後編
これはまた酷くやったな、と苦笑いをしたのは、灰谷先生だった。
あの大騒ぎの間誰も来なかったのは恐らく先輩が何か手を回したんだろうとは思ってたけど、終わった後も対処を忘れないあたりはやっぱり頼りになる。
はっきりと燐の味方だとわかる先生。
「おいそこの馬鹿、怪我はないか」
「……ない」
むすっとしながら立ち上がる澪に、確かに目立った外傷はない。
多分あちこち痣だらけではあるだろうけど。
そうか、それはよかったと先生は大変イイ笑顔を浮かべた。
澪は不機嫌そうに眉を寄せ、それからはっと気付いたように忌ま忌ましげに吐き捨てた。
「言質を取ったつもりかお前……!」
「おいおい、仮にも教師に向かってお前は酷いな。減点だぞ?」
「……お前は前から邪魔だったんだ。いっそ辞めさせてやる」
自分ならできるという自信に満ちた言葉だった。
でも灰谷先生は余裕の表情を崩さなかったし、悪いけど僕も肩をすくめるにとどまった。
(無理だよ、澪)
「無理だな、白塚。今のお前には絶対に」
以前の、君の中に燐がいた頃ならできたかもしれない。
でも今の君からは、あの頃感じた力もカリスマ性も感じないんだ。
今の君はね、澪。
凡人の僕からしても、徹底して普通な一般人にしか見えないんだよ。
「どういう意味だ」
「そのまんまの意味さ。私が言う意味がわからない内は永遠に無理だろうよ」
事もなげにそう答えた灰谷先生は、教室に散乱した机や椅子の損傷を確認し始めた。
無防備に向けられた背に、澪の拳が握りこまれる。
「よく考えてやれよ、白塚。この学校は私立、しかも良家の子女が通う特殊な学校だ。私を殴ればそれだけでお前を退学に追い込むくらいは容易い」
その拳は結局、振り向きもせずに刺された釘に乱暴に解かれたけど。
ねぇ、澪。
「本当に覚えてないの? 何もかもがつまらなかった君に、世界を見せてくれた女の子」
『何をばかなことを言ってるの? あなたが考えてるよりずっと世界って広いのよ』
きっと澪にとって世界そのものだった燐を、忘れた?
一体紫崎は何をしたんだ。
あのクッキーに何が入っていたんだ。
でもそう、僕らはどこかで思ってたのかもしれない。
何をされても澪が燐の敵になることだけはないって、そんなことを。
覚えず苦い笑みが浮かぶ。
教室のドアがガラッと音を立てて開いたのはその時だった。
とっさに身構えながら振り返って、目を丸くする。
「おい、危ないから来るなって……」
僕のことも、どうやら予想外らしい灰谷先生のことも素通りして、一目散に澪に向かって駆けていく、少女。
ぱちん、と、高い音がして。
「最低……! 二度と燐ちゃんの前に現れないで!」
頬を押さえて半ば呆然と見上げてくる澪を涙目で睨みつけた。
「わたしこれから、白銀先輩を全力で応援するから、もう澪くんなんて知らない!」
はぁはぁと荒い息で、肩を上下させて、それでも強い口調で言い切る。
僕は思わず手を伸ばした。
「千里――」
「日向も日向だよっ! せっかくそっち側にいたのにどうして止められなかったの!」
くるりとこちらを向いた矛先に、慌てて下ろしたけど。
澪くんのは特別製なんだ、と手渡されたクッキーを見もせずに口に放り込んだ澪は、あの時何を思っていたんだろう?
難しい顔で一人で登校してきて、珍しいなと思ったんだ。
多分普段の澪なら、絶対に食べなかったクッキー。
あっという間すぎて止める隙もなかった、なんて言い訳なのかな。
「黄橋、落ち着け。何が」
「また、またあの目をしてたの!」
興奮している千里を宥めにかかった灰谷先生は怪訝な顔をしたけど、僕は横っ面を殴られたような思いがした。
絶望に染まった彼女の瞳を見るのは一度で十分だと。
あの時三人で誓ったのに。
「わたしはっ、あの目を見るまで気付かなかったけどっ、燐ちゃんはすぐに対処できるなんて甘ったれたことを思ってたけど!
