第76話 今すべきこと
「くそっ、くそくそっ!」
秋塚伸之は机を両手でバンバンと叩き、憤慨の念そのものを吐き出すかのように悪態をついていた。
そこは職員室だったが、他の教員の姿はない。少なくとも他の誰かに見られる恐れはないと思うが、今の彼には周囲の目を気にしている余裕はなかった。
目を見開いて、伸之は爪を立ててボリボリと頭を掻いた。
この高校に勤めている教員の中でも古株の彼は、それなりに歳を重ねていた。禿げ上がって額が後退した頭部はその実績の証とも取れるが、少なくとも自分が人に誇れるようなことだけを続けてきたとは思っていない。
今、デスクの上に広げられている一枚のコピー用紙に書かれた内容こそが、その証拠だった。
用紙には、簡潔な文章が印字されていた。
――あなたが高杉健人にやったことに関して、重要な証拠を掴みました。すぐにあなたの罪を公表して懺悔してください、期限は学校祭が始まるまでです。さもなければ裁きを受けることになるでしょう。
この紙、というよりここに書かれた内容こそが、秋塚を焦燥させている原因そのものだった。
昼間だったと記憶しているが、デスクワークを始めようと何気なく引き出しを開けた瞬間、この紙が目に飛び込んできたのだ。
もちろん、その時間は周囲に他の教員がいた。ドラゴンガードや、教員に用があって訪れた生徒達の姿もあった。驚きと焦りを表に出さないようにするのが大変だった。
職員室には多くの人が出入りするし、筆跡なんてあるはずのないワープロ打ちの文章なので、この紙を誰が入れたのかなど分かるはずがなかった。証拠など一切なく、検証すら不可能だった。
目を見開いてギリッと歯をきしませ、伸之はコピー用紙、というよりも『脅迫状』――とりわけ、『高杉健人』という四字を睨みつけた。
「どうして今さらになって……あれはもう、ただの事故として処理されたことだろうが。証拠なんか、残っているはずが……!」
脅迫状の文末には、『裁きを受けることになるでしょう』と記載されていた。
誰なのか分からない送り主が、自分に対して何をするつもりなのかはもちろん気になった。しかしそれ以上に、過去の出来事を今になって掘り返されていることへの焦り、それに苛立ちのほうが伸之にとっては大きかった。
悪意のある何者かによるイタズラという可能性も浮かんだが、それでは済まない気がした。
脅迫者の要求を呑み、言及されている件を公表して懺悔する――その選択肢は即座に破棄した。そんなことをすれば大問題になるのは目に見えており、無事に定年を迎えられなくなるだろう。
では、どうすればいい。
脅迫者が誰なのかまったく見当もつかないこの状況で、どうやって相手を黙らせればいいのか。
「そう焦るな。誰だろうと力ずくで黙らせればいいじゃないか」
不意に鼓膜を揺らしたその声に、伸之は顔を上げた。
思わず辺りを見回す。しかし、それは無意味な行動であることは伸之自身が一番よく知っていた。
声の主の姿は見えなかった。見えなかったが、近くにいるということは分かる。
上下左右、縦横無尽に視線を泳がせながら、伸之はおもむろに口を開いた。
「その声、セレスか……いつからいたんだ?」
「そんなことは問題ではないだろう。今最優先で考えるべきは、それをお前に送りつけた奴の始末をどう付けるか……違うか?」
伸之は、再び脅迫状に視線を戻した。
声の主……『セレス』の言うとおりだった。
「だが、どうすればいい? どうすればこれを送ってきた奴を黙らせられる……誰なのか、見当もつかない!」
「簡単なことだ、無視しておけばいい」
セレスは即答した。
「そこには『裁きを受けることになる』と書いてある。つまり、お前が罪を懺悔する気配がなければ、それを送ってきた奴はお前に何かをしようとするはずだ。俺がお前を常に守り続けてやる、それなら安心だろう」
伸之は、口元を歪めるようにして笑った。
教師だということが信じられなくなるほどに、不気味で邪悪な笑みだった。
「なるほど、それなら安心だな……お前の手にかかれば、どんな奴だろうと『飛んで火にいる夏の虫』というわけだ」
「ああ、そのとおりだ。たとえドラゴンだろうと、『姿の見えない相手』と戦える奴など、いるものか」
伸之は、脅迫状を掴み上げるとそれをぐしゃりと丸め、近くのゴミ箱へと放り込んだ。
調べれば何らかの手掛かりが出るかもしれなかったが、どうでもいい。セレスが言ったとおり、送り主が何らかの接触を図ってくることがあれば、返り討ちにしてもらえばいいだけの話だ。
姿は見えないが、今もそばにいる――自身の家族であるドラゴンがそれだけの強さを有していると、伸之は確信していた。
「仮に姿が見えたとしても無駄だろうな、『あの秘密』を見抜ける奴などいるはずがない」
◇ ◇ ◇
学校祭まで、あとわずか数日。
準備期間もいよいよ佳境といえる日頃となり、俺はその日も放課後遅くまで居残って作業に取り組んでいた。とはいえ、もうすぐ終了時刻になるので切り上げなければならない。
けど、せめてキリのいいところまで……と思っているのだが、今現在進行中の仕事には大いに苦戦していた。
今、俺は模擬店の看板の仕上げに勤しんでいた。
完成の目途こそ立っているが、今取り組んでいるのが輪にかけて難しい……というかやりづらい部分だということもある。それ以上に器用さに欠けるせいで、なかなか思うように釘を打つことができない。ていうか、よくここまで作ったもんだと自画自賛してしまうくらいだ。
