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鯖喰いの庭、銀の脈動  作者: 六道奏
『第一部:偽りの空と鉄の翼』

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1/16

第1話:歯車の墓標と、降り止まぬ雨

本日より投稿開始。

12:00 15:00 18:00 20:00

計4話を投稿します。


以降は第一章完結まで07:00 18:00に1日2話投稿です。

その後は1日1話18:10投稿となります。

 空が泣いているのではない。

 この街の上層にある巨大な排出孔ベントが、今日も汚れた蒸気を吐き出しているだけだ。


 鉛色の雲が垂れ込め、昼夜の境目が曖昧になった「階層都市・バビロン」。その最下層、通称「おり」と呼ばれる区画には、今日も錆びた雨が降り注いでいる。傘など役に立たない。


 この雨に含まれる重金属と酸は、安物の布など数分で食い破り、肌を焼くからだ。


 私は亜鉛メッキが施された厚手の外套コートの襟を立て、泥濘ぬかるみの路地を歩いていた。


 足元で何かが砕ける音がする。


 見下ろせば、かつて誰かの腕だったであろう真鍮のパーツが、泥に埋もれて半ば土に還りかけていた。


「……質の悪い合金だ。これでは三年も持たない」


 独り言は、雨音にかき消される。


 私の名はヴェイン。

 この廃棄物が堆積する最下層で、唯一の「機工医ドクター」を営んでいる。


 路地の奥、湿ったレンガ造りの建物の地下に、私の診療所はある。

 重たい鉄扉を押し開けると、錆とオイル、そして消毒用のアルコールが混じった独特の臭気が鼻をついた。

 外界の喧騒が遮断され、代わりに壁一面に並べられた無数の時計たちが刻む、カチ、コチ、という無機質なリズムが鼓膜を叩く。


「戻ったか、ヴェイン」


 奥の作業机で、巨大なレンズを目に装着した老人が、手元の極小部品をピンセットで摘まみながら声をかけてきた。


 彼の名はギルバート。


 かつて上層で「王室時計技師」を務めていたという触れ込みだが、今では右半身の殆どを機械化し、この薄暗い地下で私のアシスタントをしている。


「ああ。上層の市場マーケットは相変わらずだ。純正の生体部品バイオパーツは高騰する一方だよ。代わりに粗悪な模造品が出回っている」


 私は濡れた外套をハンガーに掛け、革手袋を外した。 指先が冷え切っている。


 この街に住む者は皆、身体のどこかを機械に変えている。肺を濾過装置に変えなければ毒素を含んだ大気で死に、心臓をポンプに変えなければ重労働に耐えられない。

 だが、機械は錆びる。 そして、その錆を落とし、摩耗した歯車を交換するのが私の仕事だ。


「それで、収穫は?」


「これだけだ」


 私は懐から小さな布包みを取り出し、机の上に置いた。

 包みを開くと、そこには鈍い光を放つ小さな鉱石が三つ。「心臓石ハート・コア」と呼ばれる、蒸気機関の動力を増幅させるための触媒だ。


「……少ないな。これでは今夜の患者の分も足りんぞ」


「足元を見られたよ。廃業した工場の在庫を買い占めた商人がいてね」


 ギルバートは溜息をつき、レンズの奥の義眼を回した。


 その時、入口のベルが鳴った。


 来客を告げる軽やかな音ではない。 もっと重く、何かに怯えるような、躊躇いがちな鳴り方だった。


「診療時間は終わりだと言ってくれ」


 私は椅子に腰を下ろし、冷えた指先をアルコールランプにかざした。

 疲労が骨の髄まで染み込んでいる。

 これ以上、誰かの錆びついた内臓を見るのは御免だった。


 しかし、ギルバートは動かなかった。

 彼の手が止まり、その視線が扉の方へ釘付けになっている。


「ヴェイン。……客じゃない」


 老人の声が震えていた。


 私は眉をひそめ、扉の方を振り返る。 そこに立っていたのは、小さな影だった

 襤褸ぼろ切れのようなマントを頭から被り、ずぶ濡れになった子供。

 身長からして、十歳にも満たないだろう。


「迷子か? ここは孤児院じゃない。物乞いなら教会へ行け」


 冷たく言い放つ私に、子供は微動だにしない。 ただ、マントの下から突き出された細い腕が、何かを抱きしめているのが見えた。


 それは、黒い油に塗れた布の塊だった。


「……直して」


 雨音に混じって、鈴を転がしたような少女の声が聞こえた。


