SIRIUS
歩行者信号の色が変わるのを待ち呆けていた一人の青年が、街頭の屋外ディスプレイ広告から流れる聞き慣れた歌声に気づき、思わず頭上を見上げた。
新宿のど真ん中、十五秒のCMで一日十万円。リリースの二週間前から打っているとすれば広告費は百万円越え。そう言えばここに来るまでの駅中にも大々的に壁面広告が展開されていた。スマホCMの方が見る機会が多い時代で費用対効果がはたしていかほどの物なのか彼には想像できなかったが、端的に「こんなに金をかけられるくらいこの人たちは売れている」という印象を持たせることが本来の目的なのだろうと悟った。
歩行者信号が青に変わる。それでも青年はディスプレイ広告に映る一人の男から目が離せなかった。見慣れた横顔、耳馴染みのあるファルセット。つい三か月前まで共に活動していた同期が、明日CDデビューする。
共にデビュー前の入所歴最長を更新してきた戦友とも呼べる彼の口からその話を直接聞かされたのは、事務所から各メディアに向けて公式の告知があった三日後だった。単刀直入に「おめでとう」と言うと、隠しきれない喜びを滲ませた申し訳なさそうな顔で「類人に言いづらくて。ずっと隠しててごめん」と謝られた。デビュー前の新星アイドルの顔に拳をめり込ませなかったのはプロ意識のおかげだ。そこは素直に「ありがとう」だけでいいだろうが。それ以来二人はぎくしゃくしてしまい、まともに顔を合わせていない。そもそもあっちがプロモーションの取材やら撮影やらで忙しすぎる。
街頭広告で久々に顔を見た戦友は、まるで知らない人のようにキラキラしていた。『キラキラ』なんて陳腐な表現だが、それ以外に見合った言葉が見当たらない。海外で活動する有名作曲家から提供されたデビュー曲は地上波ゴールデンタイムのドラマ主題歌で、メンバーの一人が初主演を飾るらしい。さらに両A面のもう一曲は国民的洋菓子メーカーとのCMタイアップときた。一生に一度のデビューには最高にお誂え向きな仕事だ。とても『キラキラ』している。
一方で類人は、今日も今日とて実家とレッスン場を電車で往復し、休憩室で日課である公式ブログの原稿三百文字程度をまとめるといういつもの日常を生きる。明日は先輩の主演舞台の通し稽古だ。見せ場は幕間の口上だけで、去年まで務めていた台詞のある役は勢いのある後輩が担当することになった。あの街頭広告と自分を比べることすら烏滸がましい。
人が行き交う道のど真ん中でぽつんと立呆ける青年を、周囲の歩行者は邪魔そうに避けて歩く。たまに肩をぶつけられたりしたが、彼は金縛りにあったようにその場から動けずにいた。
羨ましいとか、妬ましいとか、そういう類の感情ではない。ただ空虚だった。入所十一年目、長くなるだけで中身の伴わないの芸歴、来春に控える大学の卒業、就活に勤しむ同級生、あなたの好きにしなさいと言ってくれる両親。宛がわれた環境で自分がどうすべきなのか、ずっと答えを見い出せずにいる。
すると、立ち竦む青年の手を誰かが取った。急に戻ってきた意識が目の前の人物を認識するまで数秒の誤差が出る。
天使のようだった。天使を実際に見たことはないが、美しい天使を描きなさいと言われた美大生の十人中四人くらいはこういう造形で描きそうだな、と思うような優れた容姿だ。
青年よりも年下のわりには十センチも高い位置にあるしゅっとした顎、カラコンじゃない天然物のマリンブルーの瞳、目鼻口のどれかが数ミリズレていただけで平凡な顔になっていたかもしれない奇跡の顔面比率。
「もう、類人さんってば。信号変わっちゃうよ?」
そう言って手を引いて歩き出した天使につれられて、四ノ宮類人は歩き出した。そうだ、今から二人で一緒にレッスン場に向かうのだった。これじゃあどちらが飼い主かわからないなと心の中でぼやきながら、類人はリードを握るような気持ちで繋がれた手に力を込めた。
四ノ宮類人は時価3000億円(仮)の犬を飼っている。
アメリカと日本のミックスで十七歳、身長190センチ、体重65キロ、毛並みは天然プラチナの大きな立ち耳。
天真爛漫で大らかな性格だがご主人第一主義の超高級忠犬。顔面力もかなり高い。
