第95話 救世主はマスキャット
戦闘に備えてはいたものの、ルキアには相手の姿すら視認することができない。
さっきも思ったが、一足遅かった。追いつけたのはいいものの、アドリスに傷が癒えるまでの猶予を与えてしまったことは失敗だった。そのせいで彼は再びステルス能力を完全に発揮できるようになり、ルキアの目でも鼻でも位置を掴めなくなってしまった。
形勢逆転――否応なく、アドリスの言葉が頭に浮かぶ。
「どうしたもんかしらね……」
自分にしか聞こえないくらいの声で、ルキアは呟いた。
姿はもちろん見えず、さらにアドリスの気配すら感じ取れなかった。しかし、彼はルキアのそばで虎視眈々と攻撃準備を整えているに違いなかった。
ここはグラウンドなので、足元には当然土がある。姿を消していても、アドリスが動けば少なからず土埃が舞うはずだった。
それすら見えないということは、どうやらアドリスは土埃すら舞わせずに動く術を身につけているようだった。自分のステルス能力を最大限に活用するために、気配を消すことに徹底した訓練でも積んできたのかもしれない。
次の瞬間だった。わずかではあるものの、ルキアは後方から気配を感じた。
振り返ると同時に、頬に衝撃が走った。
「ぐっ!」
ルキアの身が後方に押し出される、彼女が顔を上げるより先に、今度は腹部が打ち上げられた。
攻撃はその後も続き、顔や腹部はもちろん、時に背部も狙われた。だが、アドリスの姿が見えないルキアには殴られているのかも蹴られているのかも、何も分からない。
彼女にできるのは、ただ闇雲に腕を組んで盾にし、少しでも攻撃を防ごうとすることだけだった。
「いかがです、一方的に痛めつけられる気分は?」
歌い上げるように、楽しそうにアドリスは言った。
顔が見えないので、どんな表情をしているのかはルキアには分からない。しかし、悪意とサディスティックさが滲むような目で自分を見つめるアドリスが容易に想像できる。
キザ男のような喋り方をしていたが、中身はとんでもない卑劣漢、男の風上にもおけない奴だとルキアは思った。
ルキアは立ち上がり、向き直った。
といっても、その方向にアドリスがいると分かっているわけではない。ただごくわずかな気配を感じて、そちらを向いているだけだ。
「物足りないわね」
挑戦的に言い放った直後、再びルキアの腹部が打ち上げられた。
これまで以上に力が込められた攻撃によって、ルキアの身が浮く。彼女の身が宙で回転し、背中からグラウンドへと落下した。
その拍子に、ルキアのポケットから何かが飛び出した。
(あれは……!)
地面に伏せたまま、ルキアは顔を上げて前を向いた。
彼女のポケットから飛び出したのは、ガシャポンのカプセルだ。
みりんを買ったあの帰り道に、衝動的に二八〇〇円を投じて手に入れた、マスキャットのキーホルダー。七瀬曰く非常に排出率が低いことで有名で、フリマアプリでは三千円ほどの値が付くそうだった。思い出せば、七瀬の先輩である渚はこのキーホルダーを手に入れるために五〇〇〇円を投じたと言っていた。
マスカットが好物のルキアは、マスカットがモチーフのこのキャラクターを気に入り、あれ以来すっかり執心していた。このキーホルダーも開封するどころかカプセルすら開けず、未開封新品の状態を維持したまま、お守りのようにいつも持ち歩いていたのだ。
ルキアが立ち上がろうとした、その時だった。
「こ、これは……まさかマスキャットキーホルダー!? まさか、こんなところで……!」
いかにも興奮した様子のアドリスの声と同時に、カプセルが宙に浮かんだ。
いや、本当に浮かんでいるわけではない。姿を消しているアドリスがカプセルを拾い上げているので、宙に浮いているように見えているだけだろう。
当然ながら、それはアドリスがそこに立っているという何よりの証明だった。
「は……?」
ルキアは思わず、気の抜けたような声を出してしまった。
それもそのはずだった。ステルス能力で完全に姿を消している最中だというのに、みすみす自分の現在地を教えるようなことをするアドリスの思考回路が、どうにも理解できなかった。
戦闘中だということを忘れるほどに、マスキャットが好きなのか。それとも、すでに勝利を確信してルキアを侮り、気を抜きすぎたのか。あるいは、それら両方か。
「何という幸運! 頂きましょう!」
もちろん、ルキアはそんな真似を見過ごすつもりなどなかった。
一瞬と呼べる時のうちに駆け寄り、カプセルが浮いているその付近目掛けて、彼女は渾身の飛び蹴りを放った。
