第67話 智とサンドラ
思わない形で花凛と遭遇したあと、俺は再び昇降口に向かった。
花凛はあのまま、もう少し練習してから帰ると言っていた。彼女いわく自宅では人が多くて気が散るし、本番の舞台となるこの学校で三味線を弾くことに慣れておきたいらしい。
周知のことなのだが、花凛は黒塗りの高級車で送り迎えしてもらうようなお嬢様だ。家柄的には社長令嬢である七瀬と同等かそれ以上らしく、自宅はそりゃもうでっかい和風のお屋敷だと聞いている。
そんな家に住んでるなら、きっとお手伝いさんとか警備の人とかいっぱいいるんだろうな。たしかに、それだと周りに人が多すぎて集中できないかもしれない。
お嬢様ならではの悩み、ってやつか。
しかしながら、花凛からは微塵の嫌味も感じられなかった。
知り合った頃から彼女はおっとりしていて優しかったし、お嬢様であることを鼻に掛けたりしない控えめで淑やかな女の子だった。今となっては七瀬や真吾と同様、俺の大事な友達である。
そんな彼女が学校祭に向けて練習に励んでいるとなれば、俺も頑張らないとな。
それにしても、花凛の住んでるお屋敷って一体どれほどすごいのだろうか。機会さえあれば、一度見てみたいものだと思う。それに、彼女の家にドラゴンステイしているらしい『クレハ』ってドラゴンにも、会ってみたいもんだな。
「よし……」
プリントの朗読を聞かされるだけの説明会に出席させられて、どことなく怠い気持ちになっていた。
しかしあそこまで入念に準備して練習に励む花凛の様子を思い出せば、怠さなんて感じている場合ではないのだと思えてきた。ジャンケンで負けた結果引き受けることになったとはいえ、俺は模擬店の代表だ。それにドラゴン交通安全ポスターだって兼任している。学校祭の準備期間に入れば、今とは比べ物にならないくらい忙しくなることだろう。
それまでに、できるだけのことをやっておくか。
とりあえず帰ったらドラゴン交通安全ポスターの絵を描くのと、それから模擬店で出す食べ物の候補を思いつく限りリストアップしようと思っていた。
それ相応の対価を要求されそうだが、絵はルキアに協力してもらえるだろうか。模擬店の品目は、母さんに相談すれば有益なアイデアがもらえるかも……。
そんなことを考えつつ、昇降口に向かって歩を進めていた時だった。
「あんな点数じゃ、志望している大学に行けなくなっちまうぞ! 気が緩んでるんじゃないのか!」
どこからともなく聞こえてきた怒声に、思わずビクリと身を震わせた。
聞き慣れないけれど、まったく聞き覚えがないというわけでもない、男の野太い声……何事かと感じた俺は、思わず声がしたほうに進んでみた。
職員室の入り口付近で、ひとりの女子生徒が怒鳴られていた。
彼女には見覚えがないので、少なくとも俺と同じ一年生ではない。二年か三年生だろうが、進路の話題が出ているようなので、おそらく三年生だろう。
おさげにした黒髪に、眼鏡。いかにも大人しげというか、勉強ができそうで真面目な優等生といった感じがする女子生徒だ。
「すみません、すみません……!」
そんな彼女の口からは、弱々しく謝罪の言葉が発せられるのみ。
だがその教師は、それを聞き入れる様子などまったく見せなかった。
「俺も親御さんも、お前には期待しているんだよ! それに報いるように頑張ってくれなきゃ困るぞ!」
唾液を飛散させながら、男はなおも女子生徒に言葉を叩きつける。
俺は思わずそこで足を止めて、事の成り行きを見守ってしまっていた。
彼女が気の毒というかかわいそうで、見過ごして通ることができなくなってしまっていたのだ。あの教員の声はデカいし、言葉は強すぎる。
勉学についての叱責というよりも、ただ彼女をいじめているだけだとすら思えた。
「はい、はい……! すみません……!」
小さく頷き、女子生徒は消え入りそうな声で謝罪を続ける。
あの教師と視線を合わせることなど不可能なのだろう、彼女は俯き、胸元で両手の拳をぎゅっと握りしめていた。
眼鏡越しに見える彼女の瞳に、涙が浮かんでいた。
「聞いてるのか篠崎、返事をしろっ!」
男の声のボリュームが、さらに上がる。
女子生徒(篠崎という名前のようだ)はさっきから返事はしていた。離れた場所にいる俺にもそれが分かるくらいだから、あの男の耳にだって彼女の返事は届いているはずだった。
なのにあんなことを言うだなんて、絶対におかしい。やっぱりあの教師、あの女子生徒をいじめているだけだ。
ボーダーラインなんか分からないけれど、あれはもう指導の域を超えているように思えて……さすがに黙って見ていられなくなった。
教師相手に、俺に何ができるかなんて分からなかった。だけど、せめて何かしらの助け舟を出したいと思って、俺はふたりのところへ駆け寄ろうとする。
しかし、それはできなかった。
誰かが俺の手首を掴んで、制したのだ。
「っ!」
振り返ると、すぐに彼女と視線が重なった。
あの場に駆け寄ろうとした俺を止めたのは、サンドラだった。
ルキアと同じく、この学校のドラゴンガードとして働いているコカトリスの少女。ファフニールの時以来に顔を合わせたけれど、ポニーテールに結われて四方にカールしたマゼンタの髪も、赤いドレスもあの時と同じで、いかにも華やかな装いだ。
