第9章 愚かな皇太子の嘆願
カインの予言通り、その「客」は唐突にやって来た。
王家の紋章を掲げた、立派な馬車。そこから降りてきたのは、やつれた顔をした宰相補佐だった。彼は私の姿を認めると、信じられないものを見るような目でしばらく立ち尽くし、やがて深々と頭を下げた。
王都の状況は、私が聞く以上に深刻化していた。
小麦の在庫は底を突き、配給も滞り、ついに民衆の不満が爆発。王宮前では暴動寸前の事態が連日繰り広げられているという。聖女エリナの「祈り」は何の効果もなく、ユリウス殿下は貴族たちの突き上げと民衆の怒りの板挟みになり、心身ともに衰弱しきっているとのことだった。
そんな八方塞がりの状況で、彼らが最後にたどり着いたのが、ポルト・ノーヴォの噂だった。
「辺境の港町は、食糧危機の影響もなく、活気に満ちている」
「そこには、追放されたはずの公爵令嬢がいて、未知の料理で町を救っている」
かつて私を案じて訪れた騎士ジェラルドの報告が、今になって彼らの耳に届いたのだ。
宰相補佐は、私に一通の書状を差し出した。それは、ユリウス殿下の直筆によるものだった。かつての傲慢な筆跡とは違う、弱々しく、乱れた文字で、こう綴られていた。
『ロザリンド。君の力を、この国のために貸してほしい。王都に戻り、この食糧危機を解決してはくれまいか』
最後は、命令ではなく、懇願の言葉で締めくくられていた。
「……今更、都合の良い話ですこと」
私は冷ややかに呟いた。あの日の断罪を、追放を、私は忘れたわけではない。あの男のために、動く義理などひとかけらもない。
宰相補佐は、返す言葉もないのだろう。ただ、深く頭を垂れるだけだ。
「断ればいい」
いつの間にか私の隣に立っていたカインが、低い声で言った。
「君が奴らに協力する義務はない。これは、奴らが自分で招いた事態だ。君はここで、俺たちと平和に暮らせばいい」
彼の言葉は、とても甘美に響いた。そうだ、私にはもう、王都もユリウスも関係ない。この愛すべき『迷い猫のキッチン』が私の全てだ。
しかし、私の脳裏に浮かんだのは、ユリウスの顔ではなかった。王都で飢えに苦しんでいるであろう、名もなき民衆の顔だった。子供たちの、お腹を空かせた顔だった。
料理人として、美味しいもので人を笑顔にしたいと願う私にとって、飢えている人がいるという事実を見過ごすことは、何よりも辛いことだった。
「……カイン。私は行きます」
私の決意に、カインは驚いた顔をしたが、すぐに何かを察したように頷いた。
「君らしいな。分かっていたさ」
「でも、ユリウス殿下のためじゃありません。苦しんでいる民のためです」
「当然だ。奴らのために、君の善意を安売りするな」
私は宰相補佐に向き直り、きっぱりと告げた。
「嘆願、お受けいたします。ただし、条件があります」
「な、何なりと……!」
「私は王宮には戻りません。私の活動に関する一切の権限を、私に委譲していただきます。そして、必要な物資の調達は、全て私のビジネスパートナーである、こちらの海猫商会を通して行います」
私はカインの腕を、ぐっと掴んだ。
「それから……これは、国王陛下への直接の願いとなります。今回の件が解決した暁には、私の身分を完全に解き放ち、一市民として、このポルト・ノーヴォで生きていく自由を認めていただきたい」
私の予想外の条件に、宰相補佐は一瞬言葉を失ったが、すぐに「必ずや、陛下にお伝えいたします!」と力強く請け合った。
こうして、私は王都へ向かうことになった。
それは、かつての婚約者への復讐でも、ましてや愛情からでもない。ただ、一人の料理人として、空腹に苦しむ人々を救うため。
私の背後には、カインという心強いパートナーと、ポルト・ノーヴォで買い付けておいた大量の芋と米、そしてスパイスがあった。救国のための、最大の武器を携えて。




