第167話 殻の中
その後の俺は酷いものだった。病室に一日中いたことに気づかないことも多かった。何をする訳でもない。ただ、沼に捕らわれて沈み込んでいくかのように、少しずつながらも着実に奥底の意識を漂い続けることが日常茶飯と化していた。
不意に泣き出すこともよくあった。それまでは普通だったはずが、それこそ何かの糸が切れてしまったかのように耐えられないほどの感情が注がれていく。グラスから溢れた水が広がり、それが涙として現れる。
何故、どうしてこうなったのか。あの不敵な笑みを浮かべる男が現れた後、俺は情緒不安定な状態が続くようになった。
クレアやアークがやって来た時は、なるべく感情を押し殺し、布団に潜り込んで気分が悪い振りを取り続けた。今の俺を二人に見せたくはない。これ以上、心配事を増やすのは御免だ。
最初、二人は俺のことを気遣って長居しないでくれていた。演技をする俺をどう捉えたのか、二人がやって来る回数は次第に減っていった。それを見計らって、俺は担当医師に事情を説明した。頷くだけだった医師は無言でメモを取り続け、こう訊いてきた。
「何か、この二週間で変わったことはあるかな?」
「二週間、ですか」
「うん。何でもいいんだ。ここで寝起きするようになって、他に変化があったことだよ」
それまでの生活を明細に思い出してみる。変化のない毎日、俺がこの病室に閉じこもることが多くて、思い返すのはこの病室で過ごしている時ばかりだった。あの男がやって来てから、俺は大きく変化している。変化と言えば、どうしてもそれしか思いつかない。
口を開こうとして、その時だった。口の周りが硬直したようで、うまく喋ることができない。話そうと思っても、言葉が出てこない。
医師はメモ書きをしているのに集中している。
「特に、ありません」
結局、こう言う以外他なかった。何か思い出したならいつでも言っておくれ。医師は病室を出ていく時にそう言い残す。
言いたくても、言えないんです。心の中で吐露しても、相手に届くわけがなかった。
その後に分かったことがある。俺があの男に出会ったことは、人前で話すことができない。記憶を巡らしていくと、男も話せないようになると言っていた。どうやったのかは知らないけども、確かにその通りとなっていた。
――――
「これ、シャーランとシーナから」
クレアは、平べったい包み紙を俺に渡した。病院での生活も一週間が過ぎようとしている。
「ずっとこのベッドにいるの」
「まあな。退屈で仕方ないどころじゃないさ。三日も経てば考えることも忘れてくる。食べ物と寝床だけ与えられた家畜が分かる気がするよ。こりゃ、何かしてないと駄目だな」
「小説とかどうかな。何冊か買ってくるよ」
「もう用意したよ。今読んでいるのは四冊目だ。時間があるから、在庫はすぐになくなっていくばかりだ」
「じゃあ、新しいのを買ってくる」
早速、包み紙を開けてみる。セーターだろうか、複雑な模様が施されており、触り心地がとても良い。暖かそうで、今の季節にはピッタリだ。
「いいね、これ」
「うん。二人に伝えておくよ」
その後はなんでもない、すぐに忘れてしまうような会話をした。今、ヘルシャフトの住民がどうなっているのか、騎士団の動向などを細切れながらも把握する。けれど、それを知ってどうするわけでもなかった。全て、俺とは無関係のことに思えた。ここにいれば、周りがどうなっているのか知ることはできない。薄れていく緊張感が、近くで起きている戦いを遠い国の出来事のように思わせるのだった。脳に虫が混入していた住民は即捕らえ、暴れ出した場合はその場で殺害。苦苦々しげに語るクレアを見ていると、自分と彼女に分厚い壁が生じているかに見える。以前は、同じ領域にいたはずなのに。
でも、そんなことはどうでもよかった。もう何もかも投げ捨ててしまいたかった。逃避と言われても構わない。今は、何もかも忘れていたいのだ。
――――
