第83話 怒りの鉄拳
「さとっち、逃げて!」
サンドラの言葉に従って、逃げることも可能だった。
レオンはドラゴンであるのだから、その速さは俺とは比べ物にならない。それでも、彼の突進から逃れる程度の猶予はあっただろう。
だけど、俺は動かなかった。
怖じ気づいて硬直してしまったわけじゃない。俺自身の意思で、その場に留まったのだ。
――俺が敵を討てば、きっと健人だって喜ぶはずだ。そうに決まってる!
自分が秋塚に報復することを正当化する、レオンの言葉。それが頭の中を反響し続けていた。
マグマが煮え滾るように、怒りが沸き立つのが分かる。
レオンがその気になれば、俺などたやすく葬り去ることができる。そんな相手の前に立ち塞がっているのだから、今まさに俺は命の危機に瀕していると言って間違いのない状況だった。
しかし、そんなことは怒りに塗り潰され、もはや俺の頭にはない。
「邪魔だ、そこをどけ!」
迫りくるレオンの叫びは、『最終警告』だったに違いない。
俺がこの場を離れなければ、あいつは俺もろとも秋塚を葬るつもりのようだった。
大切な家族を命を奪わずに殺されたレオンには、もはや失うものは何もないのかもしれない。その様子を見れば、原則違反で収監される末路などもう眼中にないことが分かった。
ドラゴン三原則に反しようが、復讐を完遂できればそれで構わない。
レオンはそう思っているようだが、俺はそうではなかった。
「さとっち!」
俺を呼ぶだけではなく、サンドラはこちらに向かって駆け寄ってきていた。危険だと判断し、俺をレオンから庇おうとしてくれたに違いない。
しかし俺はそんな彼女に応じず、目を向けることすらせず、ただレオンのことを見据え続けていた。
接近してくるにつれ、怒りに歪んだ彼の表情の奥に、悲しみが滲んでいるように思えた。
彼の心は、揺らいでいるのだろう。復讐したところで、ホストファミリーの身体が元に戻るわけじゃない。彼の人生が取り戻せるわけじゃない。それどころか自分は原則違反で収監され、ホストファミリーはより深い悲しみを背負わせることになる……きっとレオンはそれを理解しているのだろう。人を助けるために行動できる、善良なドラゴンガードである彼ならば、そんなことが分からないはずはない。
だからこそ、苦しいのだ。
復讐すべきではないなら、怒りをどこにぶつければいいのか。長らく堆積し続けた憎しみに、どこで決着をつければいいというのか。俺が同じ立場になれば、きっとそう思うはずだった。
「レオン……!」
俺には分からない。
そんな経験はないから、家族を傷つけられる怒りがどれほどのものなのか、想像すらできない。
だが、それでも……!
「この、バカ野郎!」
渾身の力を込めて繰り出したアッパー、手ごたえは大いにあった。
レオンの手が届く前に、俺の拳があいつの顎に命中するのを見た。身体ごとレオンが打ち上げられ、一瞬宙に浮き、背中から屋上の地面へとあいつが叩きつけられるのを、俺は目の当たりにした。
我に返るのに、数秒の時を有した。
「はあ、はあ……!」
無我夢中だったというか、湧き上がる感情で思考が完全に塗り潰されていたから、自分が今したことが信じられなかった。
周囲を瞥見した。
こっちを見て目を丸くしているサンドラに、秋塚。そして屋上の地面に仰向けで倒れているレオン――それ以外に、ここには誰もいない。つまり、誰かが俺を助けてくれたわけではないのは明白だ。
俺は、握った拳を見つめた。
わずか数秒前に、レオンを打ち飛ばした右の拳……ドラゴンの皮膚に触れた感触が、はっきりと残っていた。
「さ、さとっち……ドラゴンを素手で殴り飛ばすなんて……!」
サンドラの言葉で、今の出来事が気のせいじゃないと分かった。
はっきり言って、自分でも信じられなかった。サンドラは驚いている様子だったが、俺は彼女以上に驚いていると断言できた。
サンドラが言ったとおり――俺は、素手でレオンを殴り飛ばしたのだ。
ドラゴンの身体は、人間より遥かに頑丈だ。それを返り討ちにするだなんて、人間業じゃないはずだが……と思った時だった。
「ぐっ、うっ……!」
レオンが呻く声で、我に返った。
自分のやったことが信じられないのは間違いない。しかし、今はそれ以上に大事なことがある。
俺は拳を下ろした。
「本当にそう思うのか? お前が復讐を成し遂げれば、傷つけられたホストファミリーが喜んで、それで清々して気持ちよく生きていけるって……本当に思うのかよ」
レオンから返答はなかった。
返事をしなかったのか、それともできなかったのか。俺には分からない。
「訴えるところへ訴えれば、今からでもきっと事故の真相は明らかにできるはずだ。証拠だってあるはず、何だったら俺のスマホにあるあの動画を渡したっていい。だから……こんなことはもう、やめようぜ?」
レオンはおもむろな様子で立ち上がり、俺と視線を重ねた。