食費は自分で稼いで来るし散歩も一人で勝手に行けるが、高級料亭よりも類人と並んで食べる立ち食い蕎麦が好きだし、リードに繋がれていたとしても一緒に歩く散歩の方が嬉しくて、大きな尻尾がぶんぶんと揺れる。
好きな食べ物は肉、特技はダンス、嫌いなものはセクハラおやじと嫌味なプロデューサー、将来の夢は類人と一緒にCDデビュー。
この時価3000億円(仮)の犬は、ルーナ・月・ハミルと言う。日本の芸能事務所で夢に踊る、類人と同じアイドルの卵だ。
* * * * *
「類人さんは、僕の一番星なんだ」
先輩のバックダンサーとして呼ばれたテレビ局の廊下を歩いていただけで関係者の目に留まり、世界的な有名コスメブランドのモデルに選ばれたルナールは、おこぼれで同じ仕事を貰った類人と一緒に件のイメージビデオの撮影を終えた帰りに、バチバチメイクが残る彫刻顔でそんな妄言を吐いた。
夢うつつに語る表情は夜明け前の残星のように儚く綺麗で、類人は自分について語られていることに全く現実味が沸かなかった。
ルナールとは、類人が考えた『ルーナ・月・ハミル』を並び替えたあだ名だ。「類人さんが付けてくれた!」と興奮した様子で社長室に駆け込んでそのまま芸名にしてしまったのである。芸名は後から変えようとしてもネットニュースで軽く弄られたりするので大切に決めなければならないのに、類人は若気の至りに恐れ入った。
絶対に日本語を使いたい純日本人の母親VS代々襲名してきた名家の由緒正しきロイヤルな名前を付けたいアメリカ人の父親の果てない論争は月を月と読むことで平定されたらしい。その辺の匙加減は類人にはよくわからなかったが、彼の名前にも『人間だから人類を反対にして類人』なんてダジャレのような由来がある。年頃になってからは「人類を反対にしてしまったらそれはもはや人間ではないのでは……?」と、この世の真理に足を突っ込みそうになったこともあったが、何やかんやで思春期を乗り越えてスレずにここまで成長した。
ルナールは、日本の男性アイドルグループが名を連ねる老舗芸能事務所『ORION』の社長である百合子が、知人の付き合いでアメリカの企業パーティーに参加した際にほぼ拉致同然で日本へ連れて来た、言ってしまえば社長のスペオキ、スペシャルお気に入りというヤツだ。主催者だったハミル財閥の御曹司ということで紹介を受けた瞬間にビビッと雷に打たれたらしい。
骨格の定まらない少年たちの十年後の姿が見えるという百合子の審美眼は、ルナールが将来齎すであろう日本のアイドル産業への年間経済効果を3000億円と仮定した。言わば幻の金鉱山、人間国宝の職人の手元にやって来た原石、アイドル業界の至宝なのである。
当事者であるルナールはどういう訳か百合子の話に物凄く乗り気で、親の心配を余所にあれよあれよと言う間に入所契約書にサインをし、ブラックカードを一枚持って軽快に日本に降り立った。オリオンの初代社長が理事長を務める芸能人ご用達私立高校で留学ビザを取り、超人的なスタイルであるがゆえに似合わない学生服を着て東京の街を歩く彼は、何を隠そう生粋のドルオタなのである。
教育に厳しい親の目を盗んでアメリカの自宅から日本人男性アイドルのコンサートDVDを輸入し、自作のファンサうちわと公式ペンライトをテレビの前で振り回しながら尊いと涙を流して七年。立派なドルオタ御曹司に成長したルナールにとって、百合子との出会いはまさに天啓だったのだ。
そんなルナールの最推しが、どういうルートを辿れば行き着くのかとことん謎を極めたが、入所十一年目、特筆すべき活躍もなければスキャンダルも特になし。歌も容姿も平凡で突出した個性が見当たらない無個性の極み、アイドルとしては致命的だが努力の量だけは誰にも負けない、四ノ宮類人二十一歳なのであった。
「俺、類人さんと一緒じゃなきゃアイドルやりません」
冒頭より一か月前の話である。
常に最新のエンタメを求め世界中を飛び回る神出鬼没な百合子社長に珍しく呼び出されて戦々恐々としていた類人の前で、駄々を捏ねる子どものようにきっぱりすっぱり言い放った美しい少年に、渦中の本人は密かに絶望に打ちひしがれた。
