第70話 渚
「ふー、学校祭の準備って本当に疲れるわ……」
ル・ソレイユで、俺はダルさそのものを吐き出すように言った。
この喫茶店に来るのは、ルキアと七瀬が初めて学校で顔を合わせたあの日以来だった。
シックな音楽な流れる店内は、初めて訪れたあの時とまったく変わらなかった。飾られたリトグラフや観葉植物も、外国を思わせる洒落た内装も、『洋菓子のご注文があり、お待ちのお客様がいない時に限り、午後五時まで店内での学習や談話、パソコンでの作業OKです』とチョークで書かれた黒板も、あの時と同じだ。
そして、メンバーもまた同様。
そう、放課後を迎えた俺は、また七瀬とルキアと一緒にここを訪れていた。
「ファイトだよ智、模擬店の代表なんだからしっかりしないと。頑張ってるご褒美に奢ったげるからさ」
今日ここに来たのは、七瀬の提案だった。
代表者として会議に出席したり、そこで説明された内容を報告したり……代表ってのはつくづく忙しいもんだ。ドラゴン交通安全ポスターも兼任してるからなおさらだな。
当初は面倒で、七瀬とのジャンケンのことを後悔してばかりいた。しかし、今はそんな気持ちも責任感に上書きされた気がしていた。なってしまった以上はやらなきゃならない。
そんな俺の気持ちを酌んでくれたらしく、七瀬が今日ここに来ることを提案してくれたわけである。
「お待たせいたしました」
胸元に『Le Soleil』と書かれた名札を付けたリザードマンが、俺達三人分のスイーツをトレイに載せて運んでくる。
俺はイチゴのショートケーキで、七瀬はチーズケーキ、そしてルキアはシャインマスカットのタルト。注文した物まで、三人全員こないだと一緒だった。
「ごめんね七瀬さん、また奢ってもらうだなんて」
「大丈夫だよルキアさん。そもそも誘ったのは私なんだから、遠慮しないでね」
そんなこんなで、俺達は食べ始めた。
しかしなぜか、ルキアはマスカットのタルトをじっと見つめたまま動かなくなってしまっていた。
俺のみならず七瀬も知っているのだが、マスカットはルキアの大好物だ。いつもなら喜んで平らげるはずなのに、今日は手を出さない。
どうも気になって、俺はフォークを置いた。
「どうした、食べないのか?」
「いや、別に……ちょっとね」
ルキアはマスカットをじっと見つめたまま、ポケットを探って何かを取り出した。
何だろうと思いきや……彼女が取り出したのはガシャポンのカプセルだった。こないだみりんを買った帰りに二八〇〇円を投じて手に入れた、マスキャットキーホルダーが入ったあのカプセルである。
正直俺は驚いた。
というのも、ルキアはマスキャットキーホルダーを取り出すどころか、カプセルを開けてすらいなかった。完全未開封新品の状態を維持していたのである。
ていうか、今気づいたけどわざわざ持ち歩いていたらしい。大事にしすぎ、というか過保護じゃないだろうか。
マスキャットをえらく気に入っていたのは知っているが、ここまでとはな……。
「この子を見ていたら、どうもマスカットを食べるのに気が引けちゃってね……」
「いや、注文する前に気づけよ」
俺は思わず突っ込んだ。
注文する前は何も感じなかったが、いざ本物のマスカットを目の前にすると躊躇してしまったというわけか。
そういえば、前も『マスカットはどうして食べると無くなるんだろう……』なんて当たり前のことを考え込んでいたけれど、時としてルキアの思考回路は分からないものだ。
「ねえルキアさん、それってもしかして限定マスキャットキーホルダー?」
チーズケーキを食べる手を止めて、七瀬がルキアが持つカプセルに視線を釘付けにしていた。
「え、そうだけど……七瀬さん、知ってるの?」
「知ってるよ、だってそれすごく出づらいことで有名だもん。マスキャットって人気のキャラクターだし……フリマアプリではそのキーホルダー、三千円くらいで取引されてるらしいよ」
七瀬がマスキャットを知っていることは驚きだったが、このキーホルダーがそこまで需要があることに驚きだった。こんなダジャレから生まれたようなキャラだってのに、好きになる人は結構いるんだな。
三千円てことは、ルキアがこれを手に入れるために投じた金額は回収できる。むしろ、お釣りが出るくらいだ。
「え、そんなに価値があるんだ……!」
目を丸くして、ルキアは驚いていた。
まあ無理もない、そこまで価値があるということまでは知らなかったのだろう。
「私のテニス部の先輩も欲しがってたから。聞いた話だとその先輩、五千円はたいてやっと手に入れたらしいよ」
七瀬の言葉に、取ろうとしたフォークを落とそうとしてしまった。
「ちょ、マジか? 五千円もぶっこんじまう奴がいるのかよ。いくらなんでもやりすぎじゃないのか……!?」
七瀬が話題に上げたその先輩のことなんて、もちろん俺は知らない。
こんなキャラクターのキーホルダーに(ルキアに配慮して、もちろんこんなことは口には出さないが)そこまでつぎ込むだなんて……顔も名前も知らないが、いくら何でも金銭感覚がバグっちゃいないだろうか。
マスキャットのためにそこまで執念を燃やす人もいるんだな。俺に言わせれば『マスキャット狂』か。
と、その時だ。
「別にやりすぎじゃないさ、万札突っ込む人だっているし、そもそも僕が自分で稼いだお金で買ってるんだから、問題はないだろう?」
聞いたことのない声に、俺は振り返る。
そこには、俺達の高校の制服に身を包んだひとりの女子生徒が立っていた。
――そう、女子生徒だ。自分のことを『僕』と言ったけれど、彼女はれっきとした女子高生だった。
ボーイッシュに短く切った髪といい気の強そうな目つきといい、男子生徒を思わせるけれど、胸が出ているあたり間違いなく女性だ。しかし、ブレザーのスカートを履いてなかったらおそらく男子生徒と間違っていたんじゃないかと思うくらいだ。
俺や七瀬のような一年生じゃないのは一目瞭然で、誰だこの人と思った。
「あっ、渚先輩、お疲れ様です!」
手を振りながら、七瀬が彼女に呼び掛ける。
先輩ってことは、この僕っ娘女子高生が話題に上がっていた例のマスキャット狂なのか……?