渚先輩から貰ったあの動画は、きっと証拠になりえるはずだ。事故として処理されているとはいえ、再検証に持ち込むことはできると思えた。
過激な手段での復讐なんて、結局虚しさしか生み出さない。
彼自身も、もうそんなことは承知だったのだろう。レオンの表情から、険阻な色は薄らいでいた。
俺はちらりと振り返り、秋塚の顔を見た。命を狙われている恐怖で、何も言えなくなっているようだった。
「こいつへの報いは、正しい場所で受けさせるんだ。レオン、お前が手を汚す必要なんてないんだよ。そもそもこいつには、わざわざ仕返しする価値もない」
再びレオンを振り返り、彼と視線を重ねて俺は言った。
もう、俺は秋塚のことを教師だとすら思っていなかったので、お構いなしに『こいつ』呼ばわりだ。
レオンの身体が光に覆い包まれ、彼は人間の姿に戻った。
「分かった……」
呟くように発しつつ、彼はゆっくりと俺に向かって歩み寄ってきた。
ドラゴンの姿から人間の姿に戻ったということは、言うなれば武装解除だった。彼にもう戦意がないのは、その表情を見れば分かる。
「所詮俺は、自分の怒りを鎮めたいだけだった。健人のためなんかじゃなく……自分のことしか見えていなかったようだ。すまない……」
復讐は、取りやめてくれたようだ。
気持ちが通じたのは嬉しかったけれど、それ以上にレオンを殺人犯にさせずに済んだことに対する安心感のほうが大きくて……背負っていた錘が落ちたように、全身が軽くなったような気がした。
レオンは、秋塚のほうを向いた。
「洗いざらい吐いてもらうぞ、健人の件のことを……!」
レオンを止められたとはいえ、事件はまだ終わっていなかった。
秋塚を訴え、こいつが事故の手引きをしていた事実を証明し、しかるべき罰を受けることになってやっと、この事件にはピリオドが打たれるのだ。
一旦は事故として処理されてしまっている一件だし、簡単ではないだろう。しかし、証拠だってあるのだから、きっと真相は明らかにできるはずだ。
「さとっち、かっこ良かったよ。あとはあたし達に任せて」
やり取りを見守っていたサンドラが、近づいてきて俺の肩をポンと叩いた。
レオンの隣に並ぶ形で、彼女も秋塚に立ちはだかる。
「もう言い逃れはできないよ、大人しくお縄につきなさいよね」
陽気で明るい普段とは打って変わったような、威圧感の滲んだサンドラの声。それを受けた秋塚は、もはや何も言い返せず屋上の地面に座り込んでいるのみだ。
短絡的な理由で、生徒に手を出させるような人間だ。えらそうに生徒を怒鳴ったりしていたが、所詮はただの小心者なのだろう。
こんな奴が、よく教師になんてなれたものだと思う。呆れて何も言えず……もはや俺は、秋塚には軽蔑の眼差ししか向けられそうにない。
「立ってもらおうか」
そう告げたレオンが、秋塚に向かって歩を進み始めた。彼の声色には、元の冷静さが戻っていた。秋塚を裁きの場に突き出すことはあっても、殺害するつもりはもうないことが分かる。
真相が明らかにされるまで、この事件は終わらない。だけど、これで第一歩は踏み出せたはず……そう思った、まさにその時だった。
一直線に発せられた緑色の光……それがレオンの右足首を貫いたのだ。
「があっ!」
苦悶の声を上げて、レオンはその場に崩れ落ちた。
突然の出来事に、俺もサンドラも息をのんだ。
今のは何だ!? 閃光……いや、まるで光線のようにも見えたが……!?
俺はすぐに振り返り、光線が飛んできたと思しき方向に視線を巡らせた。しかし、そこには屋上の風景が広がっているだけだ。
光線を発した者の姿は、どこにも見当たらなかった。身を隠せそうな場所も見当たらない……!
サンドラが、レオンを庇うように彼の前に立った。
「誰、どこにいるの!?」
声を張り上げ、身構えながらサンドラは辺りを見回した。しかし、どうやら彼女にも相手の姿は見えていないようだ。コカトリスの彼女が見えないのであれば、俺にだって見えるはずがない。
地上に姿が見えないのなら、上空かと思って俺は顔を上げた。だが、そこにも誰の姿もなく、澄み切った青空が広がっているだけだった。
誰だ、それにどこから攻撃してきたんだ……!?
まばたきもせず周囲に視線を動かしていた時だった。
「ふ、ふふふ……!」
それまで押し黙っていた秋塚が、笑い声を漏らしていた。
顔を見ると、あいつは教師らしからぬ不敵で不気味な笑みを浮かべていた。その視線は俺をすり抜け、どこかも分からない場所へと向けられている。
「遅かったじゃないか……『セレス』」
セレスだと……!?
一体それが誰なのかを問う前に、
「遅くなったな、少しばかり準備に手間取ってな……」
どこからともなく、聞いたこともない声がした。
「で、秋塚……お前が黙らせたいのは、こいつらか?」
「ああ、そうだ……報酬は弾むぞ」
姿の見えない誰か……状況から察するに、秋塚の呼ぶところの『セレス』という奴が問うと、秋塚は応じた。
ひとまず事件に区切りが付いたと思っていたが……どうやら間違いだったようだ。