「あがっ!」
どこに当たったかは分からなかったが、手ごたえはあった。
蹴りを見舞った際、その衝撃でカプセルが上空へと飛んでいった。まっすぐに落下してきたそれを、片手でキャッチする。
未開封のマスキャットキーホルダーを見て、あんな下衆な男にまでこのキャラクターが好かれていたことに、どことなく複雑な気持ちになる。とはいえ、マスキャットに罪はないだろう。
「まさか、マスキャットが救世主になるとはね」
呟いた直後、ルキアはカプセルをアドリスのほうへとかざした。
今の蹴りは効いたらしく、アドリスは再びステルス能力を失ったようだった。グラウンドにうずくまる彼の姿が、今ではもう丸見えになっていた。
その様子から察するに、蹴りは腹部にまともに命中したらしい。
「あんたのところには、行きたくないらしいわよ」
返事はなかった。
なかったというより、できなかったのだろう。アドリスはただ、腹部を押さえて悶えているだけだった。
「形勢逆転ね、『マヌケ』ってのはあんたのためにある言葉だったんじゃない?」
アドリスの言葉をそのまま返すように、ルキアは言い放った。
「ぐ、よくも……やりやがったな!」
逆上したアドリスは、立ち上がって一直線にルキア目掛けて突っ込んできた。
攻撃された挙句に煽られ、余裕をなくしたのだろう。キザ男じみたあの口調は、すでに影も形もなかった。
「はっ、それが本性ってわけね!」
姿を消しているわけでもなく、さらにダメージによって鈍っているその動作を見切ることなど造作もない。
射程内に踏み入ると同時に、アドリスはルキアの顔目掛けてその拳を突き出してきた。
しかし、何の意味もない。見え見えだったその攻撃を、ルキアはほんの少し顔を横に動かすだけで避けた。
そのまま背後へと回り込み、ルキアは彼の背中目掛けて回し蹴りを見舞う。
「ぐはっ!」
アドリスの身が大きく吹き飛ばされ、グラウンドの土を大きく舞い上げながら転がりゆく。
ルキアはゆっくりと歩み寄った。アドリスは立ち上がることすらできないようだった。
「もう終わりよ、あんたの攻撃は私には通じない。好き放題殴ったり……いや蹴ってたのかもしれないけど、見てのとおり、全然ダメージになってないわよ」
ルキアの言葉は、決して嘘やデタラメではなかった。
実際、アドリスは何発もルキアに攻撃を仕掛けていながら彼女を倒せていない。それこそが、ルキアの言っていることが真実だという証拠だった。
「機を見て無理やりにでも捕まえて、一発お見舞いして引きずり出そうと思っていたけれど……あんたがみすみす居場所を教えてくれたから、その必要もなくなったわね」
一方的に攻撃を受けているように見えて、ルキアは反撃の時を見定めていたのだ。
結局のところ、マスキャットのお陰で手間が大幅に減った。
「黙れ! 許さん、許さんぞ!」
アドリスの姿が、再び消えた。
しかし、完全にではない。ルキアが彼を追っていた時のように、半透明ながらその姿は見えている。
一度は取り戻せた完全なステルス能力に、今のダメージが原因でまた異常を来たしたようだ。
視認しづらいとはいえ、その姿は見えている。さらにこの状態であれば、においを辿ることで現在位置を割り出すことができる。
キザ男の仮面が剥がれ落ちたのも、余裕がなくなっている証拠だろう。
「許してもらう気なんて、微塵もありゃしないわよ!」
アドリスは抵抗を続ける様子だったが、むしろルキアには好都合だった。まだ暴れる気でいるのなら、容赦なくねじ伏せることができるからだ。
と、その時。
「待て!」
突然のその声に、ルキアは驚きつつ振り返った。
この場にいるはずのない者が、そこには立っていた。
「ファ、ファズマ……? あんた、どうしてここに……!」
サッカーゴール盗難事件の時、ルキアと交戦した肥満体系の男。
しかし更生を誓わせ、和解した今では協力者といえる間柄であり、成り行きからドラゴンガードの代役を頼んだ相手でもあった。彼の腕には、ルキアが預けたドラゴンガードの腕章が着いたままになっていた。
ファズマはゆっくりと歩み出て、ルキアの隣に立った。
彼女には目もくれず、ファズマはアドリスのことを睨みつけていた。怒りが噴き出るような目つきには、尋常ならざるものが浮かんでいる。
「え、ちょ、あんた、どうしたのよ……?」
ファズマのあまりの剣幕に、ルキアは思わず少し退いた。
「こ、こいつは……ぼきゅに倒させてくれ!」