百合子が直々にスカウトした金の卵の噂は既に事務所の内外で大きな話題になっていて、そんな彼からの突然のご指名は見方によればチャンスと言える。デビュー前の若いタレントが犇めくオリオンで頭一つ抜きん出るために、社長のスペオキであるルナールの突拍子もない提案はまさに鶴の一声と成り得るだろう。
しかし類人は知っている。本人や事務所の意向がどうであれ、外部の人間の手が加わったマーケティングにはわかりやすく『格差』が用いられる場合があることを。センターの一人を輝かせるためには、本人に努力をしてもらうよりも周りを下げた方が簡単で効率的なのだ。アイドルは産業なのだから、そういう側面があったとしても仕方がないと理解はしている。そして一度作られた『格差』は長い年月を経ても完全に拭い去ることが難しい。
類人は察した。この金の卵の経済効果を最大限に捻出するために、自分が『下げられる側』に回される未来を。そしてそれが、自分の人生において回避不可の負けイベであることを。
彼の危惧を唯一理解してくれたのは、長年類人のマネージャーを務めている藤本多嘉司ことタカちゃんだった。齢三十五、彼自身もかつてオリオンでデビューを目指し研鑽を重ねた一人だったこともあり、真面目に努力を続けても中々チャンスに恵まれない類人に自分を重ねている節がある。
大型新人の気まぐれと社長の圧力が蠢く災禍のような空気の中で「類人はほら、大事な時期だし、無理に受ける必要はないからな」と青い顔で言ってくれた。
タカちゃんが言う大事な時期というのは、オリオンの雇用形態に関することだ。毎年当たり前のように更新してきた長ったらしい雇用契約書の中段には『甲が満二十二歳になる年、乙は甲の意思に関わらず雇用契約の更新を棄却することができる』と書いてある。つまり、二十二歳までにデビュー出来なければ退所を促される可能性があるということだ。そして今年の冬、類人はその対象年齢を迎える。
この縛りは、若いタレントを大勢抱える老舗芸能事務所であるオリオンなりの『誠意』だった。雇用契約書には年齢制限の他に、学業優先、半年ごとの能力査定、事務所が推奨するボランティア活動への参加などが織り込まれている。そこには所属する一人一人がオリオン座が導く一等星になってほしいという願いと、それが叶わなかった少年たちが行き場を失わないための道標を示していた。
先の見えない夢よりも他の道を選ぶタイミングを設定し、そのゴールに向けて何にも代えがたい十代の輝かしい時間を費やす。その結果夢を掴み取る者、もしくは燃え尽き症候群のようになり対象年齢を迎える前に自ら芸能界を去る者、群雄割拠のオリオンに見切りをつけ別の芸能事務所に移籍する者、そんな様々な若者がいる中で、類人のように静かに二十二歳を迎えようとする者は珍しかった。
答えを探しあぐねている類人に、百合子はスリットが入った魅惑的な脚を組み替えてはっきりとこう言った。
「歌が歌いたければ歌手を目指すべきだし、踊りが好きならダンサーだっていい。J-POPに拘る必要がないなら海外に渡るのも一つの手よ。それなのにあなたたちがなりたいって口を揃えて言うアイドルって、一体なぁに?」
――アイドル。神像、偶像、崇拝の対象、実体のない虚像。
誰かの一等星になりたかった。
地上から肉眼で見えるシリウスのように、たった一人でもいいからその人を照らす光になりたい。
きっかけは何だっただろう。国語の授業で音読が苦手だったことか、給食を食べるのがクラスで一番遅かったことか、それとも実家が花屋だったことを「おとこのくせに」と同級生から揶揄われたことか。何だかよく覚えていないが、そこまで重要な理由ではなかった気がする。苛めというほど陰湿な害はなかったが、クラスメートから徐々に無視されるようになった類人の幼く柔らかい自己肯定力は、孤独に貪られていった。
友人ができず、孤独を甘んじて日々を過ごしていた少年は、家でテレビを見る時間が多かった。流行りのアニメも見飽きてしまったし、夕方のニュースは小学生にはつまらない。壮年のニュースキャスターが時事を読み上げて、若く溌溂とした女性アナウンサーにカメラが切り替わったあたりでチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばした時、その出会いは突然訪れた。
