第13話:積乱雲の回廊と空中戦(ドッグファイト)
重力を振り切った浮遊感は、一瞬で暴力的な振動へと変わった。
「くそッ、機体が安定しない! 右翼の補助フラップを持っていかれたのが痛いぞ!」
私は操縦桿を両手で強く握りしめ、暴れ馬のように跳ね回る機体をねじ伏せるのに必死だった。
フロントガラスの向こうに広がっていたのは、星空ではない。
中層の熱気と上層の冷気が衝突して生まれた、巨大な積乱雲の壁だった。
紫色の稲妻が龍のように雲の中を走り、轟音が腹の底に響く。
「ヴェイン、高度計を見ろ! 気圧が急激に下がっている! このままだとキャブレターが凍りつくぞ!」
後部座席で計器を覗き込んでいたカレンが叫ぶ。
彼女の顔色は悪い。
無理もない。
与圧装置などないこの機体で、急上昇を繰り返しているのだ。
酸素が薄い。
頭が締め付けられるような頭痛がする。
「混合気を調整する! カレン、お前はアリアを見ていろ! 彼女には酸素ボンベを吸わせておけ!」
私はスロットルを微調整しつつ、バックミラーを一瞥した。
アリアはクロを抱きしめ、シートの隅で小さくなっていた。
意識はあるようだが、その瞳は虚ろで、口元からは酸素マスク越しに荒い呼吸音が漏れている。
先ほどの強制介入の反動だ。
彼女の小さな体は、限界を超えて酷使されている。
「……おい、ヴェイン。感傷に浸っている暇はないぞ」
機体上部の旋回銃座に陣取ったギルバートから、冷ややかな通信が入った。
ヘッドセット越しの彼の声は、緊張で張り詰めている。
「六時方向(真後ろ)。……客のお出ましだ」
私は機体をバンクさせ、後方を確認した。
黒い雲海を切り裂いて、三つの光点が急速に接近してくるのが見えた。
流線型の美しいシルエット。
四基の可変ローターを備えた、教会直轄軍の主力戦闘艇『ヴァルキュリア』だ。
「速い……! こっちの巡航速度の倍は出ているぞ!」
「迎撃する! 振り落とされるなよ!」
ギルバートが銃座を回転させる音が響く。
次の瞬間、敵機からの曳光弾が雨あられと降り注いだ。
光の鞭が機体を掠め、ジュラルミンの外板を弾く。
カンカンカンッ!という乾いた音が、死へのカウントダウンのように聞こえた。
「うおおおおおっ! 当たれぇぇぇッ!」
ギルバートがトリガーを引き絞る。
ダダダダダダダッ!!!
『天翔る鯨』号の背中に搭載された連装機銃が火を噴く。
巨大な薬莢がバラバラとコクピットの中に落ちてくる。
熱い。硝煙の臭いが充満する。
だが、敵は手強い。
ヴァルキュリア隊は巧みな編隊飛行で弾幕を回避し、こちらの死角である下方へと回り込もうとする。
「下だ! 腹を狙われてる!」
カレンの悲鳴。
この機体には、下部銃座はない。
腹を見せれば終わりだ。
「舐めるなよ、最新鋭機風情が! こちとら泥臭い現場叩き上げだ!」
私は操縦桿を思い切り手前に引いた。
機首を垂直に持ち上げ、失速寸前まで速度を落とす。
空中で急ブレーキをかけた形だ。
敵機の一機が、スピードを殺しきれずに私たちの下を通り過ぎて前に出る。
「今だ、ギルバート! 食わせろ!」
「頂きだァッ!」
ギルバートの照準が、敵機の無防備な背中を捉えた。
至近距離からの射撃。
一二・七ミリ弾が敵のローター基部を粉砕する。
敵機はバランスを崩し、黒煙を噴きながらきりもみ状態で雲の下へと堕ちていった。
「一機撃墜! ……だが、残り二機が左右に展開した! 挟み撃ちに来るぞ!」
「ミサイルアラート! ロックオンされたわ!」
カレンが警告灯を指差す。
赤いランプが点滅し、不快なブザー音が鳴り響く。
熱源誘導ミサイル。
このオンボロ輸送機のような機体では、回避機動など不可能だ。
