第139話 ヘルシャフトにて
俺が今いる所は、ある人物の家。人物と言っても、名前を隠す必要はない。ここは、俺の母の家だ。
父さんが死んで、約一年が経とうとしている。今、母さんが住んでいる街はヘルシャフトと呼ばれており、言わば対白魔騎士団の下町のような場所だ。
一年前に俺の両親が住んでいた……イデアルグラースの侵攻で被害にあった街は、被害がとてつもなく大きかったことや、地下に数えきれない程のヴァイス・トイフェルがいたため、現在も復興作業が行われている。そのため、住民達は復興作業中は別の場所に住むことになっている。元々ヘルシャフトは、土地がものすごく有り余っていたため、住民の半分以上はこのヘルシャフトの街に移住していた。母さんも、その一人だ。
「デューク?起きてるの?」
聞き覚えのある母の声。目をうっすらと開けると、左側にある細長い窓は、曇った空を俺に見せつけてきた。
今の騎士団は、夏季休業の期間だ。しかし、最高学年になると訓練を受ける回数が増えるので、休みは二週間しか与えられていない。だけど俺も含めたみんなは、二週間もくれたことにホッとしている。授業や訓練に明け暮れていた日々は、休みに飢えていたのだから……。
俺は、それは仕方ないことだと思っていた。ヴァイス・トイフェルと戦うとなると、住民の避難も必要になる。つまり、ヴァイス・トイフェルが出現したら、襲われている住民達の命は騎士団に握られることになるのだ。だから決して手を抜いてはならない。もっと鍛錬しておけば、救える命も救えなくなるだろうから。
「……うぅ」
俺は唸りながらも、頭を起こした。休みに入ってまだ二日目、未だに疲れが取れていない。取り留めもない思考を巡らせながら、俺はベッドから下りる。フラフラながらも階段がある廊下へ向かうために、部屋のドアを開けた。
廊下は俺の部屋と違ってすごく寒いと、毛皮を被っている俺でも分かった。昨日天気予報を見たが、今日の気温は8℃だ。俺の部屋には、暖房があるからいいのだが、この廊下にはない。
道理で寒いわけである。それを誤魔化すみたいに、暖かい色合いの壁や床で迎えられているのだから、面白おかしく感じてしまう。
眠気のする目を擦りながら、階段で踏み外さないように、慎重に降りていく。
俺の両親が住んでいる家は二階建てだ。一階にリビングとキッチンなどが設置されていて、二階にそれぞれの部屋があるのだ。
一階に降りると、二階よりも寒く感じた。それでも俺は、声の主を探してキッチンへと赴く。白いタイルの上に、俺の母が朝食の準備をしていた。
「おはよう……」
「おはようデューク。毛がすごい荒ぶってるじゃない……」
寝起きの時の俺の毛並み(特に顔の辺り)は、いつもボサボサだ。ここ最近は疲れが溜まっているせいもあって、ロクに手入れが出来ていない。自分が触っても分かるくらい、毛がゴワゴワしていた。今日は流石に整えた方がいいかもしれない……。この後、クレアと会うのだから。
「それはあとで直すよ。それより、もう少しだけ寝かせてくれないか」
「もう少しって……8時過ぎじゃない。寝過ぎは禁物よ」
別に休みなんだからいいじゃないかと言いそうになったが、言うと三十分くらい小言をしてくるかもしれないから、鵜呑みした。寝起きから母さんの心配症をずっと聞かされるなんて……それは辛い。
「これでも起こすのは遅い方じゃない。毎日、訓練頑張ってるんでしょ?」
「うん……そうだね」
俺の母さんには、限度を超えるくらいに心配されても、今のような気遣いもあるから、どこか憎めないところがある。
父さんが死んだすぐの頃は、つらいはずだっただろうに、弱みをあまり俺に見せず、俺の学費や生活費のために一生懸命に仕事を探して、現在は元から得意だった裁縫関係の仕事をしながら、父が遺した財産も駆使して、家計を支えている。今だって、朝食を準備しているけれども、内心では疲れているに違いない。それでも俺のようにずっと寝てないで、早めに起きているんだ。
こういう時、俺が母さんを支えるべきなのに……。
