第75話 花凛の叱咤
カウントダウンが刻まれるように、一日、また一日と学校祭の日が迫る。
準備期間に入ってから、時間が流れるのがやけに早いように感じられた。心理学的な話になるのだが、人間は時間を気にする余裕がなくなるほどに時が経つのを早く感じるらしい。退屈な時間は長く感じるが、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。そう感じたことがある人は、きっと俺だけじゃないだろう。
学校祭の準備は忙しいが、楽しくもあった。
けれど、俺は常に心に引っ掛かるものがあって……作業に集中し切れていなかった。
――私達ドラゴンの感情は、人間のそれと何も変わらないの。家族を傷つけられた痛みや辛さ、悲しみ、そして怒り……ドラゴンガードであるということや三原則が、必ずしも復讐心を押し留める堰になるとは言い切れないわよ。
準備期間に入ってから日が浅かった頃、家庭科室で焼きそばを作っていた時のルキアからの言葉が頭に浮かぶ。もう、これが何度目かも分からない。
動画を見せたのは、ただレオンに真実を知ってほしいという気持ちからだった。
ホストファミリーが将来を潰されるほどの怪我を負った事件が、真実を隠し通されて事故として片付けられ、その加害者がのうのうと逃げおおせる。そんなことは断じてならないと思っていた、少なくとも俺がレオンの立場だったなら絶対に納得しないだろう。
しかし、あの動画を見せることは、レオンに真実を伝えるということに留まらないかもしれない。ルキアが言っていたように、彼があの動画から何かを掴んだとすれば、秋塚への報復に走りかねないかもしれない。
証拠の扱いには、もっと慎重になるべきだった。それはどう考えても弁解することはできない。だけど、それならどうすればよかったのだろう。隠せばよかったのだろうか?
そんなふうにして、俺はずっと自問自答していた。
「分からない、もう……」
木材に釘を打ちつつ、俺は呟いた。
あの後、とりあえずルキアからは『見せてしまった以上はもう仕方がないので、気にせず学校祭の準備に専念しろ』と言われていた。彼女なりに気遣ってくれたのかもしれないが、『もうあんたにできることは何もない、だからもうこの件には関わるな』と言いたいようにも聞こえた。
たしかに、俺はもう役に立てない。レオンがドラゴンである以上、俺が彼を食い止めることは不可能だ。
しかし、まだレオンがあの動画から証拠を掴んだと決まったわけではない。
動画を見たあと、レオンはただ『ありがとう』と言い残してその場を去った。あの反応を見れば、彼は何も気づかなかった可能性もある。ルキアは一目で動画に映った不審な歪みを見抜いたようだったが、レオンも同様だったかは定かではない。
ただ、あれ以降何度かレオンと顔を合わせることもあったが、特に変わった様子はなかった。
彼の様子を見るに、やはり気づいてはいないのだろうか……と思っていた時だった。
「てっ……!」
不意に指先に走った痛みに、思わず声を上げてしまった。
木材から棘のように突き出た部分があり、そこに軽く指を刺してしまったのだ。
思わずため息をついた。考え事をしながら作業していたせいで、こんな棘にも気づかなかったとは。つくづく、自分の間抜けさが恥ずかしくなる……。
傷は浅かったが、少し血も出てきていた。
大したことないだろうが、ちょっと洗っとくか。金槌と釘をその場に一旦置いて、水飲み場に向かおうとした時だった。
「智さま、大丈夫ですか?」
振り返ると、いつの間にか花凛がそこにいた。
彼女は、クラス展示で使うドラゴンゾンビのオブジェ制作を手伝っていたはずだった。しかし、俺の怪我に気づいてこちらに来たのだろうか?
