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婚約破棄は恋の証し



この作品を しいなここみ様、星野満様、そして全ての女性作家様方へ贈りたいと思います。

男性作家も、是非どうぞ!

読んで下さる読者、感謝しております。

あ!結局皆様に————  捧げます!!!



※世界観は英国ヒストリカルロマンスがベースとなっております。

 



 " この最低野郎 "



 16歳の私はそう思った。


 そこは私達姉妹と兄様の勉強部屋——

 父様の用意して下さった図鑑や辞書が本棚には並び、輸入品の地球儀や羅針盤が置かれている。

 長い特注の漆黒のテーブルの向こう側、開かれた大きな窓辺に人影は重なるように2つあった。


 風でカーテンはひるがえり、そして戻った時に、それは明確に あらわになる。


 雇われ家庭教師の女性と、彼がキスをしていた。


「何をしているの?こんなところで」


 私は妹の前に身体を出して視界をふさいでから鋭く注意したが、もう遅い。アイリーシャは、見てしまったのだろう。

 "わぁ"という小声がすぐ後ろで聞こえた。


「お、お嬢様!申し訳ございません!す、すぐ勉強を始めましょう…………!」


「そうですね、ここは勉強のために父様がご用意下さったお部屋です」


 私は、彼に視線を移して言葉を続けた。 


「この部屋では、おふざけや たわむれは してはいけません。するなら、他の部屋でどうぞ」


 家庭教師はただただ頭を下げた。


「お嬢様、子爵様には、どうかご内密に……」


 窓辺から立ち上がり、その横を 彼はただ通り過ぎて、扉の方に歩いてくる。こちらの方に——

 私は彼に、冷ややかな軽蔑(けいべつ)の視線をただ向けた。

 彼もその灰色とブルーの混じった瞳で見返す。

 通り過ぎざま 


「最低の女——」


 と、彼が呟いたのが聞こえた。

 私は黙って目を(つぶ)った。胸の内で、"そっちこそが最低野郎"と投げつけた。



 20歳の彼はすでにラフレノフ侯爵の称号を持っている。

 アルベルト・ラムズ・ローチェスター・ダンフォード


 そして彼の父親はリグウッド公爵——

 つまり、彼は次のリグウッド公爵だ。


 彼の父と私の父が友人同士で、彼は兄様の親友。

 そこから生まれたらしい話を、父からさっき聞いたばかりだった。


 彼と私は婚約したらしい。



 そう、私の婚約者は最低だ。





     ◆◆◆◆◆◆◇◇◇





 5年後——



 私の目の前には、今、リグウッド公爵となったアルベルトがいる。

 私は5年間ずっと思っていたことをついに口にした。


「婚約を解消しましょう、リグウッド公爵。私達は結婚してもうまくいかないと思います」


 普段は不遜で動じること等ないアルベルトだが、彼はポカンとした。


「半年後の式の準備を母上達がやっているのに?なんだってまた今になって……」


「半年前になって、母上達が大聖堂の結婚式の準備なんか始めたから、もうあなたに申し上げるしかないと思いました。私は父にはずっと話してきました。あなたとは結婚したくないって」


 私はできるだけ冷静に言おうと心がけたが、それでも声は うわずる。


「ああ、5年前から?」と、彼がきいたので


「ええ、5年前から」と答える。


 アルベルトが笑ったので、私は目を疑った。 


「最低の婚約だったものな」


「そうです、最低でした」


 良かった。同意がもらえて。スムーズに進みそう。


「仮に婚約解消して、君はどうする?本当はもう他に想う相手でもいた?」


 首を振る。


「いいえ。この先も、20歳も過ぎてから婚約をやめた子爵令嬢なんか(もら)い手はないと覚悟してはおります。

 私は人気もありません。ダンスカードも書き込む名前もない。舞踏会では壁の花ですし、乗馬でも馬車でも、殿方から声をかけられることも滅多にありません。だから、自分の魅力や器量は存じています。

 それでも、私、私は…私は人生で…………」


 スラスラと言えていたセリフが途端にあやふやになる。

 アルベルトは どうした?と覗き込むような表情になった。その貴族然とした顔立ちはいつもは冷たい感じなのに、今日はよく表情が変わる。だけどそんなことも、もうどうだっていい!


「私は恋がしたいのです!!!」


 言った。ついに。言ってやった。

 だが、アルベルトはその答えに笑った。やはり。


「恋?……そのために婚約解消なのか?相手もいないのに?」


 正直、私は相手の反応は予想ができていた。馬鹿にされても構わない。もう、5年分を吐き出して終わろう!


「貴族同士の結婚は愛はいらないとか、結婚した後 長男 を産んだら恋愛は自由とか…………ハッキリ言って私に は、そんな世界の方が変だと感じられるんです。

 私なら……私なら、誰かに恋して、できることならその方と結婚したいです。

 ですが、さっき言った通り、私との結婚を考えてくれる方などいなくなるでしょう。

 それでも、この婚約を解消したら私は恋ができる!

