第96話 怒りのファズマ
「は? ちょっと、いきなり何言ってんの?」
ルキアがそう言うのも無理はない。
この戦いの場に突然現れたと思えば、ファズマはいきなりアドリスを自分が倒すと申し出た。ファズマの顔……とりわけその目つきを見れば、彼が嘘やデタラメでそう言っているのではなく、本気であることが分かる。
ファズマは、ルキアのほうを向かなかった。
彼は食い入るように、敵意に満ちた眼差しでアドリスを捉え続けていた。
「こ、こいつ……さっき真人を突き飛ばしやがったんだ。そ、そのせいで真人、腕に怪我をしたんだよ!」
「え、それってもしかして……」
ファズマの言葉に、ルキアはさっきのことを思い出した。
ルキアに追われているあいだ、アドリスは一般客や生徒の数人にぶつかった。ステルス能力を行使していても、その実体が消失するわけではないから、人混みの中を闇雲に走り回れば、ぶつかるのも当然だろう。
ほとんどの人はよろめいた程度で済んでいたが、ただひとりだけ地面に倒れ込んだ者がいた。
記憶している限り、その彼は服装からしてこの学校の男子生徒で……真人という名前には、大いに聞き覚えがあった。
覚えていて当然だった。
サッカーゴール盗難事件で、ルキアはサンドラとともにファズマを制圧し、あんな事件を起こした理由を問い詰めた。その時、彼のホストファミリーである『日比野真人』のことを、聞いていたのだから。
会ったことがなかったので顔までは知らなかったが、状況から考えて、突き飛ばされた彼が真人なのだろう。
「さっきの彼のことなのね……!」
「そ、そうだ! だからぼきゅはこいつのことを許せない!」
ファズマはアドリスを指差し、まくし立てた。
何も分からなかったので当然かもしれないが、理由を聞くまでルキアは困惑していた。
しかし今では、ファズマがわざわざここまで追いかけてきて、さらにアドリスの討伐を申し出てきた理由が分かる。
つまりファズマは、ホストファミリーである真人を傷つけられて怒り心頭なのだ。思えば、あの事件の動機も元を辿れば家族を思えばこそだった。やり方は極端すぎたし大いに間違ってはいたものの、真人のためを思う気持ちに否定の余地はないとルキアは感じていた。
あれは言わば、優しさの暴走が引き起こした事件だったのだ。
(これはもう、止めたところで聞かなそうね……)
代役を頼みはしたものの、ルキアはファズマを戦いの場に立たせるつもりはなかった。
この場に決着をつけるのはあくまで、ドラゴンガードである自分自身……とは思ったものの、拒否したところでファズマは聞き入れはしないだろう。知り合ってまもない間柄だが、ファズマがひとたび火が付けば簡単には止まらない気質なのは、ルキアはよく知っているつもりだった。
ルキアは軽くため息をつき、
「分かった。でも、危なくなったら助けに入るからね」
ファズマの申し出を受け入れた。
とはいえ、彼に丸投げするつもりはない。窮地に陥るようなことがあれば、即座に助けに入ろうと考えていた。
交戦したことがあるので、ファズマがそれなりに強いドラゴンだということはルキアも知っている。しかし、過信は禁物だろう。
「ま、任せてくれ!」
ファズマは、両手の拳を打ち合わせた。
「はっ、どこの誰だか知らないが……みすみす痛めつけられに来たのか、馬鹿な奴め!」
アドリスが言い放った。
もはや、キザな様子は完全に消え去っていた。
「マスキャットに目が眩んで、せっかく取り戻したステルス能力をふいにしたマヌケに、他人を馬鹿呼ばわりする権利はないと思うけど?」
小さく首をかしげつつ、まるで歌い上げるかのようにルキアは煽った。
実際のところ、それは正論だった。もしアドリスがあの場でマスキャットに気を取られることがなければ、姿を消したまま優位に戦いを進められただろう。仮にアドリスの攻撃でルキアを仕留めきれなかったとしても、この場から逃げおおせることはできたはずだ。
物欲に駆られるあまり、戦闘中だということを失念してしまったアドリス――もしあの場を十人が見ていれば、その十人全員が彼を『マヌケ』認定しても不思議はない状況だった。
どうやらそれは図星だったらしく、怒鳴って罵倒される以上にアドリスには効いたらしい。
「だっ、黙れ貴様! いい気になりやがって……その口、二度と開けないようにしてやるぞ!」
逆上したアドリスが、再びルキア目掛けて走り寄ってきた。
そのあいだに、ファズマが割って入った。彼はおそらく、敵意からアドリスに立ちはだかったのだが、まるでファズマがルキアを庇うために歩み出たようにも見えた。
「ぼ、ぼきゅが相手だ!」
アドリスはその足を止めなかった。標的がルキアからファズマに変わっても、攻撃を中断する気はまったくないようだ。