澪くんは知ってたでしょう! あの二人が燐ちゃんにとってどれだけ大事か、壊れちゃうかもしれないくらい大事だって、それなのにっ!」
「おい黄橋、何の話だ」
「燐ちゃんが怪我したからって拗ねて一人で学校にきて、挙げ句の果てがこれ? 絶対、許さないよ」
珍しい、燃えるような目で澪を睨みつけた千里は、手に持っていた何かを澪に向かって投げつけた。
意味がわからないという顔をしていた澪が、条件反射で受け止め、顔をしかめる。
「……ってぇな」
四角い、重そうな。
――卒業アルバム。
「それでも見て頭を冷やしたらいいよ!」
言い捨てて教室を飛び出して行った千里を、追い掛けなきゃいけないと、思った。
咄嗟に踵を返した僕を呼び止めたのは、澪の声。
「待て、日向。何処へ行く気だ?」
千里を追い掛けるつもりじゃないだろうなっていう、問い掛け。
僕は紫崎側の人間だから。
――でももう、やめた。
「じゃあね澪、僕は決定的に手遅れになる前に戻るよ。……君も、間違えないで」
「おい日向、どうい――」
行けというように手を振ってくれた灰谷先生に背中を押されて遮るようにドアを閉め、ちらりと見えたスカートを目印に追い掛ける。
追い付いて、言わなきゃいけないことがある。
言われなきゃいけないことがある。
千里、君は僕が必ず守るから、もう逃げないから、……だから。
もう一度、君の隣にいさせて欲しい。
手遅れになる前に、何をしてでも、どんなにみっともなくても、
僕は君の隣に戻って、君た一緒に笑えるようになりたいんだ。
どんな罵倒も甘んじて受ける。それで済む訳じゃないけど、何回だって謝る。
虫の良い話だって、わかってる。
それでも僕はやっぱり、千里、君が好きだから。
千里を見付けたのは、屋上だった。
ぼんやりと眼下を眺める千里にそっと近寄って、止まる。
手に握り締めた携帯を、ポケットに突っ込んだ。
「ねぇ、千里」
千里はぴくりとも動かなかった。
「僕はたくさん、間違えたね」
それでもいい。
僕が謝るのなんてもしかしたらただの自己満足かもしれないけど、千里は優しいから。
どんなに卑怯だと言われたって、僕はもう一度千里の隣が欲しい。
手放したあの日の僕が、いかに愚かだったか思い知った。
確かに父さんのことは、心配だったけど。
父さんはそんなにヤワじゃないし、何より。
『おじさんのことは心配しないで。おじさんが掴んだ証拠で先回りして潰しておいたから……って燐から伝言だよ。 白銀』
こんな時まで、見透かしたように届くメールが。
泣きたくなる。
「僕が折れれば丸く収まるなんて馬鹿なことを思って、君の手を放してしまったけど。解決策でも何でもなくて、――ただの逃げだったんだ」
千里の、表情の抜け落ちた顔を覚えてる。
あんな顔をさせたい訳じゃなかった。
でも僕は何もできないで、結局燐にフォローさせてしまったね。
燐に丸投げしないで、力を貸して欲しいと頼めば良かった。
どうすればいいのかわからないなら、相談すれば良かった。
燐もそうだけど、誰よりも千里に。
僕が逃げ出したことで、千里の代わりに燐は表舞台に立たざるを得なくなった。
どちらかと言えば裏であれこれやる方が得意な彼女に、僕らは全てを背負わせた。
実は紫崎のところにいる時、何度かおかしくなったことがある。
頭が朦朧として、思ってもないことを口走ったり、千里に酷いことを……言いかけたり。
今の学園の状況がおかしいなんてことは、最初からわかってたのに。
逃げなんて弱い気持ちで、常軌を逸した状況に太刀打ちできる訳がなかったんだ。
一人ひとりが抗わなきゃいけなかったのに、僕は、僕らは燐という絶対的な柱を得てその下に集まって凌ごうとした。
燐は強い、それは確かだけど。
そんな重荷を背負って、ずっと膝を付かずにいられるほど、強くはない。
誰よりも僕らがわかっていてあげなきゃいけなかったのに。
幼馴染みである、僕らが。
千里、君もそう思ったから泣いていたんだよね。
でもそれは燐のことだけじゃなくて、僕が。
「結局僕は君を泣かせることしかできなかった」
「日向、」
「何よりも大事なものなんて、最初から決まってる。……手放しちゃ駄目だって、燐に言われてたのに」
隣にいることが何より大事だったのに、僕はそんなことにも気付いてなかったね。
ねぇ、千里?
「僕はたくさん間違えて、山ほど君に酷いことをして、君の一番の願いをわかってなかった大馬鹿者で」
一緒にいてほしいと、別れ際の顔は確かにそう言っていたのに。
相談もせずに手を放してごめん。
演技とはいえ紫崎と仲良くしてごめん。
「今更気付いて、のこのこ戻って来るような最低な奴だけど」
「ひなっ……」
「それでもやっぱり、僕は千里が好きだから。世界で一番大事にしたいから」
だから。
「僕をもう一度、君の隣に立たせて欲しい」
ばっと下げた頭の後ろに、痛いほどの視線を感じる。
永遠にも思えた沈黙を経て。
「顔、上げて」
そっと上げた頬の上で乾いた音。
ヒリヒリとした痛みに声もなく驚いていると、千里は小さく微笑んだ。
「これでおしまい。わたしだって行かないでって言えなかったから」
僕はうろたえた。
僕のしたことがそんな――平手一発で許されていい訳が。
「責めてなんて、あげないよ。わたしも日向も、お互いに自分の行動を悔やみながら、だからこそ二度としないように」
だって、責められる方が楽だ。
許されてしまう方が苦しい。
――あぁ、また僕は逃げようとしていたのか。
「逃げじゃないよ。とにかく、その話はもうおしまい。ねぇ日向」
初めて、千里が僕に歩み寄ってきて。
手が重なる。
「戻って来てくれて、ありがとう。嬉しい」
……ずるいなぁ。
その一言で、その笑顔だけで、僕はこんなに幸せになれる。
まだ、元通りって訳にはいかないけど。
やっぱり僕がいたい場所はここなんだ。
「でも日向、わたしまだ彼女にはなってあげないよ」
「え」
「当たり前じゃない。燐ちゃんをちゃんと助けてからだよ。そっちの方が大事」
「……え」
「わたしのために色々してくれたのに、先に全部解決しちゃうのは違うでしょう」
「…………はい」
「大体、こんなことになったから気付くなんて、燐ちゃんが大変なのに」
「責めないんじゃなかっ」
「なんか言った?」
道のりは、遠いみたいだけど。
何だか嬉しくて力が湧いて、今ならきっと燐も助けられる気がして。
ポケットの中で着信を告げた携帯を、取り出す。
「もしもし――――」
次は、柳か灰か……
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