第78話 不穏の予感
学校祭当日を迎えた校内は大賑わいだった。一般開放時刻を迎えてからはさらに拍車が掛かり、校内の生徒のみならず一般の人々も数多く訪れ、学校祭を楽しんでいた。
一般開放時刻、朝十時から夕方四時までの六時間のあいだは、一切の制限なく人々が出入りすることが可能だった。だから廊下を行き交う人々は老若男女さまざまで、他校生や幼い子供、年配の老人の姿も見受けられた。
そんな人々の喧騒を耳に受けながら、伸之は黙々と階段を上っていた。
その階段は、校舎裏手に位置する一般開放はされていないほうの階段で、周囲に人の姿はなかった。伸之が歩を進めるたびに、足音が反響して彼の鼓膜を揺らした。
「くそっ、セレスのやつ、どこに行ったんだ……!」
顔を不機嫌そうに歪めながら、伸之は呟いた。
ポケットを探り、くしゃくしゃに丸められた一枚の紙を取り出して広げ、視線を落とす。
――期限を迎えましたが、あなたは要求を拒否、もしくは無視したと判断しました。本日十時半頃、校舎四階視聴覚室へ来てください。さもなければあなたが高杉健人に何をしたのか、公にします。
そう記されたコピー用紙は、今日伸之が出勤した時にはすでにデスクに入れられていた。
以前入れられていた脅迫状と同じ場所に入っており、さらに同じようにワープロで打たれた文章。差し出し主は、同一人物と考えて間違いないだろう。
しかし、それが誰なのかは見当もついていなかった。
高杉健人の友人か、親か、はたまたそれらに頼まれた誰かということも考えられた。とにかく手掛かりがあまりにも乏しく、心当たりのある人物を絞り込むことができないのだ。
「セレス、どこにいる!」
周囲に視線を巡らせながら、呼んでみる。
返事はなかった。ステルス能力を持つドラゴンである以上、現在地は伸之にも分からない。しかし反応がないということは、少なくとも今伸之の周囲にはいないのだろう。
常に近くで守ってやると言っていたのに、さっそくその約束を反故にされたようだ。
(くそっ、あの野郎……肝心な時に限って姿をくらませやがって……!)
奥歯を噛みしめながら、心中で悪態をついた。
しかし、今伸之が敵意を向けるべき相手はセレスではない。伸之の罪について重要な手掛かりを握り、それを公表すると脅しをかけてきている脅迫者だ。
誰なのかは分からないが、誰であろうと関係はない。とにかくその者が伸之の罪に関して何か重要なことを公表しようものなら、伸之の人生は終わる。
ならば、伸之のすべきことはただひとつだった。
「絶対に、口を封じてやる……!」
声色には悪辣さが滲み出ていて、教師の言葉だとは信じられなくなるほどだった。
伸之はその後も階段を上り続けた。途中で何度かセレスのことを呼んでみたが、やはり彼は今、伸之の近くにはいないようだった。
ほどなくして、校舎四階に辿り着いた伸之は廊下を進み、『視聴覚室』というプレートが掲げられた教室の前に立った。そこが、脅迫者が指定した場所だった。
窓越しに中の様子を見てみる、他の教室と同様、視聴覚室には椅子や机が並べられており、天井からはプロジェクターがぶら下がっていた。
見たところ、人の姿はない。
「来たぞ、隠れてないで出てこい……!」
視聴覚室に踏み込むと、伸之は周囲を見回しながら言った。
室内にはどう見ても誰もいないが、脅迫者が周囲にいると感じていた。今こうしているあいだにも、どこかからか虎視眈々と自分に狙いを定めている気がしてならなかったのだ。
「こんなものを何度も差し出してきやがって、何が目的なんだ?」
伸之は、片手に持った脅迫状を突き出した。
その送り主がここにいる確証はない。ないのだが、そうせずにはいられなかった。
ただの事故として処理された一件を掘り起こされ、焦りとストレスが溜まり込んでいた。すぐにでも脅迫者の口を封じたかったのだ。
返事はない。返事どころか、脅迫者はその姿すら見せない。
「畜生、どこのどいつだが知らないが、ふざけた真似しやがって……!」
教師らしからぬ乱暴な言葉が、口をつく。
そもそも、脅迫者が姿を見せたところでどうやって口を封じるというのか。相手がドラゴンであれば伸之は敵わないだろうし、人間だったとしても暴行を加えれば問題になるのは目に見えている。
しかし、今の伸之にはそんなことを考えている余裕すらなかった。
「おいっ、出てこい! 俺をバカにしてやがるのかっ!」
湧き上がる苛立ちに突き動かされるまま、伸之は叫んだ。
その瞬間だった、うしろから物音が聞こえた。まるで、何かが迫ってくるようなそんな音だった。
振り返ろうとするが、それはできなかった。首に衝撃が走ったと思った次の瞬間、伸之の意識は急激に遠のいていった。
「うっ、ぐっ……!」
一瞬だけ痛みを感じたが、それも意識とともに薄れていった。
短い呻き声の直後に伸之は気を失い、ドサリと音を立てて、うつ伏せの体勢で視聴覚室の床へと倒れ込んだ。
状況を考えて、現れた何者かが脅迫状の送り主と同一人物であることは分かった。
