344話 銀髪メイドは童話を語る
サクヤの目の前にいるのは3メートルぐらいの大きさの蠅であった。純金でできているのだろう、宝石が散りばめられた王冠を頭にのせて、見たこともない赤ん坊の頭ほどの大きさを持つダイヤモンドを尖端にのせた、これまた純金でできていると思われる杖を手にしている。
蝿の複眼は巨大にした今の姿では醜悪極まりなく、繊毛がはえた複腕は人に嫌悪の感情をもたらし、その蝿の体躯は目を逸らすに充分な不潔さを感じさせていた。
「ブブブブ、取り残されたようには見えぬな。どうやらそこそこできる人間という訳か」
口吻では人間の話す言葉など発することはできないはずなのに、ノイズのような羽音と共に嗄れた老人の声音で蝿は言う。
「だが、なまじできる人間だからこそ、余は哀れに思う。こうしてここに残ったからには、余の子供を植え付けられる苗床となるのだから」
せせら笑うその醜悪な蝿を見ながら、平然と動揺も見せずにサクヤも冷たい視線で口を開く。
「蝿の王ベルゼブブ。わかりやすい敵ですね。貴方はベルゼブブと名付けました。七人の悪魔王の一人、暴食を司ると呼ばれる新訳の方ですね。人に堕ちたる旧き神ではなく」
「そのとおりよ。余はベルゼブブ、悪魔王が一人にして暴食を司るモノ。汝は余に出会った不運を呪うが良い」
手に持つ杖を大袈裟に振り、自らの紹介をするベルゼブブ。わかりやすい悪魔王にして、昨今では常に漫画や小説で強敵として扱われていた。まぁ、探偵にこき使われている話もあったが。
とかく蝿というのは嫌悪感しか生まない。よくもこれだけ気持ち悪い姿に作られた生物だとサクヤは冷淡にその様子を眺めて思う。
醜悪にして、人の汚物に纏わりつくその姿は昔の人にとっては、さぞ物語にしやすかっただろう。
ベルゼブブにはもう一つ、最も旧き名前があったが、そちらの概念はもっていないと確信する。
なぜならば、たった今そう決まったからだ。迂闊なる無知なる敵へとサクヤはスカートをソッと摘み、再度のカーテシーにて応える。
「私はしがないメイドです。ただ家事が得意なだけのメイドですが、ご主人様にここを任されたので、多少の掃除をするつもりです」
家事が得意なだけとの自己紹介をご主人様が聞いたら、すぐに家事をしたことないでしょとツッコミをしてくれるだろうと内心で思いながら、その表情は冷酷に相手を凍らせるような視線でベルゼブブへと告げる。
ベルゼブブは、その蝿の頭を傾げて、可笑しそうに嘲笑う。随分と自信に満ちた自己紹介だと感じたからだ。
「ブブブブ、これは嗤えるな。たしかに人の身にしては力を感じはする。だが、余の力がわからぬとは哀れなものよ。哀れなる人間に慈悲を与えようではないか」
たしかに多少の光は感じはする。蟻共にとっては致命的かも知れぬが、自分にとっては相手にすらならない。力の差は歴然としており、手加減せねばこやつは死んでしまうだろうとベルゼブブは考えた。
「殺してはここでなにが起こったのかわからぬしな。いったいぜんたいなにがここであった? なぜ我が創造主様に任された生命の樹が枯れ果てている?」
「あら、それは貴方の監視が雑だったからではないでしょうか。あちらこちらにいた蝿はある程度の力を感知したら主人に知らせるシステム。あとは……そうですね、その先程から認識できないレベルの羽音による精神支配系の攻撃といったところでしょうか」
サクヤは先程打ち倒した蝿を見て、その任されていた命令を看破する。ご主人様なら使えないドローンだと呆れ果てるだろう。悪魔王という名の癖に随分としょぼい技しかない模様だ。
だが、ベルゼブブはサクヤの弁を聞いて、多少なりとも杖を持つ手を強く握りしめ警戒度を上げる。既に精神支配系を会話と共に使っていたのが看破されたのだ。それは脆弱な人間ではあってはならぬ力であった。
「なるほど、余の力を跳ね除ける程度にはあるわけか。よろしい、相手になってやろうではないか」
