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作者: 灰ロ
掲載日:2026/05/26

現実は夢を蝕み、その夢は、現実を蝕んだ。蝕まれた現実は、蝕まれた夢をさらに蝕む。


夢と現実の境を、どう説明しますか。

嘘と本当を、どう見極めますか。

自分と他人の違いを、どう並べますか。

今を生きていると、心から言えますか。

現実で、本当に、自分が、今を生きている、と、本当に言い切ることができますか。

夢で、嘘で、他人で、今を生きていないなら、その状況を、どう受け止めますか。

 

あの日、鏡に写った私は、私ではなかった。

悪夢と幻覚

一幕 太陽と影

 私が悪夢を見るようになったのは、中学一年生の頃だった。

 風でカーテンが大きく舞い、眩しすぎるほどの陽光が、一人の少女の寝顔を照らした。爽やかな朝を迎えるスズメの声が、風に乗って聞こえてくる。そんな中、少女Bは悪夢に魘され、寝汗が喉元を伝う。

「夢か。」

勢いよく上半身を起こし、目を覚ました。動悸、息切れが治まらない。立ち上がれば、脳が大きく揺れるような眩暈が襲い、手が小刻みに震え出す。そんな朝にはもう慣れた。身体中を伝う汗を拭き、学校へ行く準備を始める。

見ていた夢の内容を、思い出したいような、思い出したくないような。

 今日も、いつものように登校する。眩しさに弱い少女は、玄関の扉を開ける前に一度、深呼吸をする。太陽はいつでも世界を照らしている。そして、影はいつも太陽から逃げている。朝日が、少女の薄い影を落とす。少女は、自身の影に導かれるまま、学校へと向かう。

 通学路は、通勤・通学のラッシュ。無数の雑踏が脳を支配して大きく響く。シャッターを開ける音で、店主の機嫌がわかる。無邪気にはしゃぐ子供の声は、少女の声帯には出せなかった音色。電線に止まったスズメの鳴き声と、大きな横断歩道の信号機の音が、目の前の学校を知らせる。

 中学校入学から少し、少女Bは、クラスメイトの間で若干の違和感を感じ始める。小学校からの同級生が、面識のないクラスメイトの噂話をしている。友達を作るのが苦手な少女Bは、新学期早々友好関係を築き始めている同級生に素直に感心する。

しかし、尊敬の思考を回したのは、ほんの束の間のことだった。

 いつもの、見慣れた楽しそうな笑顔とは少し違う、瞼の裏に悪意があるような表情。少女Bは、その不審な目付きに疑いの眼差しを向ける。その同級生の視線の先には、面識のないクラスメイト、少女Aがいた。話題の張本人を交えず、その子の噂話をして嗤っている。

 その光景はまるで、道化師ジェスターを愚者として嘲笑する、タチの悪い貴族様のようだった。

 このクラスには、独りぼっちのクラスメイトを輪の中に交えようとする主人公のような存在はいなかった。ムードメーカーは大きく口を開けて笑っている。端で読書をしている静かな子でさえ、本に隠れた口角が密かに上がっている。この異様な光景に、少女は苦笑いすらできなかった。この奇妙な空気の教室にいるクラスメイトは皆、揃いも揃って同じような嗤い方をする。

 火の無いところに煙は立たない。きっと少女Aに原因があったんだ。少女Bは、そう思うことしかできなかった。新学期早々、このクラスに馴染めそうにない、少女Bはそう思った。

 この時少女Bには、同じ顔をして嗤う勇気も、嗤っている子と対立する度胸も、何もなかった。少女Bは、複数人の犯罪者と、一人の被害者が生まれた瞬間を見ている、ただの傍観者に過ぎない。

 被害者が死んで、加害者が知らないフリをする。傍観者の少女Bは、勝手な圧力に負けた挙句、

「このクラスにいじめはありません。」

なんて、ありもしない嘘を吐く。そんな少女Bは、無力な共犯者だ。でも、現実の少女Bは、ただの傍観者になることすら、放棄してしまいそうだった。何もできない少女Bは、「無力な自分」を確立すること、それだけで精一杯、限界だったんだ。

 彼女を中心に渦を巻く黒い影は、日を増すごとに大きくなっていた。少女Bは渦巻く影を恐れ、手を差し伸べることすらできなかった。その中に囚われてしまうのが怖くて……。いいや、巻き込まれるのが嫌だったんだ。怖かった。でも一番怖かったのは少女B、自分自身だった。身体が少しも動かなかった、

「助けて。」

そんな心の声が聞こえたような気がしたのに。


 ある日の夢の中、私は、学校の屋上で少女Aと二人、並んで座っていた。すると彼女は突然立ち上がり、

「私はさ、逃げられるほど強くないし、泣けるほど素直じゃないんだ。」

と、不自然に引き攣った表情で私に微笑みかけ、そのまま背を向けて歩き出した。

「助ける、私が絶対助けるから。だから、」

私は焦ったように、感情のままに言葉を投げ掛けた。それと同時に、この時私にはなぜか、彼女がこの先に取る行動がわかった。私は、駆け足で彼女のそばに行き、そのまま後ろを歩いた。彼女を止めるために手を取ろうとしたその時には、もう手が届かない位置まで歩いていて、振り返り、差し伸べようとした手を一目見た彼女は、何かを察したかのような表情を浮かべ、私から逃げるように走り出した。何かを目掛けて走る彼女の視線の先には、一部が破損したフェンスがあった。吸い込まれるように走り、フェンスとの距離が縮まるにつれて、破損部分の穴が大きく広がっていくように見えた。そのまま彼女は、大きく空いたフェンスの穴から勢いよく飛び出した。

 その後に響いた大きな音は、今でも脳裏を過ぎる。何かが衝突したかのような、鈍い破裂音だった。大きく彼女の名前を叫んだはずの声は、私の脳内にしか響くことはなく、彼女のために伸ばした手は、届くことのないまま終わった。

 目を覚まして次に見た景色は、見慣れた自室の天井だった。その時に少女Bは、夢を見ていたことに気が付いた。いつも見ているような、思い出せない曖昧な夢とは遥かに違う感覚。夢だと気付くことができるこの現実で、夢だと気付くことができたこの時でさえ、まだ夢の中かもしれないと疑う余地があるほどに、鮮明な光景だった。その夢の記憶は、今でも少女Bの瞼の裏に写る。

 この夢を見て以来、少女Aは学校に来なくなった。理由は家庭の事情、これ以上は知らされなかった。

 少女Aは少女Bの斜め前の席だった。ただの欠席と変わらないはずの景色、でもなぜか、心が空っぽになったかのような感覚が少女Bを襲った。少女Bには、他のクラスメイトと変わりなく並べられた少女Aの机が、少し孤独に見えた。

 どの生徒の所有物でもないただの机に、少女Aが座った。ただそれだけのことで、その机には、可哀想な汚名が付けられた。

「学年一の嫌われ者、少女Aの居場所」

ただの机は、不憫な肩書きのせいで、偏った笑い方の学生たちにいじめられた。落書きをされ、雑菌、汚物のような扱いを受けた。

そして、もういなくなった少女Aの噂話は、いつまでも止まなかった。

 

無題

 きっと、鍵は私が握っていた。大切な鍵を、手汗に塗れたただの錆に変えてしまったのは私だ。彼女には手枷足枷に加え、鎖が全身に巻き付けられ、そのまま牢獄に閉じ込められていた。それなのに私は、高まる動悸と震える手足、止まらない汗を止めることもせずただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。今もまだ握り締めているこの錆を、鍵に戻す力など私には無い。あの鍵で、彼女の身に纏った鉄の塊を一つでも解錠してあげられたら、そう考えれば考えるほど、骨が軋むほどの重圧が私を襲う。

 目の前で彼女がいじめられているのを見て、何も言えなかった。

「やめようよ。」

こんなにも簡単なたった五文字の言葉すら喉に詰まらせて、未だ咳払いもできないまま。突っかえた言葉で今にも窒息してしまいそう。

 何も言えなかった、何もできなかった情けない自分を思い返す度に息が詰まる。流し込もうと沢山言葉を飲み込んだ。それでも、咽せることさえままならず、肺にまで流れ込み蝕んだ。蝕まれた肺は次第に、白い息を吸い、黒い溜息を吐くようになった。


二幕 現実と夢

 少女Bは、今生きているこの世界が現実世界である、と自信を持って言い切ることができない。それほど、少女Bが中学生の時に見たあの夢は、妙に現実味を帯びていた。

 夢の中で目を覚ました少女Bは、自分がまだ夢の中に囚われているということを知らなかった。

 少女Bは、遠くから自分の名前を呼ぶ声を辿って、辺りを見渡しながら歩いた。しかし、声の正体は判明しないまま、溜め息をつき、足元を見ては、顔を上げた。その時に少女Bが見た景色は、見慣れたいつもの教室だった。担任の先生が教卓から少女Bの顔を軽く覗き込み、名前を繰り返し呼んでいた。どうやら、六時間目の授業を終えて少し目を瞑っていたところ、そのまま居眠りをしてしまっていたらしい。ホームルームを始めようとしていた先生の、少女Bに呼び掛ける声だけが、夢の中に反映されていたようだった。

