345話 ゲーム少女は二日酔い
大渓谷のもっとも深く昏き洞窟にて待機をしていたベルゼブブは己が分体があっさりと殺されたことに驚愕をして立ち上がる。
「ありえぬ……まさか余が、分体とはいえこうまであっさりと殺られるとは………」
力を感じぬ相手だからこそ恐ろしい。恐らくはなにかに嵌められたとは理解できる。だが、なにに嵌められたのかはまったく想像できないのが恐ろしい。
「これは考える時だ………。余だけでは敵わぬ相手であるな………」
蠅の頭を擦りながら考え込むベルゼブブ。どうやら自分だけではあの人間を倒せない可能性がある。あの布切れは神器なのだろうか? 七罪をあっさりと倒せる武器など聞いたことはないが………。
「仕方あるまい………。他の者に手伝わせるか。ルシファー! 聞こえるか、ルシファー?」
一番近くにいるだろう高慢を司るルシファーへと念話にて問いかける。敗れた分体は本体と違い力に劣るが、それがベルゼブブの優位に働くとは考えない。なので他の悪魔王に手伝わせることにしたのだ。
「ば………。ばかものが………」
だがルシファーからきた返信の声は弱々しいものであった。その声を聞いて悪魔王とは誰も思うまい。
「なに? 余が情報を集めておかなければ」
ルシファーの弱々しい声に戸惑いながらも自身の成果を言おうとしたところで、カランと黄金の杖が手から滑り落ちる。
「ぬ? なにが」
なぜ杖を落としたのだとベルゼブブは疑問に思うが、すぐにその原因に気づく。
サラサラと自身の手が光の粒子となって浄化されていっていた。痛みはなくただ体が崩れているのだ。
ガクンと体が傾き、足が消えていったことに恐怖する。既に自身が終わっていると認識できたのだ。それは信じられないことであった。
「ま、まさか………。分体ではなく本体までも! ルシファー! サタン! レヴィアタン、ベルフェゴール? マモン……… アスモデウ………」
どこからも念話の答えは来なかった。そして洞窟の奥から恐ろしい断末魔の声が聞こえてくる。その声を聞いた者は地獄からの呻き声だとでも思うのだろうか。合わせて6つの声が響きベルゼブブは驚愕した。
「ひ、一打ちで七匹………。あの一撃は我ら全員を対象にして………いたの………か………。恐るべき………」
ベルゼブブも滅びゆく自身の身体に恐怖の声をあげる。あのような化け物がいるとはと………。
合わせて七つ。七罪の断末魔の悲鳴は蟻の洞窟すべてに響き渡り、七罪で維持していた特殊隠蔽型空間結界は解除をされていくのであった。
◇
七つの声が洞窟の奥から聞こえてきて、サクヤは肩をすくめて呟く。
「私の会話を盗み聞きしているから、全て効果範囲に入るのです。愚かとしか言えませんね。まさか分体を影として仲介していれば逃れることができるとでも思っていたのでしょうか。やはり紙ならぬ悪魔ではこの程度ですか」
そうして頬に人差し指をぷにっとつけて困り顔になってしまう。
「やりすぎましたね。ご主人様の良い経験値稼ぎとなる相手だったのですが………。それに有名どころの悪魔たちですし、自分で戦わないと主人公じゃないよねとか言いそうです」
クスリと微笑み、ご主人様の思考をトレースする。たぶん、同じような考えをして悔しがるに違いない。やっぱり私は脇役だよね、普通はラスボスであるルシファーとかと戦うのが主人公なのに、知らないうちに戦闘は終了していたよねと。
「まぁ、他の悪魔ということにしておきましょう。先程の敵は蠅の化け物、メイジブンブンだった。特技は炎の力、メナ。布切れの一打ちで倒せちゃうほど弱かったですと伝えておきましょう」
うんうんと誤魔化すことに決定して、布切れをポイっと投げ捨てる。もはやこの布切れはいらないと、あっさりと。