「その顔……別に気にしなくていいのよ。デュークは自分のことに精一杯力を注げばいいんだから」
母さんは俺が考えているのを察知したのか、そう気にかけてくれた。
母は、見た目こそはおっとりしているように見えるが、実は案外洞察力がある。俺がちょっと表情を変えているのを見ると、まるで俺の脳内を見ているかのように心境を的中させているのだ。これは、親だからこそ分かることなのか……俺は少なくとも、そう思っている。
「それに、自慢の一人息子が久しぶりに家に帰ってきたんですもの。わたしの手料理も食べさせたいからね。さあ、出来たわ!デューク、悪いけれど運ぶのを手伝ってくれる?」
「うん、分かった」
母さんは、一年前の襲撃の数ヶ月後に……左腕の感覚がなくなってしまった。左腕を動かすことができないのだ。
別に、ヴァイス・トイフェルに襲われたわけでもない。医者に見せても原因が分からなかった。あちこちに尋ねても分からず、結局なぜ左腕が動かなくなったのかは今でも分からなかった。でも、日常生活でそこまで支障が出るわけでもない。裁縫の仕事で、少しだけ苦労するだけで留まっていた。
ダイニングテーブルに置かれたのは、母さんの得意料理であるスクランブルエッグが、食べきれない程あった。他にはソーセージにクロワッサンが添えられている。
ダイニングテーブルの近くにある窓からは、粗末ながらも家の庭が見える。緑のカーペットが敷かれているような芝生に、その向こうに見えるのは、たくさんの木が密集している、とても小さな森だ。
この地帯は住宅街だが、街の中には所々にまだ自然が残っている。住民が移民してくる前は、街の周りに彼方まで続くほど広大な森が広がっていた。現在は、住宅地が円状に大きくなり森の面積も少しだけ減ったが、以前の形とあまり変わらないようにはなっている。
俺は、スクランブルエッグを口に運んでいく。ケチャップがかかった、塩味のある卵の味が口の中に広がっていく。母さんの手料理は、たとえ左腕が動かせなくなっても……変わらずおいしかった。
朝食を済ませてから、俺は毛並みを整えて普段着に着替える。俺の主なラフな格好は、灰色のパーカーにジーンズの姿が多い。理由としては、一番着替えやすい……というより着慣れているのだ。中学生からほぼ同じような格好をしているため、両親からは『よく、その格好飽きないね』と言われた程だ。
俺はこれから、街を散策するのだ。それは、さっきも言ったのだが、クレアと会う約束をしているのである。クレアはこの二週間、敢えて両親のもとには帰らず、騎士団に残って夏期講習を受けている。彼女が持っている称号は、人命救助に回ることが多いので、最後の仕上げのように基礎の基礎から徹底的に叩きなおしているのだ。本番でも活躍できるように……。
それだと、何故俺は母さんの家にいるのか?実は授業や訓練の後、毎日二時間残されて、居残りという名のトレーニングを続けているのだ。一年前にスチュアート先生にお願いして、彼から渡された訓練内容だ。一時間は筋トレなどの体力作り、もう一時間は武器を持って模擬戦闘を行っている。毎日少しずつ訓練内容を変えながら、ここまでやってきた。
筋肉痛に悩まされる時期もあったのだが、今は平気だ。ここ最近ではあまり肉離れにはならなかった。そのかわり、寝る時間こそは削られていないが、寮に戻ったらすぐに今回の授業の復習をするくらいの余裕しか残っていない。そのため、かなりぐったりして毎日を過ごしていることが多いから、スチュアート先生から直々に、夏季休業は休んだほうがいいと言われているのだ。休みをくれたのは二日間。そして、今は先生の言葉に甘えて、母の家で住んでいるのだ。
「じゃあ、いってきます」
俺は母さんにそう言って。玄関のドアを開けた。冷たい風が打ちつけてきた。今は八月下旬だが、もうその時期は冬に差し掛かる頃だ。クレアと会うのは、母さんの食料の調達や冬物の服を買うために、付き合ってもらいたかったのだ。ここから半年くらいは、長い長い冬が続く。そのための準備だ。
俺は、ずれた斜めがけバッグを整えて、待ち合わせとなる場所へと急いだ。




