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鯖喰いの庭、銀の脈動  作者: 六道奏
『第一部:偽りの空と鉄の翼』

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3/9

第3話:記憶媒体(メモリー)と失われた空

次話は20:00に投稿します。

 嵐のような夜が過ぎ去り、地下診療所には再び重苦しい静寂が戻っていた。

 だが、その静けさは以前のものとは質が異なっていた。


 以前のそれが澱んだ水のような停滞だったとすれば、今のそれは、爆発寸前の火薬庫の張り詰めた空気に近かった。


「……バイタル数値、オールグリーン。信じられん回復力だ」


 ギルバートが計測器の針を睨みながら、呆れたように呟く。


 作業机の上では、昨晩死の淵を彷徨っていた猫――クロが、何事もなかったかのように自身の毛並みを整えていた。


 その舌は、ザラリとした生物特有の質感を持っているが、舐め上げている脇腹の縫合痕からは、微かにオイルの匂いが漂う。


「傷口がもう塞がっている。自己修復機能オート・リペアか? そんな機能、軍用の最高級ドロイドにだって搭載されていないぞ」


 私は淹れたてのコーヒーを啜りながら、クロの挙動を観察していた。

 カフェインが徹夜明けの脳に染み渡る。


 アリアは、作業机の傍らに置いた丸椅子にちょこんと座り、心配そうにクロを見守っていた。

 彼女自身も泥を落とし、私が貸した大きすぎるシャツを着ている。


 その姿は、まるでボロ布を纏った妖精のようだった。


「アリア、この猫について知っていることは?」


「……クロは、クロだよ。私の友達」


「友達、か。その友達は、どうやらただのペットじゃないらしい」


 私が言いかけた時だった。


 毛づくろいを終えたクロが、不意に奇妙な行動を始めた。 背中を丸め、ケッケッ、と喉を鳴らし始める。


 猫が毛玉を吐く時の仕草だ。


「おい、机の上で吐かせるなよ」


 ギルバートが慌てて雑巾を手に取る。


 だが、クロの口から吐き出されたのは、湿った毛玉ではなかった。


 カラン、と硬質な音がトレーの上で響く。 粘液に塗れた、小指の先ほどの小さな円筒形シリンダー

 真鍮と水晶で出来た、美しい装飾が施されたカプセルだった。


「……なんだこれは」


 私はピンセットでそれを摘み上げ、アルコールで洗浄した。


 照明にかざすと、水晶の中に複雑な幾何学模様が刻まれているのが見えた。


 ただの模様ではない。


 光の屈折を利用して情報を記録する、旧世紀の遺物だ。


「『記憶のムネモシュネ・シリンダー』……!」


 ギルバートが悲鳴に近い声を上げた。

 彼の義眼が、恐怖と興奮で激しく回転している。


「間違いない、戦前の記録媒体だ。今の技術じゃ製造不可能な代物だぞ。なんでこんなものが猫の胃袋の中に……」


「解析できるか?」


「……愚問だな。俺を誰だと思っている」


 ギルバートは震える手で、棚の奥から埃を被った装置を引っ張り出した。

 真鍮製の歯車と巨大なレンズが組み合わさった、映写機のような解析機だ。


 彼はシリンダーを慎重にセットし、クランクを回して光源の調整を始めた。


「いいか、ヴェイン。何が出ても驚くなよ。こいつはパンドラの箱かもしれん」


 部屋の照明を落とす。


 暗闇の中、解析機のレンズから青白い光の束が放たれた。

 光は空気中の塵を照らし出し、虚空に立体的な映像を結んでいく。


 ジジッ、ジジジ……というノイズ音と共に浮かび上がったのは、膨大な数列と設計図だった。


 それは、私が今まで見たこともないほど巨大で、複雑怪奇な構造物の図面だった。


「……これは、バビロンか?」


 私が呟くと、ギルバートが息を呑んだ。


「いや、違う。よく見ろ、ヴェイン。これはこの街の『地下』じゃない。……『上』だ」


 映像が回転し、構造物の全体像が露わになる。

 私たちが住むこの階層都市バビロンは、巨大な塔のような形状をしていると言われている。


 最下層の我々の上には中層があり、その上には上層があり、さらにその上には貴族たちが住む天空区画がある。


 だが、映し出された図面は、その常識を根底から覆すものだった。


 図面には、巨大な「蓋」が描かれていた。

 都市の最上部を完全に覆い隠す、厚さ数百メートルにも及ぶ金属のドーム。


 そして、そのドームの外側に広がっているはずの空間には、「VOID(虚無)」という文字ではなく、別の単語が記されていた。


『SKY(空)』


「空……?」


 アリアが不思議そうに呟いた。

 彼女は、その単語の意味を知らないようだった。

 無理もない。


 この最下層に生まれ落ちた者にとって、空とは鉛色の天井であり、降ってくるのは錆びた雨だけだ。

 「青い空」や「太陽」など、お伽噺の中にしか出てこない概念だった。