「さて、ご主人様に合流しましょうか。どうやら大きな変動があった模様。蟻の意識が解放されましたか。どなたかが支配していたらしいですが、死んでしまったようですし」
てくてくと洞窟から出るために歩きだして、フッと部屋の片隅へと視線を向けて小さく口元を笑みに変える。
「姿隠しのマント、随分と古い物を使っているのですね、アンティークというやつですか」
僅かに空気が震えるのを感じて、サクヤはその様子を見て微笑みながら部屋を出ていくのであった。
シンと静まり返った部屋の中で、空気が震えて少女が現れる。被っていたマントの合わせ目を僅かに解いて、捨てられた布切れへと恐る恐る近づき手に取る。
「師以外にもあれほどの強力な魔法使いがいるのですね………。あの正体を知ることは危険だと考えます。まずは師のために力ある物を回収していかないと………あ、あれ、さっきの人はどんな格好でしたっけ? か、顔も思い出せない?」
布切れを懐に仕舞いながら、先程のベルゼブブをあっさりと倒せた人間を思い浮かべようとすると、なぜかその姿がわからない。ついさっきまでいた人間のはずなのに。男だったのか? それとも女? 老人? 少女? なにもかも思い出せなくなっていたことに少女は驚愕する。
「これが優れたる魔法使いと言う訳ですか。私もいつか……」
はぁと息を吐いて、かぶりを振って師に命じられた力ある物を集めよという指示を遂行すべく動き出す。
手に持つ魔道具。力ある物を指し示す魔法の羅針盤はくるくると回転して他にもあることを示していた。
「合わせて七つ反応がある………。それらを回収して脱出ね」
洞窟全体が振動で蠢き大量の蟻たちが動き始めているのを目に入れて、スッとマントの合わせ目を閉じて再び空間の陰へと少女はかき消えていく。
そのすぐ後に大量の蟻たちが開いている天井から抜け出していくのであった。
◇
灯里は少女を肩に背負い歩いていた。周囲の人々も慌てながら森の中を進んでいる。
数万人はいる生存者たちだった。ぞろぞろと森の中を歩くその姿は健康的な身体にはなっているが疲れは隠せない。たぶん見た目だけ健康的で中身は疲労が溜まっているのだ。
「大丈夫か、灯里。その少女は俺が背負うぞ?」
灯里に向けて父親が問いかけるが、灯里は首を横に振る。
「お願いをしたのは灯里さんなので、レキさんは私が面倒を見るのです。それより、お父さんはお母さんを助けるのです」
母親も疲れ切っており、父親の助けがなければ歩くことは難しい。助ける余裕は誰にもない。しかも森の中を歩けば助かるとは限らない。ただ、あの大峡谷から逃れたいがために、皆は懸命に反対方向に歩いているにすぎないのだから。
「うぅ、すいませんね〜、いつも私のお世話をしてもらって」
ごほんごほんとわざとらしく咳をするゲーム少女である。弱々しいその姿は珍しい。そして極めてわざとらしい。
「それは言わない約束でしょ、お婆ちゃんって、随分余裕あるのですね?」
苦笑交じりにそう答える灯里へと遥はかぶりをふって否定する。
「いえ、こんなに苦しいのは初めてです。気持ち悪くて大人の二日酔いはこんなのかなと思っちゃいます。……うぁ、気持ち悪いよ〜」
顔も青白く本当に苦しそうなのは見てわかる。蟻の巣で見た信じられない光景。彼女が神々しく光り輝いたと思ったら渓谷と森の境目に自分たちはいたのだ。
身体が治り、虚ろな目が消え去った人々は大混乱に陥った。しかも数万人の人々だ。とりあえずは逃げられたみたいなので、急いで森へと逃げ込んだのであった。
本当に夢なのだろうかと灯里は踏みしめる地面の感触や肩に背負う少女の温もりを感じて考える。でも夢でなければなんなのか? こんな滑稽なことは夢でしかあり得ないのではないか?
