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鯖喰いの庭、銀の脈動  作者: 六道奏
『第一部:偽りの空と鉄の翼』

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18/22

第18話:錆びた世界の夜明けと、青い絶望

 意識が浮上する感覚は、深い泥沼からゆっくりと引き上げられるそれに似ていた。


 最初に感じたのは、痛みだった。

 全身の骨がバラバラになったかのような鈍痛と、特に右腕から伝わる、焼けるような鋭い激痛。


 次に感じたのは、音だった。

 一定のリズムで響くエンジンの鼓動と、風が何かを叩く音。


 そして最後に、匂い。

 鉄錆とオイル、消毒液、そして嗅いだことのない「乾いた空気」の匂い。


 「……気がついたか、ドクター」


 しゃがれた男の声が、鼓膜を震わせた。

 重い瞼をこじ開けると、視界は白く滲んでいたが、次第に焦点が合ってきた。


 そこは病院のベッドではなかった。

 狭く、揺れる空間。

 むき出しの鉄骨とリベット。


 私は『天翔る鯨』号の助手席で、薄汚れた毛布にくるまれていた。


 「……俺は、生きているのか?」


 喉が張り付いて、掠れた声しか出ない。

 操縦席で舵を握っていたのは、バルガスだった。


 彼は全身包帯だらけで、自慢のアタッチメントも半壊していたが、その表情には奇妙な高揚感が張り付いていた。


 「ああ、しぶとい野郎だ。あの爆発の中心にいて、右腕の骨折と全身打撲だけで済むとはな。……もっとも、お前のその右腕、もう使い物にならんだろうがな」


 私は自分の右腕を見た。

 ギプスで固められ、吊られている。

 指先を動かそうとしたが、感覚がない。

 神経が焼き切れている。


 だが、不思議と悔いはなかった。

 あの最後の一撃パイルは、確かに届いたのだから。


 「……枢機卿は?」


 「くたばったよ。大聖堂ごと崩れ落ちていった。……ウルフの野郎が、最後に見事な弔い花火を上げてな」


 後部座席を見ると、ウルフが座席に足を投げ出して眠っていた。

 その隣でカレンが地図を広げ、ギルバートが何やら計算をしている。

 全員、ボロボロだ。だが、生きている。


 「ヴェイン、目が覚めたのね」


 私の膝元で丸まっていたアリアが、顔を上げた。

 彼女の瞳は潤んでいて、私の顔を見るなり、堰を切ったように泣き出した。

 私は動かない右手の代わりに、左手で彼女の頭を撫でた。


 「……泣くな。俺は約束を守る男だ」


 「うん……うん……!」


 「さて、感動の再会もいいが、ドクター。……お前はこれを見るために命を賭けたんだろう?」


 バルガスが顎で窓の外をしゃくった。


 「見な。これが、教会の連中が必死に隠そうとしていた『外』の世界だ」


 私は深呼吸を一つして、窓の外へと視線を向けた。  そして、言葉を失った。


 そこにあったのは、圧倒的な「青」だった。


 上層の偽りの空とは違う。

 深みがあり、吸い込まれそうなほど透明で、そしてどこまでも広がる本物の空。


 雲海が遥か下方に広がり、その上を、眩しいほどの光を放つ太陽が照らしている。

 人工的なノイズのない、純粋な恒星の光。


 「……綺麗だ」


 思わず呟いた。これが、私たちが夢見た場所。

 錆びた天井に閉ざされていた人類が、数百年ぶりに取り戻した自由な空。


 だが。その感動は、数秒と続かなかった。


 「……おい、バルガス。高度を下げろ。下の様子が見たい」


 私は胸騒ぎを覚えた。

 空は美しい。

 だが、あまりにも「何もない」。

 鳥一羽飛んでいない。

 風の音以外、何も聞こえない。

 完全なる静寂。


 「……ああ、覚悟しておけよ」


 バルガスが操縦桿を押した。

 機首が下がり、眼下に広がっていた雲海へと突入する。


 視界が真っ白になり、水滴が窓を叩く。

 そして、雲を抜けた瞬間。


 そこに広がっていた光景を見て、私の全身の血が凍りついた。


 「……なんだ、これは」


 大地が、なかった。

 山も、森も、川も、道も。

 私たちが想像していた「外の世界」の光景は、どこにも存在しなかった。