チャフやフレアといった欺瞞兵器も積んでいない。
「……積乱雲(あの中)に突っ込む」
私は前方の巨大な雷雲を睨みつけた。
「はあ!? 自殺する気!? 乱気流で翼がもげるわよ!」
「ミサイルで消し炭になるよりマシだ! 雷の熱源で誘導を撹乱する!」
私は返事を待たずにスロットルを押し込んだ。
機体が悲鳴を上げながら加速する。
敵機がミサイルを発射したのが見えた。
白い噴煙を引いて迫る二本の死神。
「掴まってろォォォォッ!!」
私たちは暗黒の雲の中へと突入した。
視界がゼロになる。
同時に、強烈な乱気流が機体を木の葉のように揺さぶる。
ガガガガガッ!と機体のフレームがきしむ。
リベットが弾け飛ぶ音がした。
すぐ側で雷が落ちた。
閃光で目が焼ける。
バリバリバリッという放電音が鼓膜を叩く。
「……来たぞ! ミサイルだ!」
後方のモニターに、接近する熱源反応。
だが、次の瞬間。
私たちのすぐ近くで発生した巨大な稲妻に、ミサイルが吸い寄せられた。
ドォォォォン!!
凄まじい爆発。
爆風が機体を押し上げ、私たちは制御不能のまま上昇気流に乗った。
「……助かった、のか?」
カレンが震える声で呟く。
機体はボロボロだ。
風防にはヒビが入り、エンジンからは異音がしている。
だが、プロペラは回っていた。
私たちはまだ飛んでいる。
雲を抜けた。
そこに広がっていたのは、突き抜けるような青空――ではなく、更に分厚い鋼鉄の天井だった。
上層の基部だ。
無数のパイプと歯車が絡み合う、機械仕掛けの空。
私たちは、その巨大な構造物の隙間に広がる「整備用エアダクト」へと機体を滑り込ませた。
「追手は……撒いたようだな」
ギルバートが安堵の息を漏らす。
私は震える手で汗を拭い、振り返った。
「アリア、大丈夫か?」
返事がない。
彼女はシートの上でぐったりとしていた。
酸素マスクが外れている。
そして、その鼻と耳から、ツー……と赤い血が流れていた。
「アリア!」
私はシートベルトを外し、彼女の元へ駆け寄った。
手袋を脱いで首筋に触れる。
脈が弱い。そして不整脈だ。
心臓が悲鳴を上げている。
「……オーバーヒートだ」
私は唇を噛んだ。
中層での強制介入、そして今の高高度飛行による気圧変化。
彼女の「生体部品」としての限界が近づいている。
「着陸場所を探すぞ! 今すぐにだ!」
「ヴェイン、あそこを見ろ!」
カレンがフロントガラスの先を指差した。
薄暗いエアダクトの奥、廃棄された巨大な換気ファンの陰に、微かな光が見えた。
人工的な灯りではない。植物の緑色の光だ。
「……なんだあれは?」
近づくにつれて、その全貌が見えてきた。
それは、巨大な廃墟都市だった。
かつて上層の一部だったが、地盤沈下か何かで切り離され、ダクトの中にぶら下がるようにして残された「忘れられた街」。
「降りるぞ。……あそこなら、休めるかもしれん」
私は残った燃料を確認した。
ほとんど空だ。
一度きりの着陸。失敗は許されない。
『天翔る鯨』は満身創痍の翼を広げ、最後の滑空に入った。
アリアの手を握りしめながら、私は祈った。
神になど祈ったことはないが、今はどんなものでも縋りたかった。
彼女を死なせるわけにはいかない。
絶対に。
(続く)
次回予告
不時着した「忘れられた街」は、独自の進化を遂げた植物が機械を侵食する「緑の迷宮」だった。
アリアの容態が悪化する中、ヴェインはこの街に住むという「世捨て人の医者」の噂を耳にする。
しかし、その医者はただの人間ではなかった。
教会の実験により、植物と融合させられた悲しき怪物。
命を救うため、ヴェインは再びメスを――いや、武器を手に取る。




