第19話:堕ちた翼と、蒼き処刑台
『第二部:深海の錆、星の歌』 開幕
本日より1日1話 18:00投稿になります。
その時、世界から音が消えた。
これまで私たちの命を繋いでいた『天翔る鯨』号のエンジンが、咳き込むようなノイズを最後に沈黙したのだ。
燃料計の針は、死んだ虫のように「E」に張り付き、ピクリとも動かない。
聞こえるのは、風が翼を撫でるヒュオオオ……という乾いた音と、きしむ機体の悲鳴だけ。
「……悪い、みんな。ここまでだ」
操縦席のバルガスが、押し殺した声で告げた。
彼の背中は包帯から滲んだ血で赤く染まっている。
それでも、その太い腕は操縦桿を握りしめ、最後の瞬間まで機首を上げようと抗っていた。
「高度、100を切るわ! 眼下に障害物多数! ……まるで墓場ね」
カレンが窓の外を見て呟く。
雲を抜けた先に広がっていたのは、私たちが夢見た「緑の大地」ではなかった。
見渡す限りの、鉛色の海。
そして、その海面から突き出した無数のコンクリートの墓標――旧時代の廃墟ビル群だった。
「不時着する! 衝撃に備えろ!」
バルガスの叫びと共に、機体が大きく傾いた。
「アリア! 頭を下げろ!」
私は反射的に左手を伸ばし、隣に座るアリアの頭を抱え込んだ。
右腕は――動かない。
あの枢機卿との死闘で酷使しすぎた右腕は、ただの重りとなって私の肩にぶら下がっていた。
ズザァァァァァァァッ……!!
次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を襲った。
機体の腹が海面を削り取る音。
鉄板が飴細工のようにへし曲がる音。
そして、ガラスが砕け散る音。
世界が回転し、天地が逆転した。
重力が滅茶苦茶な方向に働き、シートベルトが肋骨に食い込む。
バウンド。もう一度バウンド。
そして、唐突な静止。
「……ぐぅっ」
私は薄目を開けた。
機体は傾き、足元からは冷たい海水が勢いよく浸水してきていた。
海水には黒い重油が混じり、鼻をつくような悪臭を放っている。
「……おい、全員生きてるか!?」
私が怒鳴ると、後部座席からカレンとギルバートの咳き込む声が聞こえた。
ウルフは額から血を流しているが、悪態をつく元気はあるようだ。
バルガスも親指を立てて見せた。
「……ふう。どうやら三途の川までは行かずに済んだみたいだな」
私は胸を撫で下ろし、腕の中のアリアを確認した。
彼女は青ざめていたが、怪我はないようだ。
「ヴェイン、海……。これが、海?」
アリアが割れた窓の外を指差した。
私はよろめきながら立ち上がり、機体の外へと出た。
そこは、死の世界だった。
空は曇天。
海はヘドロのように濁り、波間に漂うゴミや瓦礫が、死骸のように揺れている。
本で読んだ「青く輝く生命の揺りかご」とは似ても似つかない、冷たく、寂しい場所。
「……上層から落ちて、地獄行きってわけか」
ウルフが機体の上によじ登り、周囲を見渡した。
半分水没した廃ビルが、亡霊のように周囲を取り囲んでいる。
その時だった。
ボコッ、ボコボコボコ……。
海面が、不気味に泡立ち始めた。
一箇所ではない。
私たちの機体を取り囲むように、数十箇所で同時に。
「なんだ? 魚か?」
バルガスが目を細める。
違う。
水面を割って現れたのは、光沢のある黒いゴムスーツに身を包んだ「人型」だった。
「……敵だッ!」
ギルバートが叫ぶと同時に、海面から一斉に銃口が向けられた。
水中銃。
その切っ先は鋭く研ぎ澄まされ、逃げ場のない私たちを確実に捉えていた。
「動くな。……少しでも動けば、ハチの巣にする」
水かきのついた兵士たちが、無機質な声で警告する。
その数は五十近い。
完全包囲だ。
そして、波が割れた。
ザバァァァァッ!!
