第159話 愛する人
わたしが騎士団に来たのは、いつだっただろうか。
カレン・アンダーソンは、若き日を思い出しながら先を行く。氷となった雪の上を歩き、柳眉で凛々しい彼女の顔が崩れることなどない。彼女は今まで、人前で表情を出すことは乏しかった。
そうだ。わたしは、ここへ連れてこられたのだ。では、一体誰に?
行く先々ですれ違う人達は必ず、彼女の方を見て、すぐに視線を逸らす。もし目が合ってしまったら、黒い瞳の奥に見える、計り知れない程の殺気で睨まれそうな気がしてしまうからだ。
しかし彼女は、出会う人々全てに視線を合わせる気などない。そもそも、まったくの赤の他人を見ることなど、一度も考えたことなどなかった。周りにいるのは、取り替え可能な人材であり、結局はいてもいなくてもどうでもいいのである。
忘れるはずがない。わたしはあの人によって連れてこられた。あの人がわたしを、全てを変えたのだ。
カレンはそこから先を考えるのをやめてしまった。向かう場所が見えてきたからである。いつ見ても、変わらない清潔さを保ち続けている。彼女はそう思った。
騎士団と隣接した病院である。この辺で怪我を負った兵士達に愛用され続けている場所だ。
彼女の歩調が乱れることなど一切ない。かと言って、特に意識して歩調を合わせているわけではない。これは、あの人の癖だった。いつも無駄を省き、気高さを持ち続ける姿勢を崩さなかった。カレンはそれを真似しているだけである。
それは、彼女を変えたと言われる人物の尊敬なのか憧れなのか。それはどちらでも良かった。最初こそは意識して歩いていたが、次第に身体に馴染んでいくと、自然とこの歩き方となっていた。
病院の正面玄関までやって来た。外にいた患者や看護師の視線は一斉に、彼女のところに集まる。騎士団やヘルシャフトを含めて、彼女を知らない者などほとんどいない。整えられた紺のスーツと黒いセミロング。加えて、シミ一つない肌と先程言った、臆してしまうような鋭い目。北風で髪が靡いても、彼女は眉一つ動かさない。
周りにいる人々も寒々とした景色も、カレンにとっては関係のないものだった。目指す先はこの病院の中、ある人物である。
彼女は一定のリズムを保ったまま、入り口の奥へと進んでいく。
――――
シャーラン・イヴェールはいくつかの手続きを済ませると、自分がいた病室をあとにした。体内の毒もほとんど消え去り、特に異常と呼ばれるところはなかった。彼女は手ぶらで、エレベーターに乗る。両手に、白い手袋をはめたままで。彼女は想像する。途中で乗り合わせた患者達はが、彼女の手を見ることを。何故、手袋をはめたままなのだろうか?その疑問は、止まることを知らない川のように自然と過ぎ去り、気に留める人は誰もいないが。
あの感じ、いつもそうだ。皆、わたしの手を見ていた。
自然と彼女は、エレベーターに乗る前に手袋を外そうとして、やめた。常時、手袋を身につけているのには、もう一つ問題がある。手と手袋の間に熱がこもるのだ。それは、じわじわと全身に伝わっていく。頭が妙に冴えず、のぼせたような気分となる。
これが彼女にとって、たまらなく嫌だった。手袋をはめることで自分が本調子ではなくなり、周りからは多少、奇異な目を向けられる。見て欲しくない、手の部分を。
逆に外していたら、注目を集めることがなくなるが、うっかり人の命を吸い取ってしまいかねない。優先順位をつけるなら、手袋をはめていた方がいいだろう。注目を集めても、我慢すればいいことである。適度に外して、溜まった熱を逃していけば、のぼせるようなことはなくなる。そうだ、それが良い。
しかし、彼女は不安はすぐに取り払われた。乗ってきた患者達は、彼女の手など見る素振りも見せない。目を合わせるだけで、下に向けることがない。皆、この白い手袋が見えていないように思えた。シャーランは余計に違和感を覚えてしまった。
それにしても、この不思議な手袋はどこで手に入れたのだろう。誰かから貰ったことは知っている。では、誰に貰ったのか。そして、それはいつだったのか。記憶の波を辿っていくが、思い出せない。突如、白い手袋が現れたみたいだ。シャーランはますます違和感を覚え、不気味に感じた。