 機械音声ではない。

 喉の振動を通して発せられる、生身の声帯が震える音だ。

 この最下層で、未だに喉を機械化していない子供がいるとは珍しい。


「直して、おじさん。これ、動かないの」


 少女は泥だらけのブーツで床を踏みしめ、一歩、また一歩と私に近づいてくる。


 彼女が歩くたびに、床に黒い染みが広がっていく。それは雨水ではない。

 もっと粘度のある、鉄錆の臭いを凝縮したような液体。……血液だ。


 私は弾かれたように立ち上がり、少女の前に歩み寄った。

 彼女が抱えている布の塊。 そこから、どくどくと血が溢れ出していた。


「怪我をしているのか? 見せてみろ」


 私が手を伸ばそうとすると、少女は強く首を振って後ずさった。 フードの隙間から、翠玉エメラルドのような瞳が私を射抜く。

 その瞳孔が、カメラの絞りのように収縮するのが見えた。


「私じゃない。……この子が、壊れたの」


 少女は震える手で、抱えていた布を捲った。


 そこに在ったものを見て、私は息を呑んだ。 背後でギルバートが、ピンセットを取り落とす音が響く。


 それは、一匹の猫だった。

 だが、ただの猫ではない。


 腹部が裂け、そこから覗いているのは内臓ではなく、複雑怪奇に絡み合った極小の歯車と、銀色のワイヤーだった。

 精巧な「自動人形オートマタ」の猫。

 しかし、その心臓部に埋め込まれているのは、ゼンマイでも蒸気機関でもない。



 脈打つ、真っ赤な肉の塊だった。


「……おい、ギルバート」


 私の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。


「なんだ、ヴェイン」


「扉を閉めろ。鍵もだ。今すぐに」


「……了解した」


 事態の異常さを悟ったギルバートが、片足を引きずりながら入り口へ急ぐ。


 私は少女の前に膝をつき、その奇妙な「患者」を覗き込んだ。

 猫の瞳はガラス玉だが、その奥には微かな光が明滅している。


 そして、腹部の肉塊――生体心臓が、弱々しく、しかし確かに鼓動を刻んでいた。


 機械と生物の、禁忌の融合キメラ


 上層の貴族たちが戯れで作らせる趣味の悪い玩具とは訳が違う。

 この技術は、失われたはずの「旧時代の遺産アーティファクト」に酷似している。


「名前は?」


 私は少女に尋ねた。 彼女は警戒心を解かぬまま、猫をさらに強く抱きしめる。


「……クロ」


「猫の名前じゃない。君の名前だ」


 少女は一瞬だけ逡巡し、小さな唇を開いた。


「……アリア」


「いいか、アリア。その猫を、あの机の上に置くんだ。助けたいんだろう?」


 アリアは無言で頷き、おずおずと猫を作業机へと運んだ。


 作業灯の白い光が、猫の傷口を無慈悲に照らし出す。

 切断されたワイヤーが神経のように蠢き、漏れ出したオイルと血液が混ざり合って、不気味なマーブル模様を描いていた。


 私は拡大鏡ルーペを目に装着し、工具箱から極細のドライバと止血鉗子を取り出す。


 これは、ただの修理ではない。 手術だ。


「ギルバート、予備電源を回せ。それから『深紅の溶液クリムゾン』を用意しろ」


「正気か? あれは劇薬だぞ。機械には良くても、生体組織が耐えられるか分からん」


「やるしかない。心臓が止まれば、機械部分も連鎖的に停止シャットダウンする構造だ。この設計をした奴は天才か、狂人のどちらかだ」


 私は震える指先を抑え込み、猫の腹部に鉗子を差し込んだ。

 冷たい金属と、温かい肉の感触が同時に伝わってくる。

 この街の掟では、機械に魂は宿らないとされている。 教会はそう説き、人々もそう信じている。


 だが、私の目の前にあるこの命は、一体何だというのか。



 雨足は強くなる一方だ。


 地下室の天井を叩く雨音が、まるで何かのカウントダウンのように聞こえた。


 これが、私の運命の歯車が狂い始めた、最初の夜だった。


(続く)



次回予告


 持ち込まれた禁忌の存在「機械と生物の融合体」。

 それを修理しようとする機工医ヴェインの前に、この街を支配する「教会」の異端審問官たちが影を落とす。

 少女アリアは何者なのか。そして、この猫に隠された秘密とは。錆びついた街の闇が、静かに牙を剥き始める。

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