第18話:錆びた世界の夜明けと、青い絶望
意識が浮上する感覚は、深い泥沼からゆっくりと引き上げられるそれに似ていた。
最初に感じたのは、痛みだった。
全身の骨がバラバラになったかのような鈍痛と、特に右腕から伝わる、焼けるような鋭い激痛。
次に感じたのは、音だった。
一定のリズムで響くエンジンの鼓動と、風が何かを叩く音。
そして最後に、匂い。
鉄錆とオイル、消毒液、そして嗅いだことのない「乾いた空気」の匂い。
「……気がついたか、ドクター」
しゃがれた男の声が、鼓膜を震わせた。
重い瞼をこじ開けると、視界は白く滲んでいたが、次第に焦点が合ってきた。
そこは病院のベッドではなかった。
狭く、揺れる空間。
むき出しの鉄骨とリベット。
私は『天翔る鯨』号の助手席で、薄汚れた毛布にくるまれていた。
「……俺は、生きているのか?」
喉が張り付いて、掠れた声しか出ない。
操縦席で舵を握っていたのは、バルガスだった。
彼は全身包帯だらけで、自慢のアタッチメントも半壊していたが、その表情には奇妙な高揚感が張り付いていた。
「ああ、しぶとい野郎だ。あの爆発の中心にいて、右腕の骨折と全身打撲だけで済むとはな。……もっとも、お前のその右腕、もう使い物にならんだろうがな」
私は自分の右腕を見た。
ギプスで固められ、吊られている。
指先を動かそうとしたが、感覚がない。
神経が焼き切れている。
だが、不思議と悔いはなかった。
あの最後の一撃は、確かに届いたのだから。
「……枢機卿は?」
「くたばったよ。大聖堂ごと崩れ落ちていった。……ウルフの野郎が、最後に見事な弔い花火を上げてな」
後部座席を見ると、ウルフが座席に足を投げ出して眠っていた。
その隣でカレンが地図を広げ、ギルバートが何やら計算をしている。
全員、ボロボロだ。だが、生きている。
「ヴェイン、目が覚めたのね」
私の膝元で丸まっていたアリアが、顔を上げた。
彼女の瞳は潤んでいて、私の顔を見るなり、堰を切ったように泣き出した。
私は動かない右手の代わりに、左手で彼女の頭を撫でた。
「……泣くな。俺は約束を守る男だ」
「うん……うん……!」
「さて、感動の再会もいいが、ドクター。……お前はこれを見るために命を賭けたんだろう?」
バルガスが顎で窓の外をしゃくった。
「見な。これが、教会の連中が必死に隠そうとしていた『外』の世界だ」
私は深呼吸を一つして、窓の外へと視線を向けた。 そして、言葉を失った。
そこにあったのは、圧倒的な「青」だった。
上層の偽りの空とは違う。
深みがあり、吸い込まれそうなほど透明で、そしてどこまでも広がる本物の空。
雲海が遥か下方に広がり、その上を、眩しいほどの光を放つ太陽が照らしている。
人工的なノイズのない、純粋な恒星の光。
「……綺麗だ」
思わず呟いた。これが、私たちが夢見た場所。
錆びた天井に閉ざされていた人類が、数百年ぶりに取り戻した自由な空。
だが。その感動は、数秒と続かなかった。
「……おい、バルガス。高度を下げろ。下の様子が見たい」
私は胸騒ぎを覚えた。
空は美しい。
だが、あまりにも「何もない」。
鳥一羽飛んでいない。
風の音以外、何も聞こえない。
完全なる静寂。
「……ああ、覚悟しておけよ」
バルガスが操縦桿を押した。
機首が下がり、眼下に広がっていた雲海へと突入する。
視界が真っ白になり、水滴が窓を叩く。
そして、雲を抜けた瞬間。
そこに広がっていた光景を見て、私の全身の血が凍りついた。
「……なんだ、これは」
大地が、なかった。
山も、森も、川も、道も。
私たちが想像していた「外の世界」の光景は、どこにも存在しなかった。
そこにあったのは、見渡す限りの「海」だった。
だが、青い水ではない。
