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白銀のヴァールハイト  作者: A86
5章 忍び寄る影
161/173

第158話 そして、俺はようやく気づく

 その日は早く起きて、一通りの身支度を整えた。一人起きればもう一人が起き上がる、まるで糸に繋がれた糸のように、俺が起きると他の三人も次々と目を覚まし始めた。アークは意識がぼんやりし続け、時々目を閉じている。


「昨夜、どうしてもやっておきたいことがあってね。あまり寝れてないんだよ」


 あくび混じりに彼の声が口から絞り出た。机があるところには部品が散乱しており、何やら小型の機械が置いてあった。あの機械は何だとアークに訊ねると、すぐに分かるよと口の端を吊り上げて笑った。

 リアムは起きるとすぐにヴィルギルの方へと向かい、彼を起こしてそそくさと部屋を出て行った。部屋を出る、彼の後姿はまるで介護者のようで、一寸の緩みも見せてはならないという覚悟を見せる目をしていた。小さく誰にも消されない光を、両目に浮かべながら……。

 俺とアークは食堂へと行き、用意されていた朝食にありついた。ここに来た時にはもう、席は満員に近い状態と言ってもいいくらいの人の多さだった。

 今日も騎士団は休み。その短い知らせが伝わり、俺達にどよめきを起こした。ある人は休みであることに歓喜し、ある人は事件を思い浮かべて視線を左右に動かす人もいる。まだ事件現場の調査と遺体や諸々の検査が残っているらしく、そっちを優先的に進めるということだった。もしかしたら、午後には再開するかもしれないと一言添えて、知らせを伝えてきた人はその場を去る。俺達の目線は、再び目先の食事へと戻った。


「ところで、事件のことは誰から聞くの?」


 アークが手にフレンチトーストを持ったまま訊いてくる。直後それを口に入れ、溢れる湯気と卵の香りを漂わせる。


「ダニエル先生……かな。あの人なら聞きやすいし、いろいろお世話になってるからな」


「果たして答えるかね。人が死んでるから今までの遭遇した事件でも重大な方だよ」


「分かってる。もし訊ねて駄目だったら、一旦諦めよう。その後街にでも行って、ヴィルギルが倒れたビルの方へと行く」


 アークはフレンチトーストを食べ終えると、右手にオレンジジュースを持ち、それを喉の奥へと流し込む。ジュースを飲む姿勢を数秒間保ち続けた後、空になったコップを起き、一息ついた。


「無断でまた脱出する?」


「それ以外ないだろ。今はいろいろと規制されているからな」


「また規則を破るんだ……。言っても仕方ないけど」


「規則を破るためにあるんだよ」


 無茶苦茶な論理を相手に押しつけ、黙らせた。規則は破るためにある。問題児のモットーとも言えるようなセリフだ。そんな言葉を吐いた自分に、自嘲的な笑いを投げかけた。

 それだと、何の規則なんだろうな。


「デュークが心配する必要はいらないよ」


 アークは立ち上がり、食器が置かれたトレイを両手に持つ。


「規則破りはもう慣れたから。最低だけどね」


「ああ、最低だな」


「それにダニエル先生から話を聞くことは出来るよ。僕が保証する」


 保証する証拠は何だ?そう訊ねようとした時にはもう、アークはトレイを運んで行ってしまった。自分の前にあるトレイを見つめる。フレンチトースト、質素なサラダ、焦げ目があるソーセージにコーヒー。デザートとしてチョコレートマフィンも置いてある。ほとんどの食事にまだ手をつけていなかった。食欲があるのかないのか、俺にはよく分からなかった。今はまだ、何もしたくない。

 食堂は暗かった。灰色の雲が空に満遍なく広がり、雪は固くなって氷と化している。痩せきった木々とそうではない木々の群れ。外に出れば、深くて暗い沼の底に浸かってしまうようになり、そうならないようになんとかしてそこから這い出でる。食堂には明かりが点いていなかった。外の重い空気と光が窓を通して差し込んでくるだけで、それ以外に頼りになるものはない。中々現れない食欲が現れるのを我慢して、目の前に食事にようやく手を伸ばし始めた。