俺は怪我をした指先を見つめつつ、
「大丈夫さ。この程度の傷、ちょっと洗って放っておけばすぐに治る」
「いえ、いけませんわ」
花凛はブレザーのポケットを探ると、絆創膏を取り出した。
え、いつも常備しているのか? と問いかける間もなく、
「お手を」
俺が何かを言う間も与えず、彼女は俺の手を取った。
持っていたペットボトルに入った水を垂らして指を洗うと、ハンカチで拭いて絆創膏を貼りつけてくれた。その間、ものの数秒。
まばたきを忘れるほどに手際がよくて、口を挟む暇すらなかった。
「これで大丈夫です、くれぐれも怪我には気をつけてくださいね」
「あ、ありがとな……」
予期せずして花凛の治療を受けてしまい、俺は半ば呆気に取られてしまう。
「いつも持ってるのか? その絆創膏」
俺が問うと、花凛は頷いた。
「ええ。学校祭の準備となりますと、きっと怪我がつきものだと……もしも何かあれば、と思いまして」
花凛は残った絆創膏をポケットにしまうと、また俺のほうを向いた。
ショートボブに切り揃えられた彼女の黒髪が、陽の光を反射していた。
「わたくしの見る限り、このところ智さまは何かに思い悩んでいるように見えたのですが……何かあったのですか?」
「っ……!」
思わず、息をのんだ。
レオンの件で思い悩んでいることは、決して表に出さないよう心掛けていた。しかし、花凛には見抜かれてしまっていたらしい。
とはいえ、話せるはずはなかった。事故の証拠となる動画を不用意に当事者に見せてしまい、そのせいで復讐心を煽ることになってしまったかもしれないだなんてこと……言えなくて当然だろう。
「いえ、無理に詮索するつもりは一切ありません、せめて少しでもお力になれればと思っただけで……」
花凛の様子を見れば、純粋に俺を思い遣ってくれたことが伝わってくる。
さすがにレオンのことは打ち明けられないが、素直に感謝すべきだろう。いい友達を持ったもんだと改めて思った。
「気持ちだけもらっておくよ、ありがとな」
花凛は頷いた。
「そういえば智さま、学校祭当日……実は姉さまが来てくださることになったんです」
俺は思わず、目を丸くした。
花凛の口から出た『姉さま』という言葉……それが誰のことを指しているのかはすぐに分かった。
「姉さまって……花凛の家にドラゴンステイしている、クレハさんてドラゴンのことか?」
花凛は頷いた。
俺が知っている限り、花凛が『姉さま』と呼ぶのはそのクレハさんだけだったので、容易に想像がついたのだ。
話では聞いていたけど、直接会ったことは一度もなかった。だからどんな人なのかはまったく知らないけれど……ただひとつ分かるのは、ドラゴンとしての分類が『龍』だということだった。
「お化け屋敷で、わたくしが役作りのために和服を着る予定だっていう話、覚えていらっしゃいますか?」
「え? ああ、言ってたな」
正直なところ、花凛がのっぺらぼうの面を着けて、三味線を抱えつつ『うらめしや……』と不気味な声を発していたことのほうが頭に残っているけどな。
「学校には和服を着つけてくださる方のアテがなかったもので、姉さまに手伝ってもらうことになったんです。だから、智さまとも顔を合わせる機会があれば……姉さまをご紹介しますわ」
「へえ、そういうことなのか」
学校祭の日は、他校生はもちろん一般の人も学校に入ることができる。
前々から会ってみたいと思っていたので、どんな人……というか、ドラゴンなのか楽しみだな。
と、その時だった。
「ちょっ、危ない!」
「うわっ!?」
生徒数名の、悲鳴にも聞こえる声。その直後に、バリンという何かが砕けるような物音が響き渡り、思わず振り返った。
「今のは……!?」
隣に歩み出ながら、花凛が発した。
俺が彼女の顔を見ると、花凛も俺のほうを向いてきて、互いに視線が重なる。
悲鳴も物音も、尋常ではなかった。向こうで何かがあったのだ。
それ以上、互いに言葉は必要なかった。俺と花凛は、ほぼ同時に音が聞こえたほうに向かって駆け出した。
そしてすぐに、胸の部分が大破したドラゴンゾンビのオブジェを目の当たりにする。
木っ端の残骸や針金、染められた和紙の切れ端……オブジェを組み上げていた素材が周囲に散乱していて、その近くには野球ボールが転がっていた。
「や、やべ……ごめん……」
おずおずと詫びる男子生徒の片手には、野球のバット。