「馬鹿な……。バビロンは、有毒な大気から人類を守るためのシェルター(避難所)じゃなかったのか?」


 ギルバートの声が震えている。


 教会の教義では、外の世界は死に絶え、バビロンだけが唯一残された楽園だとされている。

 だからこそ、我々は狭く汚いこの街に閉じ込められ、呼吸税を払って生きているのだ。


 だが、この図面が真実なら。

 外の世界は死んでいない。


 教会は、意図的に「蓋」をして、我々を閉じ込めていることになる。


 映像が切り替わった。

 次に映し出されたのは、数式とレポートの一部だった。


『計画名:箱庭ミニチュア・ガーデン。第13世代融合種キメラによる環境適応実験。検体名:A-00』


 そして、アリアの写真。


 私は思わず横にいる少女を見た。


 彼女は、映し出された自分の顔を見ても、無表情のままだった。

 ただ、その瞳の奥には、深い悲しみと諦めのような色が宿っていた。


「……私は、人間じゃないの?」


 アリアがポツリと漏らした。

 その問いに、私は即答できなかった。


 融合種キメラ

 人間と機械、あるいは他の生物を混ぜ合わせた禁忌の存在。


 教会が血眼になって狩り立てる理由が、ここにある。

 彼女は、ただの逃亡者ではない。


 この世界の「嘘」を暴く鍵そのものだったのだ。


「ヴェイン、これを消せ!」


 ギルバートが叫んだ。


「これを見られたら、俺たちは終わりだ! 異端審問どころじゃない、軍が出てくるぞ! 今すぐシリンダーを砕いて、川に捨てろ!」


 老人の主張は正しい。

 賢明な判断だ。


 このシリンダーを持っているだけで、国家反逆罪に問われる。


 関わってはいけない。

 見なかったことにして、アリアをどこか遠くへ逃がすべきだ。


 私はシリンダーに手を伸ばした。

 指先で、冷たい水晶の感触を確かめる。


 握りつぶすのは容易い。

 そうすれば、私はまた明日から、錆びた歯車を修理するだけの退屈で、しかし安全な日常に戻れる。


 視線を上げる。

 アリアが私を見ていた。

 縋るような目ではない。


 ただ、自分の運命を他人に委ねることに慣れきった、静かな瞳だった。

 そして、その足元にはクロが座り、金色の瞳で私を試すように見上げている。


 私は、この街が嫌いだった。

 降り止まぬ雨も、腐った臭いも、希望を持たぬ人々の死んだ目も。


 かつて、私は医者として人を救おうとした。

 だが、救えなかった。


 金がなければ薬も買えず、権力がなければ正しい治療も受けられない現実の前に、私は逃げ出した。


 今、私の手の中には、この腐った世界をひっくり返すかもしれない「真実」がある。


「……ギルバート」


「なんだ、早くしろ!」


「俺は、見たことがないんだ」


「何をだ!」


「『青い空』だよ」


 私はシリンダーを握りしめ、懐にしまった。

 ギルバートが絶句し、口をパクパクさせている。


「お前、正気か……?」


「生憎と、錆び落としの溶剤を吸いすぎて頭がイカれちまったらしい」


 私は椅子から立ち上がり、アリアの前に立った。 彼女の頭に手を置く。


 ひやりとした髪の感触。

 だが、その下の体温は温かかった。


「アリア。お前が人間かどうかなんて、俺には関係ない」


 私は彼女の目を見据えて言った。


「俺の患者だ。完治するまで、面倒を見てやる」


 アリアの瞳が大きく揺れた。


 そして、その目尻から一筋の雫が零れ落ちた。

 それはオイルでも、血でもなく、透明な涙だった。


「……うん」


 彼女が小さく頷いた瞬間、地下室の鉄扉が再び揺れた。 今度はノックではない。

 扉そのものを焼き切るような、バーナーの轟音だった。


「嗅ぎつけやがったか……!」


 ギルバートが舌打ちをし、机の下からショットガンを引き抜く。

 私は作業用のゴーグルを目に装着し、愛用の巨大なモンキーレンチを手に取った。


「裏口から出るぞ。ギルバート、『あれ』を使う」


「おいおい、あれはまだ試作段階だぞ! 暴発したら俺たちも木っ端微塵だ!」


「ここで座して死ぬよりはマシだろ!」


 溶断された扉が真っ赤に焼け落ち、蹴り破られる。 硝煙と共に踏み込んできたのは、昨夜の騎士たちではない。

 全身を黒い甲冑で覆い、ガスマスクを装着した異形の兵士たち――教会の暗部「粛清部隊」だった。


 私の平穏な隠居生活は、ここで完全に終わりを告げた。

 ここから先は、錆と硝煙に塗れた、泥沼の逃避行だ。


(続く)



次回予告


 地下診療所を脱出したヴェインたちは、バビロンのさらに深淵、廃棄された地下水路へと逃げ込む。

 そこで待ち受けていたのは、都市のエネルギーを貪る巨大な害獣と、アリアを狙う新たな追手。

 「あれ」と呼ばれたギルバートの秘密兵器が火を噴く時、アリアの中に眠る「力」もまた、覚醒の時を迎える。

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