第98話 もう一方の追跡劇
「これはもう、完全に気を失ってるわね」
グラウンドに倒れ込んだアドリスを見つめ、ルキアは言った。
声を掛けても、叩いても揺すっても、まったく反応がない。
無理もなく思った。ルキアが悶絶するほどの屁をまともに喰らって、無事でいられるはずはなかった。
かくいうルキアも、まだその鼻から洗濯バサミを外してはいなかった。アドリスの確認をする前に、彼女は入念に翼で風を起こし、臭気を飛ばした。けれど念には念を入れて、嗅覚は遮断したままにしておこうと判断したのだ。
ファズマが言うには、今回彼が放ったのはルキアと交戦した時以上の出力を伴った屁だ。少しでも嗅いでしまおうものなら、ルキアまでアドリスのように気絶してしまいかねない。
「ともあれ助かったわよ、協力してくれて感謝するわ」
ファズマを振り返り、ルキアは彼に礼を伝えた。
「あ、いや。ぼきゅは別に、そんなお礼を言われるようなことは……」
「いや、すごく助かったわよ」
ファズマは謙遜したが、ルキアからすれば彼の貢献度は大きかった。
アドリスを倒すのに手を貸してくれたことはもちろん、それ以前にもルキアはファズマに代役を頼み、屋上へと向かっていた。たまたまその場に居合わせたから、という安直な理由ではあったものの、ファズマがいなければルキアは、サンドラの救援に向かうことはできなかっただろう。
昨日の敵は今日の友、という言葉が頭に浮かぶ。
前の事件で交戦した時は、ルキアはまさかファズマと共闘することになるだなんて夢にも思わなかった。
「私だけじゃもう少し手間取ってたかもしれないし、あんたのリーサルウエポンで一気に拘束できて、学校祭に影響を出さずに済んだからね」
完全なステルス能力を発揮できる状態のアドリスは、ルキアの鼻でも追うことができない。強引に捕まえて引きずり出すことは可能だったと思うが、ファズマの手助けで手間が省けた。
下品さこそ拭えないものの、ファズマの屁……もといリーサルウエポンのお陰なのは、間違いない。
「や、やっぱり学校祭は大事なのか?」
「そりゃそうよ、私はこの学校のドラゴンガードだからね。それに……」
ルキアは、屋上のほうを見上げた。
あそこにはきっと、秋塚もレオンもサンドラも、そして彼女のホストファミリーもいることだろう。
「そ、それに? 何だ?」
ルキアは、洗濯バサミを鼻から外した。
それをポケットにしまいつつ、軽く鼻をすすりながらファズマを振り返る。
「必死で、それこそ死に物狂いで学校祭の準備に打ち込んできたやつを知っているからね。あいつの頑張りに水を差させるようなこと、させたくなかったのよ」
それはもちろん、智だった。
ジャンケンで負けて、模擬店の代表とドラゴン交通安全ポスターを兼任することになってしまった彼。それなりに負担も大きかったことだろう。
それでも智は、その役割をやり遂げた。彼の責任感と役目に向き合う姿勢は称賛に価すると、ルキアは感じていたのだ。
今日は学校祭当日、彼の努力が実を結ぶ大事な日だ。
アクシデントこそあったものの、できるだけ早く片づけて、ルキアは智に学校祭に戻ってほしかった。焼きそば屋にいる七瀬達も、智の帰りを待っているはずだった。
「なるほどな……」
やり方こそ極端だったとはいえ、ファズマもホストファミリーのために事件を起こすようなドラゴンだ。彼ならきっと、自分の気持ちも分かってくれるとルキアは思った。
何かに気づいたような面持ちを浮かべると、ファズマはその腕に着けた腕章を外し、ルキアに渡してきた。
渡してきた、というよりは返したと言うべきか。
それは、ルキアがファズマに貸したドラゴンガードの腕章だった。
「こ、これ返す。大事な物なんだろ?」
ルキアは「ああ、ありがと」と告げつつ腕章を受け取り、それを自らの腕に着け直した。
そして校舎のほうに向き直った。
流されている音楽や放送部のアナウンスが、ルキアとファズマがいる場所まで聞こえてきていた。
「さて、シェアトさんのほうは大丈夫かしらね……」
敵のドラゴンはもう一体いる。そう、パティスだ。
ここに来るまで、ルキアは自分が追っている相手がどちらなのか分からなかった。こちらに逃げたのがアドリスだったということは、シェアトはパティスを追っているということだ。
彼女の探知能力があれば、少なくともステルス能力は脅威にはならないだろう。
とはいえ、絶対に勝てると断言はできない。空手の技術を有しているようだが、シェアトはヴィーヴルだ。