 ヴァイス・トイフェルの襲撃は、まだない。


――――


「騎士団での殺人事件について詳しく聞かせて欲しい?」


 ダニエル先生の部屋。並べられた椅子に腰をかけた俺とアークは、早速話題を切り出した。相手は手に持っているコーヒーカップを揺らし、口に運ぶ。ゆらゆら昇る湯気の上に、彼の――半ば呆れた表情があった。


「お前達が関わる必要がないものだ。たとえそれが、友人であってもな」


「ブラウンが誰に殺されたのか、分かったのですか」


「だから、答えないと言っているだろ。人が死んだ事件だ。未成年で未熟なお前達に、安易に情報を教えることなどできない。今までは教えざるを得なかったか、上の命令で教えていただけだ。この事件は私も責任者の一人となっている。責任者が言った以上、どうすることもできない。諦めろ」


 肩を竦め、俺はやっぱりと心の中で呟いた。ダニエル先生の表情は険しく、不機嫌さが否めない。もともと無理な頼み事だった。最初に彼の様子を見た時、僅かに残った可能性も潰えたと直感してしまった。

 ここから粘っても、無理であることは分かっている。諦めを受け入れて立ち上がろうとした時、アークは不意にこう言った。


「じゃあ、今までの事件で何か繋がっている部分はありましたか?」


 ダニエル先生の視線がアークへと注がれる。一瞬の静寂。彼は椅子から立ち上がり、先生がいる机の方へと歩み寄っていく。机の上には、山積みにされた書類でいっぱいだった。

 先に口を開いたのは向こうからだった。


「と、言うと?」


「リアムのサソリの毒による殺害未遂、街での大量虐殺、シャーランの毒殺未遂、そしてブラウンの殺害。殺し方はそれぞれ別であっても、関連性があるようにしか思えないのです。例えば……最後の事件以外の犯人は皆自殺している事とか」


「……そうだな。お前が言いたい事はよく分かるし、我々もこの四つの事件は、何か別のものが関係していると踏んでいる。言えるのは、ここまでだ。もう部屋に戻れ」


 向こうの先導に促されて、俺達はドアの向こう側へと押し出される。二人は通路に出ると、ダニエル先生はドアを閉めようとし――顔が見える程度の隙間を空けて言った。


「お前達は、他の訓練生には知らないような情報をたくさん知っている。今までの状況下での事を考えれば、致し方ないだろう。だが、だからと言ってお前達が情報を全てを得られる権利はない。覚えておくといい」


 そして、彼はドアを完全に閉めきった。残された俺とアークは、暫くはここに佇んでいた。先に動いたのはアークだ。何かを思い出し、急かす気持ちを抑えて駆け出す。


「部屋へと戻ろう。アレ(・・)を使う時だ」


「アレ?」


「いいから」


 彼が示しているものが分からないまま、寮の部屋へと駆け足で戻っていった。


――――


 アークが使っている机のところへ行くと、彼はトランシーバーを取り出した。スイッチを入れ、周波数を合わせるかのようにいじっていると、やがて黒い機械からリズミカルな音が聞こえてきた。コツ、コツ、コツ、コツと一定の間隔でその音がする。アークの表情に笑みが溢れた。


「ちゃんと機能している」


「アーク、これは……」


「盗聴器だよ」


 涼しげな表情で彼は言った。机の周りにはまだ、機械の部品が細かく散らばっており、あまり綺麗とは言い難い。


「お前が作ったのか?」


「そんな技術はないよ。機器に盗聴機能を入れてくれる知人がいてね、その人に頼んで携帯電話にその機能を入れてもらったんだよ」


 トランシーバーから聞こえる音が突然消えた。次に聞こえてきたのは、ガタッという音。それから、カリカリと何かを書いている音だ。何の音だろうか。


「今、聞こえているのはダニエル先生の部屋からだよ。あそこから出る前に、先生が使っている机に乗っている書類の束に携帯を紛れ込ませたんだ。まだ気付かれていないみたい」