「夢、夢なのですよね? 本当の灯里さんはまだバケツを持って蟻の巣を歩いているのですよね?」
夢ではないと信じたい。だが、本当に? ぐるぐると頭の中が混乱する。
遥は気持ち悪いよぉ〜。状態異常無効じゃないの〜と内心で叫びながら歩く。だが状態異常ではないことはわかっている。これは状態良好すぎるのだ。身体が慣れるまでまだまだ時間は掛かりそうだと感じる。
サイキックを調子に乗って四回も使ったツケである。三回までと言われたが、この中の人々を早急に助けるには必要だったのだ。ブンブン飛んでいるミュータントの分体も気になったし、対処は急ぐ必要があった。
こんなとき主人公キャラならば、こんなのペナルティでもなんでもねぇ! やってやるぜ! と頑張って戦い続けるだろうが、おっさんなのでそういう熱血覚醒はできないのである。う〜んう〜んと苦しんでベットで寝ていたい。ナインに看病されながら寝ていたい。
手足も痺れて、身体も重い。頭も朦朧としていて、精神世界で苦しんでいる旦那様を見て、オロオロとしているレキをそんな姿も可愛らしいなぁと眺めるぐらいしかやることはない。レキは見つめられて、エヘヘと可愛く照れちゃったりしているのでますます可愛らしいなぁと見つめてしまう。
緊張感がまったくない遥とレキである。たぶん身体の主導権をレキに渡すことも今は難しいだろう。強大な超能力が魂と身体を駆け巡り神化を促しているとわかるからだ。たぶんおっさんぼでぃでも同じだろう。
そんな身体をレキに任せることは難しい。レキには安定した身体でないと主導権は渡せないし暴走されても困るからだ。
なんとなれば初めての苦境にあるゲーム少女である。肉体的ダメージよりも全然酷い感じだった。
そんな遥は夢だよねと呟く灯里を見て弱々しく苦笑する。夢ならばこんなに懸命には逃げていないでしょうと考えて、とりあえずは放置だねとも思う。
なぜならば少しピンチかもしれないからだ。後ろから悲鳴が聞こえてくるので。
「蟻人だぁ〜! 蟻人が追いかけてくるぞ!」
誰かが叫びながら渓谷へと視線を向けて指を向ける。
恐怖の表情で後ろを振り向く人々は、視界に入った光景に恐れ慄く。渓谷をよじ登っている無数の働き蟻、そしてそれに先行するようにロープもないのにひょいひょいと凄い速さでよじ登ってくる蟻人。
働き蟻だけでも何百万匹いるのだろうか。蟻人は数千匹といったところだ。
唯一助かるのは、働き蟻は本能のままに動いているようで、こちらに全てが向かっている訳ではないというところだろうか。たぶんこちらには10万匹ぐらいか。他は別の場所に向かっているので、人間を目的としていないのだろう。
それでも5メートルはある戦車のような働き蟻が向かってきて、こちらは知性があるのだろう明確に人々へと向かうように迫る蟻人たち。それらは人々に恐怖と混乱をもたらすには充分な数であった。
「キャー! 速く逃げないと!」
「急げっ! 急げっ!」
「凄い速さでくるぞっ!」
人々はてんでばらばらに駆け足になり逃げ始める。もちろん森という凹凸が激しい場所だ。走ればすぐに木の根っこに引っ掛かり転ぶ人、そんな人々を押しのけて逃げようとする人々が続出する。
コテンと子供を連れた母親が転んでしまう。周りの人々はそんな母娘を避けながら逃げようと足を速める。
「おかあさ〜ん」
「速く逃げなさい! 私は大丈夫だから!」
子供に走って逃げるように告げる必死な様子の母親。映画などではよく見る光景であった。
遥はその光景を見てステータスボードを開き、支援ボタンを押下しようと考えるが
「あぅ、ステータスボードにも影響がでるんだね。こりゃ参ります。参っちゃいました」
困ったように呟く先、いつもは簡単に映るであろうステータスボードはぐにょぐにょと歪んでいて、ボタンを押下するどころか、なにが映っているのかもわからない。
こと、ここに至り、なぜサクヤやナインが通信をしてこないのか理解した。通信をしないのではなく、できないのだろう。
ならば仕方ないよねと嘆息して、灯里へと声をかける。
「ちょっと先に行っていてください。そこの母娘を助けちゃいますので」
足はふらつくし、身体の感覚はほとんどないし、頭は痛くて気持ち悪い。これは二日酔いだね、昨日飲みすぎたかなと現実逃避しながら伝える。
「早く逃げないと危ないのです! もう後ろには蟻人が来ているのです!」
