第80話 復讐者の恫喝
「うっ……!」
後頭部に衝撃を感じ、伸之は朦朧としながら目を開けた。
ぼやけた視界の中、目の前に誰かがいるのを感じる。その者は腕を組み、冷徹な視線を伸之に向けていた。
それが誰なのかを認識するよりも先に、自分がこの場に座り込んでいることに気づく。そう、伸之は今、背を壁に預ける形で床に尻を付け、両足を前方に投げ出すようにしていた。
周囲を見渡して、ここが校舎の屋上であることに気づく。
立ち入りが禁じられているため、生徒も教員も普段は絶対に足を踏み入れない場所だった。しかし、長年この学校に勤めている伸之は所用で訪れたことがあったので、ここが屋上であると分かったのだ。
どうしてこんな場所に? ズキズキと痛みを放つ後頭部に手を当てつつ、記憶を辿ってみる。
そして伸之は、思い出した。
今日出勤した時にはすでにデスクに入れられていた、新たなる脅迫状のこと。そこには、十時半に視聴覚室に来るように書かれていたこと。その指示に従って視聴覚室に足を運んだが、誰の姿も見受けられなかったこと。苛立ちつつ脅迫者を探していた最中、突如首に衝撃を感じ、振り返るまもなく視界が黒く染まっていったこと。
だとすれば、今目の前にいるこの人物は――。
「お目覚めか?」
ここに至る経緯を思い出した伸之は顔を上げ、そう言い放ってきた人物を見据えた。
そこにいたのは、レオンだった。この学校でドラゴンガードとして働いているイフリートで、伸之とももちろん面識があった。
「貴様……一体どういうつもりだ?」
後頭部を押さえながら、伸之は絞り出すように言った。苦悶と怒りで、その表情は鬼のように歪んでいた。
対してレオンはまったく表情を変えず、冷徹な眼差しを向け続けていた。
「あの脅迫状はお前の仕業か、それに俺をこんな場所に連れてきやがって、一体何を考え……!」
そこで言葉は止まる、止められる。
レオンが突然伸之の胸倉を掴み上げ、座り込んでいた彼を強引に立ち上がらせたのだ。
続けざまにレオンは伸之の身を前方へと押し出しす、背中が壁に打ち付けられた。伸之が着ていたスーツのボタンが弾け飛び、屋上のどこかへと落ちた。
「あがっ! 何を……!」
レオンの腕を掴み返して逃れようとするが、人間の力ではドラゴンに抗えるはずもない。
胸倉がギリギリと締め上げられ、呼吸が阻害される。伸之の顔はみるみる赤くなっていった。
「その質問の答えは、あんたが一番よく分かっているはずだ」
苦悶に苛まれる最中にも、レオンの言葉ははっきりと聞き取れた。
抑揚が少なくも、怒りが滲み出るような声色。そこには、怒鳴る以上の威圧感が内包されていた。
伸之は一瞬黙ったが、レオンがさらに力を込めて胸倉を締め上げ、苦しみがさらに増大する。
「ぐ、がっ……お、おいっ、その手を放せっ……!」
レオンはその言葉に従い、伸之の胸倉を解放した。
しかし、ただ離したのではない。まるで投げ捨てるかのように、伸之の身を屋上の地面に向けて投げ飛ばした。
その勢いで伸之の身は地面を転がり、スーツが砂埃まみれになった。
「げほっ、ごほっ、ごほっ……!」
地面に手を突き、激しく咳き込む伸之。
しかしすぐに、座り込んだままレオンへと向き直った。何をされるか分からなかったからだ。
レオンはゆっくりと、しかし確実に伸之へと歩み寄ってきていた。その様子を見れば、胸倉を掴むだけで済ませる気がないことは、一目瞭然だった。
「よ、よせ! やめろ! どうしてこんな真似を……!」
そこで伸之は、あの脅迫状に『高杉健人』の名前があったことを思い出した。それは、忘れようにも忘れられない名前だった。
ドラゴンガードであるレオンが、一片のためらいもなく自分に敵意を向け、危害を加えてきているこの状況。その根幹といえるのが、健人のことであると考えて間違いなかった。
「た、高杉のことなのか? 俺は何も知らないぞ、俺は何もしていない! あれは単なる、不幸な事故だったんだ……!」
レオンの様子を見れば、すでに真実に辿り着いていることは想像に難くなかった。ここまでの行動に出るということは、確信となる証拠も掴んでいる可能性が高いだろう。
だが伸之は罪を認めず、往生際悪く言い訳を並べた。
「いつまでもそうやって、しらばっくれていられると思うか?」
やはり抑揚の少ない声で言い放つと、レオンはポケットから何かを取り出した。
それは、どうやらボイスレコーダーのようだった。仕事や学習の際に使われる、電気屋で数千円で購入できる代物だ。
一体何を?