『あなたの一番星になりたいんです』
人気アニメの主人公や、朝のヒーロー戦隊のレッドのような輝きを放つ男が、スワロフスキーが散りばめられた眩い衣装を纏いながら、その荘厳な命の煌きに見合わないほどの汗を額から流して、涙ぐみながらマイクを持って喋っている。それは、ツアーファイナルを迎えた男性アイドルグループのステージ挨拶だった。
正面のカメラに向かって真摯に発せられた言葉は、まるで画面を通して自分に語り掛けてくれているように感じた。意思を持って力が込められた指先がピン、とこちらを差して再び『あなた』と問いかける。類人はリモコンを持ったまま動けなくなった。
初めて、誰かに見つけて貰えた。気のせいかもしれない。自意識過剰な恥ずかしい奴かもしれない。だけど、画面の向こう側にいる彼は本気で指を差している。『あなた』だと。『あなたの一番星になりたい』と。そんなことを類人に言ってくれる人は、誰もいなかった。リモコンを持つ手に力がこもる。胸が苦しい。いつの間にかエンタメニュースが終わって地方のグルメ紹介に切り替わっていた。
店を閉めて二階の自宅に上がってきた母親が、リモコンを持ったまま直立不動で涙と鼻水をボタボタと零す息子を見てギョッとした。テレビの画面では漁師メシを頬張る芸人が面白食レポをしている。何が起きているのかわからなかった。そして普段から大人しく我儘を言わない息子が「お母さん、CDがほしい」と唐突に言い出したので、母親は二つ返事でお小遣いを持たせて、即日CDショップへ連れて行ったのだった。
その日から、類人の人生は一変した。誰かの食べカスのようにみすぼらしいものになっていた類人の自己肯定感が、憧れのあの人を追うごとに息を吹き返していく。
まず、人目を気にして伸ばしていた前髪を切った。目にかかるほどの前髪が邪魔で大好きな彼の姿がよく見えなかったからだ。たくさん食べる子が好きだと雑誌で見てからは、それまで残し気味だったご飯をお代わりするようになった。クラスで新しくリリースされたCDの話をしていた女子に勇気を持って「僕も買ったよ」と話しかけたら、それまでの苦労が嘘のようにあっという間に話の輪に入ることができた。
接する友人が増え、新しい物事に興味を持つようになり、自分が生きていると実感する。あの日偶然見つけた一番星を道標に歩き始めた類人は、初めて世界に色が着いて見えたのだ。そしていつの日かこう思い始めた。
――自分も、寂しい思いをしている誰かを導く星になりたい。夜空を見上げたら必ずそこにあるシリウスのように、一番輝く一等星になりたい。
結果的に類人は、ルナールの提案を受け入れた。例え自分が思い浮かべていた立場に置かれないとしても、何より優先すべきはデビューだと考えたからだ。年齢的にも、きっと最後のチャンスになる。この手を取ってどんな血反吐を吐こうとも、その先が夢に繋がっていればそれでいい。そんな覚悟で手を握り返した類人にルナールは年相応に笑って「じゃあ、衣食住のお世話もよろしくね」と爆弾を落とし、きらりと光るブラックカードを差し出した。
単身日本に降り立ち住所不定のルナールが類人の犬と呼ばれるようになり、一階に花屋を構える3LDKの家に居候し始めて早半年。高校生の年頃の妹は、突然一つ屋根の下で暮らし始めたのハーフ美男子に「これが少女漫画なら確実にあたしがヒロインだわ」と、さっそくメロっている。
ちなみに生活費として渡されたブラックカードは使うには恐ろしすぎて、丁重にお返しした。そのせいで大したもてなしはできていないが「これが類人さんが育った家!」「これ!雑誌で言ってた類人さんとお父さんが大喧嘩した時にできた壁のへこみ!」「どっひゃ~!これって類人さんが参加した幻のデモ曲音源、『☆男組』じゃん!」など、一人で大変盛り上がっているので、とりあえず問題はないらしい。
一変した目まぐるしい日常を送る中で、社長の意向でルナールと行動を共にするようになった類人は、彼のポテンシャルに常々驚かされている。
