第三章 無の聖域と言葉無き少女
【第二話 第三章 あらすじ】
狂乱の混入者たちが牙を剥き、地下三千メートルの空間に血と肉の匂いが充満する惨劇の渦中。
迫り来る怪物に対し、言葉も自我も捨て去った少女・ミナは、武器を執ることも身構えることすらもしない。
激突の瞬間、殺意に満ちた暗闇を包み込んだのは、世界のあらゆる常識を根底から覆す「圧倒的な静寂」。
争う理由すらも無へと還す彼女の存在に触れたとき、異形たちの体内に残されていた狂気が恐ろしい変容を遂げ始める。
しかし、その救済の刻をあざ笑うかのように、頭上の岩盤を砕いて地上から解き放たれる壊滅的な衝撃。
全てを平伏させる絶対的な力が迫るとき、語られることのなかった少女の真価と、この星が隠し持ち続けてきた巨大な意志が静かに目を醒ます!
ミナの身体は、地上で「言語」と「自意識」を完璧に削ぎ落としたことで、人間としての外見を保ちながらも、異様なほどこの星の物質と同化していた。
彼女の肌は土の匂いを纏い、爪は透明な水晶のように硬質化し、その足裏は地底の微弱な生体電流を優しく吸収している。
彼女の背後には、同じように言葉を捨て、ただ呼吸するように四つ足で佇む数十人の「元・人間」たちが、身を寄せ合っていた。
彼らには「過去」も「未来」も、「名前」すら存在しない。
ただ、いまそこに「肉体として存在する」という純粋な事実だけがある。
「……ウゥ……」
混入者の一頭が、暗闇の中に立つミナたちの存在に気づき、黄色い溶解液を垂らしながら四つ足で迫ってきた。
「なんだあ……? まだそんな惨めな『人間の残りかす』が息をしてやがったのかぁ……? 龍の肉の口直しに、お前らの柔らかい肉も喰ってやるぁぁぁっ!」
混入者が黒い骨の棘を振り上げ、ミナの細い首を叩き割ろうと跳びかかった。
凶暴な爪が、ミナの鼻先に迫る。
だが——動きを止めたのはミナではない。襲いかかったはずの混入者の方であった。
ミナは身構えることすらもしなかった。
彼女はただ、静かにその透明な瞳を持ち上げ、目の前の化け物を直視した。
その瞳には、恐怖も、敵意も、逃走の欲求も存在しなかった。
ただ、夜空の月が水面に映るように、目の前の存在をありのままに映し出すだけの「完全な無」。
ミナは小さく一歩を踏み出し、爪の伸びた素手をそっと伸ばすと、混入者の血塗られた不快な鼻先にやさしく触れた。
……スッ……
その瞬間、混入者の全身を駆け巡っていた「凶暴な欲望」と「殺意の波紋」が、嘘のように鎮まった。
言葉を持たぬミナの皮膚を通して、混入者の脳内へ直接流れ込んだのは、圧倒的な「静寂」であった。
誰かと戦う必要もない。
他者の肉を奪う必要もない。
神への復讐も、己の存在証明すらも、最初から何の意味も持たなかったのだという、絶対的な平穏。
「な……んだ……これ……? 俺は……俺はなにを……」
混入者の巨躯が激しく震えた。
彼の中にしぶとく残っていた「人間的な執着」が、ミナの圧倒的な無の波動に触れたことで、パラパラと砂のように崩れ去っていく。
背中から生えていた醜い骨の棘が自ら折れて落ち、血走っていた黄色い瞳に、かつて人間であった頃の切ない光が束の間だけ宿った。
だが——その穏やかな救済の時間を粉砕するように、頭上の岩盤が天地をひっくり返すような咆哮とともに砕け散った。