そう思っていた伸之を睨みながら、レオンはそのスイッチを入れた。
『どうして今さらになって……あれはもう、ただの事故として処理されたことだろうが。証拠なんか、残っているはずが……!』
「なっ、それは……!?」
ボイスレコーダーから流れた自分自身の声に、伸之は仰天した。それは、最初の脅迫状を見つけた日に、職員室で彼が発した言葉だった。
あの時、職員室に伸之とセレスを除いて誰もいなかったのは間違いない。しかし、レオンはどこかにボイスレコーダーを忍ばせ、伸之の言葉を記録していた。あの脅迫状は恐らく、伸之にボロを出させるための罠だった。それを証拠として記録するために、どこか目につかないところにボイスレコーダーが仕掛けられていたのだろう。
脅迫状によって動揺し、苛立ちを覚えた伸之は、まんまとレオンの策略に嵌ったことになる。
「お仲間のドラゴン……セレスとか言っていたか? 今は来ていないようだな」
もう用済みだと判断したのだろう、レオンはボイスレコーダーを止めて、ポケットにしまった。
気配や嗅覚、あるいは他の何か……どうして分かったのかは定かではないが、レオンの言うとおり、この場にセレスはいなかった。
「証拠ならこれ以外にもある……まさか教師の貴様があんなことをするだなんて、信じたくはなかったが、よくも健人を傷つけてくれたな」
より一層に、レオンの声に威圧感が混ざっていた。
気圧された伸之は、座り込んだまま後ずさった。
「お、お前と高杉と、どう関係がある!?」
そう言い放った直後、伸之のすぐ横の地面がクレーターのように陥没した。
目にも留まらない速度でレオンが彼の傍まで迫り、その足で踏み抜いたのだ。
「あ、ああ、あ……!」
今の一撃が、自分の身を直撃していればどうなっていたか。伸之には、もはや考えるまでもなかった。
「健人は……俺の家族だ」
レオンが告げた真実に、まばたきもできなくなった。
ドラゴンステイしているということは知っていた。しかし、まさか自分が傷つけた生徒の家に寄宿しているとまでは、伸之は知らなかったのだ。
それならば、納得ができた。
あんな脅迫状を自分に送り、さらにボイスレコーダーまで仕掛けて証拠を掴もうとする理由――それは、『家族を傷つけられたことに対しての報復』だったのだ。
「む、無理なはずだ。貴様が俺に報復するなど……!」
レオンを見据えたまま……というより、衝撃と恐怖で目を逸らせなくなっていた。
しかし伸之は口元に笑みを浮かべ、
「お前は俺を傷つけられない、今ならまだ言い逃れられるかもしれないが、これ以上やればドラゴン三原則に背くことに……!」
屁理屈にもならない言葉は、また中断させられた。
反応すらできない速さで伸ばされたレオンの手が、今度は伸之の首を掴み上げたのだ。
「ぐっ!?」
強引に立ち上がらされた伸之の目の前に、レオンの顔があった。
「俺達ドラゴンは動物じゃない、意志も感情もあるんだ!」
それまでの抑揚の少ない声色とは打って変わり、怒りそのものを叩き付けるようにレオンは叫んだ。
伸之は、もう何も言えなくなった。レオンの怒声と鋭い目つきは、誤魔化しも屁理屈も寄せつけないほどの迫力を帯びていたのだ。
家族である健人を事故に見せかけて階段から突き落とし、彼の足を不自由にさせた犯人をずっと探してきたのだろう。レオンにとって伸之は、健人の将来を潰した張本人だ。
だとすれば今、レオンは恨み募る相手に待望の復讐を果たしている最中だ。どんな言葉を発したところで、中断する気などあるはずがない。
今後一切人間界に降り立つことを禁じられようが、投獄されようが関係ない。レオンは、その先に待ち受ける罰など気にも留めていない。復讐者と化した彼の目に映っているのは、『報復』の二字だけだ。
ドラゴン三原則を踏みにじってでも、命を奪われることなく殺された家族の復讐を成し遂げるつもりなのだ。
「勘違いしているようだが、所詮は文章だけのルールで俺達を縛り上げられると思うな!」
その時だった、後方から羽ばたくような音が鳴り渡った。
伸之はその方向へと視線を動かした。彼の首を掴んだまま、レオンもそちらを見やる。