ファズマの背中越しに、ルキアはアドリスが拳を振り上げるのが見えた。
危ない! 思わず叫びそうになったが、その言葉はルキアの喉で押し留められる。
彼女は、ファズマの能力を思い出したのだ。
「邪魔だ、そこをどけ!」
アドリスが繰り出したパンチから、ファズマは逃げも隠れもしなかった。
彼は真正面から、アドリスの攻撃を受け止めた。当然ながら、ドラゴンのパンチは人間のそれとは比べ物にならない威力だ。ドラゴンの種類や鍛え方による個体差こそあれど、岩を砕く威力を備えていることも珍しくはない。
ゆえに、ドラゴンの攻撃を受ければドラゴンも無傷でいられる保証はないのだが、
「ん、何だこの感触は……!?」
ファズマの腹部に拳を突き入れたまま、アドリスが怪訝な声を発した。
無理もない、とルキアは思った。彼女も今のアドリスのようにファズマの腹部にパンチを入れたことがある、その時の感触は今もなお記憶に残っている。
「む、む、無駄だ! ふんっ!」
ファズマは腹部でアドリスの拳を押し出した、それなりの勢いを伴っていたらしく、拳のみならずファズマの身体が後方へ跳ね飛ばされた。
「うおあっ!?」
まったく予想外の反撃に、反応が追いつかなかったに違いない。
吹き飛ばされたままの勢いで、アドリスは土埃を舞い上がらせながらグラウンドに転げた。
「くそっ、ふざけた真似を……!」
立ち上がったアドリスは、凝りもせず再びファズマに接近してきた。
パンチは通じないことを悟ったらしく、今度は跳躍して飛び蹴りを放ってきた。
「そんなの無駄だって……!」
その様子を見守っていたルキアが言ったが、彼女の言葉がアドリスに届いていたかは分からない。いや、届いていたとしても無駄だろう。
飛び蹴りはルキアの言ったとおり、無意味に終わった。
さっきと同様、ファズマは逃げも隠れもせず、その腹部で真正面から飛び蹴りを受けた。そして再び攻撃の威力は完全に殺され、彼は一切のダメージを受けることはなかったのだ。
そしてこれも再び、アドリスの身体が後方へと押し返され、吹き飛ばされる。
「む、む、無駄だ! そんな攻撃じゃ、百回当てたってぼきゅには通じないぞ!」
勝ち誇ったように言い放ち、ファズマはその右手で自らの腹部をバンと叩いた。
ルキアにとってはその言葉も、彼の腹の脂肪がだるんと波打つのも、大いに見覚えのある光景だった。ファズマと敵対した時は、まさか彼が自分の味方になってくれることになるとは夢にも思わなかった。
脂肪で物理攻撃を吸収する、それはファズマが持ち合わせている奇抜にしてそれなりに強力な能力だった。彼はその腹を盾にすることで、ルキアの攻撃すら吸収・無効化することができる。さながら、巨大なスポンジのように。
百回攻撃されたところで、自分には通じない。
さっきファズマはアドリスにそう宣言したが、あの言葉は誇張でも嘘でもないだろう。
「戦った時は厄介だったけど、味方になってくれたらこうも頼もしいとはね……」
ファズマの防御力には、ルキアも散々手こずらされたものだった。
しかし、その力が今ではありがたいとすら感じられた。
「さ、さあ、真人を傷つけた罪を存分に償ってもらうぞ!」
太い指でアドリスを指しながら、ファズマは宣言した。
アドリスはゆらりと立ち上がって、敵意に満ちた眼差しでファズマを捉えた。自分の攻撃はファズマに通じないということを十二分に理解しているはずだが、降参という選択肢はないらしい。
「勝った気になるなよ、とことん腹の立つ奴め……!」
呻くように言い放った直後、アドリスの身体がまた完全に消失した。
「ステルス能力? あいつ、また取り戻して……!」
大きなダメージを受ければ、完全なステルス能力を発揮できなくなる。
しかし、それは一時的な話だった。時間が経過して傷が癒えれば、アドリスは再びその姿を消すことができるようになるのだ。その状態になれば彼はにおいすら残さなくなり、ルキアの嗅覚でも位置を掴むことは不可能になる。
思えば、無に帰すと分かっているのに攻撃を繰り返したのは、時間稼ぎが狙いだったのかもしれない。
「気をつけて、不意を突いて襲ってくるわよ!」
ルキアは、ファズマに警告した。
しかしファズマはまったく動じず、
「し、心配ないさ。す、姿を消すのがこいつの能力なんだろ? だ、だったらそんなの関係ない攻撃をすればいいだけの話だ……!」
彼の言葉に、ルキアは思い当たることがあった。
「え、それってつまり……?」
否応なくファズマの『例の攻撃』を想起させられ、背筋にぞくりと悪寒が走るのを、ルキアは感じた。
ファズマはルキアを振り返った。彼が浮かべていたのは、どことなく自信があるような表情だった。
「そ、そう……『リーサルウエポン』を使うぞ……!」