 少女Bは、驚き、恥じらい、焦りが同時に込み上げて、机の上に広げたままの教材をひっくり返してしまった。

「すみません……」

「気をつけて。」

先生は、少女Bを起こしてすぐにホームルームを進行し始めた。クラスメイトは比較的静かだったが、やんちゃな生徒の数人はクスクスと笑っていた。でもなぜだろう。聞き慣れた嗤い声のはずなのに、なんでこんなにも嫌な感じがしないんだ。少女Bは、これはただの思い込みだと、必死に自分に言い聞かせた。

 生徒の帰宅を知らせるチャイムが学校中に鳴り響いた。それを合図に

「起立、気をつけ、さようなら。」

その挨拶の瞬間から、各々が自由に行動を始める。少女Bもクラスメイトの波に逆らうことなく、帰る準備をして教室を出た。

 帰宅途中の通学路、少女Bは後ろから迫る来るナニカの気配に圧倒されていた。少女Bは不確定な確信に怯え、たまらずに走り出した。しかし、早く走りたい思いとは反して、足は思うように動いてくれない。夢の中を走っているような感覚で、まだ夢を見ているのではないかと錯覚してしまいそうなほどだった。電線に屯している鴉は、少女Bを軽蔑して避けていくように飛び立っていった。それほど少女Bは必死に走り続けていた。ある程度進むと気配はなくなり、人通りの少ない小道を一人、歩いて帰ることにした。

「一緒に帰ろう。」

少女Bは、咄嗟に振り返る。さっきまでの恐怖は不思議と全くなかった。

「いいよ。一緒に帰ろう。」

声をかけたのは、少女Aだった。

少女Bはこの時、少女Aとは帰る方向が違うことに違和感を感じていなかった。

そして、今まで歩いてきた道を戻るように、少女Aと並んで歩いた。

「君は、いじめられたことある?」

この質問をきっかけに、少女Bは少女Aからの質問責めに遭う。

B「ないかな、影薄いし。」

A「じゃあ、いじめたことはある?」

B「ないよ。なんでそんなこと聞くの?」

少女Aは横目で、睨むように少女Bと目を合わせ、質問を続けた。

「いじめられてる子を助けたことは?」

私は反射で嘘を吐いた。

「いじめ、見たことないんだよね。」

少女Aの目からは、一瞬で光が失われた。

「そっか。じゃあ私はいじめられたことない んだ。」

この一言が発せられた瞬間、夕暮れの茜色の空が真夜中よりも暗い黒色に染まった。しかし、彼女の目には光が戻り、さっきまでの質問責めが続けられた。

「さすがに、いじめを見て見ぬフリをしたこ となんてないよね?」

身体が強張り、言葉を失った少女Bを見て、少女Aは態度が一変した。

「意気地無し。

 お前みたいなグズに人助けなんてできる訳 ない。いい加減野望捨てれば?

 ちょっとでも期待した私が馬鹿だった。」

 次に少女Aは、不気味なほどに優しく微笑んでこう言った。

「私こっち道だから、またね。」

少女Aが渡ろうとしている横断歩道の手前で、別れの挨拶を言い放った。そして、まるで人が変わったかのように、少女Aは少女Bの顔を見ることもなく遠ざかっていく。すると突然、猛スピードの大型トラックが走る道路へ、飛び出した。トラックはスピードを緩めることなく、小柄な少女Aを跳ねた。十数メートル飛ばされたその先でも、まだスピードを落とさないトラックは、容赦無く少女Aを轢き殺した。

 驚いて目を見開くと、いつもの、見慣れた自室の天井だった。

「これも夢?ここは本当に現実?」

どこまでが夢で、どこからが現実か。その区別がつかなくなっている少女Bは、正気を失いかけていた。それでも少女Bはベッドから降りて、学校へ行くための支度をする。歯磨きをするために洗面所へ向かった少女B。扉を開け、そこで目にしたものは、首を吊った少女Aの姿だった。

「……いよ。ひどいよ。ひどいよ。」

少女Bは、寝ぼけているだけだと目を擦り、開けていた扉を一度閉めて一呼吸を置いた。もう一度、洗面所の扉を恐る恐る開けたそこには、もう誰の姿もなかった。疲れている、そうに違いない。少女Bには、そう思うことしかできなかった。

 

無題

 私にはできると思っていた。クラスの中心に立つ才能を秘めていると思っていた。だって、頭の中ではできてた。いじめられている彼女に手を差し伸べることが。

 いじめっ子は悪だ、いじめなんてない方がいい。頭の中じゃその考えの一点張りだったから、私は正義として、彼女を救い、悪を滅ぼす、これが私にできることだと信じてた。でも現実は、そう上手くは行かなかった。いじめっ子の中には、私と仲良くしてくれた友達も居た。悪でしかないはずのいじめっ子も、私にとっては優しくしてくれた友達だった。だから、そんな優しい友達を、知らないクラスメイトを庇うために、失いたくはなかった。毎日一人ぼっちな私でも、本当の孤独にはなりたくなかった。手を伸ばせば届く距離、私は孤独を恐れては、見て見ぬフリをした。

 失うことが辛いことなのは、少なからずそれを得る前よりもいい感情を抱くことが増えたということだろう。得る前が不幸だったとすると、その不幸に逆戻りしてしまうのが怖くなる、戻ってしまったらもちろん辛い。でも、私があの時に抱いた、失うのが辛いという思いは、不幸に逆戻りするなんて話には当てはまらない。私にとって、今のいじめっ子が過去の憧れの子だとしても、今それは私の生活に何の影響も及ぼしていない。それなのに失いたくない理由はなんだろう。またあの時みたいに優しく笑いかけてくれるんじゃないかって、過去のあの子に、記憶のあの子に、今現実で縋ってるんだ。もう考えたくもないことだけど、私はあの子に優しさをもらっていた。言いたくない言葉だけど、一度や二度優しくされただけのあの子に、私は依存してしまっていた。でも今のあの子はまるで違う、優しさなんて微塵も感じられない。なのにどうしてだろう、失うのが怖かった。ただ得る前に戻るだけなのに。


三幕 刺激と傷

 夕日は朝日よりも大きく見える。

 街が橙色に染まる頃、少女Bは太陽の落ちる方向へ歩き始める。この信号を渡れば、少しは解放された安堵に浸れるような気がする。横断歩道の白線を、一歩でも踏み外せば、今日という日を終えられないような、そんな不安感を抱きながら、足元から目を離さずに、一歩一歩踏み締めて、慎重に渡る。

 朝とは違って、少女Bを導く影はいない。帰り道を見失ってしまいそうになりながらも、ただ歩く。そんな中少女Bは、後ろに何かの気配を感じる。

(自身の影だ、そうに違いない。)

そのはずなのに、なんとなく、絶対に振り返ってはいけないと、そんな気がしてならない。

 電線には鴉が群れを成している。

鋭く睨む鴉の視線の矢が、少女Bの脳を穿つ。夕日は朝日よりも私の影を大きく落とす。


 この日の夜、私は奇妙な夢を見た。

 教室に入ると突然、網膜を射抜くような朝日の光が窓から差し込んだ。窓の外は白く、見られないほどに眩しい。同時に、耳を突き刺すような、脳が揺れるほどの大きなチャイムが鳴り、それを合図に生徒は、不気味なほどに揃った、取り憑かれたような動きで一斉に席についた。少女Bは、視覚と聴覚から同時に鋭い刺激を受けながらも、なんとか着席する。

 寡黙な教師の授業の最中、不良生徒たちの声は授業が進むごとに大きくなっていく。教室中に飛び交うゴミと悪口。行き過ぎた悪ふざけが生徒同士の喧嘩を助長し、そのすべての終着点は先生へと向かう。先生は、何をされても、何を言われても、怒らない、叱らない、注意しない。こんなにも嫌なものが蔓延っている教室の中で、真面目に授業を受けていられるはずがない。少女Bは、我慢できずに、目を瞑り、耳を塞いだ。聞きたくない、考えたくない、早く終われ、そう願えば願うほど、全ての刺激は大きくなっていき、棘のある声と言葉は、全て私に向けた態度だと思い込んでしまいそうになっていた。

「ガシャン!!」

突然、大きな金属音が教室中に響いた。怯えながら教室を見回すと、クラスで一番の不良生徒が机の上に座り、悪巧みをしたような表情で先生を睨みつけていた。不良生徒の視線を目で追い、その先を見てみると、研がれたような妙な形をした、鋭利な鋏が黒板に突き刺さっていた。さっきまで騒がしかった生徒は、もう誰もいないかのように静まり返っていた。

「ダン!」

先生が教卓を強く叩いた。凍った空気に亀裂が入るのが目に見えるほど、衝撃音は一直線に教室を縦断した。先生はそのまま、いつも通り何も言わずそっと、ゆっくりと歩き出した。黒板に突き刺さった鋏を軽々と抜き取り、手に握ったまま、不良生徒の元へゆっくりと近づいていく。不良生徒の前に、俯いた先生が立ちすくむ。それでも懲りない不良生徒は、煽るように手を出し、鋏を返すよう先生に目で合図を出した。その瞬間、先生は素早く腕を振り上げた。少女Bが瞬きをした、ほんの一瞬のことだった。次に目を開けたとき、少女Bが目にした光景は、不良生徒の目に深く突き刺さった鋏だった。さっきまでとはまるで雰囲気が違う先生は、狂気じみた笑みを浮かべ、刺さった鋏を不良生徒の目にさらに抉り込んだ。そんな先生の姿を見た少女Bは、脳が恐怖に占領され、目が離せないほど怖気付いていた。

