539話 那由多
若いころは戦後少し経って高度経済成長期とかいう名前の景気の良い日本だった。
皆が笑顔で輝かしい未来が待っていると信じてがむしゃらに働いていた、そんな時代だった。
しかし、そんな景気の良い時代でも、いつも財布を軽くして愚痴ばかり言っている無学で明日を考えず努力もしない、つまらない人間はいるものだ。
誰かと言われれば、私だと答えるのだがね。
「那由多代表が?」
驚きを隠せずに百地が口を挟むが、那由多は気にせずにパチリと指を鳴らす。
瞬時に百地たちの目の前にはテーブルと人数分の椅子、そしてコーヒーとシュークリームが出てきた。驚きを示す面々になんでもないように那由多は椅子へと座り、座るように勧めてくる。
「今はこんな魔法みたいな科学も使える身だが、昔の私は正直言ってクズだった。猫背でポケットに手を入れながら愚痴を言っていたものだ。金を稼ぐということがどんなに大変か考えず、ふらふらと街を練り歩いていた」
肩をすくめて、昔の自分を思い出しているのか苦笑気味に那由多は手を振る。
「毒など入っておらんよ、食べてくれたまえ。ちょうど人数分あって良かった。それはドーナツのように揚げたパイにプリンと生クリーム、ケーキのようにスポンジも中に入れたシェフサンオーの新作らしい」
ガラガラと雷鳴が轟く。どこかで悲鳴めいた声が聞こえたが、たぶん雨の音だろう。
腕をテーブルの上で組み、自身はなにも手をつけずに那由多は語る。自身の過去を。その情景が人々の脳裏に思い浮かぶ程に臨場感たっぷりに。
「当時、私は日雇いの仕事を転々としていた。金に困る私の願いはパチンコの羽根モノのVゾーンにどうやったら銀玉が簡単に入れられるか、そんなくだらないことだった」
百地たちの脳裏にバラックが建ち並び、工場からモクモクと黒い煙が吐き出され、豆腐屋がラッパを吹いて豆腐の入った自転車をおし売り歩き、恰幅の良いおばちゃんたちが騒がしく井戸端会議をしている情景が思い浮かぶ。
その中で彷徨いているしょぼくれた若者。このままであれば、遠からず道を踏み外して死んでいくような暗い雰囲気を醸し出している。
「私は毎日をつまらない日々として暮らしていた。いつも腹を空かせていたが、それもギャンブルにつぎ込んでいたからだった。一攫千金で金持ちになれればとくだらない人間だったよ」
「それが変わったんですな? 神族とやらに遭ったために」
百地の言葉に那由多は懐かしそうに言う。
「そうだ。だが、初めて遭った時はたんなる慈善家だと考えていた」
那由多が出会ったのは普通の人の良さそうな老人だった。小柄で人が良さそうな老人はニコニコと絶やさぬ笑顔で那由多へと声をかけてきたのだ。
久しぶりに競馬に勝って、懐が暖かい那由多は場末のおでんの屋台で機嫌良く飲んでいた。高架下にあるおでん屋は電車が通るとガタガタとコップが揺れて、中の酒が揺らめく様子が那由多は好きだった。
そんな那由多に、のれんをかきわけて老人が隣に座ったのだ。
「ちょいと隣に失礼するよ」
その老人は今思えば気味悪い程の笑顔で声をかけてきた。黒いコートを着ており、糸目の老人だった。ほろ酔い加減の赤い顔をしている私を見て、その細目を片方見開いておかしなことを言ってきた。
「やぁ、随分とご機嫌なようですな。若者の元気なところを見るとこちらも元気になります。どうでしょう、私に一杯奢らせてください」
お人好しの老人だと私は思い、酒を奢って貰ったこともあり、私はしばらくその老人と酒を飲んでいた。私はすっかり酔ってしまい呂律も回らなくなってきたときに、その老人はニコニコと笑顔でまったく酔った様子もなく私に一つの提案をしてきた。
