ。

右手には短剣、それ以外は何も持っていない。この前、俺の脇腹を刺したのと同じものだろうか。真剣な表情は瞬きすら許さず、実際に俺の方へ近づいてくるときも目の周りの筋肉を動かすつもりはなさそうだ。

丁度、この場所の中央辺りで立ち止まり、俺をじっと見据える。何を考えているのか分からない。

それから間もなく、母は短剣を両手に持ちながら、俺から見て左上にそれを振り上げ、こちらへと迫ってきた。振り下ろす短剣を迎えようと、接近をギリギリまで許し、刀と短剣がぶつかりそうになったところで弾き返す。相手は後ろへよろけそうにならながらも体勢を整え、もう一度短剣をこちらに向ける。俺は左脚を軸にして、右脚が弧を描くように体の向きを変える。刀の切っ先は相手の心臓へと向けたまま、こちらから動くつもりはない。あまり傷つけずに武器を取り上げればいい。

刀が、母の心臓を貫くイメージが浮かびそうになる。全身の毛が逆立つようで、必死にそのイメージを振り払う。

次の接近は短剣を大きく振り回すものだった。動きがめちゃくちゃで、表情が無なのだから不気味だ。数歩か後退し、当たりそうになったときは刀で迎え撃って反撃する。底から何か、力強いものがみなぎっているようで、向こうの動きが次第に俊敏になっていく。

俺の心臓をユラユラと狙ってくる。あの虫が母の脳内で寄生しているんだ。絶対そうだ。

鳩尾を足蹴にされ、痛みで身体をくの字に折り曲げてしまう。それを逃さないように、俺の頭頂部にある耳を鷲掴み、顔を上へと向けさせられた。目の奥まで透き通っていて、抜け殻のようになった母の顔が見える。耳を掴む右手は強く、こんな力が有り余っているのかと驚いた。腹部の痛さに加え、耳を引っ張られることで、うっかりと手に持つ刀を落としてしまいそうになる。

そろそろ限界か。

痛みに堪えて、跳躍力で飛び上がり、腕に力を込めて相手の右手を薙ぎ払った。衝撃が加えられた相手の腕は、普段は裁縫などの家事にしか従事していないこともあって、あっけなく俺の耳から手を離した。下から上へと切り裂こうと迫って、俺のその様子でうろたえたように右腕だけをあたふたとさせているのを見計らって−−−−

俺の武器を空中に投げた。

いきなりのことで呆然とする母の隙をついて、力が入らない左腕でうまく挟み込んでいた短剣を奪い取り、高々と振り上げる。

見開かれる母の目、左腕を掴みながら、短剣が母の頭をかち割ろうとしてくる。右手で防ごうにも、もう遅い。


「……なんてな」


どういうことだろう、短剣が迫って来ない。それどころか、剣を持っていた俺の右腕が、相手の頭をさす直前に軌道を変えるではないか。それと並行して、相手の脇腹に肝を食らわせ、素早く背後に回って首を締めつけたのだ。抵抗しようと、腕に爪を立ててくるが、その力も次第に衰えていく。失神したのを確認して、母の身体を俺の方へもたれさせた。

救う手立ては見つかっていない。殺すことなど論外だ。親族を殺すなどという非人道的な行為に走るつもりはない。あの病院で検査を受けて貰うのだ。脳の虫を取り払ってもらえるか訊いてみよう。

一度、母を持つバランスを整えるために、短剣を地面に落とし、母を両手で支えながら刀を取りに行く。刀身の部分を持ち上げて、鞘にしまい込む。

イデアルグラースの連中はいるだろうか。あの緑髪の男も潜んでいるのか?周囲を見渡し、母を抱えたまま移動しようとして−−−−何かがぶつかった。


前から−−−−正確に言えば、母の背中にそれがぶつかってきたのだ。振動がこちらまで伝わり、何かもぞもぞと動いているを捉える。霧があって分かり辛くなっているが、髪らしきものが緑に染まっていた。

腰に当てていた手に、何か液体のものがかかる。その手を近づけてみると、赤くて鉄の匂いがした。

血。


「君は、本当に優しいね。親を想う気持ちは尊いものさ。だけど、今はそれが必要ではない。君のお母さんの運命は、勝手ながら僕が決めさせてもらったよ」


抑揚のない口調、母の背中が血で広がっていくのが分かる。男があの笑顔を浮かべながら、手にはあの短剣を持ち、母の心臓部分を突き刺していた。

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