 少女Bはこの異様な状況に、悪い夢を見ていることに気が付いた。しかし、現実世界を生きる自分が起きるように大きく瞬きをしても、目を覚ますことができなかった。瞬きの回数を重ねる度に、目の前の景色の解像度が上がり、惨たらしさを増していく。

 私は、この現実から目を覚ますことができない。


無題

 頭の中の皆は私を殺そうとする。友達、家族、恋人、他人、動物でさえ、私に牙を剥く。 現実世界での記憶から抽出された夢の世界では、ネガティブな感情だけが渦を巻いて脳を蝕んでいく。不規則に建ち並ぶコンクリート造りの建造物、赤黒い空の下、枯れた地面に独り、座り込む。突如現れる大きな竜巻に巻き込まれ、コンクリートが散らばって回る。巻き込まれた瓦礫と共に竜巻は私に接近し、身体中を痛めつけ、抉り裂きながら飲まれていく。不可抗力だ、夢の中であろうと抵抗する術などない。

 人に頼ることが苦手な私には、苦手になった原因がある。わからなくて、どうしようもなくて、ようやく勇気を出して人に頼れば、「そんなこともわからないのか」

と嗤われ、呆れられる。そんな夢を繰り返し見るんだ。

 大勢の人が通る大通り、

「誰か助けて」

と、か細い声で手を伸ばしても、誰も手を取ってくれない。横目で睨まれて終わるのがいつもの夢の内容だ。足が止まってしまった時、手を差し伸べてくれる人どころか、立ち止まってくれる人すらいない。


四幕 血と涙

?「お前のせいで、少女Aが死んだんだ。」

?「お前があの時見捨てたから。」

?「お前が見殺しにしたんだ。」

?「ただ憧れただけだよね、

  正義のヒーローに。」

違う、私はただ――

 目を覚ました少女Bの目には涙が溜まっていた。みんながみんな少女Bのせいだと、後ろ指を刺してくる、嫌な夢。動悸と涙が止まらない。少女Bは、涙を流しながら小刻みに震える身体をゆっくりと起こした。今までにも何度か見たことのある悪夢。そんな夢に気を取られながらも、いつもと同じような朝を迎える。

 中学校最後の新学期。そんな日の空模様は優れない。心なしか、通行人も元気がないように感じる。今日は、太陽も顔を出さない。通学路、元気に鬼ごっこをしながら登校している小学生たちが、少女Bを横から追い抜いていく。逃げる複数人と、一人の鬼役。楽しそうに逃げ回る子どもたちとは裏腹に、追いかけることもせず、少女Bの後ろを一人ポツンと、下を向いて歩く小学生。そんな子供たちを眺めながら、少女Bはただ歩いた。そして、いつもと変わらず、少女Bの前に落ちる自身の薄い影は、太陽から逃げ続けている。太陽は今日、顔を出していないというのに。 雲に遮られた太陽と、少し薄い影。影が太陽から逃げるように、誰もが何かから逃げている。少女Bはふと、こんなことを考えていた。逃れ逃れ、歩んでいかないといけない。

 少女Bの後ろの太陽は、少し寂しそうな顔をしているような気がした。


 下校

「起立、気をつけ、さようなら。」

今日も、特に大きなこともなく、いつもとなんら変わりのない一日が平穏に終わった。少女Aの悪口を除いては。

 街が橙色に染まるはずだった頃、少女Bは学校の門をくぐり、太陽の落ちる方向へ歩き始める。この信号を渡ると、解放された安堵に浸れる。横断歩道の白線は、一歩一歩、踏み締めて慎重に。

 鈍色の分厚い雲の中から、どこか切なそうに顔を出す太陽は、正面から少女Bの存在を静かに照らす。

 誰かにつけられているような、不気味な気配を感じる。少女Bは、体を強張らせながら、ゆっくりと振り向いた。

(ただの勘違いだ。思い込み。)

そこには誰もいない。

 そこには、太陽の光量には見合わないほどに真っ黒な少女Bの影以外、誰もいなかった。


 夕日に照らされて落ちる影は、朝日に落とされた影よりも大きい。この日は、特に大きく感じ、このまま影に飲み込まれてしまいそうな圧迫感に恐怖を感じ、不安が込み上げて収まらなかった。

 帰宅後、リビングの扉を開けると、いつもは仕事でいない両親が、二人して食卓に揃っていた。しかし、その光景は異様でしかなかった。座っている両親は、ただ服を着ただけのマネキン人形だった。それでも少女Bは、その空気に逆らうことなく、両親と食卓を囲んで席に着いた。少女Bの正面には謎のジェスターが立っている。

(このジェスター、夢で見たことある。)

少女Bが席に着くとジェスターは、テーブルの上に不自然に置いてある蓄音機を回し、音声を流し始めた。

母「おかえり少女B、今日のご飯は、・・・だよ。あなたの好きな献立。」

父「おかえり、今日の学校はどうだった。すごいな少女B。前回よりも成績が伸びているじゃないか。」

機械のような音声、これは確実に両親の声ではなかった。しかし少女Bは、この異様でしかない空間に違和感を覚えることはなかった。

 この異様さは、ジェスターやマネキン人形の両親だけにとどまらなかった。この部屋には、家事を忙しなくこなす黒子が数人いる。黒子は、掃除、洗濯、洗い物、料理などの、それぞれの家事を分担していた。料理をする黒子はコンロの火を消し、食卓へと作り終えた料理を運んでやってきた。三人分の料理を各々の前に配って周ると、キッチンの方へ素早く戻って行った。運ばれてきた今夜のメニューは、白いお皿の上に、ケチャップが血のように惨たらしくかけられた、おもちゃのにんじんだった。

すると突然、ジェスターはその場で発狂した。

(自分の分のご飯が運ばれてこなかったからか?)

奇声で空気が震え、グラスや照明などは割れ、電気の接続は悪くなり、そのまま停電した。暗闇の中、小さくオルゴールの音が聞こえてくる。それと同時に、機械音声の両親が話し始めた。

母「少女Bは昔からこのメニューが好きだったから、お母さん張り切っちゃった。」

父「少女Bが嬉しそうな顔をしていたら、お父さんも嬉しいよ。」


 私ずっと、温かいご飯が食べたかった――

今日もいつものように悪夢を見て目を覚ます。

(変な夢。)

いつもと変わらず、重い体を起こし、学校へ行く支度を始める。

 三年間通っていても、通学路の雑踏に慣れることは一度もなかった。それほど、少女Bは全ての刺激に敏感だったんだ。下を向いて歩いて、青信号を知らせるこの音が、目の前の学校を知らせる。こんな生活も、もうすぐで終わる。終わってしまう、終えられる。長いようで短かった、短いようで長かった、少女Bの中学校生活。


無題

 私はどこまでも臆病だから、死にたい、なんて怖くて思うことすらしたことがなかった。でも、生きたくない、なら何度も思ったことがある。だって、生きててよかったことなんて掻き消されてしまうほど、嫌なことの方が断然、多くて濃いんだから。

 それに私は、どうせ死ぬなら生きていたことをすべて消し去ってしまいたい。死んだ、消えた、無くなったという事実は全て、そこにそれがあったということを言い換えているだけに過ぎない。私は、無くしたいのではなく、無かったことにしたい。生きた痕跡を全て抹消できるのであれば、そこでようやく死を受け入れられる。でもそんなこと、できるわけがない。理想を並べるのも大概にしろと、自分でも思ってしまう。けど私には、生きることを憚られるものが目の前にあった。それは他でもない、無力で無能な自分自身だ。

 私は多分、自覚がないうちに痛みを沢山感じてきた。でも、その痛み故に人に優しくなれたことなんてない。いつだってその痛みは、自暴自棄になる原因だった。痛みは、精神を崩壊させる起爆スイッチの役割を担っている。

 経験した人にしかわからないことがある。真剣に向き合って、泣いて、もがいて、苦しんで、嘆いたことを、経験したこともない人の冗談で笑いに変えられるわけがない。

自虐なんて、できるはずがない。

 優しくされなかった人は、優しくする方法がわからない。親から受けた教育の方法を、自分の子供にしてしまう、それは、優しさも厳しさも、自分が与えられたものしか他人に与えられない。痛みを与えられた人は、痛みを与えることしかできない。

痛みを知っている人は人に優しくなれると、誰かは善かれと嘘を吐く。

 

五幕 残響と懺悔

「そういえばあいつ、母親に虐待されてるん じゃなかったっけ。」

「いじめに虐待ってこと?」

「家にまで居場所なかったら、もう死ぬしか ないんじゃね?」

「もうとっくに死んでるかもよ。笑」

いじめっ子はどうしてこうも、他人の人生に首を突っ込みたがる。少女Bはまた、何も言えなかった。言う気力すら失ってしまっていた。

 巻き込まれるのが怖い、いじめの標的にされることが怖い、この時にはもう既に、そんな恐怖心はなかった。ただ、耐えることしかできない自分と、いつまで経ってもくだらないことで盛り上がってる奴らに嫌気がさしてたまらなかった。今はもう、これ以上事を荒立てないことに徹するしかない。

