後編
怒鳴るではなく、ただ底冷えするような冷たい声が、たった一声で会場を支配する。
「皆さんが紫崎さんを慕うのは皆さんの権利であって、それは別に咎められることではありません。ただ それによって周りに迷惑をかけることまではその権利に含まれていない」
このことすらも予測済みだったのだろうか。
動揺の欠片もなく、反論すら許さない毅然とした声音が朗々と響き渡る。
俺が好きな燐の声。人の上に立てる人間の声。
紛い物じゃない本物の、世界を動かせる人間の声。
「いつ授業を妨害して良いと言われましたか? いつ選挙に私事を持ち込んで良いと言われましたか? いつ定められたルールを破っていいと言われましたか?」
一瞬だけ、燐の目がこちらを向いた。
猫かぶりの燐。その台詞は敬語で言うものじゃないだろうに。
それでも燐が敬語を使うのは、話している相手が同輩だけではなく先輩もいるからだ。
人間として、守るべきルール。
「人を好きになるのも、誰かを応援するのも、好きなだけやってくださって構いません。ですがそれより先に、人間として守るべきルールがあります。誰もがそうやって生きているんです」
それは常識という名の社会規範。
「人を好きになるのは人間として正しい? ええその通りです。でも、」
燐はにこやかに微笑んだ。
猫をかぶるのはやめたらしい。腹が立っているんだろう。守るべきルールとか言ったが、燐が今までもったのは奇跡に近いかもしれない。
女子たちの目が期待に輝く。
「常識も知らないお子様が、人間を語らないでくれるかしら?」
「な……っ」
図星だったのか、あまりの暴言に頭が追い付かなかったのか。
誰も何も言わない。
それを確認して、もう一度、燐は俺を見て僅かに口端を吊り上げた。
歓声こそ上がらなかったが、あちこちで女子がハイタッチを交わすのを見ていた。
とっさに誰も反論できなかった時点で、能無したちの負けなのだ。
爆弾発言をかました燐は澄まし顔で非礼を詫び、その後を冬夜が引き取った。
「まだ何かご不満な点がございましたら、意見箱にでも投稿を。常識に則ってお返事させていただきます」
苦虫を噛み潰したような緋見海音を手を振って下がらせ、冬夜はサービスの笑顔を振り撒く。
「このように生徒会は身内にも厳しいので、皆さんもルール違反にはほどほどに気をつけてくださいね」
そうやって、波乱すらパフォーマンスに変えて、冬夜は教師に介入する隙を与えずに無事に演説会を終わらせたのだった。
さて以上が選挙の顛末な訳だが、いろいろありすぎたために一人の失格者も出すことなく投票は行われた。
各候補者の分の票は自分に、何故か生徒会役員三人にも投票権が与えられるので、投票数は最大で五百四十。
結果投票率は百パーセントという数字を叩き出したにも関わらず、票が足りないのは何故かと言われれば、無効票が続出したからだ。
白紙ではない無効票。
書かれていた名前はもちろん『藍原燐』と『白銀冬夜』。数票『紫崎姫華』も見受けられたが。
『お姉様』も燐としてカウントした場合、燐に91、冬夜に87、紫崎に18。
緋見は所詮三番手だったという訳だ。
投票が終わった後うちのクラスの女子がにやにやしていると思ったのはこのことだったらしい。
後で千里に聞いたら、全員が燐の名前を書いたと言っていた。
俺は水谷杜季。燐もおそらく。
開票が終わって結果が出てすぐ、燐は生徒会室に赴いた。
打ち合わせはしていなかったそうだが冬夜も程なくしてやってきて、役職決めに入って今に至る。
ちなみに俺が冬夜を知ったのは燐に紹介されたからで、残念なことに俺たちは互いの目を見た瞬間に互いの気持ちを悟ってしまった。
冬夜は参ったなぁという風に苦笑して、よろしくと握手を求めてきたから、俺も参りましたねと苦笑してその手を握り返した。
無論力比べなんて幼稚な真似はしない。
それ以降俺たちはそれなりに良好な関係を築いている。一種の仲間意識のようなものだ。
