第3話:記憶媒体(メモリー)と失われた空
次話は20:00に投稿します。
嵐のような夜が過ぎ去り、地下診療所には再び重苦しい静寂が戻っていた。
だが、その静けさは以前のものとは質が異なっていた。
以前のそれが澱んだ水のような停滞だったとすれば、今のそれは、爆発寸前の火薬庫の張り詰めた空気に近かった。
「……バイタル数値、オールグリーン。信じられん回復力だ」
ギルバートが計測器の針を睨みながら、呆れたように呟く。
作業机の上では、昨晩死の淵を彷徨っていた猫――クロが、何事もなかったかのように自身の毛並みを整えていた。
その舌は、ザラリとした生物特有の質感を持っているが、舐め上げている脇腹の縫合痕からは、微かにオイルの匂いが漂う。
「傷口がもう塞がっている。自己修復機能か? そんな機能、軍用の最高級ドロイドにだって搭載されていないぞ」
私は淹れたてのコーヒーを啜りながら、クロの挙動を観察していた。
カフェインが徹夜明けの脳に染み渡る。
アリアは、作業机の傍らに置いた丸椅子にちょこんと座り、心配そうにクロを見守っていた。
彼女自身も泥を落とし、私が貸した大きすぎるシャツを着ている。
その姿は、まるでボロ布を纏った妖精のようだった。
「アリア、この猫について知っていることは?」
「……クロは、クロだよ。私の友達」
「友達、か。その友達は、どうやらただのペットじゃないらしい」
私が言いかけた時だった。
毛づくろいを終えたクロが、不意に奇妙な行動を始めた。 背中を丸め、ケッケッ、と喉を鳴らし始める。
猫が毛玉を吐く時の仕草だ。
「おい、机の上で吐かせるなよ」
ギルバートが慌てて雑巾を手に取る。
だが、クロの口から吐き出されたのは、湿った毛玉ではなかった。
カラン、と硬質な音がトレーの上で響く。 粘液に塗れた、小指の先ほどの小さな円筒形。
真鍮と水晶で出来た、美しい装飾が施されたカプセルだった。
「……なんだこれは」
私はピンセットでそれを摘み上げ、アルコールで洗浄した。
照明にかざすと、水晶の中に複雑な幾何学模様が刻まれているのが見えた。
ただの模様ではない。
光の屈折を利用して情報を記録する、旧世紀の遺物だ。
「『記憶の筒』……!」
ギルバートが悲鳴に近い声を上げた。
彼の義眼が、恐怖と興奮で激しく回転している。
「間違いない、戦前の記録媒体だ。今の技術じゃ製造不可能な代物だぞ。なんでこんなものが猫の胃袋の中に……」
「解析できるか?」
「……愚問だな。俺を誰だと思っている」
ギルバートは震える手で、棚の奥から埃を被った装置を引っ張り出した。
真鍮製の歯車と巨大なレンズが組み合わさった、映写機のような解析機だ。
彼はシリンダーを慎重にセットし、クランクを回して光源の調整を始めた。
「いいか、ヴェイン。何が出ても驚くなよ。こいつはパンドラの箱かもしれん」
部屋の照明を落とす。
暗闇の中、解析機のレンズから青白い光の束が放たれた。
光は空気中の塵を照らし出し、虚空に立体的な映像を結んでいく。
ジジッ、ジジジ……というノイズ音と共に浮かび上がったのは、膨大な数列と設計図だった。
それは、私が今まで見たこともないほど巨大で、複雑怪奇な構造物の図面だった。
「……これは、バビロンか?」
私が呟くと、ギルバートが息を呑んだ。
「いや、違う。よく見ろ、ヴェイン。これはこの街の『地下』じゃない。……『上』だ」
映像が回転し、構造物の全体像が露わになる。
私たちが住むこの階層都市バビロンは、巨大な塔のような形状をしていると言われている。
最下層の我々の上には中層があり、その上には上層があり、さらにその上には貴族たちが住む天空区画がある。
だが、映し出された図面は、その常識を根底から覆すものだった。
図面には、巨大な「蓋」が描かれていた。
都市の最上部を完全に覆い隠す、厚さ数百メートルにも及ぶ金属のドーム。
そして、そのドームの外側に広がっているはずの空間には、「VOID(虚無)」という文字ではなく、別の単語が記されていた。
『SKY(空)』
「空……?」
アリアが不思議そうに呟いた。
彼女は、その単語の意味を知らないようだった。
無理もない。
この最下層に生まれ落ちた者にとって、空とは鉛色の天井であり、降ってくるのは錆びた雨だけだ。
「青い空」や「太陽」など、お伽噺の中にしか出てこない概念だった。
「馬鹿な……。バビロンは、有毒な大気から人類を守るためのシェルター(避難所)じゃなかったのか?」