何があったのかなど、訊く必要もなかった。
こともあろうに、この男子生徒は学校祭の準備そっちのけで野球遊びをしていた。こいつの打球が、作りかけだったドラゴンゾンビのオブジェをぶち抜いてしまったのだろう。
「てめえ、何してくれてんだ!」
クラス展示の係の男子生徒が、バットを持った生徒に掴みかかった。
バットを持った生徒は、俺らのクラスの生徒じゃない。そもそも俺らと同学年なのかも分からないが、作りかけのオブジェをぶっ壊されてクラス展示の係の生徒は怒り心頭だ。
話したことがなくて名前は分からないが、彼は体格が良くて柔道部に入っていたはず……俺は慌てて駆け寄り、その腕を掴んだ。
「よせって、やめろ!」
周囲には木材の他にバケツ、金槌などの道具が散乱していた。そんな場所で喧嘩なんかすれば、さらなる被害が出るのは必至だった。
それ以上に、学校祭の準備の場で暴力沙汰でも起こそうものなら、問題になるのは目に見えている。下手をすれば、出店停止のペナルティを喰らう可能性だって十二分に考えられた。
こんな諍いで、学校祭に泥を塗るようなことにはなってほしくない。
「場所を考えやがれ、このバカ野郎!」
一生懸命に作っていたオブジェを台無しにされ、完全に頭に血が上っているようだった。
彼は俺の言葉に耳を貸すどころか、こちらを向くことすらしなかった。ただバットを持った生徒に、凄まじい怒鳴り声を上げるだけだ。
怒りはもっともだった。うちのクラスだけじゃなくて、周囲には多くの制作途中の作品がある。こんな場所で野球遊びなんかすればどうなるかなんて、小学生でも想像がつくだろう。それに下手をしようものなら、生徒が打球を喰らっていたかもしれない。そうなっていれば、作品が壊れただなんてこととは比べ物にならない大問題になっていたはずだ。
同じ立場であれば、俺だって間違いなく怒る。だが、暴力沙汰は絶対にダメだ……!
「頼む、やめてくれ!」
懸命に彼の腕を掴んで押し留めようとするが、無駄だった。
そこに花凛も加わる。
「喧嘩はダメです、落ち着いて!」
だが、やはりダメだった。
取っ組み合いの拍子に花凛が押し出されて、彼女は後方へとバランスを崩し、尻もちをついてしまった。
「きゃっ!」
喧嘩の仲裁を諦めて、俺は花凛に駆け寄った。
「ちょ、大丈夫か?」
花凛は少しのあいだ、痛みに悶えていた。
しかし、それもわずか数秒だった。突然、彼女はスイッチが入ったように豹変した。
眉の両端を吊り上げ、キッとした表情でなおも取っ組み合いを続けるふたりを睨んだのだ。
「いっ……!?」
花凛のそんな顔は、これまで見たことがなかった。
驚きで呆気にとられる俺にまったく構わず、花凛は立ち上がる。そのまま滑るようにふたりに向かって歩み寄ったと思うと、
「おやめなさい!」
声を張り上げた。
周囲の生徒達のそれとは比べ物にならないほどに大きく、覇気に満ちた声だった。正直、男子以上に貫禄があって……喧嘩はたちまち中断させられる。
喧騒は一瞬にして打ち消され、皆が花凛のほうを向く。幾人もの視線が浴びるように向けられても、花凛はまったく動じる様子もない。
「そんなことをしていても無意味です、くだらない諍いで学校祭そのものを台無しにするおつもりですか! 今日まで懸命に積み上げてきた努力を、自分達の手で台無しにしたいのですか!」
俺は言葉を失った。喧嘩していたふたりや、周囲にいた別の生徒達もそうだ。
「今本当にすべきことは何なのかお考えなさい、断じてそんなことではないはずです!」
花凛の様子は凛としていて、真に迫っていて……当事者ではない俺の心にまで響き渡ってきた。
彼女にこんな一面があっただなんて、まったく知らなかった。
言い返す者は、誰もいなかった。喧嘩していたふたりも、他の生徒達も……全員そそくさと持ち場に戻り、学校祭の準備を再開する。クラス展示の生徒達は、散らばったオブジェの残骸を拾い集め始めた。
花凛が、俺のほうを向いた。
「すみません、智さま。わたくし、つい我慢ができなかったもので……」
その時には、もう俺が知っているいつもの花凛だった。
正直驚いたけれど、彼女の訴えは俺の胸にも大いに刺さるものだった。
「いや、謝らなくていい。むしろ……ありがとう」
俺の感謝の言葉の意味が分からなかったのだろう、花凛は小さく首をかしげた。