「……知人と言ったな。どんな奴なんだ?」


「どんな……か」


 俺の方に目を向け、彼は言葉を選ぶかのように慎重に言う。


「恩人みたいな人だよ。僕を助けてくれたんだ……。いつかデュークにも会わせてあげるよ」


 俺は別にいいと手を振った。アークにとっては恩人でも、盗聴器を仕込む奴などろくな奴ではない。それに、一年前にGPS付きのイヤリングを貰って危ない目に遭ったせいで、何か盗み見る、聞く機械に対して苦い思い出がある。もう少しで死ぬかもしらなかった、あの塔での出来事を思い出すからだ。会いたいと思う気持ちが湧かなかった。

 再び彼はトランシーバーの方に目を向けた。カリカリカリという音が聞こえてくるだけで、他は何も聞こえない。おそらく、山積みとなった書類を片付けているのだろう。

 俺達二人は動きが出るまでその場を動かなかった。盗聴器を使って一時間弱が経過しそうになった時、俺は彼にさらなる質問をした。


「何でこんなものを持ってるんだ?わざわざこの時の為に用意したとは思えないんだが」


 アークはまた、すぐには答えなかった。どのように答えようかを考えているのか。あるいは答えることを躊躇っているのか。

 瞬きして、数秒固まり、口を開く。


「情報集めに使っているんだ。上の動きを知りたくてね」


「じゃあ、ずっと盗聴器を使っていろんな情報を盗み聞きしてたのか?」


 一番悪行をしなさそうな人物だと思っていたがために、半ば驚いてしまった。しかし、盗聴というのはなんと悪趣味なことだろうか。率先して行う彼もほぼ同類だった。


「違うよ。盗聴器を使ったのは今回が初めてだよ。今まで使おうかどうか悩んでいて、机の奥深くに眠らせていただけだから」


 その言葉が本当だといいのだが。いつの間にか、俺はアークに疑念の眼差しを向けていることに気がついた。仕方ないと言われれば、それまでなのだが……。

 やがて、トランシーバーもとい受信機から新たな音が出てきた。ギーというドアを開ける音。そこからコツ、コツという足音。ガガッと何かを引きずる音が聞こえたと思えば、さっき聞こえた足音より少し高めの足音が現れる。


『誰か来たのか?』


 低めの男声。時折聞こえる僅かな息づかい。声音からしてクラーク先生だろうか。たった六文字の言葉から、テンションが高い時と違って、平静とした落ち着きがあるように感じた。


『ちょっとした訪問客が来てね』


 次に聞こえたのはダニエル先生の声だ。


『そっか。まあそれはいい。お前に言われた通り、犯人の身元が特定できたぞ』


 そこから紙が擦れ合う、カサカサとした音がすると、間を置いてから紙をめくるような音が続く。三十秒程経ったあと、パサッと束になった紙を机に置いたと思われる音が出て、次いでに溜息も聞こえてきた。


『お前の予想は的中だったな。事件を起こした犯人全員、一年前の戦いの場だった街に住んでいた』


 一年前。街の中心に大穴が開き、地の底からのっそりと現れた巨大なヴァイス・トイフェル。全ての住民を避難した街は凍りつき、壊滅していく。戦いが終わった後、住民達は様々な所へと移住し、中でも騎士団の一番近くにあるヘルシャフトの街に住民達は移り住んでいた。母もその一人だった。


『それだけじゃない。犯人達にはもう一つ特徴かあった』


『皆、体のどこかに障害を持ち合わせていた、だろう?』


 クラーク先生の言葉を継ぐようにダニエル先生が言った。


『しかし、ここまで来るとだ。いよいよ奴らのお出ましというわけだ』


『ああ、そうだな。鑑識からも報告が来た。これを見てくれ」


 紙か何かを机の上に優しく叩きつける音。と思ったら、バサバサッと何かが崩れ落ちる音がした。クラーク先生が机越しに前屈みでもして、弾みで山積みとなった紙を崩してしまったのだろう。