 下校時間のチャイムが鳴った。

「起立、気をつけ、さようなら。」

いつも通り、少女Bもクラスメイトの流れに沿って教室を出た。校門を出て左、太陽が落ちる方へ歩く。影は今日も少女Bを盾にして太陽から逃げ続けている。

 そして今日も、後ろにナニカの気配を感じる。いつもより少し圧があるように思う。これはただの気のせいなのか、と少女Bは疑問に思う。いつもは小道に入ると絶たれるはずの気配が、今日はずっと感じてならない。だからといって、振り返る勇気はない。少女Bは、走って帰ることにした。

 気配は消えないものの、特に何事もなく、無事に帰宅した。玄関の扉の鍵を開け、家の中に入った。扉が閉まる直前、

「バン!」

突然大きな音が鳴った。音の発生源を恐る恐る探ってみると、黒いナニカが扉にしがみついていた。

「お前のせいで私は救われなかった。意気地無し、出来損ない、ひどい、ひどい、」

ボソボソと何かを言っている。少女Bは、耳では聞こえない声が、頭にははっきりと聴こえるという、不気味な状態に陥ってしまう。ナニカは地面を這いつくばり、ゆっくりと少女Bを追いかける。ナメクジが這った跡のように黒い粘液のようなものが玄関のタイルを汚していく。状況の処理が追いつかず、完全に足が止まってしまった少女Bの後ろから、革靴を履いたような足音が聞こえた。すると、少女Bの足元に影ができ、何かに上から光が遮られたことを認識した。止まっていた思考回路は、足元に影ができたその一瞬で元に戻り、頭上と背後を順番に確認した。上には、継ぎ接ぎが多い、分厚い毛布のような生地の大きな傘が開いており、後ろにはその傘を少女Bに差している道化師が立っていた。道化師は、赤い付け鼻、口角が裂けたような口紅に、黒いハット、薄汚れた白の大きなリボンが特徴的な見た目だった。小柄で、その小柄さを誇張しているのか、ゆとりのある服と靴を身につけている。不気味な見た目をしているのになぜか、包み込まれるような暖かさを感じ、不覚にも安心した。

「無防備に影を落としてはいけないよ。」

道化師は少女Bに優しく話しかけた。そして、傘の先端をナニカに向けた。そのまま、閉じた傘を突き刺し、こう言った。

「君は今に敗北する。」

ナニカは、そのまま勢いよく開かれた傘に弾き飛ばされ、消え去った。見たことのないくらいの黒い影、それが、毎日背後に感じていた気配の正体だった。散り散りになった影は跡形もなく消え、それと同時になぜか心が軽くなったような気がした。

 道化師は少女Bの手を取り、一緒に地べたに座るよう促した。胡座をかいて座り込む道化師は、欠かさず少女Bに手持ちの傘をさしている。向き合って玄関の床に座る道化師と少女B、傘に覆われた二人だけが影を落とすことから逃げる。

「君は、シオンを殺せるか?」

道化師は、心配そうな、それにしては少し荒い息遣いで少女Bにそう問いかけた。

「シオン?」

「そうか。いや、なんでもないよ。」

ポカンとする少女Bを見て道化師は、表情は変わらないものの、苦笑いをしているような声を出し、仕方なさそうに話を始めた。

「あの影は、君と私にしか見えない幻のようなもの、そう深く考えることはない。精神状態の不安定さが原因で、心の中の負の感情が可視化されている。誰にでも起こり得ることだから心配ないよ。ただ、一つだけ約束をしてほしいことがある。」

道化師は、少女Bが抱いた疑問を手に取るように紐解き、優しく教えた。最後に道化師が話した約束事。

「シオンという名前が聞こえても、耳を貸してはいけないよ。」

この時の少女Bには既に、シオンという名前に聞き覚えはなくなっていた。でも少女Bは、この名前に少し不安感を抱いた。

「大丈夫。君を蝕む負の感情は、私が殺した。だからしばらくは平気さ。」

道化師は、少しは不安が和らいだ少女Bに傘を持たせて、自分のポケットを漁り始めた。そこから出てきたのは、少し錆びた金色の十字架のネックレス。それを少女Bの首に付けた。そして、十字架を握りこう言った。

「もしまた不安になったら、私のことを思い出すといい。きっと落ち着く。」

 この言葉を最後に少女Bは眠りに落ちた。


 卒業式当日

 卒業証書

 あなたは本校で中学校の課程を修め

 その業をおえたのでこれを証します

 

 体育館での卒業式を終え、卒業生たちは足並みを揃えて教室へ向かう。教室の扉を開け、自分の席に着く。そこで少女Bが見た光景は、少女Aの机の上に置かれた花瓶だった。

「中学校最後のホームルームを始めます。」

「起立、気をつけ、おはようございます。」

「まず、このクラスにとっての大切なお知らせがあります。」

「キムラシオンさんは、

 先日、亡くなりました。」

(不登校のクラスメイトか。クラスメイトが死んじゃったんだ。キムラ、シオン?)

 すると突然、教室に強い風が入り込んだ。その風に捲り上げられたカーテンは窓際の少女Aの席に置いてある花瓶を倒し、教室中に花瓶の割れる音が響いた。風で靡くカーテンに視界を遮られた一瞬、そこで少女Bに見えたものは、全身が濡れた少女Aの姿だった。

 その瞬間に、少女Bは全てを思い出した。今まで見ていた夢の内容を。

「これは現実ではない、全てが夢だったんだ。長い夢を見て、記憶が錯乱していた。」

 中学校生活の最後を知らせるチャイムが鳴り、これで少女Bの中学校生活は幕を閉じた。


無題

 いじめっ子はなぜいじめっ子なのだろうか。いじめられっ子はなぜいじめられっ子なのだろうか。誰も、いじめるために生まれたわけでも、いじめられるために育てられたわけでもないというのに。だから私は、どこにも属することができなかった。精神の貧弱さ故に、被害者になるくらいなら加害者になりたいと、卑劣な願望を抱いたことがあった。傷を負いたくないのはもちろん、この程度の奴らに傷を負わされる自分自身を認めたくないという、自身の無駄な見栄だ。

 悔しいことに、いじめに罪名も刑罰もない。そしてその分、時効なんてものもない。被害者からの報復を願い、社会から烙印が押される日を心から楽しみにしている。これらは、器が小さいという私自身の落ち度でしかないだろう。こんな大口を叩こうが、過去が変わることはない。負け犬の遠吠えにも届かない程度のものだと、ここに書き込むことを許してほしい。

 私はどうするのが正解なんだろう。断片的な悪を完全な悪だと決めつけてしまう私はきっと、悪だ。正義と悪は表と裏に過ぎない。裏を表から見れば、表は裏で裏は表、そんな単純な矛盾の中で善悪を決めることができるのか。たとえば、殺人犯は償っても償いきれない罪を犯した。でも、犯人にもいいところの一つや二つがあるはずで、人格を否定するには、殺人という一面だけの情報ではあまりにも少なすぎる。それと同じように、同級生のたまたま垣間見えた性格の片鱗が、偶然悪だったという可能性も捨てきれないだろう。だからといって、殺人はもちろん、どれだけ些細な嫌がらせであろうとやったことは許されない。ただ単純に、それだけの話だ。でもこんな話が通じるような奴は、あのクラスにはいない。


精神

一夜 刷り込み

 少女Aの家庭環境は、嘘でも良いとは言えないようなものだった。

 母親が少女Aを妊娠したと分かった時、父親は行方を眩ました。まだ未成年で結婚できる年でもなければ、付き合って長くもなかったからだった。母親の当時の彼氏、孕った子どもの父親になるはずだった人は、連絡がつかず、家の場所も両親の顔も、何も情報がなかったため、母親はしばらくの間、妊娠に対する不安を一人で抱えることを余儀なくされた。若かった母親は反抗期で、両親との関係はあまりよくなく、相談どころか言い出すことすらもできなかった。

 中絶費用は、学生だった母親にはすぐに出せる金額ではなく、ある一つの望みに賭けた。それは、流産か死産のどちらかだった。しかし、その望みは叶いそうにないと感じるほど、順調に子どもはお腹の中で成長を続けた。お腹が大きくなるにつれ隠すのも難しくなり、お腹を殴り続ける日々を繰り返した。ある日母親は、両親に妊娠していることがばれた。軽はずみな行動をしたこと、すぐに打ち明けなかったことをひどく怒られ、今すぐに堕ろせと言われた。次の日、言われた通り産婦人科に受診した。しかしもう既に、中絶可能な期間を過ぎていた。判断が遅すぎた。そこで母親はようやく、産まないといけない、これ以外に選択肢がないことを知った。