 実らなくても、叶わなくても、私誰かを好きになりたいんです。

 あなたの婚約者じゃ、それができない!!」


 最後の一文で私は彼を指差した。

 指差されることないのだろう、公爵様は。彼はムッとしているようだった。

 私の指の前に、大きな彼の右手が広げられる。


「分かったセフィラナ」


 良かった。


「婚約解消ですね?」私の瞳は期待に(きら)めいた。


「いいや」アルベルトは首を振る。


「君が僕に恋したらいい!」


 私が見たこともないほどの満面の笑みで、アルベルトは言った。




     ◆◆◆◆◆◇◇◇◇





 ————王族に次ぐ地位にある公爵という人間は、やはり頭が固いのかもしれない


 セフィラナは、屋敷の前でアルベルトを待ちながら少し頭を振る。


 昨日のアルベルトの主張はこうだ。


 婚約解消をしても、損をすることばかり。

 まず、互いの親が悲しむ。特に、セフィラナの両親は残念がるだろう。娘が公爵夫人になることをとても誇ってくれていたから。

 それから、そのセフィラナが公爵夫人を逃すことそのもの。

 さらには、これまで彼がしてくれていた花や宝石、菓子の手間とお金が無駄になること。そして、両親への挨拶、婚約者としての義務だけの2人の見せかけの外出、ダンス、振る舞いの全てが無駄になる。

 最後に、成就しない恋をするのも損の一つだとカウントされた!

 セフィラナは宝石は返すし、花や菓子代は返金すると申し出たが、彼は断った。


 "最大の損は、君がいなくなると再び同じことを僕は繰り返さなければいけないってことだよ、セフィラナ"


 "5年分の時間をゼロから繰り返すのはうんざりだ。だからそんなに恋したいなら僕に恋したらいい。夫になるのだから、必ず成就する相手ってことさ。お互いにとって得ばかりだ"


 彼の言葉にセフィラナは呆れた。全く話が通じなくて。

 だが、反論もまた何かが難しかったのだ。何も言えないでいると、彼女にアルベルトは最後に告げた。


「とにかく1週間僕に恋するように努力してみてくれないか?5年を放棄する前に、1週間なら頑張ってみていいだろう」


 それで、2人はとりあえず出かけることにした。婚約者同士らしく。




 彼は上流階級のうちでは、早朝と呼ばれる時間帯に現れた。その約束だったから。

 フェートンと呼ばれる4頭立て馬車の操縦をさせてくれることに、昨日なった。社交シーズン中の王都では馬車の練習場所は限られてくるが、早朝のワイドパークなら良いだろうと言う話になったのだ。

 正直、アルベルトとどうのこうのになる気は全然なかったのだけれども、兄はいつも2頭立て馬車までしか私に操縦させてくれない。それで、この機会を利用することにした。

 思った通り公爵のフェートンは美しい形状だった。馬たちも黒く艶やかな毛並みで立派だ。手入れが行き届いている。


 彼はタラップを降りて来たが、その手には、小さな花束が握られている。私は少し驚いた。


「おはよう、セフィラナ。寝不足ではない?」


「おはようございます。リグウッド公爵閣下。寝不足ではございません」


 アルベルトは苦笑しながら、私に近づいて花束を渡した。


「君はわざと距離を感じさせる呼び方をしているようだが、僕のことはアルベルトと。君はそう呼ぶ権利がある。

 今はもう君と母くらいなんだ、その権利があるのがね」


 爵位持ちの貴族は称号で呼ばれる。彼の父親は去年亡くなったのだ。そのことがよぎって、とりあえず私はうなずいた。そして


「花屋のお花ではないのですね?誰かに頼んでつませたのですか?」


 と、その色とりどりの小さなブーケを見る。


「僕がつんで束ねたさ。花は庭のだけれど。証拠は、そのリボンだ」


 見てみると、白い細めのリボンで結いてある。

 彼の後ろにいつもまとめている後ろ髪は今日は肩に垂れていた。


 ご自分のリボンを使われたの?


 リグウッド公爵が、自分で花を摘みリボンでまとめている姿を想像すると、思わず笑みがこぼれた。


「庭師はさぞ、驚かれたのではないですか?」


「婚約者が笑ってくれるかもしれないから、やらせてくれと懇願(こんがん)したさ」


「嘘ばかり。あなたは人に懇願はなさらない。手を出すなと命じただけでしょう?」


 そこで、アルベルトは私を真剣に見つめた。


「よく見抜いているね、セフィラナ。君はやっぱり私の婚約者が相応(ふさわ)しいんだと思うよ」


 彼の視線から私は目をそらした。


「そのお話は1週間後で」


「では、1週間はまだ僕のものだ。どうぞ、婚約者どの」


 彼は手を差し出してくれた。私はその手に左手を重ねる。そうして、馬車のところまで連れて来てくれた。

 それから彼は合図して、自分の御者を下ろし、そして私の侍女と共に馬車に乗らせた。

 彼が御者台に上がる。ワイドパークまでも自分で操縦していくつもりなのだ。少し感心した。


「高いから気をつけて」


 先に上がった彼が、再び手を差し出す。

 私はそれにつかまって、今度はしっかりと握った。彼も力を込めて、そして軽々と御者台へと引き上げてくれた。

 思ったよりずっと御者台は高かった。これからはさらに揺れる。

 私は彼に身を寄せた。実際のところ、そうするスペースしかなかったのだ。


「そう、つかまっていた方がいい」


 アルベルトの顔が、とても近いところで微笑んだ。一瞬何かが止まったような、もしくは始まったような気がした。

 ん?始まった???