ギルバートの声が震えている。
教会の教義では、外の世界は死に絶え、バビロンだけが唯一残された楽園だとされている。
だからこそ、我々は狭く汚いこの街に閉じ込められ、呼吸税を払って生きているのだ。
だが、この図面が真実なら。
外の世界は死んでいない。
教会は、意図的に「蓋」をして、我々を閉じ込めていることになる。
映像が切り替わった。
次に映し出されたのは、数式とレポートの一部だった。
『計画名:箱庭。第13世代融合種による環境適応実験。検体名:A-00』
そして、アリアの写真。
私は思わず横にいる少女を見た。
彼女は、映し出された自分の顔を見ても、無表情のままだった。
ただ、その瞳の奥には、深い悲しみと諦めのような色が宿っていた。
「……私は、人間じゃないの?」
アリアがポツリと漏らした。
その問いに、私は即答できなかった。
融合種。
人間と機械、あるいは他の生物を混ぜ合わせた禁忌の存在。
教会が血眼になって狩り立てる理由が、ここにある。
彼女は、ただの逃亡者ではない。
この世界の「嘘」を暴く鍵そのものだったのだ。
「ヴェイン、これを消せ!」
ギルバートが叫んだ。
「これを見られたら、俺たちは終わりだ! 異端審問どころじゃない、軍が出てくるぞ! 今すぐシリンダーを砕いて、川に捨てろ!」
老人の主張は正しい。
賢明な判断だ。
このシリンダーを持っているだけで、国家反逆罪に問われる。
関わってはいけない。
見なかったことにして、アリアをどこか遠くへ逃がすべきだ。
私はシリンダーに手を伸ばした。
指先で、冷たい水晶の感触を確かめる。
握りつぶすのは容易い。
そうすれば、私はまた明日から、錆びた歯車を修理するだけの退屈で、しかし安全な日常に戻れる。
視線を上げる。
アリアが私を見ていた。
縋るような目ではない。
ただ、自分の運命を他人に委ねることに慣れきった、静かな瞳だった。
そして、その足元にはクロが座り、金色の瞳で私を試すように見上げている。
私は、この街が嫌いだった。
降り止まぬ雨も、腐った臭いも、希望を持たぬ人々の死んだ目も。
かつて、私は医者として人を救おうとした。
だが、救えなかった。
金がなければ薬も買えず、権力がなければ正しい治療も受けられない現実の前に、私は逃げ出した。
今、私の手の中には、この腐った世界をひっくり返すかもしれない「真実」がある。
「……ギルバート」
「なんだ、早くしろ!」
「俺は、見たことがないんだ」
「何をだ!」
「『青い空』だよ」
私はシリンダーを握りしめ、懐にしまった。
ギルバートが絶句し、口をパクパクさせている。
「お前、正気か……?」
「生憎と、錆び落としの溶剤を吸いすぎて頭がイカれちまったらしい」
私は椅子から立ち上がり、アリアの前に立った。 彼女の頭に手を置く。
ひやりとした髪の感触。
だが、その下の体温は温かかった。
「アリア。お前が人間かどうかなんて、俺には関係ない」
私は彼女の目を見据えて言った。
「俺の患者だ。完治するまで、面倒を見てやる」
アリアの瞳が大きく揺れた。
そして、その目尻から一筋の雫が零れ落ちた。
それはオイルでも、血でもなく、透明な涙だった。
「……うん」
彼女が小さく頷いた瞬間、地下室の鉄扉が再び揺れた。 今度はノックではない。
扉そのものを焼き切るような、バーナーの轟音だった。
「嗅ぎつけやがったか……!」
ギルバートが舌打ちをし、机の下からショットガンを引き抜く。
私は作業用のゴーグルを目に装着し、愛用の巨大なモンキーレンチを手に取った。
「裏口から出るぞ。ギルバート、『あれ』を使う」
「おいおい、あれはまだ試作段階だぞ! 暴発したら俺たちも木っ端微塵だ!」
「ここで座して死ぬよりはマシだろ!」
溶断された扉が真っ赤に焼け落ち、蹴り破られる。 硝煙と共に踏み込んできたのは、昨夜の騎士たちではない。
全身を黒い甲冑で覆い、ガスマスクを装着した異形の兵士たち――教会の暗部「粛清部隊」だった。
私の平穏な隠居生活は、ここで完全に終わりを告げた。
ここから先は、錆と硝煙に塗れた、泥沼の逃避行だ。
(続く)
次回予告
地下診療所を脱出したヴェインたちは、バビロンのさらに深淵、廃棄された地下水路へと逃げ込む。
そこで待ち受けていたのは、都市のエネルギーを貪る巨大な害獣と、アリアを狙う新たな追手。
「あれ」と呼ばれたギルバートの秘密兵器が火を噴く時、アリアの中に眠る「力」もまた、覚醒の時を迎える。