ヴィーヴルはとりわけ力が強いわけでも、ルキアのように炎を吹くことができるわけでもない。探知能力と引き換えに、戦闘に役立つ特殊能力は持ち合わせていないドラゴンだ。
まだ戦いは終わっていない。すぐに、彼女の援軍に向かわなければ。校舎を見つめながら、ルキアはそう思った。
居場所は分からないが、シェアトは今もパティスを追っているか、もしかしたら今この瞬間にも交戦中なのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
自分が見ている景色は、他の人が見ているそれとは違う。
もうずっと前から、それこそきっと生まれてまもない頃から、シェアトはそれを理解していた。根拠は言わずもがな、彼女は視覚能力がないドラゴン、『ヴィーヴル』であるからだ。
水中分娩によって産まれたイルカがすぐに泳ぎ始めるように、ヴィーヴルもまた視覚に頼らずに周囲の状況を把握する能力を有して産まれてくる。彼女達の瞳は像を結ぶことはできないが、光や温度を感知することは可能だ。さらにシェアトはピアスにチョーカー、ブレスレットに腰のチャームと数多くのアクセサリーを身に着け、それらが打ち鳴る独特の音の反響を感知することによって周囲の状況把握能力を増強していた。
加えて、ヴィーヴル特有の器官、『ヴィーヴルの瞳』を用いれば、ドラゴンが周囲に発しているエネルギー、『アーク』を視認することもできる。
ドラゴンの力でも容易には破壊できない建材や、ドラゴンの咆哮をもほぼ完全に遮音する防音板を開発した実績のあるエックスブレインでも、アークを可視化する技術の実用化には至っていないとされている。なので、アークを見ることができるというのは現段階において、ヴィーヴルのみが有している能力であるといえるだろう。
そして今はまさに、彼女の能力の見せどころと言える状況にあった。
(近い、もうすぐ追いつける……!)
人混みの合間を縫うようにして、シェアトは校内の廊下を駆けていた。
彼女はベレー帽を上げてヴィーヴルの瞳を出し、自らの探知能力を最大限に発揮していた。その目的はもちろん、校内へ逃げ込んだあのドラゴン――パティスかアドリスのどちらかを見つけ出し、拘束することだった。
人の指紋が個人によって異なるように、アークもまたドラゴンによって千差万別だ。レオンが屋上にいることを突き止めたように、本来彼女はドラゴンの個人識別を行い、現在地を特定することまでできる。しかしパティスとアドリスのアークは記憶できるほど見ているわけではないので、自分が追っている先にいるのがどちらなのかを割り出すには至らなかった。
しかし、シェアトにとってそれはさほど大きな問題ではなかった。パティスだろうとアドリスだろうと拘束すべき相手であることに変わりはなく、その現在地さえ掴めれば問題はないからだ。
そして、ついに。
(あそこ!)
声は出さなかったが、シェアトはついに見つけ出した。
人の体温とは違う、アークを放っているその者は、廊下に設置された自動販売機の陰に身を隠すようにしていた。
周囲の人は、あのドラゴンにはまったく目もくれていなかった。当然だった、彼はステルス能力を用い、その姿を消していた。屋上での戦闘で、シェアトがステルス能力が通じない相手であることは承知のはずだった。それでも無意味な能力に頼っているのは悪あがきか、あるいは使えるものは使っておけとでも考えたのかもしれない。
ためらいもなく、シェアトはそのドラゴンに向かって駆け寄った。
彼女は、一度もまばたきをしていなかった。
「ああ、くそっ! よりにもよってどうしてお前が追いかけてくるんだよっ!」
どうやら、追手が自分の能力が通じない相手であることに気づいたようだ。
そしてシェアトもまた、その言葉で彼の素性を知る。子供じみた、どことなく幼稚な口調――シェアトが追う先にいたのは、パティスだった。
「アドリスのほうに行ってくれればよかったのに……勘弁してくれよ、もう!」
パティスはそう言うが、当然ながらシェアトは勘弁する気など微塵もない。
往生際悪くその場から逃走するパティスの背中を、シェアトはやはり一度もまばたきをせず、追い始めた。
控えめで大人しい気質の彼女ではあるが、ドラゴンガードとしての正義感と使命感はもちろん持っている。学校の安全を脅かしかねないドラゴンを、みすみす取り逃がすつもりはない。