 が、彼はすぐに前を向いて馬車を走らせだした。




       ◇◇◇◇




 アルベルトの手綱さばきは見事だった。2頭ずつ2列に馬の並ぶ4頭立て馬車の制御は私には難しかったが、彼は根気よく教えてくれた。最後にはいくらか走りが形になって、私は


「やったわ!!」


 と声を上げてしまった。淑女(レディ)らしくはなかったかもしれないが、後ろから御者も


「お嬢様やりましたね!」


 と声をかけてくれた。

 私も振り返って


「ありがとう」


 と返した。

 アルベルトはそのやり取りを面白そうに見ていた。



       ◇◇◇◇



 昼前に屋敷に送ってもらう時には、御者と侍女が御者台にいき、私達が座席に座った。

 走り出してすぐに彼は聞いてきた。


「君は女性なのに、なんでも1人でやろうとするとレオから聞いている。何故だ?」


 レオ——レオナルドは私の兄だ。彼と同じ歳の。彼の質問には少しギクリとしたが、素知らぬ顔で答える。


「淑女でも女性でも、何でも自分でできる方がいいでしょう?やる必要はなくても知識があるのは良いことだし。やってみると、それをやってくれている人の苦労が分かるもの」


 彼はうなずいてはいるが、信じたような顔ではなかった。


「だから馬車も操縦したいし料理もやりたいのか?庭の土いじりも?」


 兄様は一体どれくらい私のことを話しているのかしら。腹が立ってきた。


「馬車と庭の手入れは趣味で問題ないでしょう?貴族でもそういう方は他にいるわ。料理は手伝うだけ。子供の頃に入り浸ってオヤツをよくもらっていたから。でもお客様が多い時だけよ。だいたい変なのよ。貴族は働いてはいけない、なんて」