ただ一人を欲したが故に相手の気持ちが理解できた、それだけの話。
縛られた燐は燐じゃない。自由に飛び回る蝶のような燐だから、燐は俺の唯一なんだ。
その性質を誰よりもも知っているから、俺は俺のもとに燐を縛れない。
燐が燐でなくなってしまったら、俺の世界は壊れてしまう。音が消え色が消え、光も消えて、世界はつまらないものに逆戻りだ。
だから今はこれでいいと俺は思っている。
疑いも躊躇いもなく燐が俺の隣に立ってくれるから、今はそれで。
「澪、何ぼーっとしてるの。何か意見は?」
思考の海から浮上すると、腕組みをした燐が目で役職の紙を示した。
記されていたのは俺が聞いていたそのままの名前で、
会長 白銀冬夜
副会長 緋見海音
藍原燐
会計 水谷杜季
書記 緑井朔
庶務 朱綾刹那
紫崎姫華
となっている。
「……いいんじゃないのか」
「だって、冬夜。あとは緋見先輩が文句を言うかどうかよね」
「緑井辺りも何か言うかもしれないね」
「聞く気はないでしょう? もちろん」
「一応、ポーズだけはね」
二人は笑みを交わして立ち上がる。
その時、トントンと扉が来客を告げた。
「すみません、柳です。藍原さんがここにいるって聞いたんですけど」
ぱちりと目を瞬かせ、燐は椅子に座り直した。
冬夜にも座るよう促し、俺には隠れるよう指示を出す。
俺は役員じゃないからだ。別に違反ではないが、付け入る隙はできるだけ少ない方がいい。
適当にロッカーの中に身を隠すと、燐は普段通りの声で答えを返した。
「柳珠雨くんね? 私ならいるわ、どうぞ」
「……本当にわかるんだね」
声しか聞こえないが、驚いているのはわかる。
訪問者は柳珠雨で間違いないようだ。
「確かにわかるけど、今のあなたに関しては響ではなく珠雨だという確信があったから。……黙っていてほしいんでしょう?」
「キミは僕に、『紫崎さんに関する時だけ、あなたの動きが遅れるの。……どうしてかしら?』と言った」
「ええ、言ったわ」
「まず一つ、そんなことは有り得ない。それからもう一つ、絶対に響には言わないでほしいんだ」
「あら、でもそうなんだもの。もちろん言い触らすような趣味はないけれど」
「そんなことはあってはいけないんだ!!」
だん、と音がする。
柳が机を叩いたのだろうか。
沈黙が落ちる。
しばらくして、落ち着いた謝罪が聞こえた。
「……ごめん、もう帰るね」
「ねぇ、柳くん。影の一族」
呼び止めた燐の台詞に、息をのむ気配がする。
「どうして? なんて考えてはいけないのよ。あなたがそう在りたいのなら、どんなにおかしいと思ってもそれを意識に浮かべては駄目」
俺には意味はわからない。
でも多分、柳には伝わっているんだろう。
「あなたがどうしてと問えるのは、あなたが覚悟を決めた時。よく考えなさい」
「…………どうして、キミが」
「私は藍原。藍原燐よ」
答えになっていないその答えが、きっと一番正しい答えだった。
それきり、声は聞こえてこなかった。
遠ざかる足音が消えて、ふいにロッカーのドアが開く。
入口の近くに、帰り支度を整えた冬夜。
「もういいわよ、澪」
そして目の前で、帰りましょう、と鞄を差し出して燐は笑う。
受け取りつつ冬夜に目配せをしてみるが、冬夜にもさっきの台詞の意味はわからないらしい。
「燐、さっきのは?」
「柳珠雨のこと? 双子の宿命かしらね」
肩をすくめて背中を向け歩き出した燐からは、それ以上何も聞けそうになかった。
「柳っていうのはもともと紫宮お抱えの影だったんだよ。ムラサキのトップが紫宮なのは知ってるよね?」
後日、あの台詞の意味がわかりそうな奴を訪ねると、心底馬鹿にしきった目と盛大な溜息と共に説明してくれた。
「紫崎姫華の父親は紫宮本家の子供。むしろ今の当主が妾腹の子供なんだけど、当主の方が全てにおいて理事長を上回っていたんだよ。で、実力主義に基づき紫宮の当主は今の当主になった」
