第2話:異端審問と銀のメス
次話は本日18:00に投稿します。
地下診療所を満たす空気は、重く、澱んでいた。
換気扇が悲鳴のような音を立てて回っているが、鉄錆と血、そして揮発した薬品の刺激臭を追い出すには至らない。
私は手元の視野を、さらに拡大した。
左目に装着したルーペの倍率を上げ、肉眼では捉えきれない極小の世界へと没入する。
そこは、混沌の極みだった。
猫の腹腔内で、ピンク色の有機的な粘膜が、冷徹な真鍮のシャフトに絡みついている。
本来なら拒絶反応で組織が壊死し、機械部分は腐食して停止するはずだ。
だが、この猫の体内で起きている現象は、私の医学知識を根底から覆していた。
『深紅の溶液』を一滴、患部に垂らす。
ジュッ、という微かな音と共に、赤い蒸気が立ち上る。
それは、生物と機械、相反する二つの物質を強制的に融和させる「架け橋」だ。
「……信じられん」
背後でモニターを監視していたギルバートが、呻くような声を漏らした。
彼の義眼が高速で回転し、計測データを弾き出している音が聞こえる。
「生体心臓の拍動リズムが、人工肺の吸排気サイクルと完全に同期した。……ヴェイン、こいつの設計図は頭の中にどう描かれているんだ? 配線が血管のように分岐してやがる」
「黙っていろ。集中が途切れる」
私は汗が目に入らぬよう瞬きを堪え、震える指先でピンセットを操作した。
直径〇・一ミリにも満たない神経束を、銀線の端子に接続する。
これが成功すれば、脳からの信号が再び四肢へ伝達されるはずだ。
失敗すれば、ショック死か、あるいは永久的な植物状態。
少女アリアは、作業机の端から微動だにせず、その光景を見つめていた。
恐怖に目を背けることも、好奇心で身を乗り出すこともしない。
ただ、祈るように両手を組み合わせ、その翠玉の瞳で、私の手元だけを凝視している。
時間の感覚が消失していた。
壁の一面に並んだ古時計たちが、何百回目かの時報を鳴らした頃、私はようやく最後の一針を縫い終えた。
「……終わった」
深い吐息と共に、鉗子をステレンレスのトレーに放り投げる。
乾いた金属音が、張り詰めた空気を打ち砕いた。
どっと全身から力が抜け、私はその場に座り込んだ。 背中のシャツが冷や汗で張り付いて気持ちが悪い。
「バイタル、安定。……奇跡だな」
ギルバートが安堵の息を漏らし、私に古びたマグカップを差し出した。
中身は泥水のように濁った、安物の合成コーヒーだ。
だが今の私には、どんな高級酒よりも美味く感じられた。
「ありがとう、おじさん」
アリアが小さな声で言った。
彼女はそっと猫の頭を撫でた。
その指先が触れた瞬間、猫の耳がピクリと動き、閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上がった。
ガラス玉の瞳の奥で、淡い琥珀色の光が灯る。 それは、命の灯火だった。
「礼を言うのはまだ早い。これからが正念場だ」
私は熱いコーヒーで喉を焼きながら、アリアを見据えた。
手術の緊張が解けた今、医師としての義務ではなく、大人としての理性が鎌首をもたげていた。
この「患者」は、あまりにも危険すぎる。
「アリア、質問に答えてもらうぞ」
声を低くすると、少女の体が僅かに強張った。
「この猫……クロと言ったか。こいつはどこで拾った? それとも、誰かに貰ったのか?」
アリアは唇を噛み締め、視線を床に落とした。
「……拾ったんじゃない。最初から、私と一緒にいたの」
「最初から?」
「私が『研究所』を出た時から、ずっと」
その単語が出た瞬間、ギルバートの手が止まった。
研究所。
このバビロンにおいて、その言葉が指す場所は一つしかない。
上層区画の最奥、雲の上にあるとされる『聖・機工統括局』の研究施設だ。
そこは、教会の教義に基づき、人類の機械化を管理・統制する最高機関であると同時に、数々の黒い噂が絶えない場所でもあった。
「お前、上層からの逃亡者か」
ギルバートの声色が、鋭い警戒の色を帯びる。
逃亡者を匿えば、我々も同罪だ