 そうして私はパンを焼ける。オートミールもミートパイもキャロットケーキも作れるようになった。でもこれはわざわざ言わない。

 最後に私はニッコリ笑って


「公爵夫人には相応(ふさわ)しくないでしょう?」


 と彼に言ってやった。

 だがアルベルトは困った顔にはならず、瞳を輝かせた。


「いや、むしろ相応しいと思う。してくれる人の苦労が分かる公爵夫人は貴重だ」


「オレもそう思いますよ、お嬢様」


 振り返って御者に言われた。私が驚いていると御者はウインクをしてくれて、侍女が微笑んでいる。


 屋敷に着いて降りると、アルベルトは玄関扉までエスコートしてくれて、別れ際に手の甲にキスまで おとしていった。


 …………何かがとんでもない方に転がっている気がする。





      ◆◆◆◆◇◇◇◇◇





 翌日は音楽会があった。

 毎年開かれるロックモンド伯爵主催・レイヤーデン家のヴァイオリン演奏会——

 これは、実は大変な催し物だった。レイヤーデン一族の

 演奏が単純に下手なのだ。

 ロックモンド伯爵は社交的で人気者、人格者なおじいさまだが、唯一の欠点がこのヴァイオリン演奏会を開いてしまうということだった。


 我が家ーラインハルトン家はいつも参加している。父が、やはりロックモンド伯爵と仲が良いのだ。それに、私も参加したかった。どんなに演奏を聴くのは苦痛でも……


「やっと見つけた。やっぱり一緒にくれば良かったな」


 アルベルトだった。彼がこの音楽会に来るのは……今まで見たことがなかったのに。もしかして……


「毎年この招待状は郵便屋が無くしても許そうと思っていたが、今年は無事に届いていて良かった。1週間の中で君に会える貴重な機会だ」


 やはり私に会いに来たんだ。

 少しだけ胸があたたかくなった気はした。喜びが確かにある。


 両親が隣の席だったが、いつの間にか


「リグウッド公爵、是非お座り下さい。さあ、セフィラナの隣りに」


 と、そそくさといなくなってしまった。

 その あからさまさに私はため息をついた。アルベルトはあたり前のように席に着く。彼のような人に、自分の席が無いと言うことはないのだろう。


「君は何故ここに毎年来るんだ?おっと、" 音楽が好きだから " と言う理由だけはやめてくれ。それは音楽への冒涜(ぼうとく)だぞ」


 耳打ちして彼は言った。だめ、笑ってしまう。


「ロックモンド伯爵は良い方だもの。それに……ご高齢だから」


 少し高く作られた台座の上に、レイヤーデン一族がヴァイオリンを持って上がり出す。ロックモンド伯爵は、1番最後にヨレヨレと上がった。彼はもう89歳なのだ。


 台座に無事にあがり、ヴァイオリンを構えただけで、温かい拍手があちこちからした。


「なるほど」


 アルベルトはリグウッド公爵らしく、眉だけを上げて一言そう言った。

 演奏会は始まったが、始まると、今年も耳をふさがない所作を耐えるだけで精一杯だった。


「僕の手を押さてくれないか?」


 彼にさっきよりももっと近い距離で ささやかれて、ドキリとした。言われた内容にも、かもしれない。

 見つめるとアルベルトは


「両耳を ふさぎたくて たまらなくなるから。頼む」


 と言った。

 彼の" 懇願 " に、愉快になって、右手をその左手の上に重ねてしまった。手袋ごしに、ぬくもりを感じる。

 こんなに楽しい人だとは知らなかった。思わぬ喜びだった。

 だけど、この男性(ひと)は……



 私の不安は、3日目の劇場で明確になった。




      ◆◆◆◆◇◇◇◇




 その日は、劇場を約束していた。

 私とアルベルトではなく、互いの家族同士が。

 彼は最良の位置で観劇できるボックス席を持っていて、私達ラインハルトン家を招待してくれた。

 家族の嬉しそうな顔は心に染みて、このまま波立たせず黙って結婚することも、悪く無い気さえしてしまう。



 だが、幕間(まくあい)の休憩時間にそれは起こった。



 座ってばかりだったのでアイリーシャと席を立ちへホールへと向かった。

 その時、彼がレインモン夫人と親しげに話しているのを見かけた。レインモン夫人はまだ20代後半だが未亡人で、五年前に夫を馬車の事故で亡くしている。



 私は知っている。

 社交会デビューが出来なかった2年間の間、アルベルトが連れて歩いた女性は彼女だと。

 周囲からは責められることでもないのだ。この世界では。

 16、17歳の小娘と婚約しても、それは家同士の形だけ。だからその娘がいない場所では" 愛人 " を連れて歩く——



 でも私はそんなことは嫌だった。

 そう言う女性がいるなら、彼はその人と結婚すれば良いのにと思った。

 リグウッド公爵の正妻におさまれば何不自由ない生活は待っている。でも私は……ああ、私は、それでは駄目なのだ。私は……


「怖い顔をしているぞセフィー?何かあった?」


 後ろから兄に声をかけられてビクリとする。


「なんでもないの。劇の続きが気になったの、兄様」


 やがて、あたりが薄暗くなり壇上で役者達が後半を始めても、アルベルトは戻っては来なかった。

 終わり近くになってやっと再び私の隣に戻ってきたが、私はもう幕間前のような気持ちにはなれなかった。

 劇は感動のハッピーエンドで終わったのに、心は何故か沈んでいた。





      ◆◆◆◆◇◇◇◇◇





 4日目——


 ぐっすり眠って起きると、身体には活力がみなぎっていた。心にもなのかもしれない。

 くだらない些細(ささい)なことに クヨクヨと気落ちした自分を鼓舞(こぶ)する。

 朝食を取ってさらに元気が出てくると、もうアルベルトにしっかり婚約解消を話し直そうと思った。残り3日も時間の無駄だ。

 家庭教師とのキスに始まり、レインモン夫人の愛人説、他にもいくつか噂だけなら聞いたことがある。アルベルトは公爵であの風貌なのだから、女性慣れしているのだ。私にもそれをしているだけ。

 いくらこっちが恋もしたことのない生真面目処女でもそれくらいは気づける。引き込まれてはいけない。


「お嬢様!お嬢様!あのう…………」


 執事が大変な勢いで食堂に駆け込んできた。


「お止めしたのですが、来客が…………」


 父も母も、兄も妹もまだ起きて来ていない。上流階級では訪問には不適切とされる時間だった。


「セフィラナ!」


 執事がパッと身を避ける。入って来たのはアルベルトだった。


「アルベルト……どうしたのですか?こんな朝早くから」


「さっき仔馬が産まれた。見にこないか?君の操縦した4頭立て馬車の1頭が父親だ」


「行きます!」


 仔馬は見たい!即決して私は立ち上がった。が、


「ああ、でも待って。ドレスも外出用じゃ無いし、髪も結えてないわ」


 自分のあちこちに手をやる。だけれど、身支度をこれから始めても30分はかかるだろう……いや、それ以上かも。

 彼は笑った。


「気にすることない。僕なんか昨日のシャツのままだ。夜通し出産に付き合ってた。産まれたら凄く綺麗な仔馬だったから、君に見せたいと思ってしまった」


 彼は手袋の無い手を差し出した。

 私も手袋の無い手でそれを取る。


 2人は子供のように駆け出した。





       ◇◇◇◇◇





 彼の見せてくれた仔馬は、父親と同じ漆黒の艶やかな毛並みの牝馬だった。時折おぼつかなくなるが、しっかりと立ち上がって母親の乳を力強く飲んでいる。


「あれなら何も心配いらないわね。すぐにも跳び回りそう」


「確かに。あの子の父親はそうだった。今もヤツは飛び上がりそうだっただろう?」


 馬車の操縦で、荒々しい一頭に悩まされた記憶が蘇って 微笑む。


「そうね。私も制御するのが大変でした。お転婆になるかも」


「君はちゃんと(むち)打って制御していたさ。流石(さすが)は公爵夫人」


 話が思わぬ方に流れて戸惑った。


「ええっと、私は鞭は本当はいやだわ。それに公爵夫人は……」


「そら、挨拶に来たよ」


 彼は顎で指し示した。今日は本当に礼儀はなく……でも自然体な気がした。腹は立たない。

 見ると仔馬がこちらに寄ってきている。

 その背後で母馬は、低くだがブルルと鼻をならした。見慣れない私への威嚇のように感じた。見るだけにして手を出さないように身を固めていると、大きな手に肩をつかまれた。


 引っ張っられるのではなく、彼の体躯(たいく)に後ろから包み込まれるかのようだった。互いに簡単な装いだからこそ体温を身近に感じた。彼の胸や腕、太腿が服越しだが、触れる。