という予感は、すぐに核心へと変わった。彼女の通学用鞄に、ルキアが手に入れたそれとまったく同じマスキャットキーホルダーがぶら下がっていたからだ。
「やあ七瀬、このふたりはお友達?」
「そうです、智とルキアさんです」
俺とルキアを順に手の平で差しつつ、七瀬が俺達を紹介した。
「ルキア……君はもしかしてドラゴンかな?」
怪訝そうな面持ちを浮かべて、彼女はルキアに問うた。
「ええ、そうです。分かるんですか?」
俺達人間に比べれば、人の姿に変身したドラゴンはちょっと奇抜な格好をしているものだ。
それでも、ルキアはまだそこまで奇抜度合いが高いわけじゃない。にも関わらず彼女がドラゴンであると見抜いたのは、何か根拠があってのことだろうか。
「雰囲気でなんとなく分かるのさ。僕んちにもドラゴンがいるし、一緒に海で仕事することもあるからね」
彼女が言うと、七瀬が俺とルキアのほうを向いた。
「渚先輩のお宅ね、海の近くにあるの。毎日一時間かけて自転車通学してるんだよ」
海って言ったら、うちの高校からはかなり遠いはずだ。
自転車で一時間……俺だったらきっと、学校に着く頃には疲れてしまって授業に集中できなくなっているだろう。
「すご……疲れないんですか?」
俺が問うと、彼女はぴらぴらと手を振った。
「それくらいどうってことないさ、じゃなきゃテニス部と水泳部を掛け持ちなんかしていられないよ」
テニス部と水泳部を掛け持ち……将棋部と百人一首部を掛け持ちしている花凛とは対照的に、バリバリ体育会系なんだな。ドラゴンを寄宿させているのなら送り迎えしてもらえばいいのではと思ったが、あえて体力づくりのために自力で通学しているのだろう。
彼女は俺達のほうへと歩み寄ってきた。
近づいて見ると、健康的に日焼けしているのが分かった。テニス部と水泳部だし、屋外で活動することが多いから日に当たる時間も長いんだろうな。
「紹介がまだだったね、僕は三年の『高森渚』。智もルキアも、以後よろしく」
知り合ったばかりなのに、もう呼び捨て……でも不思議と、悪い気はしなかった。
七瀬の先輩だってこともあるけれど、この人には隔たりというものを感じなかったのだ。
「近くに座ってもいいかな?」
彼女の……高森先輩の申し出を、俺もルキアも快く受け入れた。
その後、高森先輩はストロベリーサンデーを注文した(ボーイッシュな感じに見合わず、スイーツのチョイスは可愛らしいものだ)。それを待つまでのあいだ、彼女は俺達ととりとめのない話をしていたのだが、不意に黙ってテーブルに肘をつき、スマホを眺め始めた。
目を細めて、一心不乱に画面を睨む彼女の様子には、どこか尋常ならざる色が滲んでる気がした。
「高森さん、どうかしたんですか?」
ルキアが俺に先んじて訊いたが、高森先輩は画面から目を離さない。
「『渚』でいいよ。いや、ちょっとね……前に校内で撮った動画なんだけどさ、気になることがあるんだよ」
「校内で撮った動画?」
俺が訊き返すと、高森先輩は俺の顔を一瞥した。
「去年なんだけどね、卒業を控えた先輩方を動画に収めようってなんとなく廊下でカメラを回してたんだ。思い出作りの目的でね。そしたら急に奥の階段から同級生が転げ落ちてきたもんだから、ビックリしちゃってさ。しかもその生徒、その時の怪我で片足が不自由になっちゃったって……」
――思わず俺は、フォークを落として息をのんだ。
俺は慌てて立ち上がったが、ルキアもまったく同じ動きをした。
『その動画、見せてくれませんか!?』
そして動きだけでなく、俺とルキアはまったく同じ言葉を同時に発した。
互いに顔を見合わせる、ルキアは驚きに目を見開いていたが、きっと俺も同じような表情をしていることだろう。
「え? べ、別にいいけど……」
高森先輩は、スマホを操作してその画面を俺達のほうへと向けた。
俺とルキアがそれをじっと見つめる中、彼女は再生ボタンをタップする。