だが、振り返ることすら許されなかった伸之には、相手の顔を見るなどできなかった。だからもちろん、それが誰なのかは分からないままだった……。
◇ ◇ ◇
俺達の模擬店は非常に好評で、一番客のファズマが来てから、それ以降は絶え間なくお客さんが来るほどだった。
予想外に盛況だったので、一旦七瀬に客の呼び込みを中断してこっちに来てもらって、どうにか凌いでいた。暑い中でさらにずっとコンロの火のそばにいるので、みんなもう汗だくだ。七瀬がごっそりとペットボトル入りの水やお茶やスポーツドリンクを買ってきてくれたので、それで水分補給しながら作業している。熱中症にでもなったら元も子もないので、疲れていそうなメンバーは遠慮なく休憩させた。真吾には、段ボールに入った追加の食材をここに運んできてもらっていた。
またひとり、お客さんにパック入りの焼きそばを割り箸とともに渡す。
「ありがとうございます!」
買ってくれたことに対するお礼の言葉は、もう何度目か分からない。間違いなく、今日一日の流行語大賞だな。
次のお客さんから引換券を受け取ろうとした、その時だった。
「ねえ、さとっち!」
不意に呼ばれたその声に振り返ると、サンドラがこちらに向かって駆け寄ってきた。俺のことを『さとっち』と呼ぶのは彼女だけだから、振り返らずとも誰なのかはすぐに分かった。
彼女の腕には、もちろんドラゴンガードの腕章が着けられていた。学校祭の開催にあたり、彼女は警備の仕事を担っているはずだった。
サンドラが俺を呼ぶさっきの声には、どこか焦りが滲んでいるように聞こえた。
何かあったのだろうかと気になったが、俺はすぐに今の状況を思い出す。
「どうした? 悪いけど、今は接客中……!」
「この辺にレオンが来なかった!?」
俺の言葉を遮るようにして、サンドラは問うてきた。
「レオン……? いや、見てないけど……どうかしたのか?」
俺の代わりに、七瀬が引換券を受け取って客に焼きそば入りのパックを手渡してくれた。
サンドラは難しい表情を浮かべる。
「他のドラゴンガードの子から聞いたんだけど、実はレオンが持ち場から勝手に離れていたらしくて……姿が見えないの。熱心な彼が、仕事をほっぽり捨てていなくなるだなんてこと、今まで聞いたことがなかったから……」
思わず息をのんだ。
サンドラの話を聞いただけでも想像ができた、レオンがどうしていなくなったのか、そして何をしに行ったのか……心当たりがあったからだ。
「じゃ、じゃあ秋塚は?」
「ん、秋塚って三年の秋塚先公のことか?」
俺はサンドラに尋ねたのだが、反応したのは真吾だった。
質問を受けることになった俺に代わって、彼含めて他のメンバー数人が焼きそば作りを続行してくれていた。
「あいつならさっき、校舎裏手の階段を上ってくのを見たぞ」
「裏手の階段?」
一般の客には開放されていない場所だな、一体どこに行こうとしてたんだ?
真吾は一旦、手を止めた。
「追加の食材を持ってくる時に偶然見たんだけどさ、秋塚の奴、どうも様子がおかしかったんだよ。えらくおっかない顔してて、なんかひとりでブツブツ喋ってたし……聞き間違いかもしれないけれど、『口を封じてやる』とか言ってたように聞こえたんだよな」
いなくなったレオンに、様子がおかしい秋塚。
不安要素がどんどん積み上がり、頭の中で膨張していくのが分かる。
真相に気づいたレオンが、今まさに秋塚への報復に走ろうとしている。頭に浮かんだその予感が、まったくの的外れであるとはもう言えなかった。
それどころか、むしろ真実としか思えなくなってきていたのだ。
「くっ!」
真吾の話を聞くと、サンドラは確信めいたような声を発し、校舎に向かって人混みを縫うように向かっていった。
「智、どうかしたの?」
俺を気遣い、問いかけてくる七瀬。
サンドラの背中を見送った俺は、今も焼きそばを作り、販売し続けている仲間達を振り返った。
「みんなごめん、俺行ってくる!」
七瀬も真吾も日比野も、他の皆も驚いたようだった。
引き留める声もあったけれど、俺は耳を貸さずにサンドラを追って駆け出した。
学校祭はもちろん大事だったが、レオンを止めることも大事だった。もしも本当に、彼が秋塚への報復に走ろうとしているならば、それは俺の短慮が招いた状況に他ならない。
ふと、ルキアの言葉が頭をよぎった。
――仮にレオンが報復に走ろうとしたなら、その時は私がどうにかする。だからあんたは学校祭のことだけ考えてればいいのよ。模擬店の代表者として、今まで必死に準備してきてたでしょ? その努力を実らせるか無駄にするかは、あんたの手にかかってるのよ。
悪いルキア、やっぱり無理だ。
秋塚のような奴とはいえ、俺のせいで人が危険に晒されるかもしれない。レオンが三原則に背くような行動に走ろうとしているのかもしれない。
自分の軽率な行動の後始末を他人につけさせるなんて、俺には絶対にできない。自分が蒔いた種を片付けられないような奴が、呑気に学校祭を楽しんで仲間と笑い合ってていいはずがない。
他の誰でもない、この件には俺自身がケジメをつけなきゃダメだ!