十七歳入所という経歴は、事務所の特色からすると少し遅い方だ。しかしルナールは、持ちうる才能の全てで周囲の色眼鏡を叩き割った。アメリカのダンススクールに通っていたらしく、日本人にはあまり馴染みのない表現力は一層目を惹いたし、ボイトレを始めてからの成長ぶりは目を見張る物がある。特に高音域が素晴らしい。試しに類人が下ハモに入ってみると、二人の歌声は質が似通っているのか、効果的に耳に残った。演技も怖い物知らずで、海外仕込みの大胆な表現力に外部の演出家が急遽台本を作り直したくらいだ。
類人や、同じようにデビューに向かって日々精進を重ねる若いタレントたちは、ルナールを見て悟った。これからオリオンの歴史が変わる。デビュー前の年若いタレントを大勢抱えたオリオンに、才能が努力を淘汰する新しい時代が来る。それを席捲するのがルナールであることは、誰が見ても明らかだった。
そして類人にも、その新時代の波が打ち寄せている。ルナールと仕事を共にするようになり、彼を取り巻く環境に少しずつ変化が訪れた。
まず、類人が事前に不安視していた『格差』についてだが、案の定それは振り付けや歌割、衣装で顕著に表れた。ルナールを目立たせるだけの添え物のように扱おうとする現場監督の意図が透けて見えるようだ。しかし、それに異を唱えたのもルナールである。
「類人さんは黒よりシルバーのジャケットの方が似合うよ」
シャンパンゴールドの煌びやかなジャケットを羽織ったルナールに対し、厳ついが輝きに負ける黒いライダースを類人に差し出した衣装スタッフを、彼がやんわりと制したのだ。当たり障りのない適当なスタイリングをするメイクスタッフに「僕がやる。類人さんは前髪を上げた方がかっこいいんだ」と言って仕事を掻っ攫い、ルナールにばかり話題を振る雑誌の取材班にはしこたま「類人さんのここが素晴らしい」という話を延々と聞かせる。単独の仕事は全部蹴っていた。「僕は類人さんとしか仕事をしないんです」というスタンスを、ルナールは貫き続けた。その姿はまさに『類人の犬』そのものであった。
するとどいう現象が起きるかと言うと、二人は『格差売り』から『セット売り』にシフトチェンジされていったのだ。幸いにも地道に活動を続けていた類人にもけして多くはないが一定のファンが定着していて「やっと世界が類人君に気づき始めた!」と声高らかにルナールに同調し、二人の布教活動が加速した。
デビュー前のタレントが歌う歌番組でのソロが増え、ダンスでは端から二番目の立ち位置だったのがルナールと共にセンターを任されるようになり、ついには朝の情報番組内で二人の単独MCコーナーが始まった。予想外の舵取りに困惑する類人に「全部類人さんが頑張ってきたからだよ。僕も本当に嬉しい」と言って、ルナールは二人で連載を持つことになった雑誌のアンケートを楽しそうに埋める。周囲からはデビューも秒読みなのでは、と囁かれはじめていた。
ルナールに選ばれてから、全てが順調すぎた。今まで浪費してきた時間はこの時のためにあったのかもしれないと思うほどの幸福を、類人は享受している。そう、享受だ。自分の力で掴み取ったものではない。全てルナールが齎した奇跡で、そこに胡坐を掻いているだけでは自分が目指す場所に辿り着けないとわかっているからこそ、類人は焦った。このままでは、一番光り輝く一等星にはなれない。
そして二人が出会って一年が経とうとしていた冬のとある日。例のブランド化粧品のプロモーション撮影が終わった移動車の中で、ルナールは唐突に冒頭の告白を始めたのだ。
「類人さんは、僕の一番星なんだ」
仕事がひと段落してあとは家に帰るだけだった二人は、タカちゃんが運転する車から降りて少し歩くことにした。東京は昨日初雪を観測して、空気が肌を指すように冷たい。日付が超える直前で人通りもまばらになった郊外の街中を歩く二人を振り返る人はいなかった。
モッズコートに首を埋めながら「寒いね~」なんて言いながら歩くルナールは、どことなく覇気がない。そんな当たり障りのない話よりも、類人は聞きたいことがある。