最下層の掃き溜めといえど、教会の目は届く。
いや、むしろ汚物を処理するため、ここにはより過激な掃除屋たちが徘徊している。
アリアは何も答えなかった。
だが、その沈黙こそが肯定だった。
濡れた髪の隙間から覗く首筋に、私は奇妙な焼印があるのを見つけた。
バーコードのような幾何学模様。 奴隷の証か、あるいは実験体の管理番号か。
「……帰るところは?」
愚問だと知りながら、聞かずにはいられなかった。 アリアは小さく首を横に振る。
「ない。……私には、クロしかいない」
その言葉が、私の胸の奥にある古傷を疼かせた。
かつて私も、この街で何かを守ろうとして、すべてを失った。
技術は人を救うためにあると信じていた若き日の幻想は、権力という巨大な歯車にすり潰されたのだ。
「ヴェイン、追い出すなら今だぞ」
ギルバートが冷徹に告げる。
彼は臆病なのではない。
私を守ろうとしているのだ。
この老人は、私が過去に何を失い、どうやってここまで落ち延びてきたかを知っている数少ない理解者だからだ。
私はコーヒーの残りを飲み干し、決断を下そうとした。 その時だ。
ドォン、と重い衝撃音が響いた。
入り口の鉄扉が、外から乱暴に叩かれたのだ。
地下室の空気が一瞬で凍りつく。
アリアが息を呑み、クロを抱きしめて私の背後に隠れた。
「……こんな夜更けに、誰だ」
私が問うまでもなく、答えは向こうからやってきた。
「開けろ、闇医者。定期査察だ」
しゃがれた、しかし鉄のような冷徹さを含んだ男の声。
その声を聞いた瞬間、ギルバートの顔色が蒼白になった。 私もまた、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
警察ではない。 ただの役人でもない。 その独特の抑揚、人を人とも思わぬ傲慢な響き。
「……『白鉄の騎士団』か」
教会の実働部隊。異端審問官の尖兵たちだ。
彼らは教義に反する改造――特に、生物と機械を冒涜的に混ぜ合わせた「融合種」を徹底的に狩り出し、焼却処分することを任務としている。
もし、今のクロを見られれば、即座に処刑対象だ。
そして、それを施術した私も、持ち込んだアリアも、生きて朝日を拝むことはできないだろう。
「ギルバート、裏口の鍵を開けろ」
私は声を殺して指示を出した。
「馬鹿言え、裏は廃棄物処理場に繋がってるだけだ。逃げ道なんてないぞ」
「逃げるんじゃない。隠すんだ」
私は作業机の下にある、ジャンクパーツが詰め込まれた木箱を蹴り開けた。
中には、交換用にストックしてある義手や義足が無造作に放り込まれている。
「アリア、入れ。クロと一緒に」
「で、でも……」
「生き延びたいなら入れ! 声も出すな、息も殺せ。俺が良いと言うまで、絶対に出てくるな」
私の剣幕に押され、アリアは小さく頷くと、クロを抱いて木箱の中へと身を滑り込ませた。
私はその上に、油に塗れた作業着や、錆びた歯車を丁寧かつ乱雑に見えるように被せた。
見た目はただのガラクタの山だ。
だが、臭いは誤魔化せない。
血と、消毒液と、そして少女特有の甘い匂い。
ドォン! 再び扉が叩かれる。
今度は蝶番が軋むほどの衝撃だった。
「聞こえているぞ、ヴェイン。居留守を使うなら、この扉ごと吹き飛ばすだけだ」
待ったなしだ。
私は深呼吸を一つし、表情筋を緩めて「卑屈な闇医者」の仮面を被った。
そして、ゆっくりと扉へと歩み寄る。
「へいへい、今開けますよ。まったく、お役人様は気が短いんだから……」
重い鉄扉の閂を外す。
錆びついた金属が擦れ合う音が、まるで断末魔のように地下室に響き渡った。
扉が開くと同時に、冷たい雨風と共に、三つの影が室内になだれ込んできた。
先頭に立つ男は、純白のロングコートを纏っていた。 バビロンの汚れた雨に打たれてもなお、その白さは異様なほど際立っている。
顔には、表情のない銅製の仮面。
そのスリットの奥から、爬虫類のような冷たい視線が私を舐め回した。
「随分と待たせてくれたな、ドクター・ヴェイン」
男が踏み出した一歩。