油断を捨てて、目の前の敵を眺める。見えている相手の力と、その奥に眠るだろう力が合わないと推測したからだ。その力を見極めんと目に力をこめていく。
そんなベルゼブブへと淡々とつまらなそうにサクヤは告げる。手に持つ布切れを弄びながら
「暴食を司る悪魔王ベルゼブブを退治せよ! 経験値はそうですね……ご主人様と相性が良さそうな弱い敵なので65000としたいところですね。まぁ、今回は私が倒してしまうんですが」
「なにを言っている? 余を退治せよだと? ふん、余を倒せる者などこの世におるわけがない。創造主様すら、余には敵うまい。しかも弱いと言ったな、小娘!」
目の前のメイドが口にした言葉の意味は半分もわからなかったが、自分が侮られているのは理解できた為に怒気をこめた発言をするベルゼブブ。
ゲームのような発言に人間ならばなんだろうと不思議がるが、ベルゼブブがこの世に発現したのは崩壊後であった。そのために知識は語られ始めた近代の少し前まで持っていたが、そこで止まっており、ゲームなどは見たこともなかったし、目の前にあっても気にしないことだろう。
そんなベルゼブブを馬鹿にするように、からかうようにサクヤは告げる。
「無知なる貴方ではわからないでしょうね。今の発言をご主人様が耳に入れたら色々と推測されてしまうと思いますが……それでも気にはしないでしょう」
ふふっと妖しく笑いながら、目の前のベルゼブブと対峙する。そろそろ戦いに移行する時だ。戦いになればですが。
「人間よ……余の力を見て驚き怯え、そして後悔せよ。我が名はベルゼブブ、暴食を司る魔界の悪魔王よ!」
「では私はこの布切れで戦いましょう。布切れの力を見て驚き怯え、そして後悔なさってくださいね」
凄みを見せて、人間ならばその威圧に押し潰されて正気を失うだろうベルゼブブの声は、しかしてサクヤには全く効く様子はなく、平然として恐怖の色を見せることはなかったのであった。
◇
ベルゼブブは敵の力を測れないことに内心で苛立ちを隠せなかった。悪魔王たる自分の力をもってしても、か弱い光を放つ人間としか認識できないのだ。
今までの会話の中で、何度か精神干渉系の力を使ったが、目の前の人間はその影響下に入ったようにはとても見えない。それどころか、こちらを明らかに侮っている様子だ。
悪魔王に対して、その態度は不遜であり信じられないことであり、それはまさかとは思う可能性を指し示していた。
ならばこそ、先手をうち敵の力を測ろうとベルゼブブは僅かに腰を落とすと、一気に羽根を動かして高速での突撃を仕掛ける。
僅かにブンとノイズのような羽音が部屋に響いた瞬間には、ブレるようにその姿は消えて、一瞬の間に人間の目前へと間合いを詰めていた。
しかしベルゼブブは慎重でもあった。最悪のパターンが頭によぎる中で直接相手への攻撃を仕掛けるのは危険だと本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
そのために、狙うは相手の腕へと攻撃を仕掛けるが、直接腕に攻撃を仕掛けるのは止めて、音速での刃を振り抜く腕から生み出して敵を斬り裂かんとした。
見抜いた力が、あの程度ならば簡単に斬り裂くであろう。人間の英雄たる者が持つ聖なる鎧すら自分には紙切れ同然の装甲である。ならばこそ、あのような力を感じぬ服装などあっさりと斬り裂き、腕は切り飛ばされて人間の悲鳴が響くはずであった。
鉤爪を振り、その衝撃波は刃へと変換されて、にこやかに微笑みながら反応を見せない人間へと撃ち出していく。
敵が目前に迫っても反応しないその様子からハッタリであったかと内心で安堵の息を吐いたベルゼブブであったが、斬り裂くであろう衝撃波の刃の先を見て思わず驚きで唸る。
「なにっ!」
昆虫たる複眼でいかなる動きも見逃さんとしていたベルゼブブであったが、死をもたらす刃は人間の目の前にいつの間にか盾となって現れた布切れに遮られ、衝撃波もあっさりとそよ風を受け止めるが如くに受け止められたのだ。
