第162話 寒地に咲く華、散る火花
寒い。
肌に刃のような風が突き刺さり、シャーランは震えながら眼を開ける。見覚えのない場所に、双眸が大きく見開いた。
緑の衣が落ちた木々、雲がかかった空は森を覆い、先程感じた冷気を大地に向けて降らしているようだ。シャーランは、一本の木にもたれながら座って眠っていたらしく、硬い幹に背中を預けていたせいで腰に痛みを感じる。
カレン先生の部屋にいたはずなのに、何故外に出ているのだろう。
あの部屋で、渡されたお茶を飲んで眠ってしまったことまでは覚えている。そこから今に至るまで、何があったのか。ここはどこなのか。騎士団から、そんなに離れていないだろうか。
シャーランから見て、左後方から音がした。地面に落ちた枝を踏み、ポキッと鳴る音が。
首を動かし、音の主を見ようとするが、思うように首を動かせない。首元に冷えた金属の感触があり、手でその金属に触れてみる。
次に、鎖を引きずるような音が聞こえた。シャーランは、自分の身の状況を確認する。
ひどい有様だ。上着は着ておらず、手枷をかけられて後ろの木に巻きつけられており、身動きがとれないようになっている。外が冷え冷えとして寒く感じるのも納得だ。
「目覚めたわね」
聞き覚えのある声。さっき、枝が折れる音がした方向からである。外界の空気より一段と低い、絶対零度のような気配が漂い始める。左後方に首を向けると、優雅とは言い切れない、作り物としか思えない笑みを保ちながらこちらを見るミロワールが、シャーランを見下ろしていた。
「どうして、あなたが……?」
「さて、どうしてかしら」
彼女の何事もないという顔に、母を殺された怒りが込み上げてきそうになるが、今の自分は何も出来ないと自覚して、それを制する。
ミロワールは、手にした杖を左右に揺らしながら、シャーランの周りを歩き始める。シャーランは構わずに訊ねた。
「イデアルグラースの仕事は順調?」
「これは仕事じゃないわ」
ミロワールは、シャーランの目の前で仁王立ちする。月光を一斉に受け止め、彼女の輪郭が白く透き通っているようだった。
「わたしがここにいるのは、あなたのせい?」
「そうよ」
「あなたが外へ連れ出したの?」
「他に誰がいるとでも?」
「命令じゃなければ、これはあなたの独断行動?」
「当たり前じゃない」
そこにきて、シャーランは押し黙った。目の前の憎き相手は、いつものような、人を小馬鹿にする笑みを浮かべていないことに気付いたからである。今、彼女が浮かべているのは、自然と浮かんだ本当の笑みだと、シャーランは悟った。作り物ではない。本物だ。同時に、彼女に対して違和感が生じ始める。
構わずに、質問を続けた。
「わたしを攫って、どうするの?」
その質問を待っていたのか、ミロワールは、手にした杖の先をシャーランの心臓に当てた。今にも突かれてしまいそうで、緊張が表情に浮かび上がりそうになる。
「決まってるわ。あなたを殺すの」
思わず、シャーランは拳を作って縮こまる。風の刃は頰に当たり続け、熱を帯びてきているのが分かった。
ミロワールは、シャーランの肩を手で回し、引き寄せるようにしてお互いの顔を近づける。相手の吐息が、鼻の中へと伝っていく。化粧で香りを周囲に撒き散らし、近くにいたシャーランもその香りに包まれる。その香りはとても良いはずなのに、シャーランにはその香りが良いとは微塵も思えなかった。
「震えているのね、可哀想。寒いでしょ。凍え死んでしまうわ。それとも、殺されることに怯えているの?」
「殺すというのも、独断行動に入っているの」
「もちろん」
「いくらなんでも勝手じゃないの?自分で手入れした庭園をお散歩するような調子で、あなたは言うけれど、わたしを殺すのを独断で行うのはまずいと思うんじゃない?そうするより前に、誰かに報告とかしてね」
「誰にも報告していないわ。あなたは、この森で誰にも見届けられないまま死んでいくの。でも、ちゃんと埋葬して、あなたのお母さんのところへ行けるように祈るから、安心して」
お母さん……お母さんか。そう、目の前にいる人が――。
身体中が暖かくなるのを感じる。その暖かみが、冷えた身体を解すためだけのものならどれほど良かっただろうか。その暖かみは熱を帯び始め、高温で燃える青い炎へと変わっていく。