どうして、数多いるアイドルの中でルナールのお眼鏡に叶ったのが自分なのか。遠いアメリカの地からどうやって光の届かない底辺で藻掻く自分を見つけられたのか。立ち止まってばかりだった自分にルナールがいつもしてくれたように、類人はポケットに深く突っ込まれた彼の手を引いて歩き出した。類人の行動に驚いたルナールは繋がれた手を弱々しく握り返して、ぽつりぽつりとこの奇跡の経緯を語り始めた。
きっかけは、母親の遺品整理だった。七年前にパンデミックに見舞われた世界で、ルナールは母親を失った。若齢ではあったが持病が悪さをして、発病してから一週間と持たなかったと言う。
物言わぬ冷たい棺を前にしても何一つ実感がわかず涙すら流さない少年を、周囲の大人は気味悪がって「悪魔の子だ」と囁いた。そんな幼いルナールの周りで、たくさんの家族がそれぞれの大切な人に同じように土をかける。そういう悲しみに、世界中が包まれていた。
気持ちの整理をつけるために母の遺品を整理していると、古びた箱にしまわれた年季の入ったCDを見つけた。サブスクが主流の時代であまり興味のなかった円盤が珍しくて、しかも母親の母国語で書かれたタイトルがいっそうルナールの目を惹いた。ケースの表面についた擦り傷の数を見るに、だいぶ長い間持ち続けたものであることは明らかだった。嫁入りの時に日本からアメリカにわざわざ持ってきたのであろう。
母親よりも若く見える男性三人組が誰なのかを、ルナールは知らない。興味本位でCDに記載されたグループ名をスマホで調べてみると、『Idol』という単語が出てきた。アメリカではあまり馴染みのない表記に、母親が危ない宗教にでも嵌っていたのかと恐ろしくなったルナールは、日本語訳にしてSNSの検索欄で調べてみることにした。
日本、アイドル。ドキドキしながら虫眼鏡マークを押して、表示を新着順に切り替える。そしてトップに出てきた新曲の宣伝をするCDショップの投稿の二つ下で、二人は出会ったのだ。
「類人さんが家のキッチンでいちご飴を作るだけの動画だった。ヤバイ動画でも出てくるのかと思ってたから、拍子抜けしちゃったよ」
コメント欄もグッドボタンもない閑散とした画面の中で知らない日本人がただいちご飴を作るだけ動画を、十歳のルナールは不思議に思いながら眺めた。苺を洗って乾かしている間に誰も聞いていない近況を話し始めたり、煮詰めていた砂糖が焦げててんやわんやしている。
これが、アイドル?一体何を見せられているのだろうと思い動画を消そうとした時、いちご飴が完成して画面が切り替わった。
『皆さんは、お家時間をどう過ごしていますか?』
自分で作ったいちご飴を食べながら問う日本人とルナールが画面越しに見つめ合う。
母親が死んで、感染症の影響で碌な見送りもできず、まるで面影を探すように遺品整理をしていたルナールは、海を越えた先でアイドルとやらを名乗る類人と出会い、この世界で一切繋がりのなかった男の、ただいちご飴を作る動画を眺めている。おそらく国から外出規制が公布され時間が有り余っていなければ、二人が出会うことはなかっただろう。
『今は気軽に会うことができないけど、みんなが健康でいてくれることが俺たちアイドルの幸せです』
メイクもヘアセットもしてない、まるでプライベートのような動画。それでもファンについて語る姿はキリストも唸るくらいの博愛主義者のように見えた。ルナールは別にアーメンとは唱えないのだけれど、なぜかこの東洋人から目が離せないでいる。
パリパリと音を立てていちご飴を食べる類人は、格別に顔が良いわけでも素晴らしい声を持っているわけでもなかった。エンターテイナーを名乗るくらいだから当然見目はそれなりに整っているけど、唯一無二の特別な何かを持っているようには見えなかった。それでも、なぜだか見てしまう。
『全然会えなくて寂しいよね?俺も寂しい。でもね、世界中にはもっと辛くて悲しい思いをしている人たちもたくさんいるんだって思ったら、俺たちがエンタメを止めるわけにはいかないなって。感染予防ももちろん大切だけど、俺たちみたいなアイドルって存在が必要な人もきっといると思うから』
ルナールは思う。
アイドルって、何なんだろう。
人がバタバタ死んでる世界に本当に必要なものなのか?
