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鯖喰いの庭、銀の脈動  作者: 六道奏
『第一部:偽りの空と鉄の翼』

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19/22

幕間:吹き抜ける風、待ち受ける蒼

1.鉄の底、見上げた穴


 バビロン中層、第8工業地区。

 かつて工場の煤煙ばいえんに覆われていた広場は、異様な静寂に包まれていた。


 「……おい、見たかよ」

 「ああ……『神様』が落ちていったぞ」


 顔を煤だらけにした工員たちが、呆然と空を見上げている。

 彼らが崇めていた「上層」の輝き――人工太陽は消え失せた。

 絶対的な支配者だった枢機卿の怒号も、今はもう聞こえない。


 支配の終わりは、唐突な暗闇として訪れた。

 だが、その闇は絶望の色ではなかった。


 「光だ……」


 誰かが呟いた。

 人工太陽が消えた頭上。分厚い鋼鉄の天井(蓋)に、風穴が開いていた。

 そこから、一直線に差し込む強烈な白い光。

 それは、人工的なネオンやLEDとは違う、目を焼くような熱量を持った「本物の太陽光」だった。


 その光の帯は、煤煙を切り裂き、中層を突き抜け、遥か下の最下層アンダーグラウンドまで届いていた。


          *


 最下層、ゴミ処理場。

 腐臭とメタンガスが漂うこの場所で、一人の男がパイプ椅子に座り、空を見上げていた。


 半身を機械化した墓守、ジークだ。


 彼の足元には、上層から崩落してきた瓦礫や、燃え尽きた「機械天使」の羽の残骸が降ってきていた。


 「……騒がしいこった」


 ジークは足元に転がってきた、ひときわ大きな瓦礫を拾い上げた。

 それは、ヴェインが愛用していた「杭打ち機」の破片――ひしゃげた撃鉄トリガーのパーツだった。


 「へっ……。商売道具を壊すなんざ、三流のすることだぜ、ヴェイン」


 彼はそのパーツを懐にしまうと、サングラスの奥の義眼を細めた。

 遥か頭上、ピンホールのように小さな穴から射す光が、ゴミ山の一点を照らしている。


 「だが……本当に開けちまうとはな」


 ジークは酒瓶を取り出し、光の差す方角へとかざした。


 「行けよ、相棒。……ここはもう、ただのゴミ捨て場じゃねえ。お前がこじ開けた、風の通り道だ」


 彼はニヤリと笑い、祝い酒を喉に流し込んだ。

 バビロンの長い夜が明け、新しい時代が始まろうとしていた。

 たとえそれが、どんなに過酷な自由であったとしても。


          ***


2.緑の回廊にて


 バビロンの中層と上層を繋ぐ巨大なエアダクト。

 その底にある「機械仕掛けの森」に、かつてない変化が訪れていた。


 「……風か」


 植物医サイラスは、残された右腕で淹れたハーブティーを啜りながら、頭上の闇を見上げた。

 普段なら、ここには澱んだオイルの臭いと、湿ったカビの臭いしか漂わない。

 だが今、遥か上空から吹き下ろしてくる風には、決定的に違う成分が混じっていた。


 潮の香り。

 そして、どこまでも乾いた「空」の匂いだ。


 「あの馬鹿どもめ……本当にやり遂げおったか」


 サイラスは、包帯が巻かれた左肩の断面を無意識に撫でた。

 激痛の元凶だった暴走した左腕はもうない。

 代わりに残ったのは、奇妙な喪失感と、それ以上の静寂だった。


 『外の世界』

 かつて自分が実験体として適応させられそうになった、過酷な世界。

 そこへ、翼の折れた飛行機で飛び出した、鉄屑のような連中。


 「……死ぬなよ、機工医」


 サイラスは歪んだ口元を少しだけ緩めた。


 「私の左腕チップを払ったんだ。……簡単にはくたばらせんぞ」


 吹き抜ける風が、森の葉をざわめかせる。

 それは、長く停滞していたバビロンの時間が、再び動き出した音のようだった。


          ***


3.死の海の海面にて


 鉛色の波が、静かに打ち寄せては引いていく。

水平線の彼方には、雲を突き抜ける「白い巨塔タワー」が、墓標のようにそびえ立っていた。


 その波間に、一人の少女が浮かんでいた。

否、彼女は海面に立つ巨大な「機械シャチ」の背に優雅に腰掛けていた。


 透き通るような蒼い髪。

 無機質な光を宿す蒼い瞳。

 首筋には『B-01』の刻印。


 彼女――ベータは、双眼鏡を下ろし、上空を見上げた。


 「……見つけた」


 彼女の視線の先。

 黒煙を吐き出すバビロンの頂上から、一つの小さな影が滑り落ちてくるのが見えた。

 燃料を失い、風に乗って滑空する、傷だらけの銀色の鯨。


 「計算通りね。……枢機卿ごときでは、姉さんの『歌』は止められない」


 ベータは冷ややかな微笑を浮かべた。

 感情はない。

 あるのは任務タスクへの忠実な遂行プログラムと、姉妹機への歪んだ執着だけ。


 「ようこそ、外の世界リアルへ。……そして、おかえりなさい、お姉様アリア


 彼女が指を鳴らすと、海面がボコボコと泡立ち始めた。

 次々と浮上してくる、数多の機械化歩兵たち。

 ネオ・アトランティスの深海騎兵団だ。


 「網を張りなさい。……獲物は傷ついている。優しく、丁寧に、絶望させてあげて」


 機械シャチが金属質の咆哮を上げる。

 空から落ちてくる希望。

 それを飲み込むべく、海という名の絶望が、大きな口を開けて待ち構えていた。

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