彼女は何も言わなかった。ただ、俺をじっと見つめつつ首を横に振った。
「さとっち、こっち」
返事を待たず、サンドラは俺の手首を引っ張りながら促す。
困惑しつつ、俺はその背中を追った。彼女が歩を進めるたびに、その腰のリボンが揺れていた。
職員室からそれなりに離れた場所で、サンドラはやっと俺の手首を放した。カールしたマゼンタの髪を揺らしながら、彼女は俺を振り返る。
「どうしたんだ?」
先んじて俺が尋ねると、サンドラはその表情を難しい色に染めた。
「秋塚には、関わらないほうがいいよ」
秋塚……さっき女子生徒を怒鳴っていた教師のことか。顔を見たことは何度かあったものの、名前までは知らなかった。
しかしサンドラの言葉の意味が分からず、俺は問い返した。
「どういうことだ?」
サンドラは腕を組んで、壁にはめられた窓に視線を移した。
反射的に、俺は彼女が見つめる先を目で追った。あの場から離れたので声はほとんど聞こえないが、窓越しにあの教師……秋塚があの女子生徒をいびり続けているのが見えた。
サンドラがため息をついた。
俺は彼女に視線を戻した。綺麗な横顔を俺に見せながら、サンドラは口を開く。
「秋塚、三年の学年主任で生徒指導係なんだけどね。感じの悪さで有名なんだ、ちょっとでも鼻につく生徒がいたら、ああやって理不尽に怒るんだよ」
三年の学年主任てことは、一年生の俺とは縁が薄くて当然だな。
「あの篠崎って子、この前秋塚の授業中に間違いを指摘したそうなの。それが癇に障ったらしくて、以降ああやって口実を見つけては怒ってるんだよ」
「マジかよ、そんな理由で……!?」
サンドラは組んだ腕を解いて、俺に向き直った。
「さとっち、さっきあの子を助けに入ろうとしたでしょ? 助け船を出そうとしたのはかっこいいと思う。でも、そうしたら今度はさとっちが秋塚の標的になっちゃうかもしれないよ。担当学年が違うからって、目を付けられない保証はないから」
驚いた。
サンドラは、俺の心情を的確に見抜いていたのだ。さっき俺を止めたのも、彼女なりの配慮があってのことだったようだ。触らぬ神に祟りなし、サンドラが言いたいのはそういうことなのだろう。
とはいえ、秋塚(本来なら、『秋塚先生』と呼ぶべきだと思う。けど、話を聞いている限りではそんな気にはなれなかった)の所業には納得がいかなかった。教師の立場を利用して気に食わない生徒をいびる、それってスクールハラスメントってやつじゃないのか。
「他の先生方は、誰も止めないのか?」
俺のクラスの担任であるシルヴィア先生とか……他にも真っ当に指導してくれる先生はたくさんいるはずだった。
しかし、サンドラは首を横に振った。
「秋塚ってかなり古株で、大半の先生方には『先輩』の立場だし……それに生徒指導係としての実績はあるみたいだから、注意しづらいんだと思う。前にはいじめを解決したり、他にも親身になって生徒の相談に乗ってあげたこともあったらしいからね。ただ、気に入った生徒を依怙贔屓してるだけだって意見もあるけれど」
「そうなのか……」
一応は、教師としての務めは果たしているってことなのだろうか。
けど、どうも腑に落ちない気がしてならなかった。教師が生徒を依怙贔屓するなんて、あってはならないと思うが。
「サッカー部の顧問だった頃なんて、気が合わない部員と揉めてたこともあったなあ……」
廊下のどこかを見つめ、サンドラは呟いた。
「秋塚って、サッカー部の顧問だったのか?」
「うん。もうそれなりに歳だし、二年前に今のサッカー部顧問の先生に後任を頼んで、顧問から退いたの」
具体的な勤続年数は分からないが、サンドラは少なくとも俺が入学する前からこの学校でドラゴンガードとして働いているはずだ。だから、内部事情はそこそこ知り得ているようである。
まあ、サッカー部なんてバリバリ体育会系だ。日々練習に励む部員はもちろん、体力が衰える年齢になれば、教える側としても辛くなってくるものだろう。
そもそも、当時の秋塚を知らないので何とも言えないが、あんな人間に顧問が務まるものなのだろうか? 俺だったらすぐに辞めたくなりそうだが……。
「それに、『あの噂』もあったしね……」
「あの噂?」
呟くように発せられたサンドラの言葉を、俺は聞き逃さなかった。
すると彼女は目を見開いて、片手で口を覆った。
「あ……やばっ」
焦った表情を浮かべたが、サンドラはすぐに平静を取り戻した。
「まあ、調べれば分かることだろうし……話してもいいか。でもさとっち、下手に喋らないでね?」
何事かと思い、俺は小さく頷いた。
サンドラが語ろうとしているのがどんな話なのか、俺には想像もできなかった。しかし彼女の面持ちから、何か重大なことであるのは容易に想像がつく。
「実はね、前に校内の階段で生徒が転落する事故があったの。結論的には、その事故は生徒がただ躓いて転んだことが原因として処理されたんだけどね。でもほんの一時期だけど、本当は秋塚が裏で糸を引いていたんじゃないかって噂が立ってたことがあるんだ」