 そして、そんな望まれない子どもとして産まれたのが、少女Aだった。その当時、母親はまだ中学三年生、14歳という若さだった。両親は、産まれたばかりの子どもに母親は必要だと学校を休ませた。少女Aの祖父母になった母親の両親は、当然のように孫を可愛がった。しかし、生後一ヶ月は経った頃、母親は既に限界を迎えていた。これが、少女Aへのネグレクト、虐待の始まりだった。母親は両親のいないときだけ、少女Aに暴力を振るった。夜泣きがひどいときには首を絞め、お風呂に入れるときにわざと溺れさせたり、ミルクを飲まないときは哺乳瓶を喉に無理やりねじ込むなど、感情を抑えきれなくなればすぐに、憎い赤子の少女Aに当たった。でも、泣き声がうるさくて殴っても、さらにひどく泣くだけで、ストレスが解消される日は一向に来なかった。

 中学校を卒業した母親は、高校には行かず、職に就いた。理由は稼ぐためではない。ただ、家を出る理由が欲しかったからだ。働きに出る母親の代わりに、両親が少女Aの面倒を見た。母親は、少女Aが笑うようになっても、寝返りを打てるようになっても、ハイハイができるようになっても、喋れるようになっても、立てるようになっても、歩けるようになっても、少女Aの目を見て笑いかけることはなかった。

 少女Aが4歳の頃、祖父が癌で亡くなった。そのショックから、祖母は前から患っていた軽い認知症が悪化した。母親は、祖父が亡くなったことにショックを受ける暇もないまま、祖母の面倒を見ることが余儀なくされた。

 その翌年、祖母が亡くなった。深夜徘徊での交通事故だった。母親は一段落すると、少女Aと二人で青森の実家を後にした。

 

 母親の両親は高齢出産だった。祖父が50歳、祖母が46歳の時に初めての子どもを授かった。兄弟や姉妹はもちろんいない。

 そして母親は19歳にして、5歳の子供を持ち、68歳と65歳の両親を亡くした。 

 

 少女Aと母親は、親切な大家さん夫婦が管理する小さなアパートを借り、その一室に住むことになった。物心がついた少女Aは、ここから地獄が始まる。母親が汗水垂らして稼いだ給料は、酒と煙草に溶かされていった。育ち盛りの少女Aは碌なご飯を食べさせてもらえず、お腹が空いたら水を飲んで凌いでいた。母親に、お腹空いたと言った日は、必要以上に怒鳴られ、殴られ、蹴られ、ベランダに放り出されて、夜まで入れてもらえなかった。それから少女Aは、母親に欲を言うことをやめた。

 母親は酒癖が良くなかった。ストレスを溜め込んで、発散に酒を飲むということをひたすら繰り返していた。そして、夜中であってもお構いなしに少女Aを起こしては、

「いつもひどいことばっかりしてごめん。私のこと嫌いにならないで。わざとじゃないの、頭ではしちゃダメなことだって分かってる。でも気づいたら、勝手に手が出ちゃって。」

と、泣きじゃくった。

「嫌いになんかならないよ。ママは私のことを思って、叱ってくれてるんだよね。だから、ありがとう。ママ、大好きだよ。」

少女Aは、何があっても母親の味方だった。どんなにひどい扱いを受けても、母親が世界で一番大好きだった。


二夜 間引き

 小学生になった少女Aには、また新たな壁が立ちはだかった。

 物心がついた頃にはすでに、母親の顔色を伺い、欲を言わず、自我を出さないのが吉とされてきた。そんな環境で育った少女Aには、両親に愛され、家族に優しくされて育った、いわゆる普通の子との関わり方に難があった。少女Aにとっての普通は、みんなにとっての異常で、みんなにとっての普通が、少女Aにとっての異常だった。小学生という幼さで、異常を普通として受け入れることは難しく、気がついた頃には、周りに友達と呼べる存在はいなかった。嫌われるより、独りぼっちの方が気楽でよかった。少女Aは孤独を認めてしまうのが辛くて、そんなことを一人でよく考えていた。しかし、一難去ってまた一難、少女Aが孤独よりも恐れていた嫌悪が、現実になった。

 少女Aは、ある日の誰かの一言から、噂話の主人公に抜擢されてしまった。根も葉もない噂を、疑ってかかる人など一人もいなかった。お風呂に入っていないから臭い、そんな些細なことから、当時の少女Aには残酷すぎるほどの大きなことまで、いろんな噂話が蔓延った。残酷な噂話が飛び交うようになったのは、ある日のプールの授業中だった。普段は服で隠れている肩や背中、脚などが、スクール水着によって晒された。小学校に上がってからも続いていた、母親からの暴力。殴られる、蹴られる場所はいつも、顔、肩、背中、お腹、お尻、太もものどこかで、服で隠せる場所が多かった。隠れていた痣が一気に露わになったその姿を見た同級生は、

「親に殴られてるんじゃない?」

「虐待って言うんでしょ?」

「暴力反対、虐待親〜。」

なんてことを言い始め、中学生に上がってからも、阿呆の一つ覚えのように言い続け、この言葉が止むことはなかった。

 学校では、少女Aにとって、一番触れられたくないところに土足で踏み入られ、ひどい言葉を浴びせられる。家に帰っても、肉体的、精神的にきつい扱いを受けて過ごした。

 少女Aには、宿題よりも優先的にしないといけないことがあった。朝から晩まで働きに出ている母親は、家事を全て少女Aに任せていた。少女Aにも学校で出された宿題があるというのに、母親が帰ってきた時点で家事が全て終わっていないと、もう言わなくても分かるとおり、それなりの仕打ちが待っていた。だからと言って、家事を済まして母親の帰りを待っていても、褒めてくれることはない。それでも少女Aは、疲れているから仕方ないと、母親を責めることはなかった。

 少女Aには頼れる人も、素直になれる相手もいなかった。そもそも頼るという行為や素直な自分すら知らなかったのかもしれない。

 最悪な小学校生活も終盤に差し掛かった頃。ある日、洗面台の鏡に写った少女Aは、自分ではない黒い人影を見た。それと目が合った瞬間、金縛りになったかのように身体が強張り、目を逸らすことすらもできなくなった。それはゆっくりと腕を前にあげ、少女Aの方へ伸ばした。鏡から手が浮き出て、自分の方へ伸びてくる様子を見た少女Aは絶望のあまり、身体の強張りが解け始めた。強く目を閉じ、怖気付きながらももう一度鏡を見たその時、そこに写っていたのは道化師だった。

 焼け焦げたのか、使い古したのかの見極めができないほどのボロボロな服を着て、赤い鼻を付け、とても悲しそうな表情を浮かべる道化師。怖くてたまらないのに、鏡に写る黒い人影から目を逸らすことができない。そんな少女Aを見た道化師は、自身の被っていた穴の空いたボロボロのハットを、少女Aの目を覆うように被せた。そして、少女Aの姿が鏡に写らないよう、鏡との間に立ち、影が完全に消滅するのを待った。その道化師が言葉を発することはなく、無言で少女Aの頭に手を軽く置いた後、すぐに去っていった。洗面所からシュールに出ていった道化師を追い、扉を開けて見てみると、もうそこには誰もいなかった。


三夜 移植

 卒業証書

 あなたは本校で小学校の課程を修め

 その業をおえたのでこれを証します

 

 人生で一度しかない小学校の卒業式、母親は来なかった。

 

 中学一年生、少女Aの新生活が始まった。この頃の少女Aはもう、希望を抱くことすらしなくなっていた。理想を思い描いた後の現実は、いつもに増して冷酷で、虚しさが止まないからだ。そして案の定、今までのいじめが継続された。しかしこの先に、いじめなど比ではないほどの残酷な現実が待ち受けていた。

 住んでいるアパートの大家さん夫婦は、以前から少女Aを気にかけてくれていた。古いアパートの壁は薄く、母親の怒号が大家さんの部屋まで届いているからだ。少女Aにとっても、唯一の優しさを与えてくれる貴重な存在だった。

 ある日少女Aは、鍵を忘れて学校へ行ったことに帰宅してから気が付いた。扉の前で座り込んで宿題をしている少女Aの元に、スーパーの袋を持って帰ってきた、大家さんの奥さんが通りかかった。その日は土砂降りの日だった。

「どうしたの、こんなところで。」

大家さんは眉頭を強張らせ、心配そうに声をかけた。少女Aが、鍵を忘れて家に入れないことを説明すると大家さんは、母親が帰宅するまでうちで過ごすといいと言った。部屋に招き入れてもらった少女Aは雨に濡れていた。「制服濡れてるじゃない。風邪引くよ。」

と、大家さんは、少女Aと同じ年の孫のために買った新品の服を開けて、少女Aに着せた。この時大家さんは、少女Aの痛ましい身体の痣を見てしまった。これが、少女Aに待ち受ける残酷な現実の始まりだった。

 大家さんは、この事を警察に相談するため、近所の交番へ足を運び、母親の若さ、怒り方、帰宅時間、少女Aの身体の痣などの、不審に思ったことを全て話した。これを受けた警察は感謝し、すぐに対応すると話した。そのあと、この事は母親と少女Aには秘密にするよう、念を押して言った。

 数日後、少女Aの家のインターホンが鳴った。その日は休日で少女Aは家に居たが、母親は相変わらず仕事に出ていた。インターホンに出ると、警察ですと言われ、少女Aはなんとなく察しが付いた。でも出ないと余計に怪しまれる、そう思った少女Aは、勇気を出して扉を開けた。そこには、警察二人と児童相談所の一人が立っていた。