『泣きたいときはいっぱい泣いてさ、散々泣いた後に元気になりたいって思った時は俺たちを見て、少しでも前を向けるようになってくれたらいいな。もちろん無理してポジティブになる必要はないんだけど、みんなが苦しい時ほど俺たちは笑ってなくちゃなって。いつでも待ってるんで、気持ちの整理がついたらオリオン座を探してくれたら嬉しいです。……そういう思いで、今日はいちご飴を作りました!』
『じゃあまたね~』となんとも気の抜けた挨拶で動画は終わった。十分もない動画が終わる頃には投稿に1000ものハートマークがついていた。その内の一つはルナールである。世界の人口から見たら1000人はちっぽけな数字かもしれないが、この動画を見て救われた人が1000人いると考えたら、それはたぶん、ちっぽけなんかじゃない。
それからルナールは、何かに取り憑かれたように四ノ宮類人に没入していった。
デビュー前で碌な映像は出てこなかったが、彼が発信する公式SNSを見漁り、ファンが底なしのボキャブラリーで書いたまとめサイトにお世話になり、バックダンサーで出演しているコンサートDVDを日本から輸入してピントが合っていない場所に必死に目を凝らして彼を探した。
そして再びいちご飴の動画に戻ってきた時、ルナールは母親が死んでから初めて泣けた。
オリオン座は星を見つける基準、導き星でもある。
数多のアイドルが命を燃やして煌めく世界でルナールが見つけた一番星は世界中を包むには程遠い光だったけれど、一人の世界を救うには十分すぎたのだ。
「類人さんを見つけたのは本当に偶然で、動画の投稿が一分でもズレてたら僕は他のアイドルを推していたのかもしれない。だけど、夢も希望も前を向く力も、全部類人さんががくれたんだ。他にどれだけキラキラしたアイドルがいようと、間違いなく類人さんが僕の一番星だった」
繋いでいた手をルナールがやんわりと解く。類人はイルミネーションが光る街中を振り返り、微量なLEDの光にさえ溶け込んで消えてしまいそうなプラチナに再び手を伸ばした。だが、ルナールが類人の手を取ることはなかった。
「僕をここまで連れてきてくれてありがとう。僕の一番星になってくれて、ありがとう。これが僕が考えた最高の推し活!どう、すごいでしょ?」
ルナールが笑いながら見えないリードを引きちぎる。
類人の手からぶら下がるだけの紐が、足元でくったりと首を擡げているようだった。
嫌だ。なりふり構わず切られたリードを雁字搦めに結び直してやりたい。二度と解けないくらい固く頑丈に。だって、将来の夢は一緒にCDデビューって言っていたじゃないか。これじゃあ、まるで――。
年明け、オリオンから待望の新ユニットがデビューすることが発表された。
特に話題を呼んだのは一人のメンバーの入所歴の長さで、デビューするまでの年数で歴代最長を記録したとメディアがこぞって伝えた。
そんな彼と昨年共に活動し、アイドル業界の至宝と声高々に謳われた少年の名前は、事務所の公式プロフィールから静かに消えている。
* * * * *
「僕は家業があるからアイドルになって3000億を稼ぐことはできないけど、僕の最推しを3000億を稼ぐアイドルに育てることはできるよ」
百合子がルーナ・月・ハミルと交わした契約書には、他のタレントと交わす書式とは違う一文が添えられていた。
――契約期間、一年。以降更新されることはない。
百合子と出会った運命の日、十八歳の誕生日を迎える年に父親の会社を継ぐことを約束し、ルナールは日本へ降り立ったのだ。