しかも布切れは僅かにふわりふわりとなびくばかりで、斬り裂くどころか、吹き飛びすらしなかった。
「ただの布切れではないということかっ!」
ベルゼブブは布切れがいつ人間の前に現れたのか感知できなかった。昆虫の複眼はいかなるものでも、どんな速さを誇っていても見逃すはずがないというのに。
尋常ではないと悟ったベルゼブブは、すぐさま羽根を広げて高速で人間の周囲を移動しながら四本ある前腕の内、杖をもたぬ三本を振っていく。
人間の左へと瞬く間に移動して、左腕を数回ふるい衝撃波の刃を撃ち出す。そのまますぐに蝿の動きによって、高速で人間の後ろ、右、そして上空を旋回しながらどんどん撃ち出す。
ベルゼブブの魔界王たる力をもってしてのその動きは音速を超えて、されど超常の力にて衝撃もなく、音速での壁も無きものにしていた。ただ、羽音が部屋に響き渡り、周囲を衝撃波の刃で囲まれて襲われる人間がいるのみであった。
だが、その全ての攻撃はいずれもいつの間にか現れた布切れにより、フワリと抑えられる。ふわりふわりと布切れがなびき、周囲を浮くだけであった。
「風をまき起こすだけですか? 今日はそれほど暑くないので結構です」
からかうような声音での人間の発言に、ベルゼブブは布切れを、手に持つ杖で指し示して聞いてくる。
「その布はなんだ? ……ただの布ではあるまい。動かす様子も無いのに、まるで防いだという結果だけが残ってるように見受ける」
不自然すぎるその布を見てベルゼブブは言う。動かした瞬間は目に入らないのに、既に刃は防がれているという現象だけが残っていた。あまりにも不可思議だ、自分の複眼でも見えない速度で動いていると思うより、まったく別の摂理が動いたように見えるのだ。
蝿でも警戒しているとわかる声音だ。その声音には先程と違い恐怖の色も垣間見える。攻守が入れ替わったとサクヤはベルゼブブを見ながら教えてあげることにする。
「わかりませんか? この布切れの正体が」
挑発するような声音での語りを始める。
始めてあげよう、私の童話を。
聞かせよう、貴方の運命を。
魅せてあげよう、ワタシの騙り部を。
サクヤは歌うように、その涼やかな声音で語り始める。手に持つ布切れをヒラヒラと動かして
「この布切れは一打ちで七匹倒した仕立て屋の布切れに見えませんか? 知っていますか、不思議なる布切れを」
その声に釣られるように、ベルゼブブは応答する。
「くだらん人間の逸話だ。ジャムにたかっていた虫を手に持った布切れで殺そうと振り下ろす。そして一打ちで七匹を倒して喜んだ知恵者の話だ」
「そうですね。よく知っていますね。さて、仕立て屋は布切れで一打ちで七匹の虫を倒したことに喜び、それまでの暮らしを捨てて旅に出ます」
サクヤは布切れを舞うように振り回して、その影に身体を隠す。なぜかそこまで大きな布切れではないのにサクヤの姿はチラつくように消えていく。
「勘違いした仕立て屋だが、その後の巨人やらをその誇大表現と、よく回る口先で追い払っていった。周りの馬鹿な者たちは皆勘違いをして騙されていったのだ。そうして最後は王になるのだろう。それがどうしたと言うんだ!」
苛つきを隠さずに、力を練りながら、なぜこの人間は語り始めたのかと首を傾げて不思議に思う。そんな戯言よりも、あの布切れの正体を知らなければならぬ。
だが、飄々とサクヤは話を続けていく。まるでお話好きの少女の如く。可愛らしくて、そして妖しく周囲へと聞かせるように。
「不可思議なるお話です。なぜ巨人は騙されたのでしょうか?」
布切れはふわりふわりとベルゼブブの目を奪うように舞っている。
「なぜ力比べの者は口先だけで負けたからとひいたのでしょうか?」
その涼やかな声は、張り上げることもないのに耳に入っていく。
