幕間:吹き抜ける風、待ち受ける蒼
1.鉄の底、見上げた穴
バビロン中層、第8工業地区。
かつて工場の煤煙に覆われていた広場は、異様な静寂に包まれていた。
「……おい、見たかよ」
「ああ……『神様』が落ちていったぞ」
顔を煤だらけにした工員たちが、呆然と空を見上げている。
彼らが崇めていた「上層」の輝き――人工太陽は消え失せた。
絶対的な支配者だった枢機卿の怒号も、今はもう聞こえない。
支配の終わりは、唐突な暗闇として訪れた。
だが、その闇は絶望の色ではなかった。
「光だ……」
誰かが呟いた。
人工太陽が消えた頭上。分厚い鋼鉄の天井(蓋)に、風穴が開いていた。
そこから、一直線に差し込む強烈な白い光。
それは、人工的なネオンやLEDとは違う、目を焼くような熱量を持った「本物の太陽光」だった。
その光の帯は、煤煙を切り裂き、中層を突き抜け、遥か下の最下層まで届いていた。
*
最下層、ゴミ処理場。
腐臭とメタンガスが漂うこの場所で、一人の男がパイプ椅子に座り、空を見上げていた。
半身を機械化した墓守、ジークだ。
彼の足元には、上層から崩落してきた瓦礫や、燃え尽きた「機械天使」の羽の残骸が降ってきていた。
「……騒がしいこった」
ジークは足元に転がってきた、ひときわ大きな瓦礫を拾い上げた。
それは、ヴェインが愛用していた「杭打ち機」の破片――ひしゃげた撃鉄のパーツだった。
「へっ……。商売道具を壊すなんざ、三流のすることだぜ、ヴェイン」
彼はそのパーツを懐にしまうと、サングラスの奥の義眼を細めた。
遥か頭上、ピンホールのように小さな穴から射す光が、ゴミ山の一点を照らしている。
「だが……本当に開けちまうとはな」
ジークは酒瓶を取り出し、光の差す方角へとかざした。
「行けよ、相棒。……ここはもう、ただのゴミ捨て場じゃねえ。お前がこじ開けた、風の通り道だ」
彼はニヤリと笑い、祝い酒を喉に流し込んだ。
バビロンの長い夜が明け、新しい時代が始まろうとしていた。
たとえそれが、どんなに過酷な自由であったとしても。
***
2.緑の回廊にて
バビロンの中層と上層を繋ぐ巨大なエアダクト。
その底にある「機械仕掛けの森」に、かつてない変化が訪れていた。
「……風か」
植物医サイラスは、残された右腕で淹れたハーブティーを啜りながら、頭上の闇を見上げた。
普段なら、ここには澱んだオイルの臭いと、湿ったカビの臭いしか漂わない。
だが今、遥か上空から吹き下ろしてくる風には、決定的に違う成分が混じっていた。
潮の香り。
そして、どこまでも乾いた「空」の匂いだ。
「あの馬鹿どもめ……本当にやり遂げおったか」
サイラスは、包帯が巻かれた左肩の断面を無意識に撫でた。
激痛の元凶だった暴走した左腕はもうない。
代わりに残ったのは、奇妙な喪失感と、それ以上の静寂だった。
『外の世界』
かつて自分が実験体として適応させられそうになった、過酷な世界。
そこへ、翼の折れた飛行機で飛び出した、鉄屑のような連中。
「……死ぬなよ、機工医」
サイラスは歪んだ口元を少しだけ緩めた。
「私の左腕を払ったんだ。……簡単にはくたばらせんぞ」
吹き抜ける風が、森の葉をざわめかせる。
それは、長く停滞していたバビロンの時間が、再び動き出した音のようだった。
***
3.死の海の海面にて
鉛色の波が、静かに打ち寄せては引いていく。
水平線の彼方には、雲を突き抜ける「白い巨塔」が、墓標のようにそびえ立っていた。
その波間に、一人の少女が浮かんでいた。
否、彼女は海面に立つ巨大な「機械シャチ」の背に優雅に腰掛けていた。
透き通るような蒼い髪。
無機質な光を宿す蒼い瞳。
首筋には『B-01』の刻印。
彼女――ベータは、双眼鏡を下ろし、上空を見上げた。
「……見つけた」
彼女の視線の先。
黒煙を吐き出すバビロンの頂上から、一つの小さな影が滑り落ちてくるのが見えた。
燃料を失い、風に乗って滑空する、傷だらけの銀色の鯨。
「計算通りね。……枢機卿ごときでは、姉さんの『歌』は止められない」
ベータは冷ややかな微笑を浮かべた。
感情はない。
あるのは任務への忠実な遂行プログラムと、姉妹機への歪んだ執着だけ。
「ようこそ、外の世界へ。……そして、おかえりなさい、お姉様」
彼女が指を鳴らすと、海面がボコボコと泡立ち始めた。
次々と浮上してくる、数多の機械化歩兵たち。
ネオ・アトランティスの深海騎兵団だ。
「網を張りなさい。……獲物は傷ついている。優しく、丁寧に、絶望させてあげて」
機械シャチが金属質の咆哮を上げる。
空から落ちてくる希望。
それを飲み込むべく、海という名の絶望が、大きな口を開けて待ち構えていた。