目の前にいるのは、数え切れないほどの屍を積んできた殺人鬼なのだ。その屍には、シャーランの母も含まれている。
白髪の少女は、人を殺すことなど大したことではないと思っているようで仕方がなかった。簡単に自分を殺すと宣言し、彼女の武器である杖を持っているのだから、やろうと思えばできるだろし、そこに躊躇いはないはずだ。
考えてみれば、自分は――自分達は大切な人を失って悲しんでいるのに、白髪の少女はそれを食い物として高い所から嘲笑っている。今もそうだ。母を殺すことなど、何も思っていないのだ。
それは、人間の価値観への反逆のようであり、孤高に佇む堕ちた女神のようだ。
孤高。そう、この人に本当の味方はいるのだろうか。イデアルグラースというつながりではなく、彼女自身という存在を捉え、接してくれる存在が。
その存在がいないから、彼女は人を殺せるのだろうか。殺しても何も思わないのだろうか。
「何を考えているの?」
彼女から見て、シャーランは思惑ありげな表情でもしていたのだろう。薄いピンク色の唇から彼女の香りがたち篭もり始める。風が吹けば、すぐにその香りはなくなるが、常人ではあり得ないほどの色白の肌を見ていると、彼女の唇も不健康に思えてしまい、些かに気分が悪くなってくる。
「別に……」
「嘘。そんなに怖い顔して、睨みつけて。恐怖とは違う何かが主導権を握っているのね」
シャーランは、ある事にミロワールに訊かずにはいられなくなった。
「……教えて。わたしを何故殺そうとするの。そうすることで、あなたに得することでもあるわけ?もしくは、憂さ晴らしの一環か何か?」
「憂さ晴らしじゃない」
返答が早く返ってきた。相変わらず、彼女は微笑んでいるが、口元は引きつっているようで、目には生気が途端に失われていた。
二人の焦点距離が縮まり、鼻が今にも合わさりそうなところまでミロワールが迫ってくる。目を細め、細長くなった赤い目は、彼女の麗しさを見事なまでに打ち消し、冷徹さと非情さが一気に増したように思えた。
「あなたは、わたしより恵まれている。どうしてなの?」
「……何を、言ってるの」
「愛される人がいて、幸せになる環境が整っている。わたしとあなたは変わらないのに、どうしてこんなにも差が出てしまうの」
自身への哀れみを込めた言葉。絶対的な自信を持っている彼女にとって、珍しく弱音を吐いている。
自分を殺すと言っておきながら、中々手を下さないのは何故だろうか。本当は下されては困るのだが、自分が彼女の立場であるのなら、早急に相手を始末して逃走するだろう。異常を感じ、追っ手が来てしまうのは避けたいからだ。
「簡単よ。自分から進んで、他人を不幸にして楽しんでいるから」
相手が何を考えているのか分からないが、ここは相手の問いに答えて気を逸らせることができるかもしれない。時間を稼いで、応援が来るのを信じて待とう。一緒にいたカレン先生が、おそらく助けを起こしてくれる。そう思っておこう。今は、相手と話を続けるんだ。
「楽しんではいないわよ」
「そうでなくても、人を殺すのを何も思っていない。当たり前の行為のように、あなたは殺人を繰り広げてきた。その時点で、普通の人と一緒になろうだなんて贅沢にもほどがあると思わない?」
ミロワールは黙ったままだ。
「世界は、不条理だけれどよくできている。どんなに罪を犯し、罰から逃れたとしても、最後にはその人にすべて返ってきて、幸と不幸ができる限り釣り合うようになっているの。例外はあるけどね」
相手をシャーランの話に耳を傾けてはいたようだが、話が終わると杖を構える仕草をとった。次の瞬間には、杖の細長い――それこそ、人を突き刺せるような鋭さを持った――先端が彼女の目の前を横切った。風に刃が生じ、思わず目を瞑る。再び目を開けてみると、杖が通った軌跡が、服に切れ筋を作っているのが分かった。すると、命綱を断たれたように大きな裂け目となり、シャーランの下着が見えるようになる。思わず、シャーランは両手で裂け目を隠した。
「調子に乗らないで。今、どちらが優位な立場なのか、食用牛の反芻のように考えてごらんなさい」