そのブーツが、アリアの靴から落ちた泥の塊を、無慈悲に踏み砕いた。
私の視界の端で、ギルバートがポケットの中の護身用ピストルに手を伸ばすのが見えた。
やめろ、と目で制する。
相手は強化外骨格を内蔵した騎士だ。
あんな豆鉄砲では、コートの表面を焦がすことさえできない。
「すいませんねぇ。細かい作業中だったもんで」
私は両手を挙げて愛想笑いを浮かべた。
だが、男は私の言葉など聞いていなかった。
彼は鼻をひくつかせ、室内の臭いを嗅ぎ取っている。
「……血の臭いがするな。それに、この甘い香り。……ガキか?」
仮面の奥の目が細められた。
男の視線がゆっくりと室内を巡り、そして――アリアが隠れている木箱の方へと向けられた。
「最近、上層から『ネズミ』が一匹、逃げ出したそうでな。我々はその駆除を命じられている」
男は腰に帯びた長剣の柄に手を掛けた。
それはただの剣ではない。
刀身が高周波で振動し、鉄骨さえもバターのように切断する「振動剣」だ。
「ここには、汚らしい機械人形と、しがない修理屋しかいませんよ」
私は男の視線を遮るように、一歩前に出た。
「ほう? ならば、その箱の中身を見せてもらおうか」
男は顎で木箱をしゃくった。
絶体絶命。
私の背中を、冷や汗が滝のように流れ落ちる。
ここで拒否すれば怪しまれる。 だが、開ければ終わりだ。
その時だった。
木箱の中から、微かな音が聞こえた。
カタリ。
何かが崩れる音。
アリアか、それともクロか。
どちらにせよ、その音は静寂の中で爆音のように響き渡った。
「……今の音はなんだ?」
男が抜刀する。
ブゥン、という不快な重低音と共に、刀身が赤熱し始めた。
私は覚悟を決めた。
作業机の上に置いてある濃硫酸の瓶。
あれを男の顔面に叩きつければ、数秒の時間は稼げるかもしれない。
その隙に、ギルバートが裏口を開け、アリアを逃がす。
成功率は限りなくゼロに近い賭けだ。
だが、座して死を待つよりはマシだ。
私が瓶に手を伸ばそうとした、その刹那。
「ニャア」
可愛らしい鳴き声が、地下室に響いた。
木箱の隙間から、ひょっこりと顔を出したのは、一匹の薄汚れた黒猫だった。
クロではない。
それは、ギルバートがネズミ除けに飼っている、ただの野良猫だった。
「……なんだ、猫か」
男は興味を失ったように剣を納めた。
野良猫は男の足元をすり抜け、開いた扉から雨の夜へと走り去っていく。
私は心臓が口から飛び出るかと思った。
ギルバートの機転か? いや、あの猫はいつも勝手に入り込んで寝ているだけだ。
まさに偶然。
神など信じていないが、今夜ばかりは運命の女神にキスをしたくなった。
「紛らわしい。……行くぞ」
男は踵を返した。
だが、去り際に立ち止まり、私の方を振り返ることなく言った。
「次にその臭いを漂わせていたら、この店ごと消毒する。覚えておけ」
三つの影が去り、鉄扉が閉ざされる。
その瞬間、私は膝から崩れ落ちた。
「……寿命が、十年は縮んだぞ」
ギルバートがへたり込みながら呟く。
「……ああ。だが、これからもっと縮むことになるかもしれん」
私は木箱の蓋を開けた。
中では、アリアがクロを抱きしめたまま、涙を浮かべて震えていた。
彼女は知っていたのだ。
自分たちが、この世界にとっての「異物」であり、排除されるべき対象であることを。
「出ておいで、アリア。奴らは行った」
手を差し伸べると、彼女は冷たい手で私の手を握り返してきた。
その掌の温もりが、私に突きつけられた現実の重さを物語っていた。
私は、拾ってしまったのだ。
この腐敗した都市で、最も重く、そして輝かしい「爆弾」を。
(続く)
次回予告
騎士団の査察を辛くも切り抜けたヴェインたち。
しかし、アリアの猫「クロ」には、単なるペット以上の機能が隠されていた。
クロが吐き出した一枚のメモリチップ。
そこに記録されていたのは、この都市「バビロン」の根幹を揺るがす設計図だった。
次回、ヴェインは選択を迫られる。 平穏な日常か、それとも真実へのダイブか。