行動が限られて、基本的に何もない病室で過ごす時間で占められている日々。突然泣き出すことはなくなっていた。けれども、気持ちはいつまでも沈んだままだった。底のない穴に引き摺り込まれていく感覚が伝わってくる。壁が決壊し、水がとめどなく出てくるダムのように、黒い煤のようなものが全身に回るのを感じた。それは掴むことができなくて、身体の中心から溢れ出してくる。その煙の抵抗しようと、拒み続けていると、どんどん苦しくなって息も絶え絶えになってしまう。
苦しい、苦しい。煙を追い出そうにも、捕まえることができない。
しばらくの間はそれで苦しめられた。起き上がることもできない時があり、窓を眺める日々が続いた。今が何時なのかも、その窓で確認するしかない。
苦しさが頂点に達した時、ある秘策が思い浮かんだ。黒い煙を追い払うのが困難であれば、それを受け入れてしまえばいい。何の抵抗もしなければ、少しは楽になれるのではないだろうか。全身の力を抜き、なるべく頭を働かせない。目を閉じて、開いて、また閉じる。黒い煙が、自分の身体に吸収されていくのが分かった。苦しかったものが取り払われ、絶対的な安心が現れる。毒が身体を回るかのように拡散していったが、そこまで気にする必要もないと思えた。今まで起き上がることも出来なかったのだ。それがものの数分でこんなにも楽になれた。ちゃんと足に力を込めて、歩き出すことができる。
否定することが間違っていたのだ。黒い煙を受け入れ続ければ良いのだから。また苦しくなったときは、自分を貶し、貶める言葉を心の中で思い浮かべれば良い。そうすれば、もっと楽になれることも学んでいった。
担当医師に、俺が見つけた対処法を話すと、一つの返事が返ってきた。
「鬱病?」
「そう。君が話す内容は、鬱病ではよくある症状なんだ。自分を他の人から格下げすることで、表面的には楽になれる。しかし、精神的にみればズタズタに自分を傷つけているんだ。目に見えないリストカットのようなものさ」
「それは、治るんでしょうか?」
「原因なしで鬱病は起きないよ。まぁ、その原因が分からないから発生してしまうんだけどね。最初は薬を使って、僕と会話しながらやって行こう。幸か不幸か、怪我で入院しているからのんびりし放題。半分くらい、自分の殻に閉じこもってもいられる。それから、君が思いついた対処法はそのまま続けてて。その上で、君の行いを褒めたりして少しずつ認めていこうか」
「先生は、メンタルに関しても詳しいのですか?」
外科の先生から見れば、驚くほどまでに色々なことを知っており、思わず訊いてしまった。
「ここに来る兵士達は心に問題を抱えてる人も多くてね、外科だけの力で君達を救うことはできない。技量は精神科の人達には劣るかもしれないけれど、君のような人はたくさん見てきたから、通じる部分があるのさ」
「家族や友人を奪われることが、ですか?」
「もちろん。それは特別なことじゃない。ここにいる人達は、そんな経験を持つ人がかなり多いね。悪い言い方をしてしまうと、ここではよくある出来事なんだよ」
俺が体験してきたことが、見知らぬ人と同じであるという発言に不快感を抱かせた。まるで、俺の両親が死んだ人の一介にすぎないとでも言わんばかりに。
「俺にとっての両親は、周りの人と同じではありません」
「それはそうさ。君が体験した死は、他の人には共感し得ないことだ。自分なら、救えただろうに。それで後悔して、自分を追い詰めているんじゃないか?」
そうかもしれない、と曖昧に答えた。今の自分の心情すら分からなかった。どう考えていたのかも思い出せない。何をしても、つまらなくて不安と後悔がひたすら出てくるのが分かる。それでも、涙が出てくることはなかった。
渡された薬の飲み、水を含む。あの黒い煙が襲ってきても、抵抗しないでされるがままになる。煙はすぐに拡散していった。そして、再び襲ってくる煙は日に日に強大になっていくようだった。感知するだけでも押し潰されてしまいそうで、ベッドの中で包まっているしかない。黒い煙を受け入れ続けて、身の内も黒く染まっていくような気がしないでもなかった。
――――