灯里はその弱々しい今にも倒れそうな少女を見て叫ぶ。速く逃げないと追いつかれるだろう。
「大丈夫です。私は最強なのであんな蟻はプチッですよ。とりあえずは母娘の元へ向かいます」
自分もフラフラなのに、母娘へと向かうレキを見て、呆れたように灯里はため息を吐く。ちょっと私の夢の娘は頑張りすぎなのですよ。
「あぁ〜! もうっ、仕方ないのです。どうせ夢なのですから、灯里さんも主人公っぽいことをするのです!」
すぅ〜と息を吸い込んでそのまま灯里は周りへと叫ぶ。
「大人たちっ! ここは英雄的な行動をするチャンスですよっ! 周りを助けないで、大人といえるのですかっ!」
その言葉を聞いて、周りの人々が一人、二人と歩みを止める。たしかに周囲には倒れ込んでいる歩けなさそうな人々が目に入ったからだ。
「そ、そうだよな。せっかく助かったみたいだし、一緒に逃げないとな」
「大丈夫? ほら、肩に掴まって」
「おし、そこの子供、俺の背中に乗れっ!」
周りの人々を助けるべく行動をする人々。懸命なその姿は心を打つ光景であった。
「大丈夫ですか? 肩に掴まって……うぅ、気持ち悪い」
ペタンと座り込んでしまうゲーム少女。彼女だけ格好良くない。おっさんにはよくあることでもあった。キメようとすると失敗するのだ。
アワワと子供がへたりこんだレキを見て慌てるが
「大丈夫だ! 俺が連れて行くぞっ!」
すぐに近くにいた男性が母親を背負い子供を抱っこして逃げる。
「レキさんも灯里さんの肩に掴まるのです! 急いでくださいなのですよ」
「か」
「か? なんなのですか? レキさん」
へたりこんだ遥がなにかを言おうとするので、耳を澄ませるかな灯里。なにを伝えようとするのだろう?
「かっこいいです。まるで映画みたいなシーンですよね」
耳を澄ませなければ良かったセリフであった。苦しんでいても、ブレないスタイルなゲーム少女である。どうしようもない遥であった。
「もうっ! ふざけていないで、肩に掴まるのですよ」
よいせと軽い体重のレキを持ち上げて肩を貸す。そうして歩き始めようとする灯里と遥であったが、ガサガサと草木が揺れて、後ろから追いついてくる足音が聞こえてくる。
「キシャー!」
茂みから蟻人が槍を構えて躍り出てくる。それは灯里と遥を狙っていた。鉄ではない、なにか樹木めいた、されど尖端は尖らせてある艷やかな黒色の槍を構えて迫ってくる。
「むぅ、まずいですね」
再び遥は戦うべく灯里から離れようとするが、ガバッと抱きしめられてしまう。庇おうというのだろう、自分を盾にしようとする灯里。
「駄目なのです! 助けるのですっ!」
これはまずったと焦る遥。もはや超能力を使うしかないと、気持ち悪いけど頑張るかなぁと、実はあんまり焦ってはいない感じかもしれないが力をこめようとちっこい手のひらを蟻人に向けようとする。
そこにビームの光が目の前を通り過ぎていき、槍をもち突撃してきた蟻人をバターでも溶かすように貫く。
「な、なんなのです? なにが起こったのです?」
灯里が焦りながら周りを見渡すと、空からバイクが降り立ってくる。戦闘服を着た兵士たちがそれぞれ蟻人を撃ちながら。
バイクに乗っていた男性が降り立ち、こちらへと歩み寄ってくる。
灯里を見て軽く頷き、遥を見て驚きで瞠目する。
が、ニヤリと笑ってゲーム少女の背中をバンバンと叩いて言う。
「よく頑張った! もう大丈夫だ!」
「はぁ〜、仙崎さん、前も思ったのですが、ちょっと痛いです。もう少し叩く力を弱めるべきですよ」
ため息をつき、周りの蟻人と戦闘を始めるバイカーズたちを見て、とりあえず安心した遥は最初に出会ったときも、背中をバンバンと叩いて痛かったんですと抗議する。以前と違い、そこそこ仲が良いはずだし、言っても良いだろうと。
「それは悪かったな、姫様。珍しいじゃないか、そんなに疲れているのは」
仙崎は飄々とゲーム少女を見て感想を言う。そこに心配するような感情はなさそうだ。信頼し過ぎである。
「はっ、ビームとやらは威力はあるけど使いにくいねっ」
バイクの中でも一際大きく黒い車体が空中から降りてきて憎まれ口を叩いて手に持つ銃へと文句をつけていた。
聞き覚えのある声音に、相変わらず元気な婆ちゃんだなぁと呆れる遥に降り立った大柄な婆さんはからかうように声をかけてくる。
「よお、珍しいね、あんたがそんなにヘロヘロなんて。拾い食いでもしたかい?」
それは久しぶりに出会うコマンドー婆ちゃんであった。