鉛色に濁り、油膜とヘドロが浮き、所々から有毒なガスが噴き出している「死の海」だ。
その海原から、無数の巨大な構造物が突き出していた。
かつての文明の残骸。
朽ち果てた摩天楼、折れた高速道路、錆びついた巨大クレーン。
それらが墓標のように波間に立ち並び、波が打ち付けるたびに、悲しげな金属音を響かせている。
「……世界は、死んでいたのか」
ギルバートが絶望的な声で呟いた。
「教会が言っていたことは、嘘じゃなかったのか。……バビロン以外は、本当に滅んでいたなんて」
振り返ると、雲の切れ間から、私たちが脱出してきた「階層都市バビロン」の全貌が見えた。
それは、この死の海に屹立する、巨大な黒い塔だった。
唯一、大気汚染から守られた密閉空間。
教会は、人々を閉じ込めていたのではない。
この地獄のような環境から、人類を守っていたのだ。
たとえそれが、歪んだ支配と犠牲の上に成り立つ「箱庭」であったとしても。
「……笑えるな」
私は乾いた笑声を漏らした。
私たちは必死に檻をこじ開けた。
自由を求めて、空を目指して、多くの血を流して。
だが、檻の外に待っていたのは、楽園ではなく、行き場のない虚無だったのだ。
「燃料計はレッドゾーンだ。……着陸できる場所なんてありゃしねえぞ」
ウルフが冷徹に告げる。
死の海に不時着すれば、汚染された水に侵されて即死だろう。
かといって、バビロンに戻ることはできない。
私たちは完全に孤立した。
「……ヴェイン」
絶望的な沈黙の中、アリアが私の袖を引いた。
彼女は窓の外、死の海の一点を指差していた。
「あそこ。……誰か呼んでる」
「呼んでる? こんな死の世界でか?」
「ううん、違う。……機械じゃない。もっと、ずっと古い……『鉄の記憶』」
私は目を凝らした。
アリアが指差す方角。
水平線の彼方、霞む視界の先に、微かな影が見えた。 それは、海面から突き出した他の廃墟とは明らかに異質だった。
雲を突き抜けるほど巨大な、白い塔のようなシルエット。
「……あれは、別の階層都市か?」
「いや、違う」
ギルバートが双眼鏡を覗き込み、息を呑んだ。
「あれは……『軌道エレベーター』だ。旧世紀の遺産、宇宙へと続く架け橋だぞ」
宇宙。空のさらに上。星々の海。
「……そうか」
私は理解した。
シリンダーに残されていた設計図。
そこに描かれていた『SKY(空)』のさらに外側にあった『VOID(虚無)』の意味を。
それは、何もない虚無ではない。
重力すらもない、無限の可能性の海のことだ。
「生き残る道は一つだ」
私は左手でバルガスの肩を叩いた。
「進路変更。あの軌道エレベーターを目指せ」
「おいおい、正気かよ! あそこまで燃料が持つ保証はねえぞ!」
「ここで腐った海に沈むよりはマシだろ。……それに、俺たちの旅はまだ終わっちゃいない」
私はアリアを見た。
彼女はもう泣いていなかった。
その翠玉の瞳は、絶望的な青い空の向こうにある、見えない星を見つめていた。
「行こう、アリア。……この錆びついた世界の、その先へ」
「うん!」
『天翔る鯨』号が大きく旋回する。
エンジンが最後の力を振り絞り、咆哮を上げた。
背後には、黒煙を上げるバビロン。
前方には、死の海と、天を突く白い塔。
青い絶望は、どこまでも続いていた。
だが、私たちは翼を持っていた。
止まることは許されない。
脈打つ銀の鼓動が続く限り、私たちは進み続ける。
(第一部・完)
次回予告
自由を求めて飛び出した空。
だが、翼折れた鯨が堕ちる先は、慈愛の大地ではなく、鉛色の死の海だった。
燃料は尽き、希望も沈む。
波間より現れるのは、冷徹なる蒼き影と、絶望的な戦力差。
ヴェインたちが知る「外の世界」の洗礼が始まる。
第二部「深海の錆、星の歌」編、開幕。