「お話をお伺いしてもよろしいですか?」

少女Aは母親が留守であることを話し、今日のところは引き取ってもらおうと考えた。

「話を聞きたいのはあなたなんですよ――

キムラシオンさん。」

警察は家の中へ入り、隅々まで見て回った。児相の人は女性で萩と言った。萩は、警察とは別の部屋で少女Aに質問を繰り返した。

「お母さんのこと好きですか?」

「好きです。」

「お母さんに叱られたりしますか?」

「ちゃんと叱ってくれます。」

「お母さんの嫌いなところはありますか?」

「ないです。全部好きです。」

「お母さんは優しいですか?」

「優しいです。」

少女Aはこの質問に対し、母親に罪を背負わさないためか、本心なのか、母親が必要だということを強調して答えた。

「今中にシャツ着てますか?上の服を脱いで、背中とかお腹を見せてもらいたいんですが、いいですか?」

少女Aは嫌だと言いたかった。でも脱いでも脱がなくても結果は一緒だと思い、言う通りに脱いだ。萩は身体の痣を見ると、メモを取り始めた。少女Aは焦って、咄嗟にこう言った。

「お母さんに殴られたとかじゃないですよ。 ただのドジで……」

萩は苦笑いをしながら、メモ帳をしまい、これで調査を終えたことを話した。

 この日はこれだけで終わり、三人は帰っていった。この日、母親も警察と児相から聞き取り調査を受けていた。

 そして後日、少女Aの家を訪ねてきたのは、あの時と同じ、児童相談所の萩と、同じく児相の二人だった。その二人は橋本と秋山といった。秋山は、一緒に一時保護施設に行こう、と少女Aに優しく話し、手を差し伸べた。しかし少女は、

「私は今日もお母さんの帰りを待ちます。」

と、扉を閉めようとした。すると橋本は扉を押さえ、話し始めた。

「今日、お母さんは帰ってきません。

別のところで警察が話を伺っています。」

こんなことを聞いた少女Aは、涙を必死に堪えながら、震える声で三人に質問した。

「温かいご飯、食べられますか。」

三人は目を合わせ、困ったように微笑み、こう答えた。

「もちろんです。」

少女Aは、複雑な感情を抱きながらも、施設に行くことを選んだ。また母親に会えることを信じて。

 この日は、夕暮れの太陽が、散り残った日中の雨雲を綺麗に照らし、不気味なほど神秘的な空模様だった。


四夜 保護

「お母さんから虐待なんて受けてない。」

「お母さんと一緒に暮らしたい。」

少女Aは泣きながら、一時保護施設の職員に懇願した。そんな少女Aを見た職員たちは後日、こんな提案をした。

「今度、一回お母さんに会って話す?」

少女Aの答えはもちろん、話したい、会いたい、これだけだった。本来母親の精神状態が悪かったりすれば、面会はできない。でも、この時の母親は、比較的穏やかだった。

 後日、役員同伴での一時間の面会時間が設けられた。面会室に向かう途中、少女Aは母親を見つけた。その途端に走り出し、母親の胸に飛び込んだ。嬉しさと安堵で涙が溢れる少女Aに、母親は、そっと笑いかけ、こう言った。

「何泣いてんの、元気だった?」

少女Aは、涙を流しながらも、笑って大きく頷いた。そのまま二人は、職員に案内され面会室へと向かった。面会室の中に入って、お互い席に着いた。すると母親は急に泣き崩れた。

「どうしたの、お母さん。」

母親は、心配そうに覗き込む少女Aの手を取り、震える声で話し始めた。

「ごめんね。沢山酷いことしたね。ほんとに母親失格だと思う。聞いて、私ね、シオンが覚えてないくらいの小さい頃からずっと、酷いことばっかり繰り返してた。殴って蹴って、首締めて溺れさせて、なんでそんなことしてたかって、スッキリしたんだ、その時だけは。赤ちゃんの時のシオンを愛し たことなんて一回もなかった。でも、今は違う。私には余裕がなかった。それも今日からは違う。」

この時にはもうすでに母親の目には涙が消えていた。少女Aはこれから先、母親との穏やかで幸せな日々が続くんだと、希望を抱いた。母親は清々しい顔で、優しい顔で話を続けた。

「やっと解放されるの、シオンの母親っていう檻から。シオン、私はようやくあなたを愛せる。」

少女Aは、理解が追いつかなかった。母親は少女Aに、言葉を発する隙も与えない。

「幸せになってね。シオン。さようなら。」

母親はその言葉を最後に部屋を出た。シオンの言葉も聞かないまま。一時間設けられていた面会は、十分もしないうちに終わった。

 それから少女Aは、母親に捨てられたショックのあまり一言も話さなくなった。母親側の聞き取りでは、母親は最初から虐待を認め、その上に母親失格、母親を辞めたい、あの子には幸せになってほしいと繰り返し話していた。最後にあの子に会って話したい、そう言った母親の面会希望を飲んだ職員は、少女Aに面会の提案をした、最後になるということは伝えずに。でもこれが最善なんだ。少女Aはこれから幸せにならないといけない。そのためには母親との決別が必要不可欠だったんだ。職員たちは面会の最中、こんなことを考えていた。

 後日少女Aは、児童養護施設に預けられた。施設内の個室に籠りっきりになった少女Aは、ご飯を食べることもできなかった。食べても少量、食べたものをそのまま吐いてしまうことも多かった。こんな調子が約一年間続き、学校に復帰することもなく卒業を迎えた。

 後日、施設に少女A宛の荷物が届いた。その中身は、卒業証書とクラスメイトからの一言メッセージが入った封筒だった。

「家に居場所あんの? 鹿島」

「お前のおかげで学校生活充実した 中村」

「話したことないから書くことない 宮下」

「教室臭いと思った、お前の机かよ 土井」

「何もできなくてごめんなさい。」

最後の手紙だけ名前が書いていない。少女Aは、何の変化もないいじめっ子のメッセージに虫唾が走り、施設の庭で手紙を一枚一枚丁寧に燃やした。

「私に味方なんて、誰一人としていない。」

 

無題

 私の中で、正義は私で、悪はいじめっ子だった。今でも曲げるつもりはない、はずだ。ただ、事実としてあることの一つは、あの中でのいじめはクラスの士気を高め、生徒同士の均衡を保っていた。いじめたい人はいじめに加担し、興味のない人は別のことをする、それだけの話。そして、事実としてあることのもう一つは、認めたくはないけれど、少なくともこのクラスの秩序は、私が乱していたに過ぎなかった。話し合えば分かり合える、そう思っていた私が馬鹿だった。甘かった、話し合おうとしていた相手は人間じゃない、話の通じない人間だ。オブラートを捨てて言えば、言葉すら通じない化け物だ。

 私は分からない、何が正義で何が悪か。いいや、これはそんな裏表で決められる話などではない。

 いじめっ子は、いじめることで団結力を高める。それと同時に、知らず知らずの無意識のうちに自尊心も高めている。人を下げてしか自尊心を上げることができない可哀想な愚か者だ。奴らの中では、反抗、見下し、支配、脅迫などで、自分は強いと思い始める。とんだ勘違いだ。無意識のうちに溜め込んだ劣等感やプライドを傷付けられる前に、優越感に浸り自尊心を高めているだけの、ただの防衛に過ぎない。奴らは劣等感を反発力に変換することを放棄している。弱い立場の人しか相手にできないほど己が弱すぎるからだ。しかし、それが許されるのは、周りもみんな優越感に浸りたい愚民同士だからだ。そして、その意見が合致し、いじめを行うことで劣等感を発散している。奴らには、誰かの人生をズタボロにしてまででも、劣等感を潰す必要性があったのだろう。

 中学生は人生で最も多感な時期なはず、それくらいは当時の私にもわかっていた。だからといって許されざる行為だったと、懺悔することが奴らの生涯で一度だってあるのだろうか。きっと今頃、そんなこともあったかと笑っている奴もいるはずだ。あの時の、奴ら特有の偏った嗤い方で。


不埒

一幕 残像

「これは現実ではない、全てが夢だったんだ。長い夢を見て、記憶が錯乱していた。」

少女Bは全てを思い出した。道化師に言われたこと、少女A、キムラシオンの存在のこと。道化師はこう言っていた。

「不安になった時はこのネックレスを握るといい。握れたら、そこは夢の中だ。」

今は夢の中なのかと問う私に出した答えは、

「どうだろうね。」

そして少女Bは、道化師の手によって、少女A、キムラシオンの名を忘れさせられていたことに気がついた。シオンという名前を聞いても耳を貸してはいけない、この道化師の忠告には従えなかった。

 少女Bは中学卒業後、定時制の高校へ進学した。同じ歳の子とこれ以上、密接に関わりたくなかったからだ。新学期が始まって少し、少女Bは再び悪夢を見るようになっていた。学校に備えて仮眠をとっていた時のこと、少女Bは両親の夢を見ていた。目を覚ました時、これは夢の中で起こったことではなく、幼少期の記憶が夢に出てきただけだと確信した。

