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鯖喰いの庭、銀の脈動  作者: 六道奏
『第一部:偽りの空と鉄の翼』

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5/20

第5話:忘れられた街の闇市(ブラックマーケット)と鎮痛剤

本日から1日2話投稿です。

次回は18:00に投稿します。

 地下水路の迷宮を抜け、重いマンホールの蓋を押し上げた先に広がっていたのは、静寂と廃墟の世界だった。


 そこは、地図上では「閉鎖区画」として黒く塗りつぶされている場所。


 通称「旧第九区画」。


 かつてバビロンの拡張工事に伴い、地盤沈下によって放棄されたゴーストタウンだ。


 傾いたビル群が墓標のように立ち並び、窓ガラスの割れた穴からは、湿った風がヒュオオ……と亡霊の呻き声のような音を立てて吹き抜けている。


 「……なんとか、撒いたか」


 私はアリアを背負ったまま、崩れかけたレンガ造りの建物の陰に滑り込んだ。


 膝が笑っている。


 右腕に装着したパイルバンカーの重量が、鉛のように肩にのしかかっていた。


 「ヴェイン、こっちだ。地下鉄の入り口がある。あそこなら雨風は凌げる」


 ギルバートが指差した先には、蔦と苔に覆われた地下鉄駅の残骸があった。


 改札を乗り越え、ホームへと降りる。

 線路は錆びつき、枕木は朽ち果てていたが、構内の奥にある駅員室は奇跡的に原形を留めていた。


 私は埃っぽいベンチの上に、アリアをそっと横たえた。

 彼女の様子がおかしいことに気づいたのは、水路を抜ける直前のことだった。


 「……熱い」


 手袋越しに触れた彼女の額は、火傷しそうなほどの高熱を発していた。

 頬は不自然なほど赤く上気し、浅く速い呼吸を繰り返している。

 うわ言のように何かを呟いているが、意味のある言葉にはなっていない。


 「過負荷オーバーロードだ」


 ギルバートがアリアの瞳孔をペンライトで照らしながら言った。

 彼の声には焦りが滲んでいた。


 「あの巨大ムカデを止めた時、彼女は自分の生体電流を外部の機械に強制接続したんだ。並の人間なら脳が焼き切れて即死しているところだぞ」


 「……治療法は?」


 「普通の風邪薬じゃ効かん。神経伝達物質を抑制する強力な鎮静剤と、脳の冷却が必要だ。だが、手持ちのキットには包帯と消毒液くらいしか入っていない」


 私は舌打ちをして、壁を拳で叩いた。


 ここには何もない。

 あるのは塵と瓦礫と、過去の遺物だけだ。


 このままでは、アリアの脳は自身の熱暴走によって破壊されてしまう。


 「……あるぞ、薬が」


 私が絶望しかけた時、ギルバートが低い声で言った。


 彼は懐からくしゃくしゃになった古い地図を取り出し、一点を指差した。


 「この旧第九区画には、上層の監視を逃れた『モグリ』たちが住み着いている。奴らは独自の流通ルートを持っていてな。教会の目には触れさせられない違法薬物や、横流しされた軍用医薬品も扱っている場所がある」