ミロワールの首が直角に曲がり、そこから斜め後ろに視線をずらす。
「どうやら、余興はここまでみたい。あなたを殺す前に、やっておきたいことがあるの。ようやく、お出ましとなったか」
枯葉を踏みしめる音。暗い森からぬっと現れたその人物は、ミロワールと変わらないほど透き通った肌を持ったその人間の女性。表情は硬くも、手にはショットガンらしきものを持っており、二つの開いた目は、ミロワールを射止めようと思わんばかりである。カレン・アンダーソンだ。
カレンは無表情のまま、相手に銃口をむける。
「ミロワール・マレン。敵地に入り込み、無傷のまま出られるだなんて思っているのなら、大間違い。鎖で繋がれたシャーランを解放してこちらに渡せば、今はあなたに何もしないであげる」
「つまり、次出会ったときは命がないわけね」
「そうだ。さあ、どうする?」
ミロワールは笑みを浮かべてはいるが、細長い杖を持ってい手に力を込めるのが分かる、。あれは、以前出会ったときに目にした、彼女の武器だ。
ミロワールは、まばらに散った枯葉の上を踏みしめるようにステップを刻み始める。落ち着かないのか、あるいはこの状況を打開する策を考えているのか、もしくは楽しんでいるのだろう。後者だった場合、死んでも許さないが。
「本気で言っているの?」
「どっちにしろ、あなたは死ぬの。……いえ、死んで欲しいの。その上っ面な笑みを浮かべながら、あなたは数多なる人を葬り去ってきた。わたしとシャーランにとって親しい人さえもね。これ以上、あなたのせいで犠牲者を増やさないように、ここで殺す」
殺す、という言葉が聞こえた瞬間、ミロワールは歩みを止めた。笑みがうっすらと薄らぎ始め、真剣な眼差しへと変わっていく。
「あなたの言葉には嘘があるわね。自分のわがままを知られたくがないために、まるで世の中に即して言うようにね。これ以上、犠牲者を出さない?だったら、どうしてあなた一人で来たの。応援を呼べば良かったのに」
「応援は来る。わたしは、先に来ただけ」
「待てなかったのね。わたしを殺したくて殺したくて、たまらないんでしょう?」
カレンは微細な動きを見せない。ただ、ずっと銃口をミロワールに向けている。相手が移動すれば、ショットガンも移動し、射程範囲から逃そうとはしない。
ミロワールは両手を広げ、胸を張った。
「さあ、撃ってごらんなさい。後ろにいる、愛する人の娘も食らうかもしれないけどね」
刹那、近くで巨大な爆発音がした。目の前のものを粉々に砕け散り、赤い華を咲かせ、証とされる黒煙が上空へ上がっていく。
森から遠い、おそらく騎士団がある方で煙が上がっているのが見えた。若干ではあるが、森と空の境界線部分がうっすらと赤くなっている。
「始まった」
ミロワールは、天空へ昇る煙をうっとりと眺める。カレンは、この瞬間を逃さずに引き金を引いた。先程以上の轟音が響き渡り、閃光が放たれ、銃弾がミロワールへと向かっていく。
イナバウアーのように背を反らし、両腕をぶら下げる姿を見せ、銃弾は虚しいままに森の暗がりへと飛び込んでいく。短い動作でもとに戻り、杖の切っ先をカレンへ指した。瞬きをすれば、彼女のイナバウアーは見れなかったほど一瞬の出来事である。見たからと言って、別に何もないのだが。
「もちろん、あなたとも」
カレンはショットガンを背中へと回し、代わりに二双の剣を取り出した。二つ合わせれば、畏怖さえ感じる弓矢へと変貌する。
その行動が、戦いの始まりの合図だった。両者はお互いの武器を持ち、相手の方へと走っていく。ミロワールの杖が、カレンの剣が、今にも敵を殺さんとばかりに暴れ狂おうとする。片方の主人の目に赤い筋が入れば、もう片方の主人は冷たい表情のまま自然な殺意を持つ。これは、完全な殺し合いなのだ。両者が承諾し、どちらか一方がこの世界から退場するまで、二人は血塗られた手でも武器を握りしめ、戦意を失わないだろう。
一人は愛する人のために。
もう一人は自身の願いのために。
二人は争う。鎖に繋がれた少女を賭けて。
上空から、冷たい一滴の雫が、二人を見守る少女――シャーランの鼻の上に落ちる。
月が厚い雲に覆われ、辺りが一気に暗くなった。