 少女Bの家庭環境はあまり良くなかった。両親は共働きだった。父親の両親、少女Bにとっての祖父母は、数千万の借金を背負ったまま亡くなった。その借金は父親に降りかかり、両親は朝から晩まで仕事を掛け持ちして働いた。少女Bよりも早く家を出て、少女Bが寝た後に帰る。幼かった少女Bは21時には就寝していた。少女Bは小学生にして、一人暮らしをしているようなものだった。日曜日は、一週間の中で家族三人で過ごせる唯一の日だった。しかし、両親は仕事のストレスから、些細なことでも言い合いになる。言い合いがエスカレートして喧嘩になり、最終的には父が母に手をあげたり、包丁をテーブルに突き立てて脅したりすることもある。少女Bはそれを、幼い頃からずっと見続け、中学生になる頃には全ての刺激に敏感になってしまっていた。

 こんな幼少期のことを思い出さざるを得ないような夢に起こされ、不機嫌極まりない少女B。でもこの頃の少女Bは、まだ自分の家庭環境が悪いとは思っていなかった。少女Bからすればこれが日常で、普通だったからだ。仮眠から覚めれば、すぐに支度をして学校へ行く。最寄りの駅から乗り換えなしですぐに行ける距離、しかも駅を出れば目の前に学校があるところを選んだ少女B。

 この学校では、夜のチャイムは鳴らない、各々で時間を管理している。一限目が始まった、授業中は中学校までと大して変わらない。変わったことといえば、外が暗くなっていくところと、不良生徒やいじめっ子がいないことくらいだ。少女Bは割と早く新生活に馴染んでいた。今までの同級生も、いじめられっ子も、ここにはいない。クラスには同世代の人もいれば、20〜30代もいれば、60代くらいの人もいる。ただ勉強をするために通っている人がほとんどなのか、みんな真面目に勉強に取り組んでいる。

 一限目が終わり、少女Bはトイレに行った。クラスに戻って扉を開けたとき、教室にはさっきまでとは違う雰囲気が漂っていた。夕暮れだった空は夜になっていて、電気は消え、カーテンは取り外され、月明かりが教室に差し込んでいる。これは夢かもしれないと、道化師にもらったネックレスを握る。そのつもりが、ネックレスは無かった。

「これは現実だ。」

すると、少女Bの後ろから複数人の男が来た。男たちは少女Bを抱き抱えて教室の真ん中まで連れて行かれた。鍵を施錠し、男たちはいきなり少女Bの服を脱がせ始めた。

「やめてください!」

必死に抵抗する少女Bの声は、まるで届いていない。無我夢中に少女Bの身体を弄る男たちの生暖かい吐息と汗がかかる。やめてほしくて、気持ち悪くて、怖くて、抵抗したその時、

「抵抗されるのは興奮するけど、

 加減は誤るなよ。」

「お前もあぁなりたくなければな。」

男たちは笑いながら黒板の方を見た。視界を塞いでいた男も退いて、少女Bに黒板の方を見せた。そこには、身体中を釘で打たれた、セーラー服姿の女の子が、黒板に貼り付けられていた。

 驚きと恐怖で大きく息を吸った瞬間、目を覚ました。もう、どこからどこまでが夢なんだ。少女Bにはもう、何もわからない。

(ネックレスがない夢なんて……)

怖くなった少女Bは、止まらない鼓動を少しでも和らげようと、手を胸に当て、深呼吸をした。その時、手に何かが触れた。胸元をに目を向けると、少し錆びた金色のネックレスがあった。

(まただ、夢の中で目が覚める夢。)

どうしたらこの夢から覚められる。少女Bは必死に考えた。その末、まずはほっぺを叩くことにした。

ペチッ!

痛かった。相場、夢の中では痛くないはず、ではこれは現実なのか。考えれば考えるほど、夢と現実の境は混濁していく。


二幕 道化

 いつも通り21時に学校が終わり、下校する。その帰路で何かどこかに気配を感じる。あの時のあの気配だ。すると突然、雨が降ってきた。少女Bは傘を持ってくるのを忘れていた上に、折り畳み傘すら持っていない。家まではそう遠くない、少女Bは普通に歩いて帰ろうとした。街灯の下を歩いた瞬間、とてつもない殺気を感じ足が竦んだ。すると雨が止んだ。

「止んだ?いや、違う。」

異変を感じ後ろを振り向くと、道化師が少女Bに傘を差していた。道化師は決して街灯の光の下には入らない。自分は濡れているというのに、手を伸ばして少女Bだけを傘の中に入れる道化師。その行動に少女Bは、こんな疑問を浮かべる。

(一緒に入ればいいのに。)

それと同時に、これは夢なのか現実なのかと、不思議に思った少女Bは、ネックレスを握る。でもそこにネックレスは無い。

(現実なのか?)

「無防備に、影を落としてはいけないって、 言ったのに。」

道化師は少し息を切らしている。確かに足音は、遠くから走ってくるように聞こえていた。雨が道化師の顔を滴る。その顔をよく見ると、雨で白塗りが落ちてきている。

「顔が……」

道化師は慌てたような、照れたような様子で、顔を隠した。

「それより、この街灯の下で、影ができる一 瞬を狙って、君を殺ろうとしてたよ?影の シオン。気をつけてって言ったのに……」

「いややっぱり、その前に顔が、」

少女Bがそう言うと、道化師は顔に滴る雨水を服で拭った。しかし取れたのは白塗りと黒いペイントだけで、吊り上がった口角の口紅は取れなかった。目を細め、近くに寄って見てみると、口角は口紅ではなく、裂けていた。

「なんで、それ、その口。」

今まで表情を変えたことがなかった道化師は、少し悲しげな表情を浮かべ、口角をなぞるように手を当て、こう言った。

「大人になる代償だよ。」

夢に出てくるはずの道化師が、ネックレスのない現実にいる疑問を浮かべ、少女Bはこう質問した。

「ここは現実?あなたの正体は何?」

道化師の答えは、

「君が一番わかってるんじゃない?

 私は、君が作った未来の君だよ。」

困ったような、諦めているような、少し薄い声でこう話した。

 この日は、道化師の傘に入れてもらいながら家に帰り、そのままいつも通り眠りについた。これは、本当に現実だったのかもしれない。

 少女Bは、自分が作り出した未来の自分、についてわかることは何一つとしてない。そのことを聞いた時からずっと頭を悩ませていた。そんなある日、お風呂に入ろうとして洗面台の鏡の前に立つと、鏡には少女Bではない誰かの姿が写った。まるで鏡ではなく、映像が映されているような様子だった。

 黒いモヤのようなものが全体にかかる鏡、その中に映っている人をよく見ると、その正体は少女Aだった。身体中に傷や痣が痛ましく目立つ、痩せ細った姿。そしてその背後には、見覚えのない道化師が立っている。少女Bは、この映像のような鏡に触れれば、何かが起こるんじゃないかと鏡の方に手を伸ばした。少女Bの手が鏡に触れた瞬間、いつもの鏡に戻った。鏡に写し出された少女Bは、現実の少女Bと同じ動きをする。

 どういうことなのか考えながら、いつもと変わらずそのまま、普段通りお風呂に入る少女B。両親は相変わらず仕事で、家にはもちろん誰もいない。しかし、少女Bは頭を洗っている時、リビングの方から確かに、誰かの怒鳴り声が聞こえた。気のせいか、隣の家かと気持ちを落ち着かせ、とりあえず頭を洗い流した。それでも気が気じゃないため、バスタオルで身を包み洗面所の扉を開け、リビングをそっと覗いた。しかしそこには誰もいなかった。

 お風呂から上がった少女Bは、強烈な頭痛に襲われた。市販の鎮痛剤を飲んでも治る気配がなく、さらに呼吸が苦しくなり、腹部を殴られているかのような痛みが込み上げた。少女Bは無意識に服を捲り上げてお腹を見た。するとそこには、さっき鏡で見た少女Aと全く一緒の痣が浮き出ていた。

「不安になればネックレスを握るといい。」

不意にこの言葉を思い出し、ネックレスを握る。しっかり握る感覚が脳まで届き、少女Bは安堵した。

「ここは夢だ。」

目を覚ました時少女Bは、こんなに安心できた朝は初めてだと歓喜した。

 そして少女Bはそのまま、高校の卒業式へと向かった。


三幕 喧騒

 少女Bは、愛されなかったわけじゃない。愛されていないわけでもない。ただ、両親からの干渉が少なすぎただけだ。両親は超がつくほどの仕事人で、少女Bが産まれる前も、産まれた後も、効率重視で家事、育児、仕事を両立していた。物心がついてからの話、少女Bは両親から愛されていると確信した言葉をもらったことがある。

「あなたが笑えば仕事なんて苦じゃない。」

「お前がいれば仕事の疲れが吹き飛ぶよ。」

でもある日少女Bは気づいた。今まで大切に心に灯していたこの言葉の主軸が、私ではなく仕事だということに。この言葉の意味に気づいたその日から、少女Bは両親からの愛情に飢え始めた。

 小学生に上がってからは、もうすでに家事全般がそれなりにできるようになっていたため、両親は少女Bに家事を任せ、仕事に集中するようになった。少女Bは子供ながらに、稼いでも稼いでも借金完済には程遠いことをなんとなく理解していた。その手助けになるのならと、家事を喜んでしていた。これが両親との数少ない繋がりだったからだ。

 両親は、健康のことには厳しく、栄養バランスの整った食事、就寝、起床、睡眠時間を徹底的に管理していた。両親譲りの真面目な少女Bはそれを中学生になってもしっかりと守っていた。でもその言いつけのせいで、両親と過ごす時間は極端に減り、栄養満点とはいっても、食べる頃にはすでに冷えてる作り置きのご飯だった。

「冷えても味に変わりはない。」

「節約できるから電子レンジは使わない。」

これは両親の口癖だった。決してこれを少女Bに強要していたわけではないが、少女Bは迷惑をかけてはいけないと思い、いつも冷たいご飯を食べていた。

 日曜日、両親はこの日だけを休暇とし、少女Bとの時間を過ごした。小さい頃は、ショッピングに行ったり、ランチに行ったり、ピクニックに行ったり、遊園地に行ったり、ドライブをしたり、いろいろな思い出をもらった。しかし、小学校高学年にもなると、

「ここは前に行ったよ。」

と、一度行った場所には連れて行ってくれなかった。少女Bに干渉しない、関心がない、興味がない両親は、少女Bに友達がいないことも知らなかった。

「もう大きくなってきたんだし、親より友達といる方が楽しいでしょ?」

と、日曜日でさえ、両親と一緒に過ごす時間がなくなりそうになっていた。

 そもそも、日曜日だからといって毎週どこかにいくというわけではなく、月に一回行くか行かないか、くらいの頻度だった。どこにも行かない日曜日の過ごし方は、ただ黙ってリビングで三人が揃うだけだった。父親は片手にコーヒー、もう片方にリモコンでテレビを見ながら、うたた寝をする。父親に独占されているソファ、母親はそれに対し、毎回小言をこぼす。ダイニングテーブルの上で紅茶を飲みながら、スマホを片手にノートパソコンで仕事の資料を書いている。少女Bは、流れている政治家たちの討論の番組を見るか、スマホを触るかしか、することがなかった。部屋に戻りたいと思ったことは何度もあるが、仮にも少女Bのためにとっている休みとなると、この場所からいなくなるのは申し訳なかった。だからずっと、リビングで過ごす三人の時間を耐えた。しかし少女Bには、こんなことを遥かに超える苦痛があった。それは、両親が喧嘩をするときだった。

「食器洗ったら、すぐ拭いて戻してっていつも言ってるでしょ。」

「戻したら戻したで、配置が違うって文句言うんだろ。」

「これは文句じゃない。」

「文句以外に何があるんだよ、それで言えば お前も、洗濯機の埃溜まってたらすぐ捨てろって言っただろ。」

「今その話関係ないじゃん。それで言ったらあんたも、シャツは絶対アイロンかけてシワにならないようにハンガーにかけてって言ってるじゃん。」

「関係ないって言いながらお前も関係ないこ と言ってくんじゃん。デスク掃除するなら 配線は触んなって何回も言ってるよな。」

「じゃあ掃除全部自分ですれば?」

「分担するって話はどこに行ったんだよ。お前はいっつもそうだよな、論点がずれ過ぎて話にならない。だから会社で女は仕事ができないとか皮肉言われるんだよ。」

「はあ?まだ男が上とか思ってんの、古過ぎでしょ。」

以下省略。

 両親は、小学生でも呆れるほどの、小さな内容がきっかけで大喧嘩になっていた。口を開けば必ず言い合いになり、それがヒートアップすれば喧嘩、さらに爆発すれば大喧嘩。女に平気で手をあげる父親は、すぐに母親に暴力を振るい、母親はよく身体に痣ができていた。しかしこれは全て、少女Bが寝静まった後の出来事で、直接見たことはほとんどない。

 食器が割れる音、何かを殴るような鈍い音、両親の荒い怒鳴り声。この全てが少女Bの刺激を強めた。遠くの誰かを呼ぶ大きな声が、前日の両親の怒鳴り声に聞こえた日もあった。

 そして両親は、少女Bをさらに縛った。父親は外道の理を教え、母親は古臭い女の世間体を教えた。少女Bは、その教えが間違っていることを、幼いながらに感じていた。

 人に包丁を向け、女に手をあげる父親が語る道理なんて、信用ならなかった。周りの目を気にするあまり、大切なものを平気で捨てるような母親が語る世間体なんて、なんの意味も感じなかった。

 大人には大したことのない出来事でも、子どもだった少女Bにとっては、あまりにも背負う荷が重過ぎた、負った心の傷が大き過ぎた。


無題

 一生訪れない今日が、また今日も終わる。今日もまた、意味のない今日の自分を殺す。

 もう、終わりにしよう。そう決めたはずなのに、自分どころか、スマホのデータすら捨てられずにいる。

 どこかで拾った、

「逃げていい」って言葉の欠片。集めて完成した言葉のパズルの全文の中に、本当の逃げ場なんてなかった。

「逃げていい。逃げることは恥じゃない。

 死ななかったら、それでいい。」

綺麗事で心が洗われるほど綺麗に汚れてない。


 虚構

一章 欺瞞

 少女Bは突然、自分ではない誰かの視点が見えた。自分ではない誰かの記憶が、なぜか思い出せてしまう。瞼のスクリーンには、原稿用紙が映っていた。それにただひたすら、丁寧に文章を書き綴っていく。

「遺書

 拝啓

  二〇二六年六月二十八日、私は二十歳に なる直前に自決することを誓います。私は、数え切れないほどの命を殺めました。殺めた命は、何の罪も犯していない、純粋無垢な幼子から少女まで様々です。私は幾度となく自分を殺めて生きてきました。この罪を抱え、成人を迎えることは許されることではないと判断しました。少年法で守られる未成年のうちに、自分の罪と対峙し、自分の過ちを承認し、その罪に値する罰則を自分自身に与えることが、私が最期にできることでした。

  死を受け入れる覚悟など、疾うにできております。母親に愛されていないことに気 がついてもなお、気づいていないふりをしていた時から、普通を知った時から、善人が悪人に見えた時から、母親に捨てられた時から。

  私には、手を差し伸べてくれる人など、誰一人としていませんでした。これは私に原因があるのでしょうか。私は何か、悪いことをしたのでしょうか。それを教えてくれる人だって、私にはいません。誰か、どうか教えてください。

  叶いもしない夢を、ずっと夢見ていたことが悪いことなのでしょうか。私は、誰かと共に人生を歩むことをずっと、ずっと夢見ていました。幸せにならなくていいから、人生の主人公なんかじゃなくていいから。

  私を少女Aだと仮定すれば、少女Bに救 われる人生でありたかった。

  脇役でいい。私が少女Bだと仮定すれば、少女Aに必要とされる人生でありたかった。

  死にたくなかった理由が、人生を捨てるのが怖かったからだ、と言える最期でありたかった。

  自分を、自分の感情を殺し過ぎた私は、罪を犯し過ぎた。そんな私に神様も仏様もご加護をくださらなかった、微笑みかけてはくださらなかった。この人生は、殺された私から、罪人である私への、報復のようなものなんだ。

  成人してから、この大罪に罰を下そうも のなら、死んでも償い切れないはずだ。しかしながら、この罪を罰してくれる法律は ないだろう。だからこそ余計に、

 私は大人になるのが恐い。」

途中で書くのをやめたのか、この先の文章が見えない。次に見えた風景は海だった。浅瀬で人影が二つ、表情は窺えないものの、水を掛け合って楽しそうな雰囲気が伝わってくる。ただ、それに見合わないほどの分厚い雲が、太陽を閉じ込める。その不穏な空気に気を取られているうちに、人影は一つ減っていた。独りぼっちになった人影は、肩を脱力させ、海の深い方へと歩き始めた。海水が腰よりも上にきたあたりで足を止め、砂浜の方へ振り返った。その瞬間、大きな荒波が背後から押し寄せた。人影が波に飲み込まれる寸前、影は人の姿へと変わった。その時に見えた顔は、少女Bの脳裏に刻まれていた、少女Aの不自然に引き攣った笑顔だった。少女Bはこの様子を、砂浜の定点カメラのような映像で見ていた。少女Aは、そんな少女Bと目を合わせ、手を伸ばし、そのまま波に飲まれていった。少女Aが見た視線の先には、一体何があったのだろうか。

 少女Bは、身体を強張らせ、震える手を強く握りしめて涙を流した。

「これは私の妄想なんかじゃない。」

少女Bは、不確定なことを直観的に確信した。キムラシオンは死んだ。海に飲まれて死んだ。どこへ発散したらいいのか、どういう感情を持つのが正解か、何もわからなくなるほど混乱している少女Bは、無意識にネックレスを握りしめた。

「これは夢だ。」

「それはどうだろうね。」

道化師の声が聞こえ、顔を上げると、道化師が少女Bに傘を差して寄り添っていた。

 いや、傘を刺して寄り添っていた。

「君の心は蝕まれ過ぎている。だから全てが暗く、黒く、汚れて見えるんだ。

 私にとっては君も、過去の負の感情なんだ。許してね。君は今に敗北するんだ。」

道化師は少女Bを、あの影と同様に消し去った。

「これは全て、無意識の君が作った虚構、

 君の願望でしょ?」


 少女Bはベッドの上で目を覚ました。

「あーあ、変な夢見た。なんだったっけ?」 

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