 そのまま耳元近くで低く声がした。


「大丈夫だ、マリアンナ。彼女は私と一心同体だから。敵ではない」


 馬に言っているのだとは分かっているけれど。なんてセリフだろう。しかも、この態勢で。頬が熱くなるのが分かった。多分今真っ赤だ。耳まで。


「失礼。馬に分かり易く伝えようとしたんだが……馬だからどう言っても同じだったかな?……さあ、手を出して」


 肩にあった右手を、彼はそのまま滑らせて私の手を握った。彼の手と重なった自分の手が柵を越え、目の前で仔馬の頭に近づけられていく。


 不思議な感覚だった。

 仔馬の艶やかでしっとりとした毛並と温かさ・・・それから、彼の手のぬくもり。


「可愛い子ね」


 好奇心に溢れた黒い瞳はまさしく、子供そのもの。こちらを見て、耳をピンと立てて鼻をこすりつけてきた。産まれたばかりの仔馬とはいえ、四つ脚の動物の押す力は強い。 

「凄い。本当にお転婆(てんば)かも」


「だろう?だから君に見せたかった。似てるだろう?漆黒の髪の美人」


 また軽口だ。この人は本当に……


「誰がお転婆ですって?」


 怒りもあって思い切り振り返った。そこで止まる。思ったよりもずっと彼の顔は近かった。彼の方も、驚いているのが表情で分かった。

 目が離せなくてそのまま見つめてしまう。そのブルーとグレイの混じる猛々しい瞳を。彼の瞳から驚きは消え、熱が灯るのが何故かわかった。

 この上なく2人で身を寄せて立っていて、右手をそえ……いつの間にか(にぎ)られていた。


 どうしよう 逃げられない


 そんな言葉が頭をよぎる。逃げる?何から?——彼からだ!

 でも見つめられる瞳をそらせなかった。

 彼の顔が近づいて(まぶた)が……


「ゔっ……!」


 次の瞬間、彼の顔はそこにあった位置から押し出され栗毛の馬になった……マリアンナが甘えに来ていた。


「クソッ!全くお前は……」


 悪態をついて、アルベルトが牝馬の鼻面を抑える。私は、思わず吹き出してしまった。止められずにいると、彼も笑いだした。

 そうして、私を 思い切り抱きしめた。

 驚いたけれど、私は……

 私はただそれを許してしまった。

 彼の腕の中で 幸せだったから……





     ◆◆◆◆◆◆◆◆◆





 その夜、私は燭台の前で羽ペンを持ったまま、動けないでいた。

 そのまま彼のことを考える——アルベルトのことを。


 なんてことだろう。なんとも思っていなかった人。

 たった4日で人は恋に落ちるものなの?

 好きになんかなりたくなかった人を?

 女遊びが盛んで、気位が高くて自信過剰で所有欲の強い人。だけども、ユーモアもあって気配りもできて優しい人だ。

 とても。



 ああ……私は……


 私は確かに恋をしたかった。


 私には必要だと思った。


 そして、その後結婚はしてもらえなくても仕方がないと覚悟していた。

 そうして、ずっと一人で……それで良いと。

 だって私は誰の妻にも相応(ふさわ)しくないから。


 羽ペンの先の用紙を見つめる。


 私はどうしたら良いんだろう?


 彼を好きになってしまったからこそ、ちゃんと

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 いいえ、まだ選択肢はある。


 全てを諦めること。





      ◇◇◇◇◇◆◆◆





 5日目——


 その日はセントルパークで、花火が打ち上げられる日だった。多くの貴族達で ごった返す中、家族に勧められてアルベルトと私は来ていた。

 人混みの中でも彼は優雅にその波を縫う。手を引かれていれば安心だった。

 この人と、もし こうしてこの先も生きていけたら、どんなに楽で、幸せなことだろう。

 その時だった——ベンチに()()を見つけた。


「待って」


 私はアルベルトに言った。


「どうした?」


 彼は足を止めて聞いてくれたけれど、私は返事を返さないままベンチに歩み寄った。一冊の本がある。手に取って……


「待って!!それは私の!私のよ!」


 女性の声がして、振り返るとブルーのドレスの若い娘が人混みから飛び出して来た。慌ててベンチの本に飛びつく。

 私はその勢いに目を見張った。


「私の本なのよ!あなた今取ろうとした?」


 娘の剣幕に、後ろから低い声が響いた。


「彼女は本を拾ってやろうとしただけだ。いいがかりは許さない」


 リグウッド公爵の迫力に娘は蒼白になった。


「いいんです、アルベルト。ごめんなさいね、私も持っている本だったから」


 私は言った。事実だ。すると娘は安心して息を吐いた。


「なぁんだ、そうだったのね。あなたもファン?ジャック・ランドの恋愛日記シリーズは本当に面白いわよね!」


 私は少しうなずいた。娘はさらに熱心になる。


「これは第5弾なんだけれど、書店で予約していたのが調度入っていたところだったの。花火の後だと書店が閉まって、そうしたらまた明日になってしまう。だから、受け取って持って来てしまったのよ」


 娘は話し続けた。


「だってそうしたら今夜読めるでしょう?初版は売り切れててずっと入荷を待っていたんだもの!私は今のところ第2弾が大好き!泣けちゃうもの、ミレディとルアンのすれ違い!で、その果ての…………ね、最高よねー!」