「どうして教養ある王族が無知なる仕立て屋の話に騙されたのでしょうか?」
ベルゼブブはその話を聞いて、自身も不可思議に思い始める。そうだ、たしかにおかしい。
「人間など一うちで殺せる巨人たち。力比べをしていた者。それらはただの一度も仕立て屋を殴ろうとは考えませんでした。王族すらも一打ちで七匹を倒したという仕立て屋を疑うことはしませんでした」
「……たしかにな。だが、それがなんだというのだ? 貴様の持つ布切れの秘密でも語るのか?」
話の流れを察してベルゼブブは答える。たしかに凶暴な奴らならばこそ戦いを挑むだろう。教養を持つ王族ならばこそ、その話に疑いを持つだろう。
だが目の前の人間が言うとおりに、仕立て屋は国王まで成り上がっている。結果だけがおかしいのだ。
「ふふっ、そうです、そうなのです。もしかしてこうは思いませんでしたか? 無知なるは仕立て屋で、本当の力を周りは知っていた」
サクヤはベルゼブブがその問いを求めるように、こちらの話を最後まで聞くことをした、その姿勢を見て嘲笑う。これで悪魔王とは、創造主とやらも、たかがしれている。
「一打ちで七匹? やってみればわかると思いますが、仕立て屋の布切れで集っている虫を倒すなんて無理なんです。振ってもふわりふわりと浮くだけの布切れではとてもとても虫を倒すなんて無理なんです」
クスリと笑う人間へとベルゼブブは嫌な予感をさせながら、身体に冷たい芯ができたように話を促す。
「ではいったいぜんたいなにを仕立て屋は使ったんだ? なにを仕立て屋は勘違いしたのだ?」
「そうですね。仕立て屋はいったいなにを倒したのでしょうか? 七匹という暗喩を知っている人々はその力を見て、本当に恐れていたのでは?」
パッと布切れを広げるように眼前で持ちながら、最後の締めを伝える。
「本当は仕立て屋は凄かった。七罪を打ち倒せるその姿に人々は恐怖した。そう、その答えはこの手の中にあります」
スイっと目の前に泳がせるように布切れを見せて告げる。
「この布切れは一打ちで七匹の力を持つ悪魔を倒した。私は製作する際にそう名付けました。貴方はどちらを信じますか? 仕立て屋は知恵者で、周りが勘違いしていたのか? それとも知恵者は周りで、仕立て屋は自分の力を弱いと勘違いしていたのか?」
冷酷なる視線をベルゼブブへと向けて、その最後を歌うように尋ねる。
「さて、暴食なる悪魔王。貴方はどちらを信じましたか? それでは今から振られるこの布切れの力を見て、このお話は終わりとしましょう」
ベルゼブブは練っていた力を解放しながら、周囲に瘴気を覆わせながら、怒鳴るように答える。
恐怖した己を鼓舞するように。
目の前の布切れはただの布切れであると己の心を誤魔化して。
「面白い話だった! 礼は貴様の死をもってして報いよう!」
黄金に輝く杖をサクヤへと向けて、黒きオーラを生み出して、超常なる全てを喰らい尽くす自らの必殺技をもってして。
「貪り喰われろ! 余の黒き光によって!」
黒き光が部屋を覆い、何物をも喰らい尽くす凄まじい力が暴風のごとく撒き散らされようとして、すぐにその光は力を発することもなく消え去った。そして少し後に静寂が戻る。
「どうやら貴方は強い仕立て屋を思い浮かべたのですね。一打ちで七匹。決して逃れることのできない一撃を予想したのですね」
静寂を打ち破るのはサクヤであった。銀色の美しい髪を白魚のような手のひらで繕いながら佇んでいた。
サクヤの目の前には消え去り浄化されていくベルゼブブがあった。断末魔の悲鳴もあげることはなく消えていく。
「他人に名付けられて肯定するなど悪魔王の名が泣きますよね。悪魔が真名を大事にしている理由、それは観測者に自らの力を定められてしまうからなのですよ。それが不安定な存在であればなおのこと。紙ならぬ悪魔ではこの程度でしょう」
つまらなそうに冷酷に、その銀髪の美しいメイドはカーテシーにて敵の最期へと挨拶をするのであった。