『悪りぃ。というかお前、書類を溜め込めすぎだぞ』


『色々動いているからな。すまない』


 当たりだ。崩れた紙を掻き集めている。机にそれらを置いているだろうというその時、クラーク先生が声を上げた。


『おい。この携帯、お前のか?』


 雑音が入る。先生の声が一段と大きくなった。息遣いも、まるで近くで聞いているかのように感じる。

 盗聴器が見つかったのだ。


『いや、違うがそれは……』


 ダニエル先生が言葉を切る。再び沈黙が降りた。向こうでは、何を考えているのだろう。音声だけでは分からない。右手を机に置き、左手を腰に当てて凭れかかる姿勢が強張った気がした。右手に更なる力が入り、そこから直立する。置く場所を失った右手は左手を招き寄せ、絡み合い、腕を組んだ。アークは椅子に座ったままで動かない。


『クラーク、それをどこかへ捨ててきてくれないか?今すぐ』


『どして?』


『いいから。念のためだ』


 クラークは詳しくは理解できていなくとも、相手から鬼気迫るものを感じ取ったのか、無言の了承をした気がした。足音が受信機から響き渡り、続いてドアを開ける音、そこからクラーク先生が出て行こうとしているのが、容易に想像できた。

 アークは受信機の電源装置と思われるところいじる。プツッと音がすると、受信機から音もノイズも発しなくなった。


「バレたかな。僕達が仕掛けたことに」


「どうだろうな。少なくとも、ダニエル先生は盗聴器である可能性を考えてはいたな」


 適当に言葉を返しながら、俺は先程の会話の断片を思い出した。犯人達の共通点は、一年前の戦いの舞台であった街に住んでいたこと、どこかに障害を持ち合わせていること。そしてクラーク先生が言った、奴らのお出まし……。

 不意に母のことを思い出した。母はあの街に住んでいた。戦いが終わり、この街に移住した頃、母さんは突然左腕の感覚がなくなった。どこの医師に相談しても原因が分からない、謎の症状。

 母さんは、偶然にも犯人達の共通点と一致している。いや、|共通〈・・〉となったのだ。母は今まで、常人と変わらぬ姿だった。あの戦い以降、左腕が動かなくなった。

 それだけではない。今まで事件を引き起こした犯人達が、最初から障害を持ち合わせていたなど誰が断言できるだろうか。母と同じように、あの戦いの後、体の部位から症状が現れ始めたのだとしたら?

 留まることを知らない疑問が次々と溢れかえってくる。そして、姿を見せる不安。これがもし、クラーク先生の言っていた、奴らのお出ましの合図だとしたら?症状が現れたのが、奴らの仕業だとしたら?奴らが、新たな計画を始動していたとすれば?

 嫌な予感が込み上げてくる。何かを仕掛けてくる。奴ら――イデアルグラースが秘密裏に暗躍している姿を思い浮かべた。

 これからまた、とんでもないことが起きるんじゃ……。


「デューク?」


 アークの呼びかけに、思考が一時的に止まった。不思議そうな、そしてどこか俺への心配も見せる二つ爬虫類の目が写った。


「俺、どのくらい動かなかった?」


「特に、そんなに長くなかったと思うよ。それより、早く街へ行こう」


 彼は急いで立ち上がり、上着やら何やらを着込んで外へ出る準備を始める。


「ヴィルギルが倒れた場所へと行くんでしょ。早くしないと、ダニエル先生が来るかもしれない。最初に疑われそうなのが、最後に出入りした僕達なんだから」


――――


 マンションの屋上は、当然ながら寒い景色だった。冷たいコンクリート。人けがない閑散とした雰囲気。灰色の空が相乗効果となって目の前の景色をより一層虚しくさせる。

 ヴィルギル達が倒れていた跡は、何も残っていなかった。血痕も、何一つない。


「来てみたはいいけど、無駄足だったね。これじゃあ他のビルと一緒だよ」


 アークが失笑する傍らで、俺はさっきまでの不安をまた考え始めていた。もしこれがイデアルグラースの計画だとしたら、母さんもその計画に少なからず参加しているのでは。今はなくとも、これから母が大いに関わることが起きるのではないか。だとすれば、母さんは……。