 私は大きくうなずいた。娘の輝く笑顔をしっかりと見る。


「何してるんだ?ホラ、いくぞ」


 その時後ろから声がかかった。

 連れらしい中年の男性が娘の後方から現れた。娘が振り返る。

 父親と見られるその男性は、私とアルベルトに気付くと薄ら笑いを浮かべて軽く会釈して、そして、娘の手を引いていった。

 彼女は私に手を振って、男と人混みに紛れて行った。

 私は手を振り返したあと、立ち尽くしていた。

 瞳に、いくらか涙が浮かんでいるかもしれない。


「大丈夫か?気分が悪い?」


 アルベルトが心配そうに覗き込む。 

 私は一度顔を両手で(おお)った。

 瞳を閉じて決断する。

 そして、手を下ろして彼をしっかりと見つめる。


「大丈夫よ。でも、話があるの。2人だけで」


 話さなければならない。




       ◇◇◇◇




 お付きの侍女と御者には、花火を観ているように命じて、

 私達はパークを出た街道まで戻り、馬車の中に入った。

 2人だけの個室は本来ならば不適切(ふてきせつ)だ。だが、今は皆が花火に行き、さらに上空を注目している。見ている人等いない。

 アルベルトは馬車のランプの灯りを小さくした。私と向かいあって座る。


「アルベルト、私は恋がしたいと言ったわよね?」


「ああ。それでこんなことになってる」


 彼が言った。私は少し微笑んだけれど、多分それは喜びからではないと、彼も気づいている。


「あれは理由があったの。私は、自分が恋をする必要があると感じていたの。……これからのために」


 彼が私を見つめる。

 ごめんなさい。


「私がジャック・ランドで、恋愛小説を書いているから」


 彼の顔に驚きが広がる。無理もない。女性は職業を持たない。上流階級の淑女なら、なおさら。


「さっきの本の?あれを君が?」


 瞳を閉じてうなずいた。


「手紙を……私は手紙を凄く長く書いてしまうの。いろいろな話をおりまぜて。まだ14、5歳の頃に、文通相手に冗談で " 面白い小説みたいな手紙だから、小説家になったら?" と返信されたわ。

 物語は好きだから、真似して書くようになったの。ある日、兄の名前で……出版社に送ってみた。ちょとした遊び心で。

 書いたものの方にはジャック・ランドのペンネームをつけたわ。そうしたら……それが出版されてしまったの。" あなたへの恋物語となる日記たち"というタイトルで」


「ベストセラーになって社交界新聞も(にぎ)わせた。僕も名前だけは記憶にある」


 私は視線を落とした。


「そう。…………思いがけずそうなって驚いたの。慌てて兄様に謝って金輪際(こんりんざい)やめると言ったけれど、兄は名前だけ貸すのは構わないから続けたらと言いだしたの。実は……

 出版社からの振り込みの金額も良かったから。口座も喜んで貸すって言われたわ」


「レオらしいな」


 彼が笑ってくれたので、少し心が軽くなる。

 良かった。怒られるかと思った。ケンカ別れは……悲しすぎる。


「それで、私はずっと小説を書いてきたの。書きながら思っていたの。この世界では、小説家の妻なんか誰も必要とはしないわ。むしろ恥じるでしょう。だから、結婚は誰とも出来ないって。それからは、人生を一人で歩いていけるように考えるようになった」


「だからか、馬車に、料理」


「野菜の栽培も庭師に教わっているし、火も起こせるわ。田舎にある母方の祖父の別宅は相続できる見込みなの。今は使用人を雇えるくらいの貯金もあるわ。でもおばあちゃんになった時には、雇う余裕なんかないかもしれないもの」


 彼はため息をもらした。


「本気で1人で生きていくつもりだったんだな……」


 私はうなずくしかなかった。事実だったから。


「でも、人気恋愛小説は書いているのに、私は恋をしたことがなかった。あなたに前も言った通りなの。昔から、私に挨拶に来るのは年配の方ばかり。私は壁の花だし、地味で目立つタイプでもない。キスも、誰かと たわむれたこともなかった」


「デビュー前から公爵の婚約者だったからだ」


 アルベルトは静かに指摘したが、私はその言葉を流した。


「だけどずっとこれからも書いていくために、若い時には恋を経験したいと思ったの。片思いでもいい、成就しなくてもいいから。そういう想いを……心で感じたいと思ったの」


 彼は静かにうなずいた。


「婚約解消したいんだね」


 問いかけではないようだった。私も答えは返せない。

 ただ、告げた。


「私のような女性は公爵夫人にはなれない」


 本を……私の本を大切そうに抱きかかえてくれていた娘を思う。


「私はどうしても小説を書くことがやめられないでしょう。……馬鹿みたいだと分かってはいるの。

 何もしないであなたとただ結婚できたら、ちゃんと幸せなんだろうな……って。

 なのに私は……あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい、リグウッド公爵。私は公爵夫人になれない。どうしても』


 必死に涙をこらえた。泣いたら、彼が困るような気がした。これ以上は、困らせたくはない。


「分かった。君とレオの秘密は守るよ。……2人の " 友人" として」


 その言葉の意味が分かった。婚約解消ということだ。


「ありがとうございます」


 私は頭を下げた。たまった涙が溢れ落ちないようにするのが大変だった。



 その後は、花火の終わった人達が戻ってきた。私達の侍女と御者もいた。私とアルベルトはそのまま馬車に居続け、私は屋敷に送り届けられた。

 そして、彼は私の父に会っていくと 共に屋敷に入った。





     ◆◆◆◆◆◆◆◆





 翌朝、社交界新聞に、

【リグウッド公爵アルベルト・ラムズ・ローチェスター・ダンフォードとリンフォード子爵長女セフィラナ・ロズ・ラインハルトン令嬢婚約破棄!