「どうでしょう。こんなに気持ちの良い心の若者は久しぶりに会いました。そんな貴方に一つ手伝って欲しいことがあるのですよ」
「なんだよ? 悪いが犯罪は嫌だぜ? ヤクの売人とかノーだ、割に合わね〜」
フラフラと身体を揺らしながら辛うじて残っていた理性で私は答えた。すると、老人はうんうんと満足そうに頷いて
「酔った状態では本音が出ると言うものです。罪を犯さぬその性分は素晴らしい。もちろん、私の提案は犯罪とはまったく関係ありませんのでご安心ください」
老人の話。それは酷く奇妙で……それでいて興味深いものであった。
◇
ガラガラと雷が鳴る中で、すっかり話に没頭していたナナは小首を傾げて那由多に尋ねる。
「世界が崩壊するから、備えをしろとかですか?」
その話に繋がるのだろうと、緊張気味に聞くナナへと那由多は苦笑をしてかぶりを振る。
「そんな話は普通信じないだろう? もしも君が崩壊前にその話を持ちかけられたらどうする? 元警察官の荒須君」
「……とりあえず話は聞くと思います。ただし署内で」
むっつりとした表情でナナは答える。どう考えても詐欺か新興宗教の誘いにしか聞こえない内容だからだ。
「そうだろう。誰もそんな話は信じない。ノストラダムスの大予言に従い備えろと言われるようなものだ。君の年代だと知らないかな? 世紀末に世界は滅びるといった有名な予言だ」
微かに口端を吊り上げて那由多はおかしそうに言った。
「老人は言った。極めておかしな提案を」
豪雨は止むことはなく、那由多の話は続く。
◇
「勉強して欲しいだぁ? なんだそりゃ?」
私に提案してきた内容は変わったものだった。問い返す私を見て、老人は提案を繰り返してきた。
「そうです。と言っても学校で学ぶようなものではありません。歴史や数学、古文など教師や博士だけにしか役に立たない勉強ではありません」
「あ〜ん? ならなにを勉強すれば良いんだよ?」
面白そうな声音で老人は告げてきた。
「投機です。投資に伴う様々な事柄、投資とは? 投機はどこにあるか? 情報を集めるのに信頼されるような話し方から、その考え方まで」
「投機だぁ? そんなもんを俺に学ばせてどうするってんだ? 俺は明日の生活費もカツカツなんだ。競馬に勝ったって、こんな場末のおでん屋で豪遊すれば無くなっちまうぐらいしか金はないんだよ!」
いかにもどこにでもいそうなチンピラのごとく、私は酔った赤ら顔で老人を睨みつけたのだ。からかわれたのだと思っていたからな。
だが違った。老人はポンと札束をテーブルに放ってきたのだ。それまでの人生で見たこともない大金に驚くよりも私は呆然としてしまった。
「このお金をあげます。一年間同じ額を毎月貴方に差し上げましょう。私の教えを学ばなくても自由にお使いくださって結構。反対に差し上げた金を増やしたときには、その次の年も同じルールで差し上げましょう」
私は札束から目を離すこと無く、老人へと恐る恐る問いかけた。
「学ばなくても? 金をタダでくれるってのか? 返すことなんかできないぜ?」
「えぇ、良いですよ。ただし、私の教えを毎週3回だけ受けてもらいます」
自分のごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。緊張で酔いが醒めるような感じがした。………これはヤバい話だとも。金を使わせて返却できなかったら自身を売り払われてしまうのではないか?