 身震いをする。そこから先は、あまり考えたくなかった。思考を無理矢理にでも中断して、目の前のただただ哀しくなる景色に集中する。

 ヴィルギルとイデアルグラースの手下であろう二人が倒れていた。どうして倒れたのか、理由は未だ分からない。辺りを見回し、ヘルシャフトの街を一望する。この街には他と比べて背の低い建物ばかりだ。考えてみれば当然である。ここは都会ではないし、人口が密集してしまうほど土地がないわけではない。新しくやってくるのなら、街を少し広げればいいだけなのだ。だから八階ともならば、この街全体を見渡すことでき――。

 いや、そんなことはない。ここより高い建物があった。屋上から出て、北東方向にある約十二階建てのマンションがある。距離はここからさほど遠くない。あのマンションが邪魔で、その真後ろの街の様子が隠れてしまっていた。だが、特に支障は無いだろう。一番背の高い建物はあのマンションだと、ここから確信した。


「寒いな、ここ」


「八階だもの。地面から離れれば寒くなるから……。早く下まで降りようよ」


 結局俺達は、寒い思いをしただけで収穫は何もなかった。


 下まで降りて、アークがくしゃみをした。爬虫類は寒さが苦手なのだろうか。丁度、ビルとビルの隙間に北風が吹き、俺の黒灰色の毛皮に叩きつけられた。目を瞑り、風が止むのを待つ。風が止んだのを確認すると、再び目を開け、苔だらけの――見るからに湿っているマンションの壁を見た。

 こんなジメジメしたところに長居などしたくない。急いで騎士団へと戻ろう。後ろで縮こまっているアークの方を振り返る。


「騎士団へと戻るぞ」


「うん」


 頭を振り、俺の方を見る。その瞬間だった。突然アークの目が見開き、急いだように俺の方に突進してくる。俺はたじろぎ、彼の変貌ぶりに呆然としてしまった。何かを叫ぶが、言葉として成り立たず、悲鳴に近いものとなる。しかし、次の声はちゃんと言葉となった。


「伏せて!」


 言葉を理解するよりも先に、俺は地面に頭を押しつけた。何がどうしたのだと上の方を見た時、細長い何かが、俺がいた場所を通過していくのが見えた。先端が尖り、太さが木の枝程しかない。そして後ろは、一気に膨らんでいる。

 矢だ。俺は確信した。

 俺を狙った矢はそのまま進み、代わりに俺を助けようとしたアークの方へと向かう。あっ、と思った時には遅かった。矢は彼の腕を刺し、動きが止まる。アークは苦痛の表情を浮かべた。


「っ……。誰だ!」


 すぐさま立ち上がり、矢がやって来た方を見る。マンションの影から藍色のローブを着込んだ人物がクロスボウを構えていた。向こうは狙いを外したのを知り、逃げる姿勢を取って、マンションの影から消えた。

 

 敵の襲来。逃してなるものか。相手を即確認したのと同時に、俺は駆け出した。呻くアークを置いて、相手を追い続ける。ここで敵を見失ってはならない。何としてでも捕まえなければ。

 その思いが彼の身体を駆け巡り、心臓の鼓動が速くなる。身体が次第に熱くなり、脚に力が込もっていく。路地から出ると、ローブの人物は十数メートル先に真っ直ぐ進んでいた。止まることもせず、ただひたすらに目の前の獲物を追う。もっと速く。もっと速く。その気持ちに応えるかのように、彼は吹き荒れる北風に負けず劣らず走り続ける。一歩踏み込む。また一歩。獲物に近づく。どんどん近づく。十数メートル。数メートル。距離は縮む。どんどん縮む。走る。走る。走る。捕らえろ。逃がすな。転ばせよう。そうだ。手を伸ばす。距離は?もう数十センチ。