何かの奇跡が起きて彼が芸能活動を続ける未来を密かに望んだ百合子だったが、結果は覆されることなく、時が来たルナールは一夜の幻のように静かにアメリカへ帰って行った。まるで満月の夜に月へと帰ったかぐや姫のようだなと思った。ついつい十二単を纏うルナールを想像した彼女はおかしくなって、ビジネスクラスの広々とした席で一人笑う。
反対側の席から「どうしたんですか」と問いかける類人に「身長190センチのかぐや姫を思い出してしまった」と言うと、彼は十年前より大人びた顔で、少しだけ哀愁を含みながら「そうですか」と微笑んだ。
何者にも成りきれず徒花のような十代を過ごした類人が、一人の少年と運命的な出会いをして大輪の花を咲かせた。誰も予想だにしていなかった未来を、ルナールが連れて来たのだ。
「全部あいつのおかげなんです」と類人はいつも語る。だが百合子の見解は違った。神様は平等ではない。人一倍努力をしている者の前にしか、御使いは舞い降りない。だからこの奇跡は、類人自身が招いた幸福に他ならないのだ。もっと胸を張って然るべきだろう。
夢に踊る彼らが紡ぐ物語は努力が呼び寄せた奇跡の連続で、だからこそ多くの人を魅了して止まないほど、儚く美しい。
「社長、あと一時間ほどでLAに到着します。そこから二時間半の休憩後、ラスベガス行きのプライベートジェットに乗り換える予定です」
「わかったわ、ありがとう」
秘書からの案内に耳を傾け、窓の外に広がる雲海に目を馳せる。日本のエンタメを世界へ。その想いでずっと走り続けてきた。三日後、奇跡の幕が上がる。百合子がずっと夢に見ていたステージだ。
* * * * *
鳴りやまない拍手と歓声、指笛。汗が止まらないほど熱い照明に照らされたステージに、類人はいた。アンコールまでのセットリストを全てやりきり、息が上がる。周りのメンバーたちも晴れやかな表情だった。
無数のサイリウムが揺らめく圧巻の光景は何年経っても新鮮味を失わず、良い意味で見慣れない。イヤモニを外して客席をゆっくりと一望し、類人は夢心地のまま最後の挨拶を告げるためにシルバーのメモリアルマイクを口元に寄せた。
「ずっと、一等星になりたかったんです」
かつての自分が救われたように、春夏秋冬いつでも晴れた夜空を見上げれば見つけられるシリウスに、一等星と呼ばれる一番光輝く恒星になりたかった。それが多くの人が求める虚像であり、無償の幸せを振りまく偶像という名の『アイドル』だと思っていたから。
「だけど今は、あなたの一番星になりたい」
奇しくも、幼い頃に憧れたあの人と同じ台詞が自然と溢れる。
類人はスタンド側に設営されたガラス越しのビップルームへ祈るように手を伸ばした。十年前に結び直すことができなかったリードは、今もこの手にぐるぐると縛り付けている。失くしたくない、忘れたくない。何者でもなかった自分を遠くの空から見つけてくれた彼のことを。
一等星には全然届かない。自分には何もかもが足りない。無我夢中に藻掻いて息継ぎすら忘れて窒息寸前だった不完全で未熟な自分を、彼は『一番星』と言った。無限に広がる夜空で幾千幾億にも瞬く星の中から自分を見つけてくれた。だから、たった一人でもいいから、あなたの一番星で在りたい。そんな願いを込めて、遠目からでも目立つすらりとした高身長の影に向かって、類人は真っ直ぐ手を伸ばした。
――週末のエンタメニュースの時間です。
――今年デビュー十周年、国民的アイドルとなった『SIRIUS』が、ラスベガスで初めての単独ライブを行いました。これはORIONに所属するタレントの中で史上初の快挙です。
――会場となった〇〇〇スタジアムは改修工事を終えたばかりで、今回のステージ設営に携わったハミルコーポレーションによれば、世界初の機構を兼ね備えた……、……――