一階まで降り、シャーランはエレベーターから出て行った。階数表示を見てみたが、駐車場となっている地下二階までで、それ以降は表示されていない。当然と言えば当然である。そんな地下五階も六階もないだろう。けれど彼女は、もしかしたらまだあるのではと思い、階数表示に目を向ける。
地下二階までしかなかった。
シャーランは頭を振り、自分の間抜けさに叱咤する。あるわけもないものを、何故わざわざ確認するのだろう。
違う、そうではない。確かわたしは、地下二階まで降りた記憶がある。しかも、この病院である。それは、いつだっただろう。額に僅かに皺を寄せ、考え込む姿勢をとる。
これも、彼女は何も思い出せなかった。苛立ちを覚え、自分の記憶力の低さをひたすらに責める。
彼女があの出来事を思い出すことは、絶対にない。あの人物に出会わない限り……。
――――
会計は騎士団が既に済ませてくれていた。担当の医師に感謝を込めて会釈し、シャーランは晴れて退院となった。見ると、シーナが待合室の一角にある椅子に座っている。シャーランの姿を確認すると、すっと立ち上がってこちらへとやって来た。
「特に異常がなくてよかったよ。具合がないところとか、ない?」
「平気。早く、訓練を再開したいくらい」
シーナは安堵の表情を浮かべる。だが、途端に真顔になる。
「いくら元気でも、無断で外には出ないこと。いい?」
「はい……」
苦笑混じりに、シャーランは答えた。手袋を一瞥をくれると、思いきって訊ねた。
「シーナ、わたし、白い手袋って持っていたかしら?」
虚を突かれた質問だったらしく、シーナはマジマジと彼女を見た後、思い出しながら話す。
「なかったと思うけど、なんで?」
シーナは両手を見もしなかった。もし、手袋を身につけていたら、まず指摘していただろうに。
今度は、別の質問をぶつけてみる。
「いえ、なんか、手袋を身につけているような気分で、ちょっと蒸し暑くて」
もし見えていたら、彼女は相当のボケがあると思ってしまうだろう。だが、シーナは彼女の手を見て、言った。
「手袋なんか、身につけてないじゃない」
すぐに確信した。
皆、この白い手袋が見えていない。こんな不可思議なことがあるだろうか。確かに、エレベーターに同乗してきた人の手袋の存在に気づいていないようだった。下を向いていたため、気分が悪いと思い込んだのか、シーナは心配そうに覗き込んでくる。
「シャーラン、本当に大丈夫?顔色も何処となく悪そうだし」
彼女は、無理やり笑顔を作る。
「本当に平気よ。なんでもないから」
心中では、全然平気ではなかった。わたしの両手にあるものは何なのだろう。疑問しか出てこないことに、そろそろ気味悪さを覚え始めていた、その時である。
「シャーラン・イヴェール」
フルネームで呼ばれて、振り返る。呼んだのはカレン・クラシアだった。背筋を伸ばし、皺一つない肌とスーツを備えた彼女は、吊り上がった目にシャーラン、ただ一人の姿が映し出されている。
「はい……」
「あなたに用があるの。一緒に来てくれる?」
「……分かりました」
カレンは回れ右をすると、今来たであろう道を丁寧に辿って戻っていく。シャーランはその跡をついていった。一度シーナの方を見ると、「先に戻ってて」、と口パクで伝える。それが伝わったのか、シーナは頷いて、騎士団に直接繋がっている道の方へと向かって行った。
カレンに連れられて、シャーランは病院の外へと出た。小さな氷柱ができた出入り口を出ると、迎えるにはあまりにも冷たすぎる北風が、彼女の退院を祝福するかのように、吹き上がった。
――――
カレン・クラシアが使用している部屋に通され、面会用と思われる、向かい合った幅広い椅子にシャーランは腰を下ろす。カレンは壁に設置された棚の戸を開き、中から茶葉が入ったものを取り出した。電気ポットに手を伸ばし、水を入れて湯を沸かす。その間に、二つのカップに茶葉を入れていく。
「紅茶を淹れるけど、ミルクとか砂糖は必要?」
「いえ……何もいらないです」