三日に一度、クレアやアークがやって来る。二人が来るときは必ず、自分は緊張してしまう。親しい間柄でも、震えることがある。顔の筋肉が強張り、右頬の筋肉が絶えず痙攣を起こしていた。
今日は、クレア一人でやって来た。アークは実習でいないらしい。
「なんか、この部屋暑い」
「暖房が効きすぎなんだ。頭が蒸してくるだろ」
渡された課題や授業内容を受け取り、彼女に何度も謝礼する。遅れをあまり取らないのは嬉しい。でも、遅れを取っても別に良いと考えてもいた。騎士団のところへ復帰を果たすことも、どうでもよいとさえ思っていた。自分が成すべきことを騎士団から見出せなくなっている。気づいたところで、どうしろと言うのだ。投げやりにしてはいけないのに……。
「それと、これが復帰した後の実習課題ね。19時頃に受けさせてもらえるみたいだから」
身体が重い。歩きたくない。一生ここにいてしまいたい。
「クレア……」
口を開け、彼女と目を合わさないようにする。
「なに?」
「今日は、ちょっとだるくてね、頭がうまく働かないんだ。課題は復帰した後にすべて受け取るから、わざわざ定期的に来なくていいよ」
「でも、あなたの容態とか様子を知りたいから――」
「来なくていいから。アークにも、そう伝えてくれ」
布団を被さり、頭頂部の耳だけを外に出しておく。この時、クレアがどう受け取り、どんな表情をしていたのかは知らない。数秒だけ、彼女が立ち尽くしていることしか分からない。
「そうだね。色々あったもの。………課題とかはまとめて渡すね」
ドアが開き、また閉じる。一人になったことで、緊張が解れていく。顔を突き出し、胡乱な状態になっていく。
ああ、心地よい。なんて落ち着いて、静かなのだろう。ここに居続けたい。喜ぶことも悲しむことも忘れて。どうか、このまま……。
暖房が病室を暖かい布で包んでいく。感覚も思考も、すべてを麻痺させていくかのように、じわじわと。
――――
事件は間も無く起きた。病室で一人、何も考えずに窓の外を見ていたときのことだった。
あれ以来、クレアとアークはやって来ない。訪問客はいなくなった。それは、外がどうなっているのかを知らせてくれる人が完全にいなくなったことを表している。もしかしたら、外は冬を越えて、春を過ぎた夏となっているかもしれない。日差しが強い日が続く。ちょっと眠ったつもりが、一ヶ月も寝てしまったかもしれない。
現実と非現実は混同してくる。それに違和感はなかった。それを正す人など誰もいない。だから、うんと幅広い想像ができる。
でも、それも飽きてしまった。今はただ、窓の外を見ているだけに過ぎない。傷の痛みは既に引いていて、もう治りかけているかもしれない。
ドアが開く音がした。首を曲げ、入ってきた人物が食事を運んできた看護師だと分かり、腕を放り出してベッドに身を沈める。
食事を台に並べている時、相手が無言であることが妙だった。病室へ入ったり、食事を並べたりする時は言葉をかけていたからだ。看護師は淡々と作業を続け、最後に折り畳まれた紙切れ一枚を俺の方へ差し出した。
「あの方からのメッセージです」
初めてその看護師が喋った。そそくさと病室から出ていくのを見送り、俺は渡された二つ折りの紙切れを開く。
『約束、忘れてないだろうな』
あの看護師も虫に操られているのだろうか。だとすれば、俺の周りには常に監視がいるかもしれない。頭を掻き、一文だけのメッセージを放り出す。
良いじゃないか、騎士団で俺の目的が見つからなくても。それより大事なことがあるではないか。捕らわれた母さんを助け出す。今はそれで良い。それで十分だ。
ベッドを抜け出し、窓の方へ近づく。晴天の日でも、その窓には自分の姿が映っていた。前に見た時より痩せて、弱々しく見える。それも当然かもしれない。
「無様なものだな」
ドアに手を掛け、開く寸前に後ろを振り返る。何故か笑みが溢れた。
今度はドアを開いて、病院の廊下へと足を踏み出す。開いたドアが閉まる音。足取りは、躊躇うことなく突き進んでいく。
閉じこもるのはそろそろやめよう。役目に戻るんだ。