 そこにあったのは、見渡す限りの「海」だった。

 だが、青い水ではない。

 鉛色に濁り、油膜とヘドロが浮き、所々から有毒なガスが噴き出している「死の海」だ。


 その海原から、無数の巨大な構造物が突き出していた。


 かつての文明の残骸。

 朽ち果てた摩天楼、折れた高速道路、錆びついた巨大クレーン。

 それらが墓標のように波間に立ち並び、波が打ち付けるたびに、悲しげな金属音を響かせている。


 「……世界は、死んでいたのか」


 ギルバートが絶望的な声で呟いた。


 「教会が言っていたことは、嘘じゃなかったのか。……バビロン以外は、本当に滅んでいたなんて」


 振り返ると、雲の切れ間から、私たちが脱出してきた「階層都市バビロン」の全貌が見えた。


 それは、この死の海に屹立する、巨大な黒い塔だった。

 唯一、大気汚染から守られた密閉空間。


 教会は、人々を閉じ込めていたのではない。

 この地獄のような環境から、人類を守っていたのだ。


 たとえそれが、歪んだ支配と犠牲の上に成り立つ「箱庭」であったとしても。


 「……笑えるな」


 私は乾いた笑声を漏らした。

 私たちは必死に檻をこじ開けた。

 自由を求めて、空を目指して、多くの血を流して。

 だが、檻の外に待っていたのは、楽園ではなく、行き場のない虚無だったのだ。


 「燃料計フューエルはレッドゾーンだ。……着陸できる場所なんてありゃしねえぞ」


 ウルフが冷徹に告げる。


 死の海に不時着すれば、汚染された水に侵されて即死だろう。

 かといって、バビロンに戻ることはできない。


 私たちは完全に孤立した。


 「……ヴェイン」


 絶望的な沈黙の中、アリアが私の袖を引いた。

 彼女は窓の外、死の海の一点を指差していた。


 「あそこ。……誰か呼んでる」


 「呼んでる? こんな死の世界でか?」


 「ううん、違う。……機械じゃない。もっと、ずっと古い……『鉄の記憶』」


 私は目を凝らした。

 アリアが指差す方角。


 水平線の彼方、霞む視界の先に、微かな影が見えた。  それは、海面から突き出した他の廃墟とは明らかに異質だった。

 雲を突き抜けるほど巨大な、白い塔のようなシルエット。


 「……あれは、別の階層都市か?」


 「いや、違う」


 ギルバートが双眼鏡を覗き込み、息を呑んだ。


 「あれは……『軌道エレベーター』だ。旧世紀の遺産、宇宙そらへと続く架け橋だぞ」


 宇宙。空のさらに上。星々の海。


 「……そうか」


 私は理解した。

 シリンダーに残されていた設計図。

 そこに描かれていた『SKY(空)』のさらに外側にあった『VOID(虚無)』の意味を。

 それは、何もない虚無ではない。

 重力すらもない、無限の可能性の海のことだ。


 「生き残る道は一つだ」


 私は左手でバルガスの肩を叩いた。


 「進路変更。あの軌道エレベーターを目指せ」


 「おいおい、正気かよ! あそこまで燃料が持つ保証はねえぞ!」


 「ここで腐った海に沈むよりはマシだろ。……それに、俺たちの旅はまだ終わっちゃいない」


 私はアリアを見た。

 彼女はもう泣いていなかった。

 その翠玉エメラルドの瞳は、絶望的な青い空の向こうにある、見えない星を見つめていた。


 「行こう、アリア。……この錆びついた世界の、その先へ」


 「うん!」


 『天翔る鯨』号が大きく旋回する。

 エンジンが最後の力を振り絞り、咆哮を上げた。

 背後には、黒煙を上げるバビロン。

 前方には、死の海と、天を突く白い塔。


 青い絶望は、どこまでも続いていた。

 だが、私たちは翼を持っていた。

 止まることは許されない。

 脈打つ銀の鼓動が続く限り、私たちは進み続ける。


 (第一部・完)



次回予告


 自由を求めて飛び出した空。

 だが、翼折れた鯨が堕ちる先は、慈愛の大地ではなく、鉛色の死の海だった。

 燃料は尽き、希望も沈む。

 波間より現れるのは、冷徹なる蒼き影と、絶望的な戦力差。

 ヴェインたちが知る「外の世界リアル」の洗礼が始まる。


 第二部「深海の錆、星の歌」編、開幕。

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