 5年に渡る蜜月の果てに2人に何があった!?】


 という内容の見出しが踊った。

 私達は終わった。

 昨夜、アルベルトがどういう説明をしたかは分からない。でも、父と母は何も言わずに、普段通り接してくれている。……本当は落胆しているだろうに。申し訳なかった。




 1人部屋にいた。ペンを持ったが、流石に今は何も書けない。


 失って気付く。

 この6日間だけでは無かった あの人の優しさに。

 いつも節度と配慮のある人だった。

 私はそれを形式ばったものだとばかりに決めつけていたけれど。

 隣りにいてくれた心強さ。温かみ。

 今はもう願うことは許されない。



 ノックする音がして、扉の方をみるとレオナルドがいた。社交界新聞を持っている。

 入ってくると私の部屋の椅子にドカリと腰を下ろした。


「今日は複雑な日だよ。やっとメリッサが再婚したと思ったら、お前とアルが婚約破棄だなんて。うまくいっていると思っていたのに、一体何があった?」


 私は兄様の問いには答えず、尋ねた。


「メリッサ……ってレインモン夫人?レインモン夫人は再婚なさったの?」


 兄様は大きく首を縦に動かす。


「ああ、メリッサの最初の夫が僕らの同期生だったんだ。良いヤツでメリッサが大好きで恋愛結婚したが、馬車の事故で死んでしまった。メリッサもショックを受けて引きこもりみたいになっていた。僕とアルベルトで必死に連れ出したんだよ。それでやっと公の場に出るようになった。社交の場に出ていれば、再婚するだろうとはアルと言ってたんだ。メリッサはまだ若いし、気立てが良くて綺麗だから」


 その話に私は混乱する。


「レインモン夫人は……リグウッド公爵の愛、恋人だった時期があるのかと思っていました。彼はいろいろ噂があったし、女性達とは」


 兄様は私の言葉を笑い飛ばした。


「ないない。僕らは死んだ親友を裏切らないし、噂してるヤツはアルベルトを知らない連中ばかりだろう?若くて独身、見栄えの良い公爵じゃ、スプーンを落としてもテーブルをひっくり返したくらい言われるからな」


 私は呆然とした。兄様は続ける。


「だいたいどう見たってセフィーに首ったけだったから。僕にもお前に近づくヤツはいないか確認ばっかりしてくるし、お前のデビューの時には、若い紳士連中にダンスに誘うなと言ってた。ワルツは絶対ダメだって。あんなに想ってくれるヤツはもう そうそう現れないぞ、セフィー」


 衝撃の真実だった。

 全く……気づいていなかった。


「私……私の人気がないとばかり思っていました」


「綺麗だよ。セフィーは。若いのに落ち着いていてしっかりしているし、浮ついたところがない。紳士連中はみんな正妻に狙うよ。だからアルなんか素早く婚約の申し込みをしてきたからな」