言いながら彼女は、カレンの部屋を見回してみる。
二つの椅子と書斎用の片付いた机。壁に付けられた戸棚。真下には、お茶を淹れるために設けられたスペース。机の後ろには、人が二人分程通れそうな大きさの両開きの窓が設置されている。カーテンは備わっていない。
他に家具はなかった。広々とした部屋に比べて、家具の数が釣り合っていない。これでは、まだ引っ越ししたばかりの家そのものではないだろうか。必要な家具以外、置くつもりはないのだろうか。
カレンはトレイに二つのカップを乗せて、シャーランがいる方へとやって来た。何かを確認するような仕草をとった後、片方を差し出し、もう片方を自身の方に寄せた。再びトレイを持って立ち上がり、元の場所に戻して、ようやく彼女は落ち着いた。
「用とは、何でしょうか?」
シャーランは真っ先に話題を切り出す。手元のカップには目も向かず、カレンの口から出る答えに注目する。
向こうは、カップの水面を揺らしながら、シャーランの目を見据えた。
「マリア……あなたの母のことよ」
あまりにも予想外の返答に、シャーランは一瞬だけ面食らった。カレンは紅茶を一口だけすすり、膝の上に乗せる。
「母を知っているのですか?」
「ここに、知らない人がいる方が珍しいわよ。彼女は、数ある兵士の中でも一番の実力者だったから」
ああ、確か母はそんな人だった。シャーランは、一番近くにいたのに、詳しいことは知らない自分に改めて嘆く。
その様子に気づいたのか、カレンはねぎらうように言った。
「あまりにも近いところにいるとね、逆にその人の本質が分からなくなるものよ。相手が親だったら、尚更ね」
「……先生は、母をどのくらい知っていますか?」
「少なくとも、その辺にいる人よりは詳しく知ってると確信している。わたしは、マリアに救われてここにいるのだから」
「母に助けられて?」
シャーランは訊き返す。カレンは頷いた。
「間近で見てみると、あなたはマリアの生き写しみたい。どこからどこまでそっくりね」
カレンは、どこか懐かしむような表情を浮かべる。普段、感情をあまり露わにしない彼女にとって、かなり珍しいことである。
シャーランは無意識に、自身の黒髪を撫でた。わたしは、母の代わりになりたいと思っている。全ての役割を背負い、生前の母を真似した。最初に真似したのが、外見だった。
「紅茶が冷めるから、早く飲みなさい」
カレンに催促されて、シャーランは紅茶を飲み干す。訊きたいことが山ほどある。母は一体どんな人だったのか、詳しく知りたい。
「あの……母のことを詳しく………」
突然、激しい目眩に襲われた。次に耐えきれないまでの眠気に誘われる。妙に頰も熱い。頰だけではない。身体の体温も上がっているようだった。
堪らず、シャーランは上体を倒し、椅子に全てを預けた。眠くて眠くてたまらない。一体、どうしてしまったのだろう。
そのまま、彼女の意識も引きずりこまれ、深い眠りへとついた。
カレンは、シャーランの一連の出来事を見ていた。紅茶を飲んだ途端、突然彼女は眠り込んでしまったのである。手元からカップが離れ、割れることはなくても、カチャンと音がして、わずかに残っていた紅茶が床に広がる。
特に慌てた様子でもない。カレンは立ち上がり、自分のカップを置いて、机の方に向かう。
存外早く、薬が効いた。やはり、睡眠薬は手離せないものだ。カレンはそう確信する。机の引き出しを開け、伏せられた写真立てを取り出す。そこに飾られた写真を見て、カレンは微笑を浮かべ、抱き寄せた。
わたしを救った人、わたしの運命を変えた人、わたしの……愛する人。
写真に写っているのは、シャーランと瓜二つながらも、幾分大人な風貌を漂わせる女性。マリアだ。
数秒間、写真を抱きしめた後、再び引き出しの中へと仕舞う。そして、眠りについたシャーランのところへと寄り、彼女の寝顔をじっくりと眺める。
なんと可愛らしい娘だろうか。本当にマリアと似ている。転生したのではないかと、思ってしまうくらいに。
カレンは右手でシャーランの顎に触れ、顔を持ち上げる。そして、カレンの唇を近づけ、相手の口へと吸い込まれていく……。