 手の先はローブの人物を押し倒し、相手は無様なまでに地面に叩きつけられた。息切れしながら、俺はローブを掴み取った。


「捕まえたぞ」


 ドスを聞かせた声を出す。相手が少しだけ震えた気がした。四肢が投げ飛ばされ、うつ伏せで倒れていたローブの人物は、のっそりと頭を起こす。反動で、深く被っていたローブが外れ、相手の頭が姿を現した。

 そいつは俺と同じ狼獣人だった。いや、犬かもしれない。栗色の毛皮を身にまとっている。その人物は、ゆっくりと俺の方を見る。目が大きく、こいつが犬人だと分かった。その幼さは、女性なのか男性なのかを惑わせる中性的な部分となっている。目は明らかに怯えていて、微かに震えていた。


 ローブの人物の正体が分かった瞬間、俺は言葉通りに唖然としてしまった。なぜなら、それは本来あり得ないことだからだ。ここにいてはいけない人物だからだ。


「ブラウン……?」


 俺が彼の名前を言うと、相手は更に目を動かし、動揺が広がった。

 何故だ。何故ここに。こいつは昨日、騎士団の目の前で見た。槍によって串刺しにされている姿を。そう、こいつは……。


「死んだはずじゃ……」


 だが、俺の疑問が解決することはなかった。怯えて俺を見るブラウンの額に、赤い点が現れたのである。その点は宙へと続いている。

レーザー光線だ。そう気づいた時、彼の額に一本の矢が的中した。「ギッ……」と短い声を出した彼は、再び地面に頭を投げ出した。

 俺はレーザー光線先を見た。もう既に消えていたが、記憶では上斜めからやってきた光線が来ていた。

あれだ。ついさっき、この街で一番背の高い建物が目に止まった。距離は少し離れているが、高いところから狙うならあそこしかない。

 まさか、次は俺を狙ってくるのか。そう思って身構えるが、先に矢が刺さった彼から声が洩れるのを俺の耳が捕らえた。

「うっ……」


 俺はブラウンの方に目線を戻した。彼は頭をまた持ち上がらせる。それはまるで、額に刺さった矢が何ともないとでも言うように。

 次々と繰り広げられる出来事。そして、目の前で俺はついに止めを刺された。


「アゲッ……」


 間抜けな声を出したかと思うと、ブラウンの目が見開いた。それはとんでもなく大きく、そのまま目玉が飛び出してしまうほどに。口や手首が痙攣し、目の焦点が合っていない。


「ギッ…ギガガガガガガガゲッ、アッ、アッ、アガッ!」


口から出る声。まるで言葉を失った動物のようだ。そのまま見ていると、次の瞬間――


「アゲガガガババババババババババババッッッッ!!」


 耳をつんざくような悲鳴、矢から吹き出る赤い炎。ブラウンの姿勢は、炎に引っ張られているように腰だけを浮かし、頭は直角に曲がっている。奇声をあげながら吹き上げ続ける炎はやがて静まり、彼は頭から地面に倒れ込んだ。白目を向き、半開きとなった口からは涎が垂れている。額に刺さっていた矢は自然と外れた。矢先は灰となっており、地面の上に転がると、形が崩れてしまった。

 あっという間の出来事だった。何が起きたのか、理解できずに棒立ちする。が、すぐに我に返り、俺はブラウンに駆け寄る。


「おい。しっかりしろ。おい!」


 白目を向いていた彼は、ゆっくりと意識を取り戻していくのが見えた。まず目が元通りになり、一度目を閉じ、それが半開きとなり、徐々に開いていき、完全に開く。そして俺の顔を見て、言った。


「あの……どちら様ですか?」


 彼の目には光が灯らず、濁ったような感じで生気が見られない。それはまるで、意志のない人形のように思えた。

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