 これも、知らなかった事実だった。


「父様同士の取り決めではなかったんですね……」


「あいつ、1年後には結婚したいって言ったんだ。お前がすぐに申し込みを嫌がったから、父さんが5年後まで引き伸ばしていたんだよ」


 あまりにも夢にも思っていなかった話が続いて、私は呆れたように笑いが込み上げた。

 彼を笑っているのか、全く気付かなかった自分を笑っているのか、もう分からない。両方かも。

 レオナルドは少し呆気にとられながらも、見守ってくれていた。

 私の笑いが途絶えた頃、優しく尋ねてくれた。


「なんだよ。このことで喧嘩したんじゃないだろうな?」


 それには、しっかりと首が振れた。


「ちがうの。喧嘩でもない。……大丈夫よ、兄様。私は大丈夫」


 兄はそれを聞いて目を細めると、ただ一度うなずいて、そして出て行った。


 私は立ち上がって窓辺に行った。空と雲を見上げる。






 私はずっと愛されていて、大切にされていたのね


 誰からも好かれてなどいなくて、

 寂しい人生だと思っていたのに


 あなたは私にずっと片思いをしてくれていたのね


 あの6日間だけ

 私達は両想いだった

 ちゃんと成就していたのね

 知らないうちに


 そして、

 知らないうちに通り過ぎていってしまった

 私達

 馬鹿で愚かだった



 でも とても 素敵な恋



 私は 生きてきて初めて

 真剣に筆を折ることを考えた


 あなたと共に生きることを夢見て


 そんな人は

 そこまで考えられる人は

 もう現れないかもしれない


 でもあなたに会えた



 私を愛してくれてありがとう


 いつかあなたに私も伝えられるだろうか


 私もあなたを愛し始めていたのだと————







 窓から離れて、机に戻る。

 椅子を引いて、私は羽ペンを取った。




      ◇◇◇◇◇◇◇◇





 翌日——



 昨夜遅くまで小説を書いてしまっていた私は、父様からの呼び出しだと侍女やメイドに叩かれて、やっと起き上がることができた。

 簡単な身支度を整えてもらい、書斎に行く。

 ノックをして、了承を得ると


「お待たせしてしまい、すみません。おはようございます」


 と、扉を開けて言った。

 父様は私を見ると


「私は良いがな、今日きた婚約の申し込みをしてくれた若者が、もう かれこれ1時間近くお前の返事を待ってる。

 彼は5年も待ってもくれたんだし、もう早くいってやったらどうだい?」


 と言った。


 私はポカンとしていたが、やがて頭が動きだした。


「彼はどこに?」


 父様は答えてくれた。


「5年前と同じ部屋で待ってるそうだ。やり直したいから」


 勉強部屋!私は走り出した。

 廊下ですれ違う執事に、


「お嬢様!はしたないですよ!」


 と言われたが、今は淑女(レディ)でなくていい。


 階段を上がり、長い廊下、沢山の部屋、

 あの角を曲がる——


 16歳まで妹と使っていた勉強部屋が見えた。扉は開いていて、駆け込んで、私は足を止めた。

 ハアハアと息をつく。

 あの日と同じように、同じカーテンがひるがえり、同じく彼は座っている。

 だが1人だった。今度こそ。


 彼は私を見た。

 私達はしばらく 無言で 向かい合った。

 彼はゆっくりと口を開いた。


「あの日、僕は浮かれていた。君と婚約ができて。正式に挨拶しようとここで待っていた。夢心地で座っていたら、近くにいた家庭教師が寄ってきて、いきなりキスされた。

 ……信じてもらえるかは分からない。でも、君が見たのはそれが真実だった」


「あの時、" 最低の女 " と、聞こえたわ」


 彼はうつむいて吐き捨てるかのように言った。


「それはそうも言いたくなるだろう。人の婚約のスタートを台無しにしてくれたんだぞ、あの家庭教師の女!」


 そうだったんだ。誤解だった。何もかもが。

 だけど……


「あのう……婚約の申し込みは嬉しいけれど、私、小説を書くのが……やっぱりやめられないの。かえってどうしても書きたくなってしまって。あなたとのことがあったから」


 彼の瞳が好奇心に光る。


「僕のことがなんだって?」


 私は照れ臭くなって微笑んだ。


「あなたに恋をしたから」


 彼は立ち上がった。

 距離を詰められたけれど、私は手を前に出した。


「だけど私は公爵夫人になれない」


 彼は止まらなかった。


「なれる。君ほどふさわしい人もいない。僕の公爵夫人には」


 出していた手をつかまれて引き寄せられた。

 彼の両腕に包まれる。

 強く。優しく。


「ばれたら大変なことになるわ。あなたの迷惑になるかも」


 彼の鼓動を聞きながら、身を縮めて言った。

 離れたくは ない


「君の小説のことは、あまり気にすることは無いと思う。

人気のちゃんとある作品だし、実は……僕は立場上 女王陛下に拝謁(はいえつ)する機会が度々あるが、あの方が言っていたんだ。" ジャック・ランドの恋愛小説が大好きだ " と。僕はそれで、この本は覚えておこうと思ったんだ」


「…………嘘」


 信じられない。思わず口からそう こぼれる。


「嘘じゃない、嘘をついてどうする?結婚したら君も挨拶に行こう。作者だと言ったら、サインを求められるかもしれないぞ。練習しておいて」


 もう笑うしかなかった。

 2人で抱き合って笑った。

 そして、見つめ合って顔が近——


「待って!」


「なんだい?もう家庭教師も馬もいないぞ?」


 彼は不満そうだ。


「ここは、私が小さい頃から悪ふざけ や たわむれ は してはいけないと教えられた部屋なのよ。だから、こっち!」


 彼を廊下に引っ張り出す。

 彼はもう待ちきれないとばかりに、私を後ろから抱きしめた。顔を彼の方に向かされると、唇を重ねてきた。

 しっっかりとキスする。




 飲み物を運んで来ていた執事は、2人を見てしまい、目を片手で(おお)った。


「お二人とも、せめて部屋でお願いしますよ…………」


 老齢の執事は、力無く呟いた。





挿絵(By みてみん)






        

 2025年8月24日 シロクマシロウ子


読んで頂きまして 本当にどうもありがとうございました。


2025年9月11日に、本作は10000pvに到達できました。

お祝いにかぐつち・マナぱ様より素晴らしいイメージファンアートを頂きまして、挿絵として入れることができました。

かぐつち・マナぱ様、ありがとうございました。心より感謝を。

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― 新着の感想 ―
めっさ上手。(汗) ポイント入れときます。
朝の通勤電車の中で読みました。 完全にまわりの乗客の方を忘れてしまうくらいニヤけてしまっていて、読み終わったあと、ハッとしてしまいましたw 読みながらその時代の背景や貴族のことなどもとてもわかりやす…
読みにきました! 一言で言うならば 好きです。好みです! 主人公や、周りからはどことなく 穏やかな空気感が伝わってきました。 ニヤニヤしながら読んでしまいました。 ご馳走様でした。 これからも頑張…
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