もちろん理事長を推す一派もいたそうで、それが理事長の母方の実家である紫崎家らしい。
「理事長はね、表面上はすぐに引いたんだ。紫崎家に婿入りして、まだ小さかったムラサキをグループとして大きくする時にも多額の投資をしてる。当主には大きくする手腕はあったけど圧倒的にお金が足りなかったんだよ」
色付きと呼ばれる勢力のある家々の中で、紫崎は実は新参にも関わらず一番力を持っている。
当主の実力ももちろん理由の一つだが、金にもの言わせていくつかの会社を買収したという過去もあるそうだ。
その頃から、ムラサキグループの中で紫崎家の地位が飛躍的に上昇した。
それが原因で今ムラサキは内部分裂が激しいのだという。
「それでとうとう柳が狂ったんだ。紫宮に忠実な影だったのに何故か、特に若い男が紫崎につきたがるようになった。……言うまでもないけど、原因はお姫様だよ」
それまでは秘されていた『影』がよく知られるようになったのもこの頃からだ。
紫崎は柳をむしろ見せびらかしたのだ。紫崎が独自に調達したもう一家、櫻と共に。
「多分その柳珠雨って子は、紫宮に心が残ってるんじゃないかな。響の方に完全にシンクロできないことがあるんだよ」
どうして? ――どうして紫宮じゃなくて紫崎なの。
覚悟を決めた時――紫宮か紫崎か、どちらにつくかを決めた時。
なるほどこれで納得がいった。
「……っていうかさぁ、このくらい自分で調べなよ」
「調べに来ただろ」
「ボクに聞きにきただけじゃないか!」
「知ってそうな奴がいるんだからそいつに聞くのは立派な手段だろ」
「キミねぇ……!!」
「落ち着けよ、俺とお前の仲だろ」
「どんな仲だよ! ボクとキミに、どんな仲があるっていうんだ!」
場所が場所だけに叫びに近くても声量は小さかったが、興奮したことは確かだったのか大きく深呼吸をする。
そうして、侮蔑のこもった目で俺を睥睨した。
「やっぱりキミに燐はもったいないよ。諦めたら?」
「俺の居場所は燐の隣だ。手放す訳がないだろう? お前だって知ってるはずだ」
「キミに燐が必要なだけで燐にキミは必要ない……と言いたいところなんだけどね。その手、どうしたの?」
「これか?」
ガーゼを貼った手を振ってみせる。
「燐を襲おうとか馬鹿な相談をしてるクズがいたから、ちょっと教育的指導を」
殴りすぎて怪我をしただけだ。
もちろん録音付きで誰からの依頼かも吐かせた。
「はぁ……。ボクはキミの、燐のために何でもやるくせに燐を縛り付けることだけはしないところは評価してるよ。普段は外から観察してるだけで自分で動こうとしないのにね」
「燐は例外。大丈夫だ。俺は俺のやり方で、燐に隣にいたいと思わせるさ」
「勝手にしろ。ボクは何があっても燐の味方だけどね」
身体を起こした青柳瑠依は、どこかから救急箱を取り出して手の手当てをしてくれた。
なんだかんだ言って燐は心配するんだから手当てくらいちゃんとできないの? と再びお小言をもらいつつ。
はい終わり、と手当てしたところを叩いて、青柳は肩をすくめた。
「大体ボクより面倒なのは湊さんだよ?」
「知ってる」
ありがとな、と手当てしてもらった方の手を振って、長居して負担をかける訳にもいかないので立ち上がる。
部屋を出ようとした俺に、ついでのように追いかけてくる声があった。
「燐が昔言ってたよ。澪はきっと私にないものを持ってるわって」
キミの広い視野かもね、と声は続いた。
後ろ手に扉を閉める。
なんだかんだあの燐の従姉妹も優しいのだ。
燐のために獲得した広い視野。燐に及ぶ悪意の見落としがないように。
今のはちょっと嬉しかったと思ってしまう俺は、まだ青柳にも届かないんだろう。
病院を出たところで、タイミングをはかったように携帯がメールの受信を告げる。
『今日の夕飯ロールキャベツだけど食べる?』
燐からのメール。
答えは一つだ、決まってる。
『もちろん』
俺は携帯をしまうと、踵を返して藍原家に爪先を向けた。