誰かに手伝ってもらうか……と思ったけれど、模擬店の仲間は皆ポスターやポップ作りに回っているので教室の中、周囲にはクラス展示のオブジェ作りをしている生徒しかいない。
人を借りようにも、向こうだってこないだの一件で穴を開けられてしまったドラゴンゾンビのオブジェ修復で忙しいそうだ。作業は難航しているらしく、学校祭当日まで間に合うかどうかが際どいレベルらしい。とてもじゃないが、人を借りてこられる空気じゃなかった。
でもどうにか、今日のうちにキリのいいとこまで終わらせたい……そう思って金槌を握り直した、その時だった。
「ちょっと、もうすぐ終了時刻よ。作業はその辺にして、片づけを始めてよね」
その声に、思わず振り返った。
「あっ、すみませ……」
先生かと思って、思わず謝罪の言葉が口をつきそうになるが、それは途中で止められる。
振り返った俺の先に立っていたのは、ルキアだったのだ。
終了時刻が近いのに作業をやめる様子がない俺を、ガチで注意しに来たのかと思った。しかしそうではないらしく、彼女はすぐに笑みを浮かべながら俺のほうへ歩み寄ってきた。
「びっくりした?」
「先生かと思ったよ……」
勘弁してほしいもんだ、もう時間の余裕もないってのに。
ドラゴンガードとして巡回している最中、たまたま俺の姿を見つけてからかいに来たってわけか。
「何これ、看板でも作ってるの?」
俺の手に握られた金槌、それに周囲の木材を交互に見つめたあとで、ルキアが訊いてきた。
「ああ、そうだよ。これも模擬店代表者の仕事さ、まあ不器用なせいで進行度合いは芳しくないけどな……せめて今日中に、キリのいいとこまで完成させておきたかったんだけど、こりゃ無理っぽいわ」
「ふーん、そうなんだ」
ルキアは小さく頷いた。
とりあえず、俺ひとりで作るのは難しいと判断した。他の作業で忙しい中申し訳ないけれど、明日にでも誰かに手を貸してもらうか……と思った時、
「ほら、やっちゃおうよ。この印のところに釘を打つんでしょ?」
「へ?」
不意にルキアがしゃがみ込み、木材を重ねて押さえた。
彼女の言うとおり、それらは俺が釘で打とうと印を付けていた物だった。
「『へ?』じゃなくて。もうちょっと時間があるから、できるとこまで進めようってことよ」
「いや、でも……お前って手を出しても大丈夫なのか?」
ルキアはドラゴンガードであるが、この学校の生徒ではない。
あくまで生徒を監視するのが役割であり、準備に手を貸すことまでは認められてないのではと思ったのだ。先生方に見られようものなら、大目玉を喰らったりもしそうだが。
「だって、あんたひとりじゃ危なっかしいでしょ? 見るからにぶきっちょそうだし……手伝ってるんじゃなくて、これはあんたの監視。それなら別に問題なしってわけよ」
「なっ、ぶきっちょ……!?」
とは言ったが、それ以上は何も言えなかった。
ルキアの言うとおり、さっきから看板作りはほぼ進んでいない。俺ひとりじゃ厳しいと感じていたくらいだ。
というか、どう考えたって『手伝っている』範疇に含まれると思うが……そんな理論で正当化してしまって大丈夫なのか?
「ほら、早く。私じゃ力加減が分からなくて、木の板を叩き折っちゃうかもしれないから」
木材を指差して、ルキアが急かしてくる。
彼女の言葉は誇張でも何でもない。今でこそ人間の姿をしているけれど、ドラゴンである彼女の力は俺達人間とは比べ物にならない。目の前でそんなパワーを発揮して釘打ちをされる、想像するだけでも恐ろしく感じた。ルキアのパワーで、看板がぶっ壊される光景が否応なく頭に浮かんでくる。
やっぱり、釘打ちは俺がやらなければならない。俺は頷いて金槌を構え、木材に釘をあてがって打ち始めた。
ひとりじゃ難しい作業だったが、ルキアが手を貸してくれているお陰で格段にやりやすくなった。
「あのさ、この前のレオンの件なんだけど」
釘を打ちながら、俺はルキアに切り出した。
「何?」
ルキアが目を丸くしてこっちを見てくる、でも俺は彼女のほうを見ることができなかった。視線を外しながらでは、危なっかしくて釘なんか打てない。
「ずっと気にしてたんだ、俺が不用意にレオンにあの動画を見せちまったこと……何ていうか、その……」
手を止めて話すべきことだったと思う。
でも、俺は誤魔化すように釘を打ちながら心中を打ち明けた。
「俺にできることなんてたかが知れてると思うけど、どうにかケジメはつけたいって思っててさ……」
「前も言ったけど、見せてしまったものは仕方ないわよ。あんたはもう気にしなくていい」
真剣な声色で応じるルキア、俺は思わず手を止めた。止めさせられた。
やっぱり、これは片手間でしていい会話じゃない。
「仮にレオンが報復に走ろうとしたなら、その時は私がどうにかする。だからあんたは学校祭のことだけ考えてればいいのよ。模擬店の代表者として、今まで必死に準備してきてたでしょ? その努力を実らせるか無駄にするかは、あんたの手にかかってるのよ」
驚いた。
ジャンケンに負けて半ば罰ゲーム的に背負ってしまった代表の役割だが、ルキアは頑張ってきた俺のことをしっかり見てくれていたらしい。
俺はふと、こないだの花凛の言葉を思い出した。
――今本当にすべきことは何なのかお考えなさい!
とにかく学校祭の準備を進めること。
模擬店の代表者という役割をやり遂げる。それこそが、今の俺がすべきことだった。
「そうだな……」
ルキアの手を借り、俺は再び釘を打ち始めた。