轟音と共に、廃ビルの影から巨大な影が躍り出た。 それは、生き物ではなかった。
鋼鉄の装甲板を鱗のように重ね合わせ、背中にジェット推進器を背負った、全長十メートルを超える「機械のシャチ」だった。
その背中にある操縦席に、一人の少女が座っていた。
優雅に足を組み、まるで散歩のついでに立ち寄ったかのような涼しい顔で。
透き通るような蒼い髪。
海の色と同じ、底知れない深さを湛えた蒼い瞳。
そして首筋には、『B-01』の刻印。
「……ようこそ、外の世界へ。そして、おかえりなさい、お姉様」
少女――ベータの声は、波音にかき消されることなく、鮮明に脳裏に響いた。
その声色はアリアと似ていた。
だが、決定的に何かが欠落していた。
「温度」だ。
「お前は……誰だ? 教会の追っ手か?」
私がアリアを背に隠しながら問うと、ベータは可笑しそうに口元を歪めた。
「教会? ああ、あの時代遅れの宗教組織のこと? ……彼らならもう用済みよ。私は『ネオ・アトランティス』の管理官、ベータ。あなたたちが探している塔の守護者よ」
ベータは退屈そうに指先をいじった。
「単刀直入に言うわ。……姉さん(オリジナル)を返しなさい。そうすれば、あなたたちの命だけは助けてあげる」
「断る!」
私が叫ぶと同時に、ウルフが動いた。
懐からナイフを抜き、投擲しようとする。
だが、遅い。
ベータが指を鳴らす。
乾いた破裂音と共に、ウルフの肩から鮮血が吹き出した。
海中の兵士による狙撃だ。
「ぐあッ……!?」
ウルフが苦悶の声を上げて倒れ込む。
カレンがライフルを構えようとするが、即座に数本の銛が彼女の足元に突き刺さり、動きを封じられる。
「……学習能力が低いのね。生存確率0.002%の状況で、まだ抵抗するつもり?」
ベータの視線が私に向けられた。
ゴミを見るような目だ。
「やれるものならやってみなさい。……その壊れた腕で」
彼女は私の右腕を見透かしていた。
私は歯噛みしながら、右腕に力を込めた。
動け。動いてくれ。
今ここで戦えなければ、何のためにここまで来たんだ。
だが、右腕はピクリとも動かない。
ただ熱を持ってズキズキと痛むだけ。
無力だ。あまりにも無力だ。
「……もういいの、ヴェイン」
背中から、震える声がした。
アリアが、私の服の裾をぎゅっと握りしめていた手を、ゆっくりと離した。
「アリア……?」
「私が戻れば、みんなを助けてくれるのね?」
アリアがベータに向かって叫んだ。
ベータは満足そうに微笑んだ。
「ええ、約束するわ。……私は嘘つきな人間とは違うもの」
「分かった。……行くわ」
「アリア! 行くな!」
私は左手で彼女を止めようとした。
だが、アリアは振り返り、泣きそうな笑顔を見せた。
「ヴェイン。……海を見せてくれて、ありがとう。空を教えてくれて、ありがとう」
彼女の手が、私の頬に触れる。
冷たくて、でも温かい手。
「死なないで。……生きてさえいれば、きっとまた会えるから」
彼女は私の手を振りほどき、機械シャチの方へと歩いていった。
波に足を取られそうになりながら、それでも背筋を伸ばして。
私たちを守るための、悲壮な行進。
ベータがアリアの手を取り、シャチの背に乗せる。 蒼と白。対照的な二人が並ぶ。
「連れて行きなさい。……『ネオ・アトランティス』の第13収容区へ」
ベータの冷徹な命令が下った。
兵士たちが一斉に機体に乗り込んでくる。
私は泥水に顔を押し付けられ、手錠をかけられた。
「離せ! アリア! アリアァァァッ!!」
遠ざかる機械シャチ。
アリアは何度も何度も振り返っていた。
その姿が、霧の中へと消えていく。
機体が完全に沈み、私たちは冷たい海中へと引きずり込まれた。
息ができない。視界が暗転する。
こうして、私たちの冒険の第一章は、最悪のバッドエンドで幕を閉じた。
残されたのは、壊れた機体と、腐りかけた右腕と、敗北の味だけだった。
(続く)
次回予告
アリアを奪われ、誇りを踏みにじられ、ヴェインたちは鉄の檻へと放り込まれた。
そこは軌道エレベーターの根元に巣食う海上スラム「ネオ・アトランティス」。
酷使した右腕は腐り落ち、命の灯火すら蝕んでいく。
抗生剤も、麻酔もない地獄の底で、男は運命を変える「鉄の牙」と出会う。
「生きるために、捨てる。……それが俺の選択だ」
次回、『錆びついた檻と腐った右腕』。 ――切断り落とせ。未練も、腐った腕も。