いくつもの可能性が頭を巡り………私は決意した。このままの生活では貧乏から抜け出せないと。たとえヤバい話でも乗ってやろうと。
◇
「そうして今の貴方がいるというわけね? 話が長いわっ! 悪いけどナナシをどこに拘束したのか教えてくれないかしらっ! 私の目的はそれだけなんだけどっ!」
叶得がイライラとしながら、シュークリームだがドーナツだか、はたまたケーキかわからないデザートをがぶりと齧りながら怒鳴る。またもや雷鳴が轟く。どこか幼女の悲鳴も混ざっているような、恐ろしさを感じさせる。
「すまんね、たしかにその通りだ。老人の話はとかく長い………気を付けているのだがね」
那由多はコーヒーを一口飲み、喉を湿らせて言う。
「最初は投機が素人でもできるかの実験だと言っていた。もちろん、私は一年を無駄に過ごした。老人の話は難解であったし、投資をしても減るばかりだったからだ。素人なんてそんなもんだ。歯嚙みをしながら、この生活もここまでかと思ったものだ。実のところ………生活費にも使っていたからな。減るのは当たり前だった」
「なにか転機があったということですな?」
叶得が那由多に噛みつきそうなのを百地はちらりと横目で見てから尋ねると
「あぁ、不思議なことに毎年12月だけは増えたのだ。契約が切れる末月にな。私は不思議に思った………まったく学んだ内容と合わない銘柄なのに私が買うと上がる。………切れない契約の4年目。私は密かに一年を倹約して貯めた金を無謀な銘柄に投資した。もはや下がるだけだと言われている銘柄。まさに最悪のタイミングで小豆相場に手を出したのだ」
なにかあり得ないことが起きているのかもしれない。そう考えたのだ。その思いは馬鹿げたものであった。ただの偶然が続いていたに違いない。そう思いながらも、私はその馬鹿げた方法を実行して………。
◇
「大金を手に入れた。もうあんたから金を貰わずとも贅沢に一生暮らせるほどな!」
私は老人からいつも投機の勉強を受ける時に使っていた古ビルに怒鳴りこんだ。老人は古ビルの机と椅子、それしかない寂しげな部屋にいつも通り待っていた。
「おめでとうございます。これで貴方も金持ちの一員ですね。喜ばしいことです」
ニコニコと笑顔で祝福をしているが、老人は私の心中を読んでいるように嘲りが混じっていた。
「なにか不満なことでもあるのですか? 貴方の望んだ結果が出たのですよ」
「………ふざけんな! おかしいだろうが! なんで俺が買った途端に上がって、俺が手じまいしたら下がるんだ? いや、元に戻ったんだ! まるで俺が買っているときだけイカサマを使われているように感じるぜ! じじい、何をしやがった?」
私が怒鳴り散らすのを聞きながら、うんうんと頷き老人は言った。
「貴方は私が超常の力でなにか相場を操ったのだと心の底から信じている。半信半疑でいたが、この儲けで確信をしてしまった。………他の者は信じてくれなくてな。あいつらは全員処分としておこう」
いつの間にか笑顔を消して、不気味な威圧感を感じて私は背筋が凍る思いだった。今さらながら、目の前の老人が人間ではないのではと思ったのだ。
「さて、相場を操ることなど児戯に等しいとわかってくれたかな? 不可思議な科学では説明できない者が目の前にいると信じたかな? それこそ、私が願っていたことだ」
実のところ私は単純だったのだろう。相場を短期間操作するのは巨額の資金がいるができないことではない。
だが、私は買う銘柄も老人に伝えていなかった。不可能なことをやる老人………。なにかわけのわからない力が働いているのではないかと。
その思いを確信と変えて私は後退りしながら、悪魔に魂を取られるのかと、今まで無神論者であったのに強く思った。汗をかき、身体は震え、絶望と共に老人の正体を尋ねた。どうせ死ぬのならとね。
「悪魔との契約はし、した覚えがない。悪いが帰らせてもらおうか」
正体を尋ねたつもりだったが、口からこぼれ出たのは一縷の望みに従い、今まで学んできた内容を活かすことだった。無駄なあがきであろうに。
「ククク、安心してください。私は神です。貴方を救世主にしてあげましょう」
「救世主? なにかと思えば………神だと?」
私はその言葉を疑うことも不思議なことにせずにいた。
「世界が滅びるので、貴方に助けてほしいのです」
神と名乗った老人は悪魔のような物言いをして
その時私はそういえばこの老人はなんという名前だっただろうかと、名前を聞いたことがなかったとようやく思い出したのだった。