 「闇市ブラックマーケットか」


 「ああ。場所はここから二キロ先。かつての劇場跡地だ。……だが、危険だぞ。あそこにいる連中は、金を払わなければ内臓を抜き取って売るようなハイエナばかりだ」


 「選択肢はないだろう」


 私は立ち上がり、パイルバンカーを外した。

 こんな目立つ武装をつけていけば、交渉どころか即座に戦闘になる。


 代わりに、懐に小型の拳銃と、数本の工具を忍ばせた。

 機工医にとって、工具は武器以上の意味を持つ。


 「ギルバート、お前はここでアリアとクロを守ってくれ。奴らが追ってくる可能性は低いが、ゼロじゃない」


 「任せろ。……死ぬなよ、ヴェイン」


 「誰に向かって言っている。俺はこの街で一番しぶとい修理屋だ」


 私は強がって見せたが、内心は冷や汗で濡れていた。

 アリアの苦しげな寝顔を一瞥し、私は闇の中へと走り出した。


          ***


 劇場跡地は、異様な熱気に包まれていた。


 崩れ落ちた天井からは雨が降り注いでいるが、客席があった場所には無数のテントや露店がひしめき合い、カンテラの灯りが揺らめいている。


 肉の焼ける匂いと、阿片の甘い煙、そして錆びた鉄の臭いが混ざり合った、強烈な悪臭。


 私はフードを深く被り、群衆に紛れて歩いた。


 すれ違う人々は皆、どこか身体の一部が欠損しているか、あるいは粗悪な機械で補っていた。


 義眼の男が私をねめつけ、腕が四本ある老婆が不気味な笑みを浮かべて手招きをする。


 「……おい、そこの旦那」


 声をかけてきたのは、顔の半分が真鍮のプレートで覆われた大男だった。

 店先には、血のこびりついた義手や、出所不明の機械部品が山積みになっている。


 「いい『眼』があるぜ。死んだばかりの上級市民から抉り出した極上品だ。あんたのその古臭い肉眼と取り替えてやろうか?」


 「間に合っている。探しているのは薬だ。『神経遮断薬ニューロ・ブロッカー』。それも、軍用レベルのやつだ」


 私が言うと、大男の表情が変わった。

 値踏みするような、それでいて警戒するような目つき。


 「……ヘビーな品をお求めだ。そんなもん扱ってるのは、この奥の『薬屋ケミスト』くらいだ。だが、あいつは金じゃ動かねえぞ」


 男が顎で示した先には、かつて舞台があった場所の奥、黒いカーテンで閉ざされた一角があった。


 私は礼も言わずに歩き出した。


 カーテンを潜ると、そこは別世界のように静かだった。


 壁一面の棚に、色とりどりの液体が入った瓶が並べられている。

 ホルマリン漬けの奇形生物、乾燥した薬草、そして厳重に封印された金属ケース。


 「いらっしゃい。……顔色が悪いわね、ドクター」


 カウンターの奥から現れたのは、白衣を着た若い女だった。


 いや、若く見えるだけかもしれない。

 彼女の肌は陶器のように白く、継ぎ目が首筋に見えた。


 全身義体の「人形ドール」だ。


 「薬が欲しい。連れが神経過負荷で死にかけている」


 私は単刀直入に切り出した。

 女は妖艶な笑みを浮かべ、長い煙管キセルをふかした。


 「『青の鎮静剤ブルー・セダティブ』ね。在庫はあるわ。……で、対価は? ここの通貨クレジットがただの紙屑だってことは知ってるでしょ?」


 「俺の技術ウデだ。機工医をやっている」


 「あら、お医者様? でもねえ、ここにいる連中はみんな、壊れたら新しいのを奪ってくればいいと思ってる野蛮人ばかりなのよ」


 女は煙を吐き出し、興味なさそうに手を振った。


 「お引き取りを。それとも、その綺麗な眼球でも置いていく?」


 「待て」


 私はカウンターに身を乗り出した。


 ここで引き下がるわけにはいかない。

 アリアの命がかかっているのだ。


 「あんた、困っていることがあるはずだ。その右腕、サーボモーターの同期がズレているな? 煙管を持つ手が〇・二秒ほど遅れて震えている」


 女の動きが止まった。

 彼女の瞳――カメラアイが、絞りをきつく閉じる。


 「……よく気づいたわね。三人の技師に見せたけど、誰も原因が分からなかったのに」


 「俺なら直せる。五分でだ。その代わり、薬を寄越せ」


 女はしばらく私を凝視していたが、やがてふっと笑い、右腕をカウンターに投げ出した。

 皮膚のように滑らかな人工皮膚の一部をスライドさせ、内部機構を晒す。


 「いいわ。賭けをしましょう。五分以内にこの震えを止めたら、薬でも何でも持っていきなさい。……でも、もし失敗したら」


 女は煙管の吸い口で、私の胸元をトン、と突いた。


 「あなたの心臓、いただくわよ。最近、新鮮なポンプが品薄なの」


 「交渉成立だ」


 私は即座に工具を取り出した。


 ルーペを目に装着し、彼女の腕の内部へと意識を集中させる。

 複雑極まりない配線とギアの迷宮。


 だが、今の私には、それが手にとるように理解できた。


 原因はメイン駆動系ではない。

 指先の触覚センサーからのフィードバック信号が、微弱なノイズとなって運動野に干渉しているのだ。


 これは設計ミスではない。

 長年の使用による摩耗と、微細な金属疲労が生んだ「癖」のようなものだ。


 「……痛むか?」


 「いいえ。感覚なんて、もう百年前に捨てたわ」


 女の言葉に耳を貸さず、私は神経バイパスの一部を切断し、予備回路へと繋ぎ変えた。


 〇・〇一ミリ単位の作業。


 周囲の喧騒が遠のき、世界には私と、この壊れかけた腕だけが存在していた。


 チッ、チッ、チッ……。

 壁の時計が時を刻む。


 額から汗が滴り落ちる寸前、私は最後の調整を終え、ドライバーを置いた。


 「動かしてみろ」


 女は疑わしげに眉をひそめながら、煙管を手に取った。


 滑らかな動作。

 指先の震えは完全に消え失せ、紫煙が真っ直ぐに天井へと昇っていった。


 「……やるじゃない、ドクター」


 彼女は満足げに頷き、棚の奥から青い液体が入ったアンプルを取り出し、カウンターに置いた。


 「約束の品よ。最高純度の鎮静剤。ついでに、抗生剤と栄養剤もつけてあげる」


 「恩に着る」


 私は薬をひったくるように掴み、踵を返した。

 だが、背後から女の声が追いかけてきた。


 「忠告しておいてあげるわ。……最近、この街に『狩人』が入り込んでいるそうよ。教会の犬じゃない。もっとタチの悪い、賞金稼ぎ」


 「……何?」


 「『銀の弾丸』を使う男。狙った獲物は逃がさない。……気をつけることね、子連れのお医者様」


 背筋に悪寒が走った。


 私は振り返らずに店を出た。

 急がなければならない。

 アリアの熱も心配だが、新たな脅威がすぐそこまで迫っている。


 雨足はさらに強まっていた。

 地下鉄駅への帰路を急ぐ私の足元で、泥水が黒い蛇のようにのたうっていた。


 その水面に映る私の顔は、かつてないほど険しく歪んでいた。


 (続く)



次回予告


 手に入れた薬でアリアは一命を取り留めるが、平穏は長くは続かない。

 薬屋の女が予言した通り、凄腕の賞金稼ぎがヴェインたちの隠れ家を嗅ぎつける。

 遠距離からの狙撃、仕掛けられた罠。

 見えない敵との攻防の中、目覚めたアリアが再びその特異な力を発揮する。

 次回、地下鉄構内